ひとりでも多くのひとに知ってもらいたい『THE LAST GIRL――イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』(ナディア・ムラド 著 吉井智津 訳)
ナディアは、ISISによって連れ去られ、フェイスブック上に開設された市場で、ときにはたったの20ドル程度で売買された数千人のヤズィディ教徒のひとりだった。ナディアの母親は、80人の高齢女性たちとともに処刑され、目印ひとつない墓穴に埋められた。彼女の兄たちのうち6人は、数百人の男性たちと一緒に、一日のうちに殺された。
――アマル・クルーニーの序文より
さて、今週はノーベル賞ウィーク。前回もちらっと書きましたが、今年のノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラドさんの『THE LAST GIRL――イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』を読みました。
THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―
- 作者: ナディア・ムラド,吉井智津
- 出版社/メーカー: 東洋館出版社
- 発売日: 2018/11/30
- メディア: 単行本
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それにしても、自分が何も知らないということは知っていたつもりだったけれど、こういう本を読むと、思っていた以上に自分は何も知らないのだということをつくづく思い知らされる。
この本の語り手であるナディアはヤズィディ教徒として生まれ、イラク北部の小さな村コーチョで育った。
実はヤズィディ教というのも、この本を読むまで知らなかったのだが、中東に古代から伝わる宗教のひとつで、クジャクを天使とする教義は口承のみで伝えられている。
他教からヤズィディ教への改宗も許されないため、イラク国内においても少数派である。(世界全体でヤズィディ教徒は100万人程度とのこと)コーチョにはヤズィディ教徒約200家族が暮らし、まるで村全体がひとつの大きな家族のようだった。
圧倒的な多数派であるイスラム教信者のアラブ人やクルド人からは、長きにわたり迫害されてきたが、その一方、学校や交易などを通じてイスラム教信者と友情が生まれることもあり、平和な時代においては、周囲とも良好な関係が保たれ、おおむね平穏に暮らしていた。
ところが、イラクの平和は瞬く間に失われた。
いや、ナディアにとっては存在しなかったとも言える。93年生まれのナディアにとって、戦争が終わることはなかった。イラン・イラク戦争、サダム・フセインによる専制、そしてクウェート侵攻、湾岸戦争……。
サダム・フセインはクルド人を迫害し、ヤズィディ教徒にはアラブ化を強制し、アイデンティティを奪おうとした。湾岸戦争後の海外からの経済制裁によって苦しめられたのは、当然ながらサダム・フセインではなく、イラクの一般庶民だった。
その後、2003年にアメリカがバグダッドに侵攻し、サダム・フセインが政権から追われると、クルド人とヤズィディ教徒は解放されたかのように思えた。携帯電話を入手し、衛星放送を見ることができるようになった。アメリカ資本によって、クルド人はどんどんと豊かになり、ヤズィディ教徒の暮らしも楽になると期待した。
ところが、富と自治政府を手に入れたクルド人とヤズィディ教徒が結びつくのを、スンニ派アラブ人は快く思っていなかった。
サダム・フセイン政権の恩恵を受けていたスンニ派アラブ人は、アメリカの侵攻後はシーア派に権力を掌握されて没落し、怒りの矛先をヤズィディ教徒に向けるようになった。
2007年にはヤズィディ教徒を狙ったテロが起き、800人という史上二番目の犠牲者を出した。そうして、イラク国内のヤズィディ教徒が迫りくる危険を感じているなか、どんどんとISISは勢力を拡大していった。
2010年の議会選挙から数か月後にアメリカ軍が去ったあと、国内のグループが権力争いを始めた。毎日のようにイラクの至るところで爆弾が爆発し、シーア派の巡礼者やバグダッドでは子供たちも命を落とし、私たちがアメリカ侵攻後のイラクの平和に対して抱いていたどんな希望も引き裂かれてしまった。
状況の説明だけで長くなってしまったが、「イスラム国の奴隷になった女性の物語」というと、いったいどんなふうにイスラム国に襲われてさらわれたのか、連れていかれた先ではどんな目にあったのか、どうやってそこから脱出したのかがメインテーマのように思えるけれども、この本全体を読んで一番印象に残ったのは、ISISに襲われるまでの、平和で愛情に満ちた家族の暮らしだった。
先にも書いたように、ヤズィディ教に他教から改宗することは認められていない。親から子へ伝えるしかない。ということは、子供をたくさん産まないと廃れてしまうのだ。
ナディアの家も例外ではなく、末っ子であるナディアには10人の兄と姉がいる。母は父の二番目の妻なので、腹違いの兄と姉も4人いる。
父はナディアが生まれてまもなく、新しい女性を家に入れるようになった。案の定、その女性が父の新しい妻となり、母は金も土地もろくに分けてもらえないまま11人の子供たちとともに捨てられ、一家は父の土地の外れにある粗末な小屋での生活を強いられる。
しかし、母はどんなに大変な状況であっても冗談に変えてしまう明るさを持っていた。11人の子供を養うために朝から晩まで働きどおし、子供たちの服も手縫いし、兄たちも母や姉たちと一緒にほかの家の畑を耕したり、ときには井戸掘りなどもして、なんとか生計を立てた。
経済制裁が厳しかったときも、母は大麦をお菓子に交換してもらったり、衣料品をツケで売ってもらうよう頼みこんだり、子供たちにみじめな思いをさせないよう必死だった。
アメリカ軍の侵攻後、ヤズィディ教徒も公職に就けるようになり、兄たちが警察などの安定した職を得たことで、一家は小屋から出て、自分たちの家を持てるようになった。
これまでひたすらに頑張ってきた母がようやく報われるときがきた。
そんなときだった。ISISがコーチョの村を襲ったのは。
21年のあいだ、私の母はいつも毎日の中心にいた。毎朝早く起きては、中庭の窯のまえで低い椅子に腰を下ろし、パンを焼いていた。丸めた生地を平らにして、窯の内側にたたきつけ、気泡ができるまで焼き上げ、黄金色に溶けた羊のバターをつけて食べられるよう準備をするのだ。
村にやって来たISISの戦闘員が、村人全員に学校に集まるよう命令したとき、ナディアはパンをビニール袋に入れて携える。お腹が空いたときのためだけではない。(最初私は「たしかに、腹が減っては戦も何もできへんからな」と思ってしまったが)
パンは祈りなのだ。
パンはもう干からびて固くなり、埃や糸くずにまみれていた。私たち家族を守ってくれるはずのものなのに、守ってくれはしなかった。
そのあと、ISISによって家族や親戚と引き裂かれ、トラックの荷台につめこまれたナディアはこう思う。
そしてパンを投げ捨てる。ナディアからすると、たしかにそのとおりだ。
けれども、母はきっとこう思っているだろう。パンがナディアの命を救ったのだと。
ISISが支配するイラク第二の都市モースルでナディアの身におきたことは、言うまでもなく想像を絶するむごたらしさだ。しかし、ナディアも語っているように、それと同じくらい、町の人々の様子もおぞましく感じる。
目の前でISISによってサビーヤ(性奴隷)にさせられる女たちがトラックで運ばれているのに、見て見ぬふりをする一般市民たち。隣の家に、なんなら自分の家にサビーヤが連れこまれていても、同情の色を浮かべることもない(ように思える)女たち。
なぜ女たちまでもがジハーディストたちと一緒になって女性の奴隷化を大っぴらに祝うことができるのかは、私には理解できなかった。イラクに住む女性が手に入れてきたものには、宗教に関係なく、どの人も苦しい戦いを経ないものはなかった。議会における議席も、生殖に関する権利も、大学における地位も。これらはみな、長きにわたる戦いの結果として女性たちが手にしてきたものだ。
読んでいるともちろん、なんてひどい……と怒りと悲しみを覚える。
だが、いざ自分だったら、自分の身の危険もかえりみず、囚われた者を救おうと動けるだろうか? 正直、自信がない。
とはいえ、こんな異常な状況に適応できる気もしないが、戦時下では、かつての日本人もそうだったように、あらゆる感覚が麻痺し、相手も同じ人間だということがわからなくなるのだろう。自分だっていつ命が奪われるかわからない事態なのだから。
けれども、なかにはほんとうに自らの危険もかえりみず、囚われた者に手を差し伸べるひとたちも存在する。
ナディアもそうして救われるのだが、この脱出場面はかなりスリリングなのでぜひ読んでみてほしい。もちろん、いま彼女は生きて活動しているので、脱出に失敗して処刑されたり、イスラム国に戻される話ではないとわかっているのだが、それでもなお緊迫感に満ちている。
この本は、ナディアの話をライターがまとめたもののようだが、先に書いたISISに襲われるまでの家族の暮らしぶりにしても、イスラム国に捕えられてからにしても、情景がありありと目に浮かんできて、ただの「勉強になる本」ではなく、読みものとしても価値が高い。
この本を読んでいるあいだ、以前ここでも紹介した『死体展覧会』(ハサン・ブラーシム著 藤井光訳)を思い出した。『死体展覧会』で描かれていたイラクの凄惨な日常はフィクションではあるが、この『THE LAST GIRL』を読むと、現実と地続きであることがよくわかる。
2018/02/18 柴田元幸×藤井光「死者たち」朗読&トーク@恵文社『死体展覧会』(ハサン・ブラーシム 著 藤井光 訳) - 快適読書生活
なんとか助かったナディアだが、最初は自分の体験を話すことができなかった。同じく生き残り、ようやく再会した家族の前でも口にできず、ただ毎日泣き暮らしていた。
しかし、テロリストが犯した罪を罰するためには、どんなにつらくても自らが語らないといけないと決心する。
きっと神には私を助ける理由があり、ヤズダの活動家と出会わせる理由もあったのだと思う。だから私はこの自由を当然のものと受け止めはしない。…… 私たちは、彼らの犯罪に対して、報いのないままにさせておかないことで、彼らに挑んでいく。私が自分の体験をどこかで話すたび、テロリストからいくらかでも力を奪っているように感じている。
戦争、宗教間の争い、マイノリティへの差別、性暴力…… 簡単には語ることのできない重要な問題が、この本にはいくつも含まれている。
まずは知ること――世界のどこかでこんなことが起きていたなんて、自分は何も知らなかった――ということを知ることが、最初の一歩になるはずだ。
ひとりでも多くのひとに知ってもらうために、ノーベル平和賞も与えられたのだろう。その取っかかりとして、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。