地球も、私たちも、資本主義に略奪されている――斎藤幸平『人新生の資本主義』
さて、今回の800字書評の課題は、斎藤幸平『人新生の資本主義』だった。
2020年に発売されたこの本は、6万部を超えるベストセラーとなり、新書大賞も受賞したのでご存じの方も多いと思う。
しかし、ベストセラーになったからといって、けっして易しい本ではない。気候変動問題を起点とし、最近よく耳にするSDGs(持続可能な開発目標)といった、資本主義のもとでの環境問題への取り組みは単なるアリバイ作りに過ぎないと喝破する。そしてマルクスを解釈し直すことで、資本主義から脱却して、新しい世の中の仕組み作りを提案する――というのが、本書の骨子だ。
いまの資本主義の世の中は「持続可能」なものではない、という作者の主張には深く肯いた。もちろん、現代社会の問題点を論じた本や論客は、これまでにも数多く存在している。
しかしこの本は、そういった所謂「リベラル」な論客が唱えがちな「脱成長論」について、日本では「高度経済成長の恩恵を受けてあとは逃げ切るだけの団塊世代の人々が、脱成長という『綺麗事』を吹聴しているというイメージが強い」ため、世代対立へと矮小化され、「緊縮」政策へと結びつけられていった、と分析する。
さらに、古い脱成長論がなぜダメなのかについて
古い脱成長論は一見すると資本主義に批判的に見えるが、最終的には、資本主義を受けいれてしまっているからである。資本主義の枠内で「脱成長」を論じようとすると、どうしても「停滞」や「衰退」といった否定的イメージに吞み込まれてしまうのだ。
と斬っている。
資本主義を維持しながら、利潤追求や市場拡大、労働者や自然からの収奪をやめろというのは、真の「空想主義」であると書いている。たしかに、そのとおり。
では、どうしたらいいのか?
資本主義以外の世の中なんてあり得るのだろうか? ソ連は見事に破綻したじゃないか。中国だって、経済は資本主義を取り入れているのではないか? 誰だってそう思うだろう。ここで作者は、マルクスを読み直すことによって、新しい脱成長が可能になると説く。
共同体社会の定常性こそが、植民地支配に対しての抵抗力となり、さらには、資本の力を打ち破って、コミュニズムを打ち立てることさえも可能にすると、最晩年のマルクスは主張しているのである。
だが、そもそもマルクスの『資本論』をきちんと読んだことがないので、作者が読み解くマルクスのどこが新解釈なのか、これまでの受けとめられ方とどう変わっているのかについては、正直なところよくわからなかった。
けれども、マルクスを軸に作者が提唱する〈コモン〉――「水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す」――市民が相互扶助に基づき、民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する概念には興味をひかれた。
そんな世の中になればいいな、反射的にそう思う。一方で、そんなこと可能なのか? という疑問も反射的に浮かぶ。
書評というのは自分語りではない。というのは基本中の基本だとわかっているけれど、「資本主義がすでにこれほど発展しているのに、先進国で暮らす大多数の人々が依然として『貧しい』のは、おかしくないだろうか」と問いかけるこの本の書評については、自分の生活の実感を書かずにはいられなかった。
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(題)持続可能な努力目標
「SDGs(持続可能な開発目標)は大衆のアヘンである」
『人進世の「資本論」』の冒頭のこの言葉に、思わず深く肯いてしまった。といっても、作者のように環境問題について真剣に考えているからではない。単純に、環境問題に向き合う余裕がない人生を送ってきたからである。
1970年代後半から1980年代初頭に生まれた私たち、就職氷河期世代は、親の世代より高い学歴を得るために受験戦争に放りこまれ、多くの者が大学や短大に進学した。しかしいざ就職する頃には、有名企業が次々に倒産し、正規雇用の職を得ることすらも難しい時代になった。30代に入って生活を安定させようとした矢先、リーマンショックと東日本大震災に襲われた。同世代の中には無職から脱出できない者も多い現実を知っているので、非正規であっても、薄給であっても、仕事があるだけマシという感覚がしみついている。
そこで地球温暖化が緊急の問題だと言われても、正直なところ、これまではピンとこなかった。地球の温度が3℃上昇することより、来月の家賃が払えるかという問題の方が重要だった。
だが、この本を読み進めていくうちに気がついた。地球も、私たちも、資本主義に略奪されているという意味においては同じではないか、と。「人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる略奪の対象とみなす」と作者は指摘する。資本主義の成長には、地球の資源と廉価な労働力、つまり私たちの収奪が欠かせない。労働条件の悪化と環境破壊は別個の問題ではなく、同じ俎上に載せるべきなのだ。
私たちは、努力して競争に勝って成長することがなにより大切だと刷りこまれてきた世代だ。社会主義のもとでは、努力する者も努力しない者も平等に扱われ、努力が報われないと教えられた。しかし、私たちの努力は報われたのだろうか? 個人レベルでの成功はあっても、世代レベルで見ると、生活はどんどん貧しくなっている。そのうえ、競争社会では弱者を助ける余裕はない。大半の者が敗者となり、相互扶助すらも困難な社会が持続可能であるとは思えない。
では、資本主義から脱するためにはどうしたらいいのか? 努力信仰と成長神話を植えつけられた私たちが、〈コモン〉に移行するのは可能だろうか? まずは、私たちの努力の矛先を変えてみてはどうだろうか。資本主義を持続させるためではなく、自らの生活や労働を持続させるために努力する。それが第一歩になるのかもしれない。
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〈コモン〉というのは魅力的な概念だが、ほかの方も書評で指摘していたように、人間の欲望の根深さ――みんなと一緒は嫌だ、他人よりちょっとでも得をしたい、損は絶対にしたくない……といった心理を考えると、実現できるのか難しい気がする。
といっても、この本は単なる理想論や空想主義を語っているわけではなく、「フィアレス・シティ」の旗を掲げて、都市公共空間の緑化、電力や食の地産地消、公共交通機関の拡充……などを宣言し、グローバル企業を対峙する姿勢を鮮明にしたバルセロナの取り組みなど、具体的な例も挙げられている。
ただし、バルセロナは気候も良く、観光などの資源も豊富なちょうどいい規模の都市だからできるのでは? 資源のない発展途上の町だったら、あるいは貧しく治安も悪い町だったら、こういう取り組みはできるのだろうか? とも考えてしまう。
けど考えたら、じゅうぶんに発展しつつも大都市過ぎず、歴史や資産がある街、というと、わが大阪もこういう取り組みを行う条件は備えていたはずだと思うけれど、逆の方向へ舵を切ってしまったのが悲しい。♪大阪の海は~悲しい色やね……