快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

サバービアで生きる女たち――『キャロル』(パトリシア・ハイスミス)@読書会に行ってきました 

 さて週末は、前にもここで紹介した『キャロル』の読書会に行ってきました。
 訳者の柿沼瑛子先生をはじめ『キャロル』の映画を5回以上見たという方も何人かいらっしゃって、みなさんの愛と熱意があふれる会になりました。
 柿沼先生はゲストとして参加してくれるにとどまらず、去年の『まるで天使のような』の読書会でもそうでしたが、ご自身でレジュメまで作ってきてくれて、ほんと素晴らしいな~とあらためて思いました。 

キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

 

  そのレジュメのなかで、とくに印象に残った箇所は、戦争が終わり、平和で豊かな時代だったはずの1950年代に、サバービアで生きる女性たちが感じていた閉塞感、絶望の深さだった。少し引用させて頂くと(許可をとってませんが…)

当時の為政者は社会を安定させるために「家族の価値」(family value)を第一に置き、そこから逸脱する者は規範を乱すものとして社会的に罰せられました。

  なんだか、どこかで聞いたことあるような話ですね。

 また、こちらの日本翻訳大賞の「中間報告会レポート」では、岸本佐知子さんが『キャロル』について、このように語っています。

テレーズのデパートの同僚とか、出てくる女の人が、もうみんな、居場所がないんです。家庭にも、社会にも、職場にも居場所がない。そこで足掻いている切なさと息苦しさがすごく伝わってきて。

 

besttranslationaward.wordpress.com

 そして、レジュメでおすすめの関連書籍としてあげられていたのが、『サバービアの憂鬱』。残念なことに、もう入手不可能のようですが、こちらのサイトで内容がアップされています。

+++ 大場正明『サバービアの憂鬱』 イントロダクション+++

 目次を見ただけでも、「アメリカン・ドリームの向こう側」として語られるジョイス・キャロル・オーツに、「中流の生活を見つめる」レイモンド・カーヴァ―……と、ものすごく読んでみたくなる。
 映画『シザーハンズ』は正直、若き日のジョニー・デップと、金髪だったウィノナ・ライダーの麗しい姿しか印象に残っていないが、たしかに郊外が舞台だったような気はする。


 あと、この岸本さんの選評で、映画『キャロル』には、この時代の女性の閉塞感の象徴のようなミセス・ロビチェクが出ていないことを知り、非常に残念だった。
 けど、若い女性から見れば、ミセス・ロビチェクのような女性は、孤独と絶望の象徴のように感じられるのかもしれないが、実は本人はそれなりに楽しく、家でドレスをうっとりと眺め、たまに職場の後輩を家に招き、満足した「おひとりさま」生活を送っているのではないかと、テレーズとミセス・ロビチェクの間の世代(めちゃざっくり言うと)の私は考えます。


 読書会で先生が教えてくれたことによると、テレーズ同様に、ハイスミス自身も複雑な環境で育ち、親に愛されなかったというトラウマを抱えているため、母親に対して激しい愛憎があり、それが母親世代の女性に対する厳しい見方、この小説で言うと、ミセス・ロビチェクへの当初の異様なまでの嫌悪感につながっていると考えられるとのことだった。
 先日取り上げた『見知らぬ乗客』で、父親を憎みつつ、年上の同性ガイに執着するブルーノとも共通するものがあるように感じられた。


 ところで話はそれますが、この日本翻訳大賞の記事、ものすごく読み応えがありますね。
「よい翻訳とはなにか?」「作品のおもしろさと切り離して翻訳のよしあしについて語れるのか?」「そもそも原文がわからないのに翻訳がいいか悪いか言えるのか?」
など、根源的な論点についてのやりとりも興味深いし、おなじみの「わし問題」「わよ問題」も参考になる。
 しかし、柴田元幸さんの「本当に(わしって)言う人知ってます?」という問いかけに

岸本 意外と女子が言います。
米光 ぼく広島なんで、10代から「わし」ですけどね。

 って答えてるのが、おもしろかった。女子、たしかに言いますね。


 読書会の『キャロル』の資料には、町山智浩さんの映画評がつけられていて、そのなかで、キャロルのモデルになった実在の女性も、ハイスミスの最初の女性の恋人だった女性も結婚して、表面的には当時の社会通念にあわせて生きていたけれど、最終的にはふたりとも、自殺、あるいはアルコール中毒での早すぎる死を迎えたことが書かれていた。

 やはり自分の本心を隠し、愛を押し殺して生きることは、短期間ならなんとかやり過ごせても、それを何年も続けるのは、比喩でもなんでもなく、ほんとうに自分の命を損なうことになるのだなと思った。

 翻訳は愛だというのはよく言われることですが、この『キャロル』はその内容だけでなく、作品の成立、そして翻訳に至る過程も、愛にあふれた本だということをあらためて感じました。