快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

私たちはみな、ポムゼルではないのか?『ゲッベルスと私――ナチ宣伝相秘書の告白』(ブルンヒルデ・ポムゼル, トーレ・D.ハンゼン, 石田勇治監修, 森内薫,赤坂桃子訳)

ブルンヒルデ・ポムゼルは政治に興味はなかった。彼女にとって重要なのは仕事であり、物質的な安定であり、上司への義務を果たすことであり、何かに所属することだった。彼女は自身のキャリアの変遷について非常に鮮明に、詳細に語った。だが、ナチ体制の犯罪に話が及ぶと、彼女は自身の個人としての責任をいっさい否定した。

    少し前に映画も話題になったこの『ゲッベルスと私――ナチ宣伝相秘書の告白』は、ナチスドイツの宣伝省でヨーゼフ・ゲッベルスタイピスト兼秘書をつとめた、ブルンヒルデ・ポムゼルのインタビューから構成されている。

 ヒトラーゲッベルスが自殺してナチスドイツが崩壊し、第二次大戦が終結してから七十年近く沈黙を守っていた彼女が、百歳を過ぎてようやくインタビューに応じたのである。 

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

 

 しかし、そこに新鮮なおどろきや、誰も知らなかった事実、ナチスドイツの真実の姿はない。ただ、とりたてて政治に興味のないごくふつうの若い女性が、生活のため懸命に仕事をしていたら、その仕事ぶりを買われて当時最高峰の職場――ナチスドイツによる国営放送局――を紹介され、出世の階段をのぼっていったというだけだ。 

1933年より前は、誰もとりたててユダヤ人について考えていなかった。あれは、ナチスがあとで発明したようなものだった。ナチズムを通じて私たちは初めて、あの人たちは私たちとちがうのだと認識した。何もかも、彼らによってのちに計画されたユダヤ人殲滅計画の一部だった。私たちは、ユダヤ人に敵意などもっていなかった。(ポムゼルの語り)

  「誰も」ユダヤ人について考えていなかったのかはわからないが、実際ポムゼルには仲のいいユダヤ人の友達エヴァもいた。なんと仕事のためにナチスへの入党手続きに行った際にも、エヴァに付き添ってもらっている。ナチスの宣伝省で働き出してからも、エヴァの家に遊びに行っていた。
 
 ポムゼルは国営放送局で働く前には、午前中はユダヤ人のゴルトベルク博士のところで働き、午後はナチのヴルフ・ブライのところで働くという生活を送っていたこともあり、ユダヤ人の恋人との別れも経験している。

 では、なぜナチスドイツに最後まで忠実だったのか? 

 ポムゼルは何も知らなかったと強調する。強制収容所が作られはじめたのは知っていたが、犯罪者が矯正のために送られるのであろうとぼんやり考えていた。ナチがユダヤ人の商店を襲撃したときは衝撃を受けたが、事態が落ち着くと、日常生活に戻った。
 そして、宣伝省での情報は、ゲッベルスとその側近によって厳重に管理されていて、その内容を深く知ることはできなかった。知ろうとも思わなかった、と。

 このなかで一番印象的だったエピソードは、戦争の末期、ナチスドイツが破滅する直前の出来事だ。1945年4月、ベルリンの上空には爆撃機が飛び交うようになり、ソ連軍の侵攻が刻一刻と近づいていた。

 ゲッベルス邸で仕事をしていたポムゼルのもとに、ゲッベルスの側近のひとり、コラッツ博士がやって来る。コラッツ博士は状況がこれ以上悪化する前に、ポツダムにいる妻子に別れを告げると話す。そして、ポムゼルの両親もポツダムにいることを知っていたので、一緒に家まで連れていくと申し出る。ポムゼルも両親の顔を見たいので有難く誘いに乗り、コラッツ博士はまた夜に迎えに来ると約束して去る。

 ところが、コラッツ博士は迎えに来なかった。約束の7時を過ぎ、8時になっても9時になっても。翌朝になっても。ポムゼルはパニックに陥る。 

私にはなすべき仕事があった。そして私は職場のチームの一員だった。だから戻らなくてはならなかった。ぜったいに、帰らなくてはならなかった。 

 ナチスドイツの崩壊の直前に、宣伝省でいったい何の仕事をしないといけないのか? 

 傍から見るとそう思う。本人もあとから振り返るとそう思ったことだろう。おそらく、割り当てられたタイプ打ちが残っているとか、会議資料を作成しないといけないといった程度だろう。数日後にはベルリンが爆撃され、なにもかもが無くなってしまうというのに。

 けれども、ポムゼムは「ほんとうに帰らなくてはいけない?」と聞く母親をふりきって、奇跡的にまだ運行していた電車に乗って、ベルリンに戻る。仕事があるから。

 なんとか宣伝省に戻ったものの、空襲が激しくなったためタイプどころではなくなり、宣伝省の防空壕に入る。そこで最後の最後まで、ドイツ軍(といっても、即席で年少者をかき集めたヴェンク軍しか残っていなかった)が迫りつつあるソ連軍を打ち負かすことを、「愚かにも」期待しつつ終戦を迎えるのであった。

 結局ポムゼムは防空壕ソ連兵に捕えられ、ソ連の収容所に5年抑留させられる。あのときベルリンに戻らなければ、民間人として無事に終戦後の日々を暮らすことができただろうに。

 とはいえ、あんな状況でも「仕事に戻らないと」と必死になるポムゼルを、他人事だと思えるだろうか? アホやなって笑えるだろうか? 私は笑えない。

 ちょうど先日、関東で台風が直撃した直後、すぐさま会社に向かう人たちによってパニックが発生していたが、その気持ちは理解できる。去年、大阪北部地震のときも、超大型台風に襲われたときも、まっさきに頭に浮かんだのが、きょうは会社に行かなくていいのか? ということだった。

 ふだんも通勤時間に電車が遅れたら、「延着証明もらわないと遅刻になる!」と、あわてて駅員のもとに向かってしまう。うっかり忘れてしまい、一駅戻ってもらったこともあった。(うちの職場はwebのものはNGで、配られる紙をもらわないと認められない)

 わかっている、こういう精神が一切の思考停止を生み、会社や上司への無条件服従につながるのだろうということは。ポムゼムの場合は、その「会社や上司」が、たまたまナチスドイツであったのだろう。

 ポムゼムはナチスの思想に共感していたわけでもなく、宣伝省の仕事については、単調でおもしろくなく、やりがいが感じられる職場ではなかったと語っている。
 けれども、それを失いたくなかった。そこでの自分の評価を落としたくなかった。
 もちろん、生活の安定といった物質面も大きかっただろうが、それだけではないように思える。ナチスドイツという「エリート」から落ちこぼれたくないという心情、帰属や承認の欲求、居場所の問題……誰でも身に覚えのある感情だ。
 

 このドキュメンタリーを見た編集者は、「私たちはみな、多かれ少なかれポムゼルではないのか?」と問いかける。 

そして何百万人ものポムゼムの――自分の出世と物質的保証ばかりをいつも考え、社会の不公正や他者の差別を受け入れてしまう人間の――存在は、人々を巧みに操る権威主義体制の強固な土台にほかならない。だからこそそうした人々は、過激な党に投票する急進的で強硬路線の有権者よりよほど危険なのだ。

  いったいどうしたら、自分の中のポムゼムを克服することができるのか? どうすれば世間の潮流や価値観に抗い、自分の生活が危険にさらされようても、内なるモラルを大事にすることができるのだろうか? 尋常ではない勇敢さが必要なのだろうか? 
 でも誰もがみな、人並み以上の勇気を持つことなんてできない。(そもそも、誰もが「人並み以上」になることは、語義としてもあり得ないが)

 簡単に答えは出ないけれど、まずはひとりひとりが自分のことを大切にすることが重要なのかもしれない。自分より他人を大切にすべきだって? いや、それはそうかもしれないけれど、自分のことも大切にできないひとが、他人のことを思いやるなんてそうそうできない。

 自分のことを大切にできないから、自分の軸が消え、他人からよい評価を得ることがなによりも大切な生きがいとなる。すると、自分の評判を守るためなら、まわりでどれほど理不尽な事態やあからさまな差別が横行していても、見て見ぬふりをする……となるような気がする。
 自尊心というのは、単なるプライドの問題ではなく、自分やまわりの他人を守るために欠かせないものなのだとつくづく思った。

 あの日迎えに来なかったコラッツ博士は、ナチス幹部の例にもれず、ポムゼムと別れて家に戻ったあと、妻と娘を銃で撃ち、自らも命を絶っていた。自分の命を粗末にするものは、他人の命も粗末にする。

 ユダヤ人の友達エヴァは、ある日突然姿を消した。おそらく強制収容所に送られたのだろうとのことだった。強制収容所がどんなところか知らなかった(と語る)ポムゼムは、危険なベルリンにいるより安全なのかもしれないと考える。エヴァは1945年にアウシュヴィッツで殺された。

 ナチスドイツのような悪夢と狂気は二度とくり返されるはずがない……と言いたいが、そう言い切れない雰囲気が世界中に、そして日本にも漂っている。自分は加害者に加担することが絶対ないと言い切れるのか、常に心に留めておかなければならないと思った。