快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

どうして女が自分を肯定することは、こんなにむずかしいのだろう? 「BUTTER」(柚木麻子)

 どうして私たちは木嶋佳苗に注目してしまうのだろう? 

 木嶋佳苗をめぐる事件は、まるでプリズムのようにさまざまな角度から語ることができる。援助交際、性の売買、婚活、女の容姿、「家庭的」な女、父と娘、母と娘、地方と東京、セレブ志向……

 柚木麻子の『BUTTER』ではこう語られる。

こんなにもこの事件が注目されたのは彼女の容姿のせいだろう。美しい、美しくない以前に、彼女は痩せていなかったのだ。このことで女達は激しく動揺し、男たちは異常なまでの嫌悪感と憎しみを露わにした。…… 女は痩せていなければお話にならない、と物心ついた時から誰もが社会にすり込まれている。 

BUTTER

BUTTER

 

  この小説は、週刊誌記者の里佳が、木嶋佳苗をモデルにしたと思われる梶井真奈子、交際していた男を次々に殺したとして刑務所に入っている“カジマナ”に独占取材を試みるところからはじまる。

 しかし、ボーイッシュでスレンダーな里佳は、女子高時代は女子からラブレターをもらう王子様的な存在であり、食べることにもさほど興味がなく、“カジマナ”とはあまりに対照的で、どこから取っ掛かりをつけたらいいのかもわからない。

 そこへ、里佳の学生時代からの親友であり、いまは専業主婦をしている伶子が「料理好きな女にはレシピを聞いたらいい」と助言する。そうして料理の話題から“カジマナ”に接近した里佳は、まるで“カジマナ”に洗脳されたかのように次から次へと食べはじめ、あれほど細かった身体の線はすっかり崩れてしまう……

 この小説では、「自己肯定」、自分を愛して大切にするとはどういうことなのか? という角度から、“カジマナ”をめぐる事件と、里佳をはじめとする登場人物たちを描いている。

 上記の引用にあるように、多くの女は、きれいでいないといけない、太ったらダメだ、醜い女には価値がない、と強くすりこまれている。

 醜くてなにが悪いのか? 男に選ばれないから? 男に選ばれないといけないのか? 
 と、つきつめて考えると、たとえ実際に男から選ばれることを求めていなくても、男から見て(多少なりとも)「魅力的な女」でないといけない、というすりこみがあるのは事実だ。

 そうでなければ、男からはもちろん、同性である女からも蔑まれるような気がする。人並みの容姿でなければ、身の程をわきまえて、分相応に振る舞わなければいけない。つまり、いわゆる「ブス」のくせに自信満々だったら物笑いの種になるような気がする。

ところが、梶井は何よりもまず、自分を許している。己のスペックを無視して、自分が一人前の女であることにOKを出していたのだ。大切にされること、あがめられること、プレゼントや愛を与えられること、そして労働や集団行動など苦手なものから極力距離をとること。それらをごく当たり前のこととして要求し続け、その結果、自分にとっての居心地の良い環境を得て超然と振る舞っていたのだ。

 そう、だから“カジマナ”、あるいは木嶋佳苗は、女たちからある種の喝采を浴びたのだ。
 太っているのにもかかわらず、まったく物怖じすることなく欲望を全開にし、男に近づいて堂々と金を巻きあげ、そして最終的には息の根まで止める(比喩ではなく)姿が、常に男の視線にジャッジされることに脅え、せめて人並みの容姿を維持しようと汲々としている女たちから、ある種の羨望のまなざしをむけられたのだ。

 この小説の主人公里佳は、これまで自分の欲望とむきあったことはなかった。しかし、「バター醤油ご飯を作りなさい」からはじまる“カジマナ”の手ほどきを受け、「自らが欲するもの」について真剣に考えるようになる。

 そして体型が変わるにつれて、太っている女(里佳はそれまでが細すぎただけだが)がどれだけ世間から冷たい目で見られるかということにも気づく。ついには、自分のこれまでの人生ををふりかえり、蓋をしていた父親との記憶にも対峙するようになる。
 
 一方、親友伶子は、“カジマナ”に洗脳されてどんどん太っていく里佳に恐怖を感じ、“カジマナ”に激しい反発を覚える。

 もともと“カジマナ”と接点のなかった里佳とちがい、料理好きであるが肥満とは無縁の体型で、完璧に家事をこなし、きちんと「母」になるために仕事を辞めた伶子は、“カジマナ”とは「裏と表」ともいえる関係にある。里佳の知らないところで、ひとりで勝手に“カジマナ”について調査した伶子は、ひとつの疑問への答えを求め、思いもよらぬ行動をとる。
 どうして男は華奢で美しい自分より、“カジマナ”に癒しを求め、欲情するのか?
 
 どうして女が自分を肯定することは、こんなにむずかしいのだろう? と、あらためて考えてしまう。 

 また、この小説は女の自己肯定だけを描いているわけではない。男にも焦点をあてている。 
 どうして男たちは、あれほどたやすく“カジマナ”にひっかったのか? ちょっと料理を作ってもらっただけで、話を聞いてもらっただけで、全面的に(何度も何度も睡眠薬で眠らされるほど)自分の存在を託してしまったのか? 
 
 ここで“カジマナ”に関わった男だけでなく、先に触れた里佳の父親も浮上する。里佳の父親は、母親が里佳を連れて家を出て行ったあと、自暴自棄な生活を送るようになって、早々に死んでしまったのだ。
 どうして彼らは、自分で自分の面倒がみれないのか? ケアをしてくれる女が去ってしまうと、まるであてつけのように、自分を痛めつけるような生活を送るのか? 

男性を喜ばせるのはとても楽しいことで、私にとっては、あなたが思うような『仕事』ではないの。男の人をケアし、支え、温めることが神が女に与えた使命であり、それをまっとうすることで女はみんな美しくなれるのよ。……
話す内容とは裏腹に、梶井の顔は激しい怒りと苛立ちでじわじわと歪みつつあった。 

 “カジマナ”は男が憎くて犯罪をおかしたわけではない。少なくとも自分ではそれを否定し、男性を喜ばせ、ケアを与えることが女の使命だと語る。フェミニストが語る「女の自立」なんて、“カジマナ”にとっては寝言以下だ。

 しかし、自分が殺したとされている男たちについて語り出すと、口調は冷ややかになり、軽蔑といらだちが露わになる。

婚活市場にいるような男性の、理想のタイプって、突き詰めると生命力をできるだけ感じさせない女ってことよ。死人とか幽霊がベストなんだと思う。
そう、現代の日本女性が心の底から異性に愛されるには『死体になる』のがいいのかもしれない。そういう女を望む彼らだって、とっくに死んでいるようなものなんだもの。

 まるで19世紀の小説のように、この小説では、登場人物たちによる議論がえんえんと交わされる。

 しかし、最終的には、作者はなにも結論づけることはなく、登場人物たちがそれぞれ抱えた悩みがはっきり解決されることもなく、また、いわゆる“イヤミス”にありがちな破綻にむかうこともない。
 なにひとつとして、だれひとりとして――“カジマナ”ですらも――断罪されない。

 ネットの感想などを見ると、そこが中途半端だと不満を抱いているものもいくつかあったが、それこそがこの小説の一番大事な意図なのではないだろうか。
 なぜなら、これほどまでに女が、そして男も、生きづらくなったのは、まさに「女は(男は)こうでなければいけない」という断罪する姿勢のせいなのだから。

 なにひとつ変わらなくても、変わろうとしなくても、そのままであなたは肯定される、あなたには「居場所」がある――こういってしまうと怪しげな自己啓発本のメッセージのようでナンですが、この小説の着地点は、まさにそのことを描いているのだと思った。

90年代の失われた青春、そして再生の物語 『アンダー、サンダー、テンダー』(チョンセラン 著 吉川凪 訳)

 さて、アジアシリーズの続き?として、『アンダー、サンダー、テンダー』を読みました。それにしても、『殺人者の記憶法』のときも思ったけれど、吉川凪さんの翻訳はほんとうに読みやすくて、すうっと文章が頭に入ってきます。 

アンダー、サンダー、テンダー (新しい韓国の文学)

アンダー、サンダー、テンダー (新しい韓国の文学)

 

 私は人生で最も秘めやかな真実を、ピピンククスを通して学んだ。  

人は、どの内面にどうしようもない空洞を抱えていても、生きていけるということを。悲劇と同じくらい、ククスの薬味や調味料も重要なのだということを。 

  韓国の郊外、坡州(パジュ)の町でこの物語ははじまる。北朝鮮との国境に近いという以外になんの特徴もないこの町では、「水タンク」といった適当な名前がつけられたバス停をオンボロバスがガタコトと走り抜け、「私」はソンイやチョンギョム、スミやミヌンといった仲間たちと高校に通っている。

 そんな町に、ある日突然、安藤忠雄風の打ちっぱなしの家(韓国でも「安藤忠雄風」というのは、コンクリート打ちっぱなしの代名詞らしい)が建てられ、ジョヨンがインドからの転校生として、「私」たちの通学仲間に加わる。

 ジョヨンと仲良くなった「私」が、その殺風景な家に遊びに行くと、ジョヨンによく似た少年がいた。少年はジュワンといい、ジョヨンの一歳上の兄だった。学校にまったく行かずに、家でひたすら映画を観て過ごしているらしい。ジョワンに魅かれた「私」は、毎日のようにジョヨンの家に通いつめるようになる……
 
 と、現在の「私」が1990年代の高校時代を回想するという、過去と現在が交錯するスタイルの物語である。三十代になった私は、映画の美術係から映像作家となり、ピピンククス屋を営む親や、ソンイやジョヨンといった高校時代の友人など身近な人間を撮影している。

思えば、私はあの時もMDレコーダーにマイクをつけて友人たちの声を録音したりしていた。結局、大人になればすごいことができるようになるのではなく、もともとやっていたことを本格的にするようになるのだろう。

 高校時代の「私」がジュワンをはじめて見て、ポール・マッカートニーみたいだと思う場面は切ない。

 といっても、90年代の高校生である「私」は、もちろんビートルズ世代でもなんでもなく、ポールのことを「しょっちゅう結婚するイギリスの変なじいさん」くらいにしか思っていなかった。
 けれども、ジュワンとポールが結びついたあとでは、ビートルズを聞き、ウィングスでかすかに聴こえる妻のリンダの声に耳をすませる。ポールとリンダが互いにとってかけがえのない唯一無二の関係だったことを知り、「私」は思いをはせる。

リンダ・マッカートニーが1998年、私がジュワンに会う一年前に死んで以来、ポール・マッカートニーが彼女に似た女性たちと何度も結婚しなければならなかった理由を。
二人のような関係は、一生を支配する。そんな愛は終わっても終わらないけれど、取り戻すことはできない。

 一生を支配する関係。失ったら、ジュワンの言葉でいう「マルファンクション」になってしまう相手。高校時代の「私」も、そして「私」はいまもまだ、その関係に、その相手に絡みとられている。

 高校時代の「私」とジュワンは、週ごとにテーマを決めて映画を観ていた。「ウォン・カーウァイ週間」「ウッディ・アレン週間」……。そして、「私」はいまもカメラをまわしつづけている。

 私自身も(この小説のなかの「私」ではなく、このブログを書いている私です)最近つくづく感じることですが、ひとは結局、十代にすりこまれた価値観から脱却することはなかなかできず、そのとき追い求めたものを死ぬまで追い続けてしまうのではないか、と。この小説の「私」のように、「一生を支配される」相手に具体的に出会ったわけではないけれど、そう思えてならない。

 「私」のみならず、高校時代から郊外の町では浮いてしまうくらい、とんがったお洒落をしていたソンイは、のちにちょこっと整形をして、フラッグシップ(大韓航空ですね)のCAとなり、最終的にはニューヨークへ旅立つ。高校時代から読書家で聡明だったジュヨンは編集者となり、編集の仕事に幻滅したあとも留学して勉強を続ける。
 
 しかし、前回の映画『タクシー運転手』で描かれた1980年の韓国は、遠い昔の光景のように思えたが(いや、日本も1980年はあんな感じだったのかもしれないが)、90年代の青春は日本も韓国もほとんど同じだということも強く印象に残った。私もMDを聞いてミニシアターに行き、ウォン・カーウァイウッディ・アレン、そしてもちろん、『パルプ・フィクション』などのタランティーノ作品を観ていました。


 この物語は、高校時代を描いたまぎれもない青春小説であると同時に、それ以降の「私」が、悲劇によって失われた青春から再生する小説でもある。完全な「マルファンクション」に陥った「私」が、徐々に立ち直っていく過程が描かれている。

 失われた青春から再生する、といま自分で書いたけれど、それは青春に別れを告げることなのか、青春を再び甦らせることなのかは、考えてもよくわからない。ただ、この物語の「私」は、ジョヨンの助けも得て、映像作家としてのキャリアを歩きはじめる。

 また、この悲劇で破壊されたのは「私」だけではない。ある意味、坡州の町の共同体が破壊されてしまう。

 そこから読み直すと、冒頭からバス通学の場面などでさりげなく描写されていた、ソンイ、スミ、ミヌン、チョンギョムといった仲間たちの境遇が伏線となっていることに気づく。「私」やジョヨンのみならず、仲間たち全員がそれぞれ悲劇を乗りこえて、自分の道を進んでいくところがきちんと描かれているので、後味のいい小説だった。 

人のいないバス停には匂いだけが残っていた。なじみのある匂いだけれど、名前を知らない。風船ガムの匂いだけを残したのは誰だろう。なぜだか、知っている人のような気がした。

 


 

「強きを助け、弱きをくじく」はギャグになっているのか? 『タクシー運転手 約束は海を越えて』

 前回に続き、すっかりアジアづいている今日この頃。寒い日にはサムゲタンが食べたくなり、暑い日には韓国冷麺が食べたくなる自分には、やはりヴィクトリア朝ではなくアジアの方が似合うのでしょう……

というわけで、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』を観ました。

klockworx-asia.com

 舞台は1980年の韓国。ソウルのタクシー運転手マンソクは、男手ひとつで11歳の娘を育てている。娘のために毎日せっせとオンボロタクシーに乗っているが、政情が不安定で景気が悪いため、いっこうに暮らしは楽にならず、家賃も滞納している。民主化を求めてデモをする学生を見て、いい気なもんだとつぶやくマンソク。

 そんなある日、マンソクは外国人の客を見つけ、こりゃ金になる!と思って、なかば強引に自分のタクシーに乗せる。運転手だけあって英語は得意だ。といっても、完全なカタコト英語だが。当時は一般人はもちろん、大学生でもカタコト英語すら話せない者が多かったのだ。

 期待どおり、外国人客は光州まで行けば大金を支払うと言うので、マンソクは鼻歌まじりに一路光州へ。ところが、光州への境にさしかかると、軍隊が道を封鎖している。だが、外国人客はなんとしてでも光州に入らないと金は一切払わないと言いだす。金をもらわないと、ガソリン代だけでも大赤字だ。必死で軍人を言いくるめて、裏道からなんとか光州へ入る。が、そこには信じられない光景が広がっていた……


 1980年の韓国の民主化運動、光州事件を舞台にした映画である。中国での民主化運動、天安門事件はその映像が全世界に広がって衝撃を与えたが、光州事件についてはよく知らないひとも多いのではないだろうか。正直、私も名前を聞いたことがある程度だった。しかし、この映画を観て、光州事件と、事件が隠蔽されていた経緯――政府による厳しいメディア統制――を知り、考えさせられた。


 だが、この映画がすぐれているのは、この映画に限らず韓国映画全般に言えることだが、重いテーマでありながらも、いや、むしろテーマが重ければ重いほど、エンターテイメント性が突出していることだ。こんな大事件を取り扱いながらも、「なにも考えずに楽しめる」要素もふんだんにあるところがすごい。


 すっかり肝を冷やしたマンソクが止めるのにもかかわらず、実は外国人記者だったタクシー客は、光州市民たちとともに軍隊が銃を構える現場にまで入っていく。素朴な一市民であるマンソクは、軍隊が市民に発砲するなんてことがどうしてあり得るのか? と、ただただ驚愕しながら逃げ回る。そこから、ビルのなかでの逃走劇や、ハリウッド映画のようなカーアクションまであって、観客をまったく飽きさせない。そして、物語の底には、娘への愛情や、光州で出会った人々との交流という人情がしっかりと流れている。


 ちなみに、この映画は実際に光州を取材したドイツ人ジャーナリスト、ユルゲン・ヒンツペーターのエピソードからできており、ソン・ガンホ演じるタクシー運転手も実在の人物をモデルにしている。光州の一般市民が大勢犠牲になり、タクシー運転手たちが協力して負傷した市民を救ったというのも事実らしい。

 ソン・ガンホたちを執拗に追う警官役のチェ・グィファが鬼気迫る演技だったせいか、若いときの鳥肌実が頭に浮かび、いまの鳥肌実がほんとうにヤバイひとになっているらしい(よう知らんけど)ことを考えあわせると、いっそう寒気がした。

 それにしても、先にも書いたように、メディア統制のおそろしさが印象に残った。軍隊が市民にむけて無差別に発砲するという異常事態も、「共産党員による暴動を軍隊が制し、軍人五名が死傷」という具合に報じられる。

 しかし、現状を考えると、こんな映画が作られて、韓国国民の5人に1人が見るという事態(動員数が1500万人で、韓国の人口は5500万くらいなので)からは、日本より韓国の方が民主主義が機能しているようにも感じられる。
 この映画の製作、そしてヒットは単なる偶然ではなく、朴槿恵前大統領が逮捕され、文在寅政権が発足した動きと関連しているらしいが、不正を行った大統領をきちんと逮捕するという点においても、韓国の方が民主的のように思える。
 
 もちろん、軍事政権の記憶がまだ色濃く残っているという理由も大きいのだろう。でも、いまの日本で、こんな映画を作り、それが大々的にヒットするなんてことがあるだろうか? と考えると、どうしても暗い気持ちになる。「民主化を求める市民とそれを制圧する軍」というと、現在の日本では、どういうわけだか、一般の市民であっても軍の目線に立つひとが多いようなので。

 いや、「どういうわけだか」と書いたけれど、どういうわけかは推測できる。おそらく、「自分はこれだけ我慢している。だから我慢せず声をあげる者が許せない」のだろう。「自分はおとなしく上に従っている。だから従おうとしない者が許せない」「自分は貧しくともせっせと働いてる。だから働こうとせず生活保護を求める者が許せない」などなど……。

 この心情は現在の日本人特有のものではなく、この映画のマンソクも、冒頭でデモをする学生たちを冷ややかな目で眺めている。

 正義なんて富める人間が口にする寝言だ。助けあいなんて偽善だ。他人が自由を求めるのが許せない。他人が権利を主張して、「得」を求めるなら、なにがなんでも阻止したい。たとえそのために、自分自身も「損」を被ることになっても。
 こんな気分がいまの世の中に蔓延しているような気がする。

 と言いつつ、私自身デモなどの社会的な活動に参加したことはまったくないので、えらそうなことはなにひとつ言えないのですが。
 でも、「強きを助け、弱きをくじく」というのは、タケちゃんマンのギャグだけでじゅうぶんだとは思っておきたい……って、タケちゃんマンって古すぎやろって感じだが、まあ同じ80年代ものってことで。でもほんと、これがギャグだってことが伝わらない世の中になっているような気がする。

1967年から2013年までの香港の「正義」の変遷とは――『13・67』(陳 浩基 著 天野健太郎訳)

 さて、2017年中国ミステリー最大の話題作『13・67』を読みました。 

13・67

13・67

 

  以前に高野秀行さんがツイッターで絶賛しており、これまで高野さんが絶賛した作品はまったくハズレなしなので(『解錠師』『ストリート・キッズ』など)、きっとおもしろいにちがいない!!と期待していたら、2017年翻訳ミステリー読者賞も受賞し、読者がもっとも多く票を投じたのだから、絶対におもしろいにちがいない!!と、自分のなかで上げに上げきったハードルを(勝手に)課して読んだのだが、それでもまだ余りが出るほどおもしろかった。

 ちなみに、最近では高野さんは『アティカス、冒険と人生をくれた犬』を推していたので、これも読まないと。 

アティカス、冒険と人生をくれた犬

アティカス、冒険と人生をくれた犬

 

 この『13・67』は六つの中編小説からなる作品集であり、タイトルで『13・67』とあるように、1967年から2013年の香港を描いている。

1997年6月6日は、大多数の香港人にとって、ごく平凡な一日だった。(略)
しかし、クワンにとって今日は特別な一日だった。なぜなら、彼の最後の勤務日だったからだ。
警察官となって三十二年、五十歳となったクワン上級警視は明日から、輝かしいリタイアの日々を送ることになる。  

1997年7月1日、香港の祖国復帰のあと、皇家香港警察は「皇家」(ロイヤル)の称号を外し、「香港警察」へ生まれ変わる。

と、香港の歴史にとって忘れられない年、1997年を舞台にした作品もある。

 といっても、香港返還といった歴史に残る大イベントを直接描いているわけではなく、取りあげられているのは、ギャングの抗争や財閥一族での殺人といった、ごくありふれた――「ありふれた」ものが「事件」なのかと考えると矛盾しているが――事件である。
 しかし、その事件の裏側には、イギリスと中国の狭間におかれた香港の姿と、そんな特殊な状況を生き抜いてきた香港人のたくましさが刻まれている。

今、彼の命が尽きようとしている。そして長年、彼が身をもって築き、支えてきた香港警察のイメージもまた、風前の灯であった。香港警察の威信はいつからか失墜の一途を辿り、2013年の今、すっかり色あせている。

 さらに、この本は時系列を逆から語っており、2013年からはじまり、1967年で終わる。冒頭から、先に引用した(本のなかでは後から語られる)1997年時点で希望に満ちていたはずの香港警察が失墜し、どんな悪も見逃さない「天眼」と呼ばれたクワンが息を引き取りつつあるようすが描かれる。

 ところが、クワンの弟子筋にあたるロー警部は、意識を失い、なかば植物人間状態のクワンの脳波をコンピュータで読み取り、YES・NOのシグナルを出すことによって(YES・NO枕が頭によぎったのは私だけだろうか?)、財閥の頭首である阮文彬を殺した犯人を当ててみせるというのである。そんなことが可能なのか?


 それ以降の物語も、クワンを主人公とした連作となっており、香港の芸能界を牛耳るマフィア、ギャングの大親玉である石兄弟との闘争、本国で借金を作り、出稼ぎに来た香港で息子を誘拐されたイギリス人一家が登場する。

 1967年を舞台にした最後の作品は、左派による反英暴動を背景として、テロ組織によって香港のあらゆるところに仕掛けられた爆弾を追うというストーリーであり、この本のなかでただひとつ一人称で語られている。

香港がどうしてこんなふうになってしまったのか、私にはわからなかった。
四ヵ月前には、この都市がこうなるとは考えてもみなかった。
まるで今、香港は狂気と理性の境界線上に一本足で立っているかのようだった。
そして、境界線はどんどん曖昧になっていき、なにが理性でなにが狂気なのか、なにが正義でなにが罪悪なのか、なにが正しくてなにが間違っているのか、わからなくなっていった。

「私」とはいったいだれなのか――? それがあきらかになったとき、この物語の持つ円環構造におどろかされる。ただ主人公をはじめとする登場人物が共通しているだけの連作ではなく、物語全体を貫く大きなテーマが、1967年から2013年まで繋がっていることに気づかされる。

――覚えておけ! 警察官たるものの真の任務は、市民を守ることだ。ならば、もし警察内部の硬直化した制度によって無辜の市民に害が及んだり、公正が脅かされるようなことがあるなら、我々にはそれに背く正当性があるはずだ。

 「正義」とはいったいどういうものなのか?

 この本全体でも示唆されており、訳者のあとがきでも書かれているように、1967年時点の香港では「反英」が「正義」であったが、1997年以降の香港では「反中」が「正義」となる。

 そもそも「権力」が「正義」を執行することが「正義」と言えるのだろうか? 「正義」と「権力」は両立し得るのか? 

 クワンにとっての「正義」とは、「制度」や「権力」ではなく、とにかく市民を守ることである。
 「正義」とはそれぞれに異なる、個人的なものなのだろうか? 
 個人の「正義」と集団の「正義」が対立することはないのだろうか?
 こういった考えが、「黒と白のあいだの真実」というタイトルにこめられているのだろう。

――と、読者に考えさせることから、下記の訳者あとがきで書かれた著者の目論見は大成功といえる。

著者はあとがきで本作において、「本格派」と「社会派」を融合させる目論見を書いている。トリックという虚構の醍醐味とリアリズムという現実社会へのコミットメントを両立させることを目ざした結果、たしかに、
この小説は「本格ミステリ×香港(人)×歴史リアリズム」として成功している。

 もしかしたら、本格ミステリ×歴史リアリズムというと、難解で読みづらいのでは?と危惧されるかもしれないが、そんな心配はまったく無用。
 それどころか、まるで最初から日本語で書かれた小説のように読みやすい文章でおどろいた。韓国の翻訳小説でもたまにあるけれど、同じ漢字文化圏だから? しかし、中国語は文法も大きく異なるはずだが。


 また私は、香港は二十代前半にパックツアーで一度行ったきりで、地理はぼんやりとしかわからないのだが(本に地図はついてます)、小説のなかでは地名がはっきり示され、辺りの雰囲気も濃厚に描写されているので、土地勘があるひとなら、この小説をもっと楽しめるのではないかと思う。


 そしてなんと、ウォン・カーウァイ監督がこの小説の映画化権を獲得したとのこと。いったいどんな感じになるのだろうか?

 結局香港には一回しか行っていない私も、学生時代にはもちろん『恋する惑星』を見て、フェイ・ウォン可愛い~!と思って、サントラも買って聞き(クランベリーズのドロレスが先日亡くなっておどろいたが)、金城武ファンになった友達がプロマイド(死語ですかね)を買いたいというので、天王寺にあった香港映画センター(みたいなところ。いまでもあるのだろうか)についていったりもしました。
 映画の公開も楽しみです。ちゃんと公開されるんかな?

 

不思議な魅力のあるデビュー作(勝手に配役も考えた) 『永遠の1/2』(佐藤正午 著)

 さて、4連休もどこに行くわけでもなく、ゴキブリみたいに家にへばりついていたら、あっという間に終了しました。やったことといえば、録りだめしておいた山本文緒原作のドラマ『あなたには帰る家がある』を見ながら、掃除らしきことをした程度。 

  しかしこのドラマ、なかなか目が離せない。
 中谷美紀がガサツだけど善良なオバサン妻を演じるのって、キャラがちがうのでは?と感じていたが、意外にもはまっている。前にも書いたけれど、なぜか研ナオコに見える瞬間があるショートヘアも似合っていると思えてきた。
 
 あと、ヒュー・グラントが還暦間近となったいま、優柔不断のやさ男を演じたら世界一の玉木宏(※個人の感想です)に、ユースケ・サンタマリアは、バラエティでもおなじみの死んだ魚のような目がモラハラ夫にぴったりだし(ちなみに、モニタリング!に出ていたとき、「日本のヒュー・ジャックマン」と名乗っていた。その少し前、スペースシャワーの番組では、曰く「日本のエド・シーラン」と)、どんな役を演じてもワケありに見える木村多江は安定の薄幸演技、と見応えがある。

 それにしても、玉木宏(が演じる役)、不倫相手とのホテル代にカードを使うって、マヌケにも程があるやろ(しかも4万8千円ってめっちゃ高い)と思うが。しかもちょっと聞かれただけですぐにテンパり、あっさり認めて平謝りする。「嘘もつけないくせに浮気するな!」と中谷美紀が怒るのももっともだ。


 で、前置きが長くなりましたが、その山本文緒が解説を書いた佐藤正午の『ジャンプ』に続き、『永遠の1/2』も読みました。 

永遠の1/2 (小学館文庫)

永遠の1/2 (小学館文庫)

 

失業したとたんにツキがまわってきた。 

いま思えば不思議な気さえするけれど、ぼくは、一年近く続いた女との関係をたったの二時間で清算できたことになる。しかも結婚はしない、殺人も犯さない、涙の一滴だって女の眼からこぼれないというのだから、これは離れ業だ。

 この小説は主人公の「ぼく」が仕事を辞め、次の仕事に就くまでの約一年間を描いている。

 『ジャンプ』の主人公は、失踪した恋人を必死で探す語り口によって、実はしょうもない男であることを読者に隠蔽していたが、この小説の主人公は、冒頭から仕事を辞めてぶらぶらし、婚約者と別れたかと思えば娼婦を金で買い、またすぐに競輪場で女をナンパしたりするので、しょうもない男であることが最初からあきらかなようだが、実は、この小説でしょうもない男なのは「ぼく」ではない。
 
 無職生活になってすぐ、「ぼく」はその娼婦と、さらに父親からも人違いをされかける。どうやら「ぼく」にそっくりな男がいるらしい。

 それからの「ぼく」は仕事を探すでもなく、ナンパした良子がワケありのめんどくさい女だったことに気づいてうんざりしたりと、ぱっとしない生活を過ごすのだが、一方で、「ぼく」にそっくりな男は、ひとの女をたぶらかし、ついでに金も盗んで駆け落ちしたかと思うと、またすぐに別の女に手を出したりと、波乱万丈の人生を送っているらしい。

 おかげで、その男はあちこちから恨みをかい、しばしば人違いをされる「ぼく」もそのとばっちりを受ける羽目になるので、そいつを捕まえてやろうと「ぼく」は必死に探すが、えんえんとすれちがい続ける……。
 
 と書くと、パラレルワールドといった、SFを取り入れた小説のようだが、そういうわけでもない。正直なところ、自分にそっくりな男がくり広げる騒動という設定があまり生かされておらず、ただひたすら「ぼく」が、そっくりな男をめぐるあれこれ以外には、これという事件のない日々を淡々と語っていくだけだ。
 
 じゃあ、おもしろくない小説なのか?と聞かれると難しいところで、すごくおもしろい!というわけではないのだが、なんだか不思議な魅力がある。多くのデビュー作がそうであるように、未分化のなにかと作者の生(なま)の衝動が埋もれている感じがする。
 
 私が読んだ新装版には、2016年に作者が書いたあとがきが収録されていた。そこで、作者はこの小説を読み直すのは苦痛だったと書いていて、さらに

この長い小説を書いた新人にどこか見所はあるのか?
あるとして一点、どうにかこうにか挙げられるのは、僕は、彼の文章力だと思う。
ここで文章力というのは、文章がうまいとか、こなれているとか、読ませるとか、粋だとか、そういう意味では全然ない。
たとえばそれは、僕が思うに『永遠の1/2』において発揮されている文章力というのは、粘り、とか、根気とかの言葉に置き換えられるものである。
無遅刻無欠勤 真面目 地道 丈夫なからだ 凡庸
ぜひとも欠かせない条件、とまで言わないにしても、あっても絶対に邪魔にはならない資質ではないか、というのが僕の意見である。

  とあり、なるほどと思った。

 たしかに、この小説の大きな魅力は文章だと思う。1980年代の小説なのに、ちっとも古臭くない。もちろん、ディテールは「この年巨人に入団した江川」だったり、主人公の妹が「30過ぎたら行き遅れになるよ」と母親から言われたり、時代を感じるのだが。
 作者は「読ませるとか」という意味ではないと書いているが、じゅうぶんに「読ませる」文章であり、当時はかなり斬新だったのではないだろうか。

 さらに、「無遅刻無欠勤 真面目 地道 丈夫なからだ 凡庸」というのは、なかば冗談というか含羞がまじっているのだろうけど、長年小説を書き続けてきた作者の言葉として重みがある。
 
 ところで、この小説を検索したところ、映画になっていることを知った。
 主人公は時任三郎で、まあそれはいいとして、良子が大竹しのぶってどうだろう?? いや、「めんどくさい女」にはぴったりな気もするが、良子は足がすらっと長く、きれいな後ろ姿をしている女なのだ。となると、若いころでも大竹しのぶではないような。。

 では、いまならだれがいいのか? 先にも書いた木村多江は「ワケあり」にふさわしいが、良子は29歳なので難しいか。(小雪も同様か。時代が変わっているので、年齢の設定をあげてもいいだろうが)
 若手で「めんどくさい女」が似合うというと……仲里依紗はどうでしょう?(だれに話しかけているのか) 
 そして二つ下の主人公は……池松壮亮なんかいいんじゃないでしょうか。(再びだれに話しかけているのか)

 あと、実はこの小説は女子高生も登場する。しかも、山口メンバーどころじゃない事態になるのだが、だれが適役か……(映画では中嶋朋子だが)ベタだけど、橋本環奈とか? なんて勝手に妄想して現実逃避をする連休明けでした。
 

『ストーナー』の訳者が遺した翻訳への愛と情熱、そして脱力ギャグ 『ねみみにみみず』(東江一紀 著 越前敏弥 編)

 さて前回、第四回日本翻訳大賞が決まったと書きましたが、第一回読者賞を受賞した『ストーナー』の翻訳家、東江一紀のエッセイ『ねみみにみみず』を読み、ほんと翻訳家はエッセイがうまいひとが多い、とつくづく思った。 

ねみみにみみず

ねみみにみみず

 

  

ストーナー

ストーナー

 

  「執筆は父としてはかどらず」や「訳介な仕事だ、まったく」という章タイトルからわかるように(?)、翻訳という仕事をテーマとする文章が多数収録されており、翻訳や語学の学習者はもちろん、翻訳本の読者にとっても、非常にためになる本である。

 たとえば、翻訳書につきものの「訳者あとがき」について、作者はこう語る。

訳者が作品について、あるいは作者について、ぐたぐたと、あることないこと(あることばかりじゃ、ページが稼げない)、知ってること知らないこと(知ってることばかりじゃ、箔が付かない)、思ってること思ってないこと(思ってることばかりじゃ、商売にならない)書き連ねるという趣向

  そうだったのか。いや、最後の「思ってることばかりじゃ、商売にならない」というのは、これまでもうっすら勘付いてはいたが、前のふたつについては想定外だった。まだまだ自分は修業が足りない世間知らずだと痛感するが、このあとを読んで、さらに自分の甘さを思い知る。

もうひとつ問題なのは、いえ、問題と言っても、べつに取り立てて書くほどの大問題じゃなくて、ぜひとも皆様にお聞かせしたいほどの中問題でもなくて、実にまあ枝葉末節の、気にするのもばかばかしいようなフォーク、じゃなくてナイフ、じゃなくて瑣事なので、読者諸兄にはすっと読み飛ばしていただきたいのだが、それはつまり、このあとがきを書くという仕事がですね、なんとただ働きだっちゅうことだ。 

  なんということか。訳者があとがきで「ぐたぐたと、あることないこと」を書き連ねるかと思えば、出版社は出版社でそれに一銭も支払っていないとは。翻訳本の現場では、労働にはすべて対価が生じるという資本主義の原則が破壊されていたのだった……

 とまあこんな具合に、随所に、というより、いたるところに、なんなら本題より多く、脱力ギャグを散りばめながら翻訳家の日常生活が綴られている。そのギャグのくだらなさ(いい意味で)やトホホ感は宮田珠己のエッセイに近いかもしれない。
(ちなみに、きのう出町座で行われた、この本の刊行記念のトークイベントに行きましたが、最近はあとがきに原稿料を払う出版社もあるそうです)

 え? 脱力ギャグはともかく、ほんとうにためになるのかって? いやもちろん、実際に英語を訳してみるコラムも収録されている。ひとつ例をあげると 

 George Bush is a fake, a fool, and a wimp.

 という文が課題になっているコラムでは、「ペテン師、ピエロ、ポンコツの3P」とか「インチキ、トンチキ、おまけにチャンチキ野郎」などの読者からの投稿が楽しい。最優秀賞に選ばれた作品については、ぜひ本で確認してください。

 最後の編集後記では、実際に作者が蒐集してきた罵倒語集の一部が披露されているが、これがまたどれもひねりがきいていて感心させられるので、ぜひとも読んでみてください。個人的には「トマトのへた」と「しわん中に顔が同居」が気に入った。 

He has big lips. I saw him suck an egg out of a chicken. This man has got child bearing lips. 

  とはいったいだれの悪口か? これもぜひ実際に本を読んで確かめてください。

 しかし、どれほど脱力ギャグによって埋めつくされていても、作者の壮絶な仕事ぶりもじゅうぶんに伝わってくる。
 「わたし、塀の中の懲りない訳者です」と題されたエッセイでは、七か月間で「ミステリー四冊、ノンフィクション二冊」を翻訳しないといけない「締切り地獄」にいることが語られる。 

というわけで、一念発起、一意専心、猪突猛進、乾坤一擲、委細面談、地獄のワーカホリッキングライクチックフルネスリー生活に突入する決意を固めました。七か月間、わき目もふらずに働きまくるのだ。言うなれば、長期ひとり合宿。執行猶予なしの自主懲役。

  次のエッセイでは「なんでわたしが、錯乱するほど忙しく働かなくちゃなんないのかってこと」について、「ひと言で言えば、食えない」からと書かれているが、もちろん翻訳書が売れなくなり、初版部数がひところの半分になって一冊あたりの収入が減ったというのは事実だろうけれど、それほどまでに文字通りに身を削って働いたのは、やはり仕事への情熱、絶対に手を抜かないという完璧主義が大きかったのではないだろうか。

 先にあげた『ストーナー』の美しい訳文でも、その凄みがよくわかると思うけれど、私のおすすめは(といっても、全訳書を読破しているわけでは全然ないが)、やはりドン・ウィンズロウの『ストリート・キッズ』だ。 

ストリート・キッズ (創元推理文庫)

ストリート・キッズ (創元推理文庫)

 

  ニューヨークの下町を舞台に、父親の顔も知らず、ドラッグ中毒の母親になかば育児放棄されたストリート・キッズのニールが、グレアムという謎の男のもとで探偵稼業をはじめる物語。
 というと、ワルで荒くれ者の(死語ですね)ニールがハードなドンパチ(これも死語ですね)をくり広げるのかと想像するかもしれないが、まったくそうではなく、ピュアで繊細、しかも聡明で、コロンビア大学で英文学を専攻しているというニールのキャラがとっても新鮮だった。
 
 さて、先に引用した訳者あとがきについてのエッセイには、続いて 

いえ、いえ労力に見合う報酬をよこせと言ってるんじゃないの(くれるんだったら、固辞はしないけど)。訳者あとがきにはね、作者と作品と読者に対する翻訳者の無償の愛が込められているのだということを、ちょっとだけわかってほしいのであった。

 とあるが、まさにそのとおり、翻訳の仕事に一生を捧げた東江さんの「作者と作品と読者に対する翻訳者の無償の愛」が、ギャグという含羞(あるいは含羞というギャグ)の合間から、深津絵里、まちがい、深田恭子、いやちがう、なによりも深く(←ちょっと東江さん風に書いてみた)伝わってくる一冊だった。
 
 

大きな選択を迫られるとき――『ピンポン』(パク・ミンギュ 著 斎藤真理子 訳)『マレ・サカチのたったひとつの贈物』(王城夕紀)

 さて、第四回日本翻訳大賞が『殺人者の記憶法』と『人形』に決まりました。『殺人者の記憶法』は前にも紹介したように、原作も映画もおもしろかったので納得。
 『人形』はポーランドで人気の小説らしいが、手をつけるにはかなり気合のいる長さのよう。いや、『殺人者の記憶法』が中編なので、足して2で割ると考えると大丈夫なはず(?)

人形 (ポーランド文学古典叢書)

人形 (ポーランド文学古典叢書)

 

 それにしても韓国の小説は勢いあるなーとつくづく思い、第一回日本翻訳大賞の受賞作『カステラ』の作者パク・ミンギュの『ピンポン』を読んでみた。 

ピンポン (エクス・リブリス)

ピンポン (エクス・リブリス)

 

  世代的に『ピンポン』というと、どうしても当時きらきら輝いていた(いや、いまも独特の活動をしていると思いますが)窪塚洋介の「アーイキャンフラーイ」が頭に浮かぶ。
 こちらの『ピンポン』も、「ペコ」や「スマイル」と同様に、「釘」と「モアイ」がピンポンにうちこむ青春ストーリーなのかな……と予想しつつ読みはじめたら、思ってたのとぜんぜんちがった。

君と僕は、世界に「あちゃー」された人間なんだよ。

「釘」も「モアイ」も学校でいじめられているのだが、そのいじめのレベルがなかなかえげつない。(えげつないって関西弁かな? 通じるかな) いや、いじめというか、もう完全な犯罪やん、というレベル。

 実際、いじめのリーダーである「チス」は警察に追われる身になったりする。それにしても、このチスの描き方もうまかった。なに食わぬ顔で凄惨な暴力をふるい、周囲に恐怖をあたえて支配する。そして、時おり「釘」に優しい言葉をかけたりするので、そのおそろしさがいっそう際立つ。たまにいるモンスター犯罪者(尼崎や北九州での家族殺人事件など)のパーソナリティってこういうのではないかと、リアルに想像できる。

つまりピンポンというものは、僕の考えでは、人類がうっかり「あちゃー」しちゃったものと、絶対「あちゃー」されないものとの戦争なんだ。

 そして、「釘」と「モアイ」が原っぱでうち捨てられていた卓球台を見つけて、ピンポンをはじめることになるのだが、次から次へとさまざまな人々のさまざまなエピソードが、脈略なく、と思えるほど唐突に、挿入されてなかなか物語は進まない。

 卓球用品店の「セクラテン」による卓球史の語りから、コンビニを経営している夫婦の揉めごと、ハレー彗星を待ち望むひとびと、はてはモアイの従兄がファンだというアメリカの作家ジョン・メーソンの小説が語られたりもする。

 たしかに『カステラ』でも、リアリズムから離れた奇抜な展開があったけれど、短編なので取り残されるほどではなかったが、こちらは話を追うのが少々しんどくなるところもあった。
 
 物語は最後まで失速することはなく、これまた唐突に、「釘」はピンポンを通じて、大きな選択を迫られる。最後の「釘」の選択は、小説のよくある方程式のようなものから外れているかもしれないが、前半にもこうしっかり書かれていることを考えると、この小説を貫く価値観として理解できる。 

理由はただひとつ、僕が誰とも
意味のある関係を
結びたくないからだ。ほんとに、いやなんだ。
人間とは誰とも関係を持ちたくない、関係されたくないし、関係したくないんだ。頼むからって感じだ。なのに何で、なのに何で――僕をほっといてくれないんだ? 

  ディストピア世界を描き、最後に選択を迫られる小説というと、王城夕紀の『マレ・サカチのたったひとつの贈り物』もそうだ。 

マレ・サカチのたったひとつの贈物 (中公文庫)

マレ・サカチのたったひとつの贈物 (中公文庫)

 

  マレ・サカチこと坂知稀は、突然ちがう場所にワープするという(テレポーテーションというのか)「量子病」におかされている。

 いつ、どこに、移動するのかは自分では制御できない。日本の田舎町に行くこともあれば、マンハッタンの繁華街に現れることもあり、灼熱の砂漠に着いたと思えば、極寒の北極圏に跳んでしまうこともある。青い服だけが、動きをともにすることができる。つまり、それ以外の服を着ていたら、裸になってどこかで出没してしまうのだ。そして、行く先々でさまざまなひとと出会い、否応なしに別れていく。

 そんな坂知稀が生きている世界は、資本主義が極度に進んで格差が広がり、一度目のワールドダウンを経て、二度目のワールドダウンを目前にしている。テロとデモが止むことはなく、ひとびとはネットに逃げ場を求めるようになる。 

「これはネット上というフロンティアを急速に拡大させて、永遠の楽土資本主義を現実化するための装置なんだ」ネット上なら、物語も欲望も無限に広げられる。フロンティアは無限だ。人間に欲望がある限り、資本主義は死なない。

  最後に、坂知稀もとある選択を迫られる。この選択は倫理的にもコレクトのように思えるが、コレクトであることが小説の価値になっているわけではなく、量子病ゆえに断片的な出会いと別れをくり返してきた坂知稀が全編でしっかり描かれているから、小説として説得力があるのだろう。 

そしていつか、貴方が見てきたもの、貴方だけが見てきたもので、新しい選択をするの。

  けれども、実生活においては、選択って迫られたくないものですね。すべて流れのまま、なんとなく、なしくずし、という「三な主義」が一番いい処世術のような気がする。