快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

人間は差別心を手放すことができるのだろうか? 1964年に人種差別を描いた、有吉佐和子『非色』

 有吉佐和子『非色』を読みました。 

非色 (河出文庫)

非色 (河出文庫)

 

 1964年に発表されたこの小説は、黒人差別を扱っていることが問題視され、絶版になっていたらしい。しかし、Black lives matter運動の盛りあがりによって再び脚光を浴び、去年復刊されて話題を呼んだ。

 戦後まもない時代、戦争によって母と妹とともに住んでいた家を焼き出された主人公の笑子は、とにかく食べていくために進駐軍のキャバレーへ向かう。日本の会社はまだ機能していなかったので、職を得るためには進駐軍に近づくしか方法がなかったのだ。
 英語もできないのにキャバレーの入口に押入り、イエスやノーや言っていると、大男の黒人がクロークの職を与えてくれた。次に笑子は、キャバレーで少しでも給料のいい仕事を得るために、がむしゃらに英語の勉強をはじめる。

 すると、職を与えてくれた大男の黒人がまたも姿を見せ、英会話を教えてあげようと申し出る。男の正体は、キャバレーの支配人のひとり、進駐軍のトーマス・ジャクソン伍長であると判明する。トムと笑子はデートを重ねるようになり、ついには結婚する。しかし、娘のメアリイが三歳になったとき、トムに帰国命令が下る。
 除隊したトムと一緒に暮らすために、笑子はニューヨークへ向かうが、そこで待ち構えていたのは、まったく思いもよらない事態であった……

 とにかくこの小説は、徹底してリアリスティックに差別が描かれている。

 日本にいたときのトムは、何もかも失った当時の日本人とは比べものにならない豪勢な生活を享受している。トムと笑子は、デートでアーニー・パイル劇場(GHQに接収された東京宝塚劇場)に行き、ステーキにアイスクリームといったディナーを食べる。ふたりが結婚したのは1947年だが、新婚家庭には冷蔵庫や電気洗濯機が備わっている。


 ところが、ニューヨークの貧民街(ハーレム)に戻ったトムは、住む場所もなく友人の家を転々とした末に半地下の家を見つけ、ようやくありついた仕事は、病院の夜間で働く雑役夫まがいの看護夫であった。華やかなニューヨークを心に描いて、えんえんと船に乗ってやって来た笑子は、荒廃したハーレムの街並みと、日の当たらない新しい住処に愕然とする。メアリイは「マミイ、船の中と同じだね」と言う。

 作者のリアリスティックな視線は、人間が抱く差別心も容赦なく暴いている。

 笑子の母親は、笑子がトムと付きあうことで一家の金回りがよくなると、あからさまに笑子の機嫌をとるようになる。
 だがトムと結婚すると言い出すと、にわかに手のひらを返し、「あんな黒い人と結婚するだなんて!」と、世間さまに顔向けできないとか、御先祖様にどうやってお詫をするのかと激高する。内心では結婚を迷っていた笑子だったが、母親の言葉への反発心によって、結婚を決意する。

 この小説の興味深い点は、母親のような人物を悪人として断罪しているのではなく、その差別心や俗物ぶりを人間の愚かさとしてありのままに描いているところにある。結婚にあれほど反対した母親だが、結局ちゃっかりとふたりの新居に出入りするようになり、「アメリカさんの家は温かくていいねえ」とぬけぬけと言う。

 笑子が妊娠した際は、結婚すると話したときと同様に、「黒ン坊生れちゃ困るじゃないか」と当然のように堕胎を勧めるが、出産時には手作りの人形を持って顔を出し、笑子が働いているあいだはやむなく孫娘の面倒をみる。この小説は、こういう普通の――善良とも言える――人々の心に根付く差別心をさらけ出し、差別というものの厄介さを浮き彫りにしている。

 くわえて、差別されている者のあいだで、さらなる差別が生まれる事実も描いている。ニューヨークに渡った笑子は、プエルトルコ人が黒人よりも差別されていることを知る。ともにニューヨーク行きの船に乗った竹子は、笑子と同じく黒人兵と結婚した女であるが、

「うちの黒も言うてるで。ニグロはどんなに困ってもプエルトリコの真似はようせんて。黒の方が、あんた、まだしも教養があるし文化的や」

と言い放つ。笑子の友人となる竹子も基本的に善人として描かれているが、自分たちの所属している黒人社会より下と見做されているプエルトリコへの侮蔑の念を隠さない。笑子はかつて母親に感じたものと同じ反発心を竹子に抱くが、 

あんたはええ人やと思うていたけど、相当人が悪いなあ。プエルトリコをかばうのは、ええ気持ちやからなんやろ……?

 と返され、笑子は心の中を見透かされたように、居心地の悪い気分になる。

 白人社会の中で、ユダヤ人、イタリア人、アイルランド人が卑しめられ、卑しめられた人々は奴隷の子孫である黒人を蔑視し、そして黒人はプエルトリコ人を最下層とする。
 人間は誰でも「自分より下」を設定し、それより優れていると思わないと生きられない存在なのではないか……笑子はそう気づきはじめる。

 1964年の時点で、ここまで人種差別を掘り下げた有吉佐和子の力量に驚かされるが、この小説のもうひとつの大きな魅力は、笑子をはじめとする女たちのたくましさだ。


 女学校を出たばかりの笑子は、母と妹を養うために社会に出るが、それ以降ずっと、家族を養うために休むことなくひたすら働き続ける。ニューヨークに渡ってからは、稼ぎの少ないトムに代わって一家の大黒柱となり、次々に増えていく子どもたちを育てるために、せっせと貯金に励む。

 しかも働くだけではなく、自分でも呆れるくらいのお人好しで、船で出会った竹子や麗子といった友人たちの面倒もこまめにみる。笑子の正義感と優しさによって、差別という解決策が見出せない深刻な主題が、読者の心の中にすんなりと入りこむ。


 たくましい女性は笑子だけではなく、笑子の雇用主となる高級日本食レストラン「ナイトウ」の女主人や、ユダヤ人学者の妻として国連で働くレイドン夫人といったニューヨークで生き抜く日本人女性たちの姿も、出番は短いものの印象に残り、彼女たちの送ってきた人生を想像させられる。

 そしてなにより、笑子と並ぶたくましい女性というと、娘のメアリイである。外で忙しく働く笑子に代わって一家の主婦となり、バアバラ、ベティ、サムといった妹や弟たちを育てる。
 聡明なメアリイは学校でも抜群の成績をおさめて、小学校3年生にして、「アメリカ人という言葉は少し複雑のようです」と作文を書く。 

いつの日か私たちの家系にプエルトリコ人が混じることも考えられます。プエルトリコ人はそれを歓迎するでしょう。そうすれば誰もあの人たちをアメリカ人ではないなどとは言わなくなるでしょう。 

  ところが、トムの弟のシモンが居候として家にあがりこんでくると、家を統治するメアリイは働く気のないシモンを叱責し、「シモンのような男がいるからニグロは馬鹿にされるのよ」「アフリカの土人だわ」と罵るようになる。こんな狭い家の中ですらも上下関係が発生し、相手を蔑んで差別する心が生まれることに笑子は驚愕する。


 人間は差別心を手放すことができるのだろうか? 
 簡単に答えの出せる問題ではないけれど、この小説のラストの笑子の決意には希望が感じられ、厳しい現実のただなかでも前向きな気持ちになれる一冊だと思う。