快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

12/23 柴田元幸公開講座「あまりアメリカ的でないアメリカ人芸術家たちについて-小説、詩、写真、漫画」@神戸市立外大

 さて、10月の枚方蔦屋書店での柴田元幸さんのトークイベントで、「レベッカ・ブラウンとの朗読会に参加できなくて残念だった」とお話ししたと書きましたが、それからすぐに、「柴田元幸×内田輝/レベッカ・ブラウン『かつらの合っていない女』刊行記念ツアー」が関西でも行われることになり(without レベッカ・ブラウンですが)、さっそく申し込みました。

続いて、同じ日に神戸市立外大で「あまりアメリカ的でないアメリカ人芸術家たちについて-小説、詩、写真、漫画」という公開講座もあると知り、せっかくなので二本立てで参加してみました。

 神戸市立外大は、周囲でも卒業生の人がいるので行ってみたいと前から思っていたが……やはり遠かった。
 三宮から地下鉄なのだけど、地下鉄と言いながらどんどん山奥に入っていくので、途中で何回か駅を乗り過ごしていないか確認した。そして、え、ここも神戸市なの? と思うところに到着。確実に街中より気温が低かった。


 しかしそんな遠方の地でも、公開講座は机が足らず、教室の後ろに椅子を並べるほどの満員でした。

 最初はチャールズ・レズニコフの詩の朗読。チャールズ・レズニコフはポール・オースターが敬愛する詩人で、『空腹の技法』でも取りあげられていた。 

空腹の技法 (新潮文庫)

空腹の技法 (新潮文庫)

 

  朗読された詩の内容は、アメリカで外国語を話すふたりが、「アメリカ語を話しなさいよ」と白人に絡まれるというもので、ちょうど最近も同様の事件が現実におきたところだ。

headlines.yahoo.co.jp

 あとの質疑応答でもその話題が出て、社会が進歩した面ももちろんあるけれど、チャールズ・レズニコフが詩を書いた時代よりひどくなっていることも(大統領をはじめ)いっぱいあると、柴田さんも話されていました。


 次はジョゼフ・コーネル(若き日の草間彌生との写真で)、リチャード・ブローディガン、ソール・ライターを紹介。三人とも、アメリカのマッチョ思想から遠く離れたところで創作活動を行ったと解説。リチャード・ブローティガンは『アメリカの鱒釣り』の表紙に自分の写真を使ったりと、やたら出たがりではあるが。 

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

 

 三人の共通点は、車の運転をしなかったことらしい。ニューヨークだけで生活するならともかく、アメリカで車が乗れなかったら、行動が大きく制限されるのにもかかわらず。
 たしかに、リチャード・ブローティガンといえば西海岸のイメージがあるけれど、あそこで車がなければどうしていたんだろう?(ま、私は行ったことがないので、あくまで脳内妄想での西海岸ですが)


 それから、1910年代の新聞漫画の紹介。グスタフ・ヴァービークのさかさまマンガに感嘆しました。
 逆さ絵はご存じの人が多いでしょうが、マンガのコマで逆さから読めるってすごい。6コママンガかと思いきや、6コマ目でさかさまになって1コマ目に戻るので、実は12コママンガになるのです。
 思い出したら、こないだの枚方蔦屋のイベントで、次号の『MONKEY』は絵を特集するとおっしゃってたので、掲載されるのではないでしょうか。

 あと、ジョージ・ヘリマンのKRAZY KATもおもしろかった。トムとジェリー、プラス犬のおまわりさんみたいな話。(よけいわかりにくいか)KRAZY KATのウィキペディアをいま見たら、E・E・カミングスが大ファンで序文を寄せたりしているそうだ。


 絵といえば、もちろん外せないのがエドワード・ゴーリー。まだ訳書が出ていない『The Gilded Bat』を紹介してくれました。そういえば、柴田さんのパソコンの壁紙もエドワード・ゴーリーでした。

 去年エドワード・ゴーリー展が行なわれた伊丹市立美術館(すごく素敵な美術館ですね、と柴田さん。私も激しく同意)で、もうすぐソール・ライター展が行なわれるとのことで楽しみだ。


 そのあとは、再びチャールズ・レズニコフの朗読。なんでもレズニコフは判例を編集する仕事をしていたらしく、実際の事件にインスパイアされた作品も多いそうだ。といっても、殺人事件のノンフィクションなどではなく、ホームレスなど街に暮らす人々の行き交いをささやかに綴った詩。


 質疑応答の時間では、ポール・オースターの魅力とオースターが一貫して伝えようとしていることについての質問が出ました。

 魅力は、まずはやはり文章とのこと。冒頭から核心をつき、物語を推進する力が卓越しているとのこと。
 また、小説においては、作者が「伝えたいこと」を想定して書いているわけではないが、一貫するテーマのようなものはあると説明したうえで、オースターの場合は、キャリアの前半においては、「自分の核心にたどりつくためにすべてを失う物語」がくりかえし描かれていたと語られました。


 次の質問は、そのオースターも、ソール・ライターもユダヤ人だが、ユダヤ人であることの意味とは? と。

 柴田さんがオースターに会ったときも、ずばりその質問をしたそうですが、ユダヤ人であることは常に「周辺」に存在するということらしい。どこへ行ってもアウトサイダーだと。

 自分は世界の主人ではないという意味で、アメリカ的なもの(『白鯨』のエイハブ船長のような)の対極になるとのこと。ちなみに、アメリカの小説は『白鯨』のエイハブ船長とイシュメイルのように、アメリカ的なものとその対極を描くことが多いと話されていました。 

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 

  そして最後は、スティーヴン・ミルハウザーの『ホームラン』という詩の朗読。これが冗談みたいな詩で笑えました。
 ミルハウザー氏、以前東大で見たときは、それこそ野球の対極、極北に存在するような文学者といった雰囲気でしたが、なにを思って(いや、いい意味ですが)この詩を書いたんだろう。

で、レベッカ・ブラウンの朗読についても書こうと思ったが、案の定長くなったので、以下次号で。。。