Let's line up all the white pandas とは? log in now: love ロバート キャンベル『井上陽水英訳詞集』
What is it you’re looking for?
Something hard to find?
In your bag, through your desk
You looked but can’t find it.
さて、この歌はなんでしょう?
そう、おなじみ「夢の中へ」です。ロバート キャンベル『井上陽水英訳詞集』より。
この歌を訳すにあたり、キャンベルさんはまず「『夢』というのは誰のものなのか」を考えたらしい。
日本語なら、「属人的な言葉を添えなくてもイメージが浮かぶ」が、英語の場合、Into Dreamsと翻訳することはできても、その場合「現実を夢に変換すること」になってしまう。なので、英語では「誰の」夢の中へ入るのか、はっきりさせないといけない。
また、「あまい口づけ/遠い想い出/夢のあいだに/浮かべて 泣こうか」とはじまる「いっそセレナーデ」では、「歌っているのがI=私なのか、We=私たちなのか」が気になり、陽水さんと交わした議論も書かれている。 (しかし、陽水さんのセリフは、完璧にあの声で脳内再生されますね…)
陽水 いや、さすがですね。僕は三十数年、この歌とつきあっていますけれども、これはひとりで歌っているのか、ふたりで歌っているのかなんて考えてみたことなかった。でも、確かにこれは「浮かべて 泣こうか」とか「探してみようか」とか、ふたりの感じはちょっとありますね。
日本語と英語は異なる言語構造を持つので、まったくの等価のまま移し替えることはできない。
というのは、小説など散文の翻訳にもあてはまることだが、詩・詞となると、ストーリーというより言葉のイメージの集積でできあがっているので、そもそも翻訳が可能なのか? という疑問も生まれる。
経験的に言って、詩や詞を翻訳する場合、どうしてもその多義性を削ぐ方向で訳さざるをえない。…… 無理に多義的に訳そうとしても、どの「義」もうまく伝わらない(要するに、さっぱりわからない)訳になってしまうのが関の山である。
と、柴田元幸さんも『ぼくは翻訳についてこう考えています』で、詩・詞を訳すことの難しさについて語っている。(「16 絶賛された訳詞」)
しかし、この『ぼくは翻訳についてこう考えています』でも書かれているように、翻訳にあたってその「義」を絞りこむことで、あるいは、曖昧だった「義」を明確にすることで、失われるものもある一方、より心に訴えかけ、新たな感銘を生むこともあるのだなと、この『井上陽水英訳詞集』を読んであらためて感じた。もちろんこの本だけではなく、昔からの詩の名訳(それこそ上田敏や堀口大學の時代から)にも言えることなのだろう。
先の「夢の中へ」や「いっそセレナーデ」以外にも、「飾りじゃないのよ 涙は」の訳が「No Trinkets These Tears」とうまく頭韻を踏んでいることや、「傘がない」の切実さが英語でもじゅうぶんに心に響くということも印象深かった。
私の好きな曲「帰れない二人」が The Two Who Can’t Go Homeとなっていて、そう、home=帰るべきところを失った二人だと納得した。単に go back できないだと、道に迷ったかのように思われかねない。あと、「ワインレッドの心」の「もっと勝手に恋したい~」の訳にも感じ入ったので、気になる方は読んでたしかめてください。
詩・詞は意味やイメージだけではなく、「言葉の響き」も重要である。
この英訳は基本的にメロディーにのせて歌うためのものではないが、「アジアの純真」の歌詞はその多くが語呂合わせなので、Beijing Berlin Dublin Liberia~とそのまま歌いたくなる。
この歌は音に主眼をおいて訳し、「束になって 輪になって」も前段のbの音を受けて、bundle them upとしたとのこと。「聴かせて バラライカ」も aの音を活かすために play us your balalaikaと訳されている。ライブで聞いてみたい。
となると、ここに掲載されていないほかの歌ならどうなるだろう? とも考えてしまう。
たとえば、「ありがとう」なら Thank you でいいのか?
「微笑んでくれて どうもありがとう」は、Thank you for your smileになるのか?
そもそも「ありがとう」=Thank youで訳していいのか(その逆も然り)という、翻訳の基本の疑問が頭に浮かぶ。
この歌で考えると、「あ~りがとう~」という「あ」の音が要だと思うので、I appreciate とか、I am grateful とか、Iではじまる方がよいのだろうか? ビートルズ風に I’ve Got Appreciationとか?…など考えると楽しい。
この「アジアの純真」など、陽水さんの詞には語呂や音の響きを重視したものも多いが、もちろんそれだけではなく、「意味はできるだけ考えようとしている」と先の対談で語っている。
ボブ・ディランの歌詞のように、韻を踏み、言葉をどんどん連ねることで、「ええっ、そこで突然、そんな言葉が出てくるの?」と聞き手の意表をつき、しかしどれもけっして意味がない言葉ではなく、韻律と多義性がかけあわさることによって、よりいっそう豊かなイメージが喚起される、というのが陽水さんの作詞術のようだ。すぐれた詩・詞はすべてそうですね。
そんな詩・詞を翻訳することは可能なのか? いったいどうすればいいのか?
と、最初の疑問に戻ってしまうが、翻訳とは「翻訳された対象言語を読んだ人が、もともとある被翻訳の言語で読んだ人のそのときの情感に寄り添って追体験できるようにすべき」と考えるキャンベルさんは、できるだけ取りこぼすことなく、事象を足したり引いたりせず、原文をそのまま伝えるために、以下のようなやり方を記している。
翻訳する言葉について、多くの抽き出しを持ち、柔軟にトライできる気持ちをもつこと。モザイクのひとかけらをはめてみて、これは違うなと思えばはめ直してみます
これは翻訳のみならず、どんな文章を書くときにもあてはまる。読むと当たり前のように思えるが、「多くの抽き出し」「柔軟にトライ」というのがほんとうにできているのか考えると、なかなか難しい。
そして、しっくりくる言葉が見つからず、「これは違うな」と思うと、原稿を寝かせるとのこと。すると、「探すのをやめた時 見つかる事もよくある話で」となったりする。(必ずそうなればいいが……)
また、この本は、英語や翻訳、あるいは詩・詞についてだけではなく、キャンベルさんが日本に来てからの思い出、この英訳をはじめようと思い立ったきっかけなども綴られている。
谷崎潤一郎夫人の松子さんとともに、80年代の伝説のクラブであるツバキハウスに行ったエピソードや、キャンベルさんの専門である日本文学についてもかなり読みごたえがあり、学ぶところの多い一冊でした。