人生に勝者や敗者なんて存在するのか? デイヴィッド・ベニオフ『25時』~『99999』(田口俊樹訳)
デイヴィッド・ベニオフの短編集『99999』(ナインズ)を読みました。
デイヴィッド・ベニオフは、第二次世界大戦時のロシアで生きのびようとする青年たちを描いた『卵をめぐる祖父の戦争』で高く評価され、さらに小説のみならず、『ゲーム・オブ・スローンズ』の脚本家としても華々しい成功をおさめ、まさに現代を代表する才人と言っても過言ではない。
この短編集『99999』は、生まれ故郷ニューヨークを舞台としたデビュー作『25時』と『卵をめぐる祖父の戦争』のあいだに発表された短編集であり、この二作の橋渡しとなる一冊だ。
デイヴィッド・ベニオフの小説では、「現実をうまく生き抜いている者」と「不器用で失敗ばかりしている者」が対照的に描かれている。何もかも手に入れた前者が「勝ち組」で、何ひとつ手に入れられない後者が「負け組」なのだろうが、勝ち負けは絶対的なものではなく、その時々で入れかわる。そこがベニオフの小説が持つ独特の哀感である。
『25時』の主人公のモンティは、だれからも愛されるハンサムな白人男性であり、軽い気持ちで手を染めた麻薬売買で莫大な金を手に入れ、可愛い恋人と優雅に暮らしている。一方、その友人ジェイコブは冴えない高校教師で、金にも恋愛にも恵まれず、教え子に対してつい妄想を抱いてしまう自分を心の中で罰している。もうひとりの友人スラッタリ―は金融業で成功をおさめているが、かなわぬ思いを胸に秘めている。
そんなモンティがついに警察に捕まり、刑務所に送られる前日を追っているのが、この『25時』である。「だれからも愛されるハンサムな白人男性」という手札は、刑務所であっても有効だ。つまり、刑務所でモンティを待ち受けているものは……といっても、モンティがどうやってこの危機から脱出するのかを描いたサスペンス小説ではない。(モンティを陥れた人物は明かされるが)
収監の日を前にしたモンティとスラッタリー、そしてジェイコブの心情に焦点が置かれている。どうしてこんなことになってしまったのか受けいれられない――北上次郎さんの解説では「青春の悔悟」と表現されている――モンティ、これまで華やかな中心人物だったモンティの運命が一変して、どうふるまったらいいのか戸惑うジェイコブとスラッタリー。三人が最後に示す「友情の証」とは……?
ちなみに、この小説はおもに主人公モンティの視点から描かれているが、ジェイコブを中心にしたパートの方が読んでいておもしろく、ジェイコブの教え子の女子高生や教師仲間の姿がいきいきと描写されている。
作者も「イケてる」人物より、悶々とした「イケてない」人物に語らせる方に手ごたえを感じたのはないだろうか。『卵をめぐる祖父の戦争』では、女の子への妄想で頭がいっぱいのレフを語り手とすることで、戦争の悲惨さを容赦なく暴きつつも、人間という存在を愛すべきものとして捉えることに成功している。
そして、この短編集『99999』の表題作「99999」は、インディーズのロックシーンを舞台とし、シビアな音楽業界を生き抜いてきた敏腕スカウトマンのタバシュニクと、ニューヨーク郊外で両親や仲間と暮らし、愛犬の名前をタトゥーにするパンクロッカー〝サッドジョー〟が対照的に描かれている。どちらが「勝ち組」で、どちらが「負け組」なのかは言うまでもない。
少年院に入れられた仲間と一緒になるために、シェルのガソリンスタンドのSの字を撃つような人間がもしいるとしたら、サッドジョーがそれだ、と。
けれども「99999」でも、『25時』での三人のぶつかり合いと同様に、タバシュニクとサッドジョーが対峙したあと、タバシュニクがほんとうに勝ったのだろうか? という逡巡と、ほろ苦い「悔悟」が胸を襲う。人生において、勝者なんてほんとうに存在するのだろうか? このやるせなさが短編集『99999』を貫くトーンだ。
どこまでが現実で、どこまでが語り手の妄想なのか判別しがたい「獣化妄想」も、対照が効果的に使われている。
ライオンをもやっつける(比喩ではない)屈強なハンターである父のもとで暮らす主人公「ぼく」は、ライオンになる夢想を頭のなかで思いめぐらせながら、フリック美術館に通う日々を送っている。そんなある日、いつものようにフリック美術館で聖フランシスの彫像に見入っている主人公の前に、「すべての女の恋人(ラヴァ―)」と名乗る男プチコがあらわれ、ふたりは美術館をうろつくライオンを目撃する……。
永遠に清らかな聖フランシスに自らを重ね合わせる内向的な主人公が抱く獣性への憧憬が、ライオン、そしてプチコという形をとったと考えられる。
〝逡巡と悔悟〟というテーマがもっとも強くあらわれているのが、「幸せの裸足の少女」だ。
フットボール選手であった16歳の主人公は、気まぐれに友人の父親の車を勝手に乗り回して、ニュージャージーからペンシルヴェニアに向かう。えんえんと続く緑の畑のなか、裸足で自転車に乗る少女に出会う。彼女を助手席に乗せ、たわいもない話をして、一緒にチョコレートを食べる。たったそれだけの話。
私にとっては人生で初めてのいいキスだった。彼女の唇はチョコレートの味がし、キスしおえると、彼女はショートパンツの尻のポケットからたたんだキャンディ・バーの包み紙を取り出して、私に手渡した。開くと、中に彼女の名前と電話番号が書いてあった。
けれども、その後主人公は彼女に電話をすることができなかった。あの幸せだった午後の思い出を壊してしまうことが怖かったのだ。
14年後、フットボールから心が離れてしまった主人公は、もうひとつ大事にしていたものを取り戻そうと、あの時と同じようにクラッシュの「ロンドン・コーリング」を聞きながら、彼女を探しに車を走らせるが……
「悪魔がオレホヴォにやってくる」は、チェチェン戦争に駆り出されたロシア兵を主人公とし、『卵をめぐる祖父の戦争』につながる作品である。
新米兵士である主人公レクシは、ふたりの古参兵とともにチェチェンへの雪深い山道を進んでいる。軍隊に入ることは昔からの憧れだった。まわりの女の子たちもみんな、銃を持って制服を着た兵士たちに夢中になっていた。
ところが、こうして見渡すかぎり雪だらけの道を歩いていると、こんなことに意味があるのか? と疑問がわいてくる。古参兵ニコライはこんなことを言う。
おれたちがやってることにはなんの意味もないんだよ。これはゲームさ。ほんとうのこと知りたいか? モスクワにしてみりゃ、おれたちが死んだほうがいいのさ。
古参兵たちは〝モスクワ〟という言葉にありったけの悪意と呪詛をこめて発音する。
そして三人は小屋に隠れていたひとりの老婆を見つける。古参兵たちはレクシにその老婆を撃つように命じる――
とくに印象深かった短編3つを紹介したが、そのほかにも、世界の終わりをアイロニーたっぷりに描いた「分・解」、〝ノー〟と拒絶され続けてきた女優志望の主人公が最後に手にした〝イエス〟とは? が明かされる「ノーの庭」、主人公が別れた恋人の父親の遺灰とともに赤いレーシング・カーを走らせる「ネヴァーシンク貯水池」など、突飛な状況でありながら、登場人物の心情に思わず寄り添ってしまう物語が綴られている。
主人公が飛行機のなかで大便を垂れ流す場面からはじまる「幸運の排泄物」も、突飛な状況という点においては屈指と言えるだろう。奇跡のような美しい肉体を持つダンサーであるヘクターと絵描きの「ぼく」の恋愛が、どうして大便、排泄物に至るのか?
「ぼく」が本番を前にしたヘクターに「幸運を祈る」と言うと、ヘクターはダンサーにはそんな言葉は不要だと告げ、かわりに〝排泄物〟(Merde)と言うように頼む。〝排泄物〟は幸運と表裏一体のものなのだろうか?〝排泄物〟は美しい恋愛と過酷な現実を結びつけるものでもあり、象徴するものでもある。ベニオフの得意とする対照が究極の形であらわれている。
……それにしても、冒頭の場面の飛行機には乗り合わせたくないものだと、思わずにはいられなかったが。
さて、『ゲーム・オブ・スローンズ』の次は『三体』のドラマ化に取り掛かっているらしい(Wikipedia情報)デイヴィッド・ベニオフですが、小説の次作はいつになるのか? これだけ多才な人物なので、まだまだ先になるかもしれないけれど、首を長くして待ち続けようと思います。