真の「敵」とはなんだったのか? 戦争を描く難しさ――『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬)
今月の書評講座の課題書は、直木賞候補にもなった話題作、『同志少女よ、敵を撃て』でした。
激化する独ソ戦を舞台としたこの物語は、主人公セラフィマの村に突然ドイツ兵があらわれる場面からはじまる。
セラフィマの目の前で村人たちが惨殺され、さらに一緒にいた母親もドイツ兵イェーガーに撃たれて命を落とす。セラフィマも殺されそうになったそのとき、ソ連軍がやってきて、なんとか命拾いする。
ところが、ソ連軍の女性兵士イリーナは、母親の死体を足蹴にして火をつける。そしてイリーナに「戦いたいか、死にたいか」と問う。セラフィマはイェーガーとイリーナに復讐するために、イリーナについていくことを決める……
私の書評は以下のとおりです。
*謎解きミステリーではありませんが、物語の核心に触れているのでご注意ください。
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(題)大義が揺らぐ瞬間
独ソ戦を舞台とした『同志少女よ、敵を撃て』では、主人公セラフィマが母親を殺したドイツ兵イェーガーと、母親の死体を足蹴にして火をつけたソ連軍の女性兵士イリーナに復讐するために狙撃兵となる。
現実の戦争を小説の題材にするのは難しい。
まずは史実に忠実でなければいけない。戦闘が陳腐なアクション映画のようになってもいけない。命を賭けて戦う兵士は感動的だが、慎重に描かないと戦争や軍人を美化しているようになりかねない。現在においては、戦地で女性はどのように扱われたかというジェンダーの問題も無視するわけにはいかない。
そういった観点からこの小説を読むと、各方面にじゅうぶん配慮し、問題点をすべてクリアしていることに驚かされる。
戦況の説明や実在した女狙撃兵リュドミラ・パヴリチェンコの描写からは、誠実に史実を調べたことが伝わってくる。臨場感にあふれた戦闘場面には思わずひきこまれてしまうが、一方で、戦争のむごたらしさや非道さもきちんと記している。ドイツ兵を人間離れした悪魔のように描いたりもせず、ソ連軍の暴虐に目をつぶったりもしない。
そしてなにより、イリーナ率いる女狙撃兵たちが力を合わして戦いに臨む姿は、まさにシスターフッドの手本のようで、この小説のいちばんの魅力と言える。
と感心しつつも、若干の物足りなさも感じた。
戦争には正しさも大義もない。しかし、セラフィマは大義を追い求める。スターリングラードの戦いのあと、セラフィマはドイツ兵の愛人となったサンドラと対峙する。
そのとき、疑うことなく信じていた「被害者と加害者。味方と敵。自分とフリッツ。ソ連とドイツ」という図式が揺らぎうることに気づく。ソ連兵士として戦うことで、「女性を救う」という自らの大義が成立するのか疑問を抱く。
しかし、サンドラの愛人がイェーガーだと知った瞬間、セラフィマはその困惑を捨てる。
その方が母の仇を討つ〈キャラ〉としては筋が通るのかもしれないが、この揺らぎをもっと掘り下げた方が物語として深みが出たのではないだろうか。幼なじみのミハイルが唐突に豹変する場面も、セラフィマの大義の正しさを念押しするための展開のように感じられた。
とはいえ、大義を追い求めずに戦争を描くことが可能なのかどうかはわからない。カート・ヴォネガットは「大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつない」*と書いた。戦争を描くことの困難さについて考えさせられた。
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と、微妙な評価をしてしまったけれど、スピーディーな展開のため退屈することなく読み進められる、よくできた小説であるのはまちがいない。書評でも指摘したように、戦争や兵士を美化することなく描いているので、学生などの若い人にも安心して勧めることができる。
ただ、講座でも「アニメだよね」という意見があったように、登場人物たちを〈キャラ〉のように感じてしまい、ちょっと興ざめしてしまったのも事実である。
受講生たちもおもしろく読んだという人が多数だったけれど、なかには「キャラクターが類型的」などわかりやすさの罠を指摘した人や、「個人的復讐が祖国の防衛に昇華する」展開に違和感を覚えた人、シスターフッドや百合要素をはっきりと「あざとい」と評した人もいた。
さらに、「美貌」のイリーナ率いる、セラフィマをはじめとする狙撃兵たちが「(美)少女戦士」なのに疑問を抱いたという指摘もあった。
この『同志少女よ、敵を撃て』は本屋大賞にもノミネートされているが、去年本屋大賞の翻訳部門を受賞した『ザリガニの鳴くところ』も、家族に置き去りにされて森にひとり暮らす美少女の話であり、正直なところ、
「もしこれが美少女ではなかったら、ここまで熱く支持されたのだろうか……」
と考えてしまったのを思い出した。
(いや、「森に棲む美少女」のもとへ男たちが通いにくるというのがミステリーの要なので、美少女でなければ成立しないとも言えるのだが)
と、少々批判的な書き方になってしまったけれど、細部にまで神経の行き届いた、臨場感にあふれる戦争の描写など、デビュー作とは思えない筆力には感心させられた。
ただ、戦争小説というと、書評でも挙げた『スローターハウス5』や、『同志少女よ、敵を撃て』と同じ独ソ戦を扱った『卵をめぐる祖父の戦争』といった傑作とくらべてしまうので、どうしても評が厳しくなってしまうのかもしれない。
『スローターハウス5』は、第二次世界大戦のときにアメリカ兵としてドイツに出征し、ドレスデンの大空襲をかろうじて生きのびた作者カート・ヴォネガットが、その経験を小説にまとめようとしているが、どうしてもうまく書けないというくだりからはじまる。
現実の戦争を描くことにはそういった逡巡がつきものなのではないかと思う。
『同志少女よ、敵を撃て』の「敵」とはなんだったのか?
もちろんイリーナではなく、仇敵のイェーガーでもない。最終的にセラフィマが銃を向けたのは、ドイツ人女性に襲いかかる幼なじみのミハイルだった。
では「敵」はミハイルだったのか?
いや、「敵」の正体は、人間を人間離れした悪魔に変えてしまう「戦争」だ――というのが正しい読みなのだろうが、単純化されている印象は否めない。
また、『同志少女よ、敵を撃て』は、ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の影響のもとで書かれている。
というのは、私が勝手に決めつけているわけではなく、参考文献として挙げられていて、物語の中でも『戦争は女の顔をしていない』が言及されている。
フィクションにおいて、現実に存在するノンフィクション(と作者)の名前が出てくる展開についても、講座でさまざまな意見が出たため、来月の課題書は『戦争は女の顔をしていない』に決まった。