快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

勝手に考えた「コロナブルーを乗り越える本」『東京日記』(内田百閒)『だいたい四国八十八ヶ所』(宮田珠己)『雨天炎天』(村上春樹)

 「コロナブルーを乗り越える本」という集英社インターナショナルのサイトで、さまざまな作家や翻訳家の方たちが、「こんな時代だからこそ読みたい」本を紹介していて、これがかなり読みごたえがある。

www.shueisha-int.co.jp

 紹介されている本がどれもおもしろそうなので、紹介文を読んでいるうちに、そういえば同じ作者のあの本もこんなときにいいかも、いや、紹介者自身の本もいま読みなおすとまた新たな感想を抱けるかも……と、あれこれ思いがわきあがってきたので、ここで(某首相のように)勝手に便乗することにしました。

 まずこのサイトで、「いま読まないと!」と思ったのは、宮田珠己さん推薦の内田百閒『東京焼盡』。
 「当時すでに五十六歳だった百閒の飄々と生きるしたたかな姿に、生きてりゃいいんだ生きてりゃ、と背中をどやされたような気がする」という本書の魅力については、サイトを見てもらうとして、とりあえず家にあった『東京日記』を読み返した。 

東京日記 他六篇 (岩波文庫)

東京日記 他六篇 (岩波文庫)

 

  内田百閒の作品というと、飄々としたユーモアのある『百鬼園随筆』や、行方不明になった愛猫をテーマにした『ノラや』、あるいは鉄道文学の元祖とも言える『阿房列車』が有名かもしれないが、この『東京日記』や初期の『冥途』など、師である夏目漱石の『夢十夜』を継承したような幻想的な作品も印象深い。

 と、いま「幻想的」と書いたけれど、今回読み返してみて、「幻想的」という言葉で表現されがちなあやふやな世界ではなく、私たちの生きる現実に迫りくる恐ろしさを切実に描いていることに、あらためて気づいた。 

玄関に出て見ると中砂のおふささんが薄明かりの土間に立っている。中佐が死んでからまだ一月余りしか経っていない。その間に既に二度いつも同じ時刻にやって来た。上がれと云っても上がらない。初めの時はお宅に中佐の本が来ている筈だと云って、生前に借りた儘になっている字引を持って行った。

 ここに収録されている「サラサーテの盤」は、死んだ友人「中砂」の二番目の妻である「おふささん」が事あるごとに家にやって来て、中砂が貸していた物を取り立てるというだけの筋であるが、貸していた物のひとつ、サラサーテのレコード盤に収録されている「チゴイネルヴァイゼン」が不気味な響きを奏でる。

 もちろん文章なので、「チゴイネルヴァイゼン」がどんな曲かははっきりわからないのだが、「演奏の中途に話し声が這入っている」というのが、生者と死者、あるいは正気と狂気との境目があいまいになるこの小説の象徴となり、薄気味悪さをひきたてている。
 ちなみに、「サラサーテの盤」は、『ツィゴイネルワイゼン』という題名で鈴木清順監督によって映画化されている。映画は未見なので、この短編からいったいどういう仕上がりになっているのか、あれこれ想像するのもおもしろい。

 中砂の前妻は「その頃はやった西班牙風」で死んでいる。だからこの時期にぴったり、というわけではないが、平穏と思っていた日常生活が、実は疾病や自然災害にすぐに左右される脆くはかないものであったという事実を、あらためて思い知らされている現状が、『東京日記』全体に漂っている不穏さと重なるような気がする。

 『東京日記』に収められている「長春香」は、作者のもとにドイツ語を習いに来ていた女性が関東大震災で亡くなったという話であり、「死屍のなお累累としている」東京の焼野原で彼女を探す作者の心情が、淡々とした筆致からも痛切に伝わってくる。

 ところが最後、仲間と彼女の追悼会を開くのだが、まずは神妙に冥福を祈ったあと、闇鍋パーティーのような事態になり、「闇汁だって、月夜汁だって、宮城先生(百閒の琴の師匠である盲人の宮城道雄)にはおんなじ事だぜ」と、悪い冗談を誰かが口にしたかと思えば、「お位牌を煮て食おうか」と「私」が言いだし、位牌をばりばりと二つに折って鍋に突っこむ。
 こんなぎょっとする出来事が当たり前のように描かれるのが、内田百閒の文学の真骨頂だと思う。

 そして、内田百閒を紹介している宮田珠己さんの『だいたい四国八十八ヶ所』も、この時期に読むのにいいのではないでしょうか。 

だいたい四国八十八ヶ所 (集英社文庫)

だいたい四国八十八ヶ所 (集英社文庫)

  • 作者:宮田 珠己
  • 発売日: 2014/01/17
  • メディア: 文庫
 

  以前読んだときは、何もない道をマメだらけになった足でひたすら歩き続ける痛さを想像して、これはたしかに苦行だな……そりゃ霊験あらたかになるのもまちがいない(その後、作者に霊験あらたかな何かが起きたのかは知らない)と思ったけれど、いま読み返すと、外を自由に歩き回り、すれちがう人々と会話を交わし、時には同行するというだけで、なんだかワンダーランドのような気さえする。

 というと、この本でなくとも旅行記すべてにあてはまるとも言えるが、この本の特徴は、まずは四国の魅力、なかでもお寺や、地元の人々によるお接待といった独特のお遍路文化のおもしろさがよく伝わってくるところである。

 地元の人々によるお接待というと、いわゆる「ふれあい」のようで、そういうの苦手やな~と思う方も少なくないかもしれないが(私もそうですが)、所詮その場限りの旅人相手なので、べったりしていない(たまに厄介な相手に捕まることもあるが)。お遍路仲間とのやりとりにしても同様で、なんとなく出会って別れる、すれちがう瞬間だけの深入りしない交流というのが気軽でいい。

 また、「外を自由に歩き回り」と書いたが、正確には「自由」ではない。行先は決まっているのだ。23番札所薬王寺の次は、店も自動販売機もトイレもない苦難の道を経て室戸岬を辿り、24番札所最御崎寺に行かないといけない。ポイントをクリアして先に進むというRPG的な要素がある。

 そしてとある札所で、納経所に誰もおらず、朱印をもらうのに20分ほど待たされてしまい、年配のおっさん遍路が苛立って係員に文句を言う場面に遭遇した作者は、「せこい。実にせこい」と感慨を抱く。 

お遍路であれ何であれ、旅の醍醐味のひとつは、わけのわからないことや、予定外の事態に遭遇することである。…… 肝心なのは、時間や合理性に対する感覚が変容することであり、一筋縄でいかなかったり、思い通りにいかなかったときに、その理不尽さややりきれなさを味と思ってこそ、旅が旅になるのである。

  巡礼の旅というと、村上春樹の『雨天炎天』もある。 

雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行 (新潮文庫)
 

  四国八十八ヶ所は、庶民の素朴な信仰がごった煮のように詰めこまれているが、この本の舞台であるギリシアのアトス半島は、正教会の神聖な修行の場であり、俗世界と隔絶された女人禁制の地である。そこには二十の修道院があり、約二千人の僧が質素な自給自足の生活のもとで祈りの日々を送っている。

 この土地に興味を持った春樹氏は、おなじみの「カメラの松村君」と編集者とともに修道院巡りの旅をはじめるのだが、険しい山々の連なり(「この半島には交通機関というものがまったくと言ってもいいほど存在しない」)、温暖なギリシアの町とまったく異なる悪天候、そして修道院で供されるつましい食事にすっかり参ってしまう。あれだけ走っている作者ですらこうなのだから、女人禁制でなくとも絶対に行くまい、と固い決意を抱いてしまう。

 その一方、旅行(記)とは不思議なもので、そのつましい食事をぜひとも食べてみたい気にもなる。
 同じ粗食でも、修道院によって料理レベルには大きな差があるようで、こうばしいパンにあたたかいスープ、新鮮な野菜が出てくるところもあれば、石のように固くて、青かびだらけのパンに冷えたスープが出てくるところもある。

 そしてまた、くり返しになるが、旅行(記)とは不思議なもので、青かびパンがずっと心に残ったりするのだ。春樹氏は旅を終えてから、「何日かたつとアトスが不思議に恋しくなった」と書く。 

そこでは人々は貧しいなりに、静かで濃密な確信を持って生きていた。そこでは食べものはシンプルだけど、いきいきとした実感のある味をたたえていた。猫でさえ黴つきパンを美味しそうに食べていた。

  ちなみに、この青かびパンを食べさせられた修道院は、もともとは行く予定に入っていなかった。当初アトスで三泊する予定だったのが、なぜか帰りの船が港に姿を見せず、急遽もう一泊することになり、やむなくそこで一夜を過ごす羽目になったのだ。こういう想定外の寄り道が、後になって一番思い出深い場所になることはよくある。 

逆に言えば、物事がとんとんとんと上手く運ばないのが旅である。上手く運ばないからこそ、我々はいろんな面白いもの・不思議なもの・唖然とするようなものに巡りあえるのである。そして、だからこそ我々は旅をするのである。

  先程の宮田さんの言葉を思い出す。どうやら旅の達人は同じ結論に辿りつくようだ。
 またいつか自由に旅ができる日が戻ってくることを祈ろう…

 しかし、三冊しか紹介できていないのに結構長くなってしまった。
 集英社のサイトで、春日武彦さんが紹介されていたジュリアン・バーンズ、そして春日武彦さんの本など、まだまだ紹介したい本があったのだけど……まあ、コロナ禍が続けばまたそのうちに紹介したい、いや、コロナ禍は一刻もはやく終わってほしいので、また別の機会に紹介したいと思います。