SFの父、ディストピアの元祖、そして絶倫の人? 『タイムマシン』(H・G・ウェルズ 著 金原瑞人訳)
さて、SF小説の元祖、H・G・ウェルズの『タイムマシン』を読んでみました。
タイムスリップものというと、どうしてものび太の机の引き出しが頭に浮かんだり(『のび太の恐竜』とか)、あるいは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い出すので(「2」と「3」にレッチリのフリーがちょろっと出演しているのが笑える)、ハート・ウォーミングで楽しい物語かと思いきや、この『タイムマシン』を実際に読んでみると、想像以上にダークで陰惨な物語だった。
そもそも、TTことタイム・トラヴェラーが、タイムマシンに乗ってどの時代に行くかというと、西暦80万2701年なのだ。100年や1000年先ではなく、西暦80万年って。ちょっと風呂敷大きすぎでは。
かつて手塚治虫や藤子・F・不二雄は、来るべき21世紀を高度に進化した未来都市として描いたけれど、実際の21世紀はまったくぱっとしていないのと同様に、この西暦80万年も未来都市とは言いがたい。それどころか、19世紀の主人公の目から見ても退化しているように思われる。
ぼくは、人類がほろびかけているところに出くわしたらしい。たそがれていく風景をながめていると、『人類のたそがれ』という言葉が頭に浮かんできた。そしてそのときはじめて、よりよき社会を目標にした努力が、どんなに不気味な結果をもたらしたがわかりかけてきたんだ。
TTは西暦80万年の地上の世界に住む未来人エロイが、性差も見分けがつかないくらい華奢でか弱く、エネルギーも好奇心も極端に欠如していることに気づく。
まったく快適でまったく安全な新しい世界では、19世紀のわれわれにとっては『力』であるはずの、ありあまるエネルギーは逆に欠点なんだ。
このあたりは、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を思い出す。
欲望は完全に管理され、不満も怒りも完全に消滅し、完全に幸せな社会で暮らす未来人たち。性行為と生殖行為は完全に分離され、工場で「完全な人間」が生産される。キリストを基準とする「西暦」ではなく、「フォード暦」が採用されている。資本主義が神様となったのだ。
ちなみに、オルダス・ハクスリーとウェルズは繋がっていて、ハクスリーの祖父であるT・H・ハクスリーは、「ダーウィンの番犬」と呼ばれたほど熱心に進化論を支持した生物学者であり、ウェルズはこのT・H・ハクスリーの教え子だったらしい。SFが進化論といった当時の最先端の科学の影響を色濃く受けていることがわかる。
そして、TTはウィーナという未来人の少女と恋に落ち、安全な未来世界で完璧な幸福を味わう――と思いきや、なんと、この未来世界には、攻撃的な地下人モーロックが生息していた。
しかもモーロックには、いま(19世紀)の自分たちですら捨て去った、野蛮でおぞましい風習がある。TTはモーロックの魔の手から逃れるため、ウィーナを19世紀に連れて帰ろうとするが……
最近ディストピアものが流行っているようだけど、SFの元祖である『タイムマシン』も、まさにディストピアを描いている。ディストピアというのは、現実とまったく乖離したものを描いているわけではなく、私たちの生きている社会を諷刺したものが多いのではないだろうか。
この『タイムマシン』でも、TTは頭も肉体も弱いながらも地上で優雅に暮らすエロイと、地下の闇に住む凶暴なモーロックの姿を、現在(19世紀)と重ね合わせる。
ぼくは最初、19世紀イギリスの社会問題が鍵になると思った。つまり裕福な資本家階級と貧しい労働者階級の差だ。これは一時的な社会問題と考えられているが、この差がどんどん開いていって、二種類の人間が生まれたとしか考えられないんだ。
年譜などによると、ウェルズは社会問題に非常に関心が強く、のちに労働党に入党して選挙に立候補したりもしている。この『タイムマシン』はウェルズの長篇デビュー作といえる小説ですが、キャリアの初期から問題意識を強く持っていたのでしょう。
そしていま、現在の日本に置き換えて考えると、最近もテレビで「ミッシング・ワーカー」という特集があったけれど、いわゆる「ロスジェネ世代」(団塊ジュニア~就職氷河期世代)は、非正規のまま歳を重ねたり、あるいは正規職でも二十代前半の就職時とほとんど変わらない賃金で働いているので、こうなったらモーロックになるしかないのだろうか……
しかし一方で、ウェルズの年譜をよく読むと、ちょいちょい妻を捨てたり、あるいは、妻ではない女性がウェルズの子供を産んだりしているのも目につく。すると、こんな本もあった。
タイトルもなかなかインパクトがあるが、『小説の技巧』のデイヴィッド・ロッジが書いているので、きっとおもしろいにちがいない。社会問題も気になるが、こちらもちょっと読んでみないと……