快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ウンゲツィーファーって? カフカを読んでみた① 『変身(かわりみ)』 多和田葉子訳

  先日刊行された、集英社のポケットマスターピースから、多和田葉子訳による、カフカ『変身(かわりみ)』を読んでみた。 

  まず、これまでの訳と大きく違うところは、ザムザが変身するのが、“虫”でも“毒虫”でもなく、“ウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)”とされているところだ。うーん、正直、いままで“虫”――芋虫や毛虫のような――のイメージが強かっただけに、このなんとも言えない単語に違和感があるのは否めない。


ただ、沼野充義の対談集『世界は文学でできている』によると

たいていの翻訳にはこの『毒虫』という言葉が使われているのですが、これは原文ではUngezieferで、辞書を見るとわかるように『有害小動物(昆虫も含む)』全般――つまり、ネズミ、ゴキブリ、ノミ、シラミなどを広く意味する単語で、ある特定の虫を指し示しているわけでもないし、そもそも単語の中に『毒』を意味する要素が入っているわけでもありません。ですから、それを『毒虫』と訳してしまうと、読者に最初からいきなり先入観を与えてしまって、あまりよくないのではないかと思います

とのことで、事実、カフカは「変身」を出版する際、虫になったザムザのイラストを表紙にしようとした出版社にたいして断固として反対し、変身後のザムザの姿は決して描かないようにと取り決めをかわしたらしい。とすると、このわけのわからない“ウンゲツィーファー”がふさわしい言葉なのかもしれない。 

世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義

世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義

 

  で、話を進めると、この『変身』をはじめて読んだのは学生のときで、そのときは、ただ “虫に変身するという話” として、えらい奇妙な話を思いつくもんだな、くらいの感想だった。が、いま読むと、冒頭部で虫に変身することよりも、そんな姿になりつつも、会社に遅刻する! どうしよう、と頭がいっぱいになっていることが身につまされる。なにしろ、「数時間寝坊しただけで罪の意識に悩まされ気も狂わんばかりになって寝台を出ることもできなくなる」のだ。
 もちろん、ここには労働保険局でしこしこと働いていたサラリーマンであったカフカの悲哀が強く感じられる。それにしても、ちょっと姿が見えないと、支配人が家まで迎えにきて恫喝するって、当時のブラック企業ではよくあることだったのだろうか。


 そして、ザムザが遅刻したらどうしよう、会社をクビになってしまうと思い悩むのにも理由がある。この一家は、父親の会社が潰れた五年前から、ザムザの収入のみに頼って暮らしていたのだ。ザムザは一家の破産状態を救うため、「火がついたみたいに必死で働き始め、ほとんど一晩のうちに派遣社員から出張の多いセールスマンに昇格し」(って、現在の雇用状況とくらべると、夢のような話ですね)、けれども「そのうち家族はグレゴールから生活費をもらうことにすっかり慣れてしま」ったのだった。


 しかし、そのザムザが見るのも忌まわしい虫に変身し、仕事に行くことも不可能になると、家族はザムザを心配することもなく、一家の稼ぎ手から、汚らわしい厄介者へとあっさり転落する。この本の多和田葉子と川島隆の解説では、ここに介護問題を読み取っている。

 介護問題もたしかに気になるが、なにより興味深かったのは、ザムザが必死で働いているときは、まったくの無能だった父親が、守衛や朝食運びの仕事をはじめ、家にいた母親も、縫い子や洗濯の職につき、音大に行ってヴァイオリンの勉強をしたいとか言っていた妹も、就職して朝から晩まで働くようになり、ザムザの変身をきっかけに家族全員が立派に自立を果たすことだ。ザムザは、自分の存在意義はもうないと心底理解して、汚物にまみれて息を引き取る。
 
 厄介者が片付いた家族三人は何ヶ月ぶりかに外出して、「それぞれ悪くない職についているし」「かなり有利な条件」である現状に安堵して、明るい未来へと思いをはせる、「ハッピーエンド」を迎えるのであった。こんな奇妙に明るいラストだなんて、すっかり忘れていた。
 先にも書いたように、ザムザは、サラリーマンであり実際に妹がいた作者カフカの分身だと考えてよいだろう。なのに、こんな話を書くって、ほんといったいなにを考えていたのだろうか。引き続き、カフカを読んでいこうと思います。