快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ただの「ええ話」ではなかったO・ヘンリー 『最後のひと葉』(小川高義訳)『1ドルの価値/賢者の贈り物』(芹澤恵訳)

 さて、先日の『月と六ペンス』に続いて、今度はO・ヘンリーの『最後の一葉(ひと葉)』をまた複数の訳で読んでみた。

 

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

 

 

1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 (光文社古典新訳文庫)

1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 (光文社古典新訳文庫)

 

 『最後の一葉(ひと葉)』は、ストーリーをご存じの方は多いでしょうが、私も学生の頃に教科書かなにかで読まされて、なんか病気になった女の子が、窓の外で葉を落とす木を見て、「最後の一葉も落ちたら、自分も死んでしまうんだわ……」とかなんとか辛気臭いことを言う話だとは覚えていました。

 
 そこで今回あらためてちゃんと読んでみると、この物語は、現在でも芸術家が集まる場所として知られるニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジを舞台としており、病気のジョンジーと看病するスーはどちらも画家志望で、共同でアトリエを構えているという設定である。
 
 で、新潮文庫小川高義さんの解説を読むと、

 

 「最後のひと葉」では、女性同士の恋人関係として構想されている。このことには訳しながら薄々感づいて、訳し終えるまでには確信していた。 

  

 と書かれていて、おどろいた。そうなんだろうか?? 考えたら、たしかにニューヨークのヴィレッジは芸術家のたまり場であるが、同時にさまざまなセクシュアリティの人たちが集まるところとしても有名だ。O・ヘンリーは、当時を生きる働く女性(つまり当時では最先端の女性)をいきいきと描いたことに定評があるらしいが、なら、当時の恋愛観にとらわれない女性に対しても偏見などなかったのだろう。そもそも、この時代に、画家を目指してニューヨークで女性同士で暮らしているなんて、恋愛事情がどうあれ、じゅうぶんはみだした存在だったろう。
 
 で、小川さんは続けて「訳者の妄想による新説ではない」とし、そのあとの医者とのやりとりを根拠としている。医者は、いくら治療しようとも、ジョンジー本人が生きようと思わなければどうにもならないと言う。そしてジョンジーの望みはなにかとスーに聞く。 

「ああ、そう言えば――いつかはナポリ湾の絵を描きたいと」
「絵を?――つまらん。もうちょっと気になってならないような――たとえば、男とか」
「男?」スーは口琴をくわえて弾いたような声を出した。「男なんてものは――あ、いえ、先生、そういうことはありません」 

  それにしても、絵を描きたいというジョンジーの望みを一蹴して、男について詮索する医者は、女は仕事や夢やと寝言を言ってないで男とつがうべし、という考えを表明していて(それがこの時代の常識だったんでしょうが、、、ていうか、いまでも?)、ゲスいな~と思わずにはいられないが、しかし、先の小川さんの解説を念頭に入れて読むと、たしかに意味深な箇所だ。原文では

"She - she wanted to paint the Bay of Naples some day." said Sue.
"Paint? - bosh! Has she anything on her mind worth thinking twice - a man for instance?"
"A man?" said Sue, with a jew's-harp twang in her voice. "Is a man worth - but, no, doctor; there is nothing of the kind."

 "Is a man worth - but" と、男にそんな価値なんてない、くらいのことを示唆している。光文社古典新訳の芹澤恵さんの訳では 

 「恋人?」口琴を弾いたような、尻上がりの裏返った声でスウは言った。「恋人なんかにそれほどの――いいえ、先生、あの子にはそういうものはないと思います」

  と、この頃は女性にとって "man" イコール恋人だったろうから、やはり恋人にそれほどの(価値はない)と書いてある。

  で、実際ジョンジーの命を救うのは、男や恋人ではなく、芸術への執念なのである。といっても、スーやジョンジーの執念ではなく、酒びたりのベアマン老人の執念である。雪のなか葉っぱの絵を描いて、自らの命を落とすベアマン老人が、いつかは傑作をものしてやるぞという酒びたりの元画家であるというのは忘れていた。いつか傑作をという執念が、命と引きかえに発揮され、そしてジョンジーけでなく、ベアマン老人自身も救われたのだろう。


 なぜベアマン老人が自らの命を投げ出してまでも、絵を描いてスーを救おうと思ったのかというと、大都会ニューヨークで絵を描いて生計をたてようという、無謀なふたりへの激励でもあったろうし、芸術とはこういうものだというのを見せつけてやりたかったのかもしれない。芸術とは命を賭けるに値するものだと。いやしくも芸術で生きていこうとするなら、傑作をものしていないのに、軽々しく死ぬなんて言ってはいけないと。

 ちなみに、作者O・ヘンリーの生涯を見てみると、銀行で働きながら文筆活動を行うが、なんと銀行の金の横領容疑で刑務所に入れられ、刑務所の中からも執筆を続け、釈放されたあとは文筆業一本で生活するが、酒びたりになり四十七歳で死亡、とベアマン老人以上にハードな人生のようだ。
 O・ヘンリーの小説というと、とにかく「ええ話」のような印象があったけど、いま読み直すと、さまざまな陰影に富んでいるのが感じられました。
 
 

神は雑多に宿る――『村上春樹 雑文集』

 アマゾンで『騎士団長殺し』を検索したら、いま超話題の『夫の……が入らない』が出てきておどろいた。いや、『騎士団長殺し』を買っている人は、その商品も「ご覧になっている」そうです。


 で、ひさしぶりに『雑文集』を読み返してみた。 

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

 

  これはいろんなところから依頼されて書いた雑文――文庫の解説、文学賞の受賞コメント、翻訳のあとがき――などをまとめたもので、タイトル通り、雑多な寄せ集めであるが、ひとつひとつに書かれていることは深く、「村上春樹印のエッセイ」として書かれていないボーナス・トラックだけに、思いもよらぬ鋭いことがさらっと書かれていたりもする。

 たとえば、スティーヴン・キングについてのエッセイでは、怪奇小説というものについて

問題はそれがどれだけ読者を不安 (uneasy) にさせられるかというところにある。uneasyでありながら、uncomfortable(不快)ではないというのが良質の怪奇小説の条件である。これはなかなかむずかしい条件だ。
そのような条件をみたすためには、作家は「自分にとっての恐怖とは何か?」ということをしっかりと把握しておかねばならない。 

とあり、ホラーとか怪奇小説にまったく詳しくないので、へえそういうものか~と思ったが、uneasy と uncomfortable の関係は、他ジャンルの創作物はもちろん、なんなら人間関係にも援用できるような気もする。

 また、カズオ・イシグロについては

イシグロという作家はある種のヴィジョンをもって、意図的に何かを総合しているのだ。いくつもの物語を結合させることによって、より大きな総合的な物語を構築しようとしているのだ。僕にはそう感じられる。

 
 なるほど。正直なところ、最新作の『忘れられた巨人』は、わかるようなわからないような話だったのだけど、もっと俯瞰で読むことが必要だったのかもしれない。(ちなみに、このエッセイは2008年に初掲載されたものですが)
 
 あと、森達也監督の『A2』についての文章も興味深い。『A2』は、前作の『A』と同様に、例の事件を起こしたあとのオウム真理教を追ったドキュメンタリー映画であり、もう事件を起こす気配はないと言えども、信仰を捨てるつもりもなく、事件について反省の念があるのかどうかもわからない信者たちと、信者たちの行く先々で排斥運動を続ける周囲の人間たちとの「不条理なすれ違」いを描いた映画である。 

 教団側も表面的には、そういった相手(共生しようとする周囲の住民)から差しのべられる手をにこやかに受け入れようとしているかに見える。でも果たしてそうなのだろうか? 信者たちの側には、自分たちを取り巻く社会と共生していこうという意志は本当にあるのだろうか?
 そのあたりの認識の――場合によっては不条理なまでの――すれ違いかたこそが、この『A2』という映像作品が我々に提示している重大なテーマではあるまいかと、映画館の観客席に座りながらふと考えてしまう。 

  しかしこういったくだりを読み直すと、『1Q84』では、宗教団体について、もっと深く掘り下げてくれるかと期待していたのだが……なんて思ってしまう。なんかあっさりと幕がひかれましたよね。そういえば、ちょうどいまも、巨大芸能プロVS巨大宗教団体の戦い?が勃発しているようで、まさにエンタテインメント小説のような事態だ。しかし、新作は騎士団とかいってるんだから、やはりなんらかの信仰や、そういう団体は出てくるのだろうか?


 そして、「ジャック・ロンドンと入れ歯」というエッセイでは、まずタイトルにある、ジャック・ロンドンの入れ歯をめぐるエピソードが書かれていて、これだけでもじゅうぶんおもしろいのだが、それに続く作者自身のエピソードも強烈。まあ、こういうことあるだろうな、って気はするが。短編『沈黙』や『多崎つくる』につながるものがある。

 ほかにもエッセイ巧者ぶりを堪能できるものとしては、冒頭の「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」も必読。「本当の自分とは何か?」という、ソクラテスプラトンもみんな悩んだ(野坂昭如リスペクト、って超古いですね。私も元ネタを覚えている世代ではありませんが)問題について、小説家としての視点から、「仮説=猫」を積みあげて書かれている……って、なんのことだかわからないと思いますが、ぜひ読んでみてください。いや、「仮説」をぐっすり眠る猫になぞらえるとはすごい。

 後半は、以前読者からのメールにアドバイスしていた、原稿用紙四枚以内で、「本当の自分」について書くというお題について、牡蠣フライを通して実践してみえる。だれにも真似できないですね。、
 
 あと、いまこの本を読み返すと、ちょくちょく顔を出す安西水丸さんが切ない。「安西水丸はあなたを見ている」「安西水丸は褒めるしかない」……でも、和田誠さんも言ってますが、水丸さんによるあの似顔絵、ほんとうに簡単なんだけど、似てるんですよね。
 村上春樹の小説によく出てくるワタナベノボルが、水丸さんの本名であることはご存じの方も多いでしょうが、その由来は、水丸さんのお父さんが江戸時代の画家渡辺崋山のファンで、その通称であったノボルから採ったというのは、この本ではじめて知りました。


安西 いつか春樹君と三人で、寿司屋で貝をつまみにお酒を飲んで、カラオケ歌って打ち上げしましょうか(笑)
(注:村上春樹はカラオケは大嫌いで、貝も食べられないらしい。)

 あとがき代わりの水丸さんと和田誠さんの対談より。やはり淋しいな。

もうすぐ日本翻訳大賞しめきり 再度『月と六ペンス』を読んでみた

 さて、ミュージカル『キャバレー』を見に行ったりしているうちに、日本翻訳大賞の応募締め切りが近づいていました。
(ちなみに、『キャバレー』はなんの予備知識もないまま行ったので、こういう話だったのか!とおどろいた。(いまさらかもしれませんが)
 このいまの時代に再演する意義を感じた。残念ながら、後ろの方の席だったので、長澤まさみ嬢のセクシー衣装はあまり堪能できなかったけど。小池徹平くんは、去年の『ちかえもん』でいい演技をみせていましたが、今回も頑張っていました)


 この翻訳大賞、前回の選考時の座談会でも話題になっていたように、作品の良さで選ぶのか、翻訳の良さで選ぶのか、そもそも、作品の良さと翻訳の良さは切り離すことができるのかよくわかりませんが、とりあえず「おもしろかった」「もっと読まれてほしい」「翻訳の意義を感じた」作品を選ぼうとは思っているのですが、まあでもとにかく、推薦文を読んでいるだけでも、じゅうぶんおもしろくて、今後の読書の参考になる。


 そこで、こないだ読んだ『月と六ペンス』ですが、金原瑞人訳に続いて、土屋政雄訳を見てみると、翻訳とはほんとうに興味深いものだと感じる。 

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

 

 

冒頭部分を例に挙げると

正直いって、はじめて会ったときは、チャールズ・ストリックランドが特別な人間だなどとは思いもしなかった。いまでは、ストリックランドの価値を認めない人間はいない。(金原瑞人訳)

いまでは、チャールズ・ストリックランドの偉大さを否定する人などまずいない。だが、白状すると、私はストリックランドと初めて出会ったとき、この男にどこか普通人と違うところがあるとは少しも思わなかった。(土屋政雄訳)  

I confess that when first I made accquaintance with Charles Strickland I never for a moment discerned that there was in him anything out of the ordinary. Yet now few will be found to deny his greatness.(原文)

 どちらも原文と言っている内容は同じなのですが(当然ながら)、印象がどことなく異なる。
 日本の現代小説が、設定も身近で感情移入しやすいという意見もたしかによくわかるのだけれど、こうやっていくつもすぐれた訳が出るのは、海外の名作にしかない強みだと思う。


 あと先日の感想で、「月」(芸術)だけではなく、それと切り離せない「六ペンス」(通俗)について深く考察されているのがこの小説の特徴ではないかと書きましたが、この光文社古典新訳の解説でも、

この小説は、第一次世界大戦前後の世界における芸術に位置づけを巨視的に見つめ、芸術や芸術家の意味が、資本主義や大衆消費社会の発展によって変化を余儀なくされていることを浮き彫りにしている。 

 

とあり、続けて

少し穿った見方をするなら、この小説は、モームの分身である語り手が、<芸術>のアレゴリーであるストリックランド像を追い求める物語であるともいえるかもしれない。

とも書かれていて、そう、自らも小説家という芸術家である「わたし」が、いまや神聖な芸術家となったストリックランドを追及する話という視点が、先日の感想には抜けていたなと思い至った。

 いま冒頭の章を読み返してみると、「わたし」が、自らの芸術である「本」について考察するところが胸に迫ってくる。「わたし」は魂を鍛えるために、あえて嫌なことを自らに課すのだが、そのうちひとつに、文芸誌を読むということを挙げており

おびただしい数の新刊本、著者が抱く希望、新刊本がたどる運命、それらについて考えることは、魂の健康にとってよい鍛錬になる。いったいどれだけの本が後世にまで残るのだろう?金原瑞人訳)

いま書かれつつある厖大な数の本を思い、その出版を切望する著者の思いを思い、現実にその本を待ち受けている過酷な運命を思ってきた。これは実に有益な心の鍛錬となる。土屋政雄訳)

うーーん、考えさせられますね。現代の本の状況にどんぴしゃりのような気もする。翻訳大賞の希望あふれる話から、結構現実的なしょっぱい話になってしまいました。。。

 

チェコ文学ってどんなの?? 『エウロペアナ』に『約束』、『火葬人』などの訳者 阿部賢一さんトークイベント

 さて今日は、京都のモンターグ・ブックセラーズで、翻訳者阿部賢一さんによるチェコ・東欧文学についてのトークイベントを見てきました。
 といっても、チェコ・東欧文学というと、アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んだことがあるくらいで、ほとんど知らないのですが、まあ第一回日本翻訳大賞に選ばれた『エウロペアナ』は一応読んだし……と思って参加してきました。 

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

 

  『エウロペアナ』は、一見ノンフィクションのような体裁で、二十世紀の歴史が俯瞰して綴られているが、けれどあくまでフィクションであり、虚実ないまぜというか、真面目な顔で冗談を言うような、人を食ったような内容に、いったいどこまでほんとうなのか、どこまで真剣なのかが捕えがたく、最初に読んだときは少々戸惑ったけれど、いま読み直してみると、なかなか興味深い。数年前と比べても、現実社会が虚実ないまぜの世界に近くなっているからかもしれない。 

共産主義者とナチは、物事の自然な摂理にもとづく世界を樹立する必要性を主張した。  

民主主義はすべてを蝕む根源であり、人びとが同性愛者、無政府主義者寄生虫懐疑主義者、個人主義者、アル中になっていくのを助長する。

 
 って、これを書いた時点(原著は2001年刊)では、ブラック・ジョークだったのかもしれないけれど、ジョークではない世の中にどんどんとなってきている。
 
 ちなみに、今日のお話によると、やはりこういう虚実ないまぜのスタイルのせいか、著者からは「”訳注”をつけてはいけない」というお達しがあったとのことでした。たしかに、この作品で”訳注”をつけて、ここはホントでここはジョークとか書いたら、台無しですしね。
 
 今日のトークは、最新作の『約束』をはじめ、おもに阿部さんが訳された本を紹介していく形で進み、チェコや東欧にたいする専門知識がまったくなくても楽しめました。

 

約束

約束

 

  この『約束』は、公式の紹介文によると 

ナチの命で鍵十字型邸宅を建て、戦後、秘密警察に追われる建築家。妹を失い、犯人を監禁する地下街を造る。衝撃のチェコノワール

  とのことで、阿部さんの推薦コメントも、「建築家の暗い過去。そして都市ブルノの暗い歴史が次々と披露される。そこに広がっていたのは、あまりにもグロテスクで、あまりにもブラックな世界だった」とのことで、難解な小説ではなく、ブラック・ユーモアあふれるノワール、とにかく「黒い」小説のようでおもしろそうだった。

 
 あと、紹介されていた本のなかでは、『火葬人』もすごく気になった。映画化もされたので、ご存じの方も多いかもしれませんが、これも公式の紹介文によると 

1930年代、ナチスドイツの影が迫るプラハ。葬儀場に勤める火葬人コップフルキングルは、愛する妻と娘、息子に囲まれ、平穏な日々を送っているが……

  で、推薦コメントによると、「ここまで不気味かつ滑稽な人物(加害者)を描いた小説は、本作をおいて、他にはないかもしれない」「恐怖と笑いが表裏一体となる稀有な作品」とのことで、つい買ってしまった。典型的な「思考停止してナチスの言うことを鵜呑みにする」火葬人コップフルキングルが、思いっきり戯画化して描かれているようだ。ヴォネガットの『母なる夜』みたいな話なんだろうか。映画もよくできているとのことです。 

火葬人 (東欧の想像力)

火葬人 (東欧の想像力)

 

  それにしても、なんでまたチェコ文学を専門にしようと決めたのだろう…?
 と、気になっていると、みんな考えることは同じなのか、質疑応答の時間でほかのお客さんが質問していました。


 案外「たまたま」とか「なんとなく」だったりするのかな……と予想していると、まったくそんなことはなく(すみません)、なんでも高校生のとき、ちょうどベルリンの壁ソ連が崩壊したりと、東欧が大激震している時代だったので興味をもちはじめ、そしてカレル・チャペックを読んだり、チェコ語の難解さを知ってかえって興味がかきたてられたときに、ちょうど東京外大でチェコ語の専攻がはじまったので、受験したとのことでした。
 なんて意識の高い高校生だったんだ!とおどろきました。私なんて、オールナイトニッポンとかのAMラジオを聞くのにいそがしい高校生で、世界情勢なんてこれっぽっちも考えたことがなかった、、、

 質疑応答の時間はほかにも、客席から翻訳者の吉田恭子さんも参加して、アメリカの大学での話をして頂いたりと結構盛りあがり、貴重な話をいろいろ聞くことができました。しかし、いつも書いているけど、読みたい本がどんどん積みあがっていく……200年くらい生きないといけないんじゃなかろうか。

美と世俗、芸術と凡庸――対比を鋭く描いた『月と六ペンス』(サマセット・モーム 金原瑞人訳)

「じゃあ、どうして奥さまを捨てたんです?」
「絵を描くためだ」
 わたしは目を丸くして相手の顔をみた。意味がわからなかったのだ。この男は頭がおかしいのだろうかと思った。覚えておいてほしいが、わたしはまだ若かった。ストリックランドがただの中年男にしかみえていなかった。わたしはあっけに取られ、予測していた答や問いはみんな忘れてしまった。
「しかし、もう四十じゃないですか」
「だから、いましかないと思ったんだ」

  

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

  この『月と六ペンス』は、多くの人がご存じでしょうが、画家ゴーギャンをヒントにして書かれたものであり、ゴーギャン同様に家庭を持った株式仲買人として、順風満帆な人生を送っていたはずのストリックランドが、突然仕事をやめて、ロンドンの家を飛びだしパリに行ってしまう。
 主人公の「わたし」は若い小説家であり、芸術家との社交が趣味であったストリックランドの妻と知り合いだったため、頼まれてストリックランドを探しに行き、どうして家を出たのか問いただす場面が、上記の引用である。

 
 家出を知ったストリックランドの家族も親戚もすべて、きっと女と逃げたにちがいないと決めつけ、「わたし」も当然そう思っていたのだが、絵を描くためという思いもよらぬ答を聞いて、度肝を抜かれる。そう、訳者あとがきでも
 

「(満)月」は夜空に輝く美を、「六ペンス(玉)」は世俗の安っぽさを象徴しているのかもしれないし、「月」は狂気、「六ペンス」は日常を象徴しているのかもしれない。

  と書かれているように、この小説は最初から最後まで、美や芸術の世界と、凡庸な日常、通俗的な価値観が徹底的に対比されて描かれている。単に前者だけ、ストリックランドが美や芸術をストイックに追い求める姿だけを描いていたなら、きっとつまらない、それこそ凡庸で通俗的な小説になっていただろう。


 それが一番よくあらわれているのは、第二の主役とも言える、なんならストリックランドより印象に残るかもしれない、ストルーヴェの生き方だ。

 画家であるストルーヴェは美についてきわめて鋭い感性を持ち、だれも理解できなかったストリックランドの絵をまっさきに評価する。けれど、自分が描く絵は、感傷的で凡庸な、”絵のように美しい”風景画であり、印象派が次々と新しい趣向を打ち出している当時では、完全に時代遅れの代物だ。二流画家である自分に満足し、周囲の人々に限りないやさしさをみせ、どんな目に遭わされてもひたすらストリックランドに尽くし続ける。

 エゴイスティックに自らの芸術を追い求めるストリックランドのような人物を描くことは、そんなに難しくないと思うが、この道化のような、聖者のような、ストルーヴェを描き出したのが、モームの作家としての凄さなんだろう。また、ストリックランドも芸術以外に一切目を向けない聖者として描かれているわけではない。金銭や名誉への執着はさっさと捨てたものの、肉欲は捨てきれず、女の肉体に安らぎを求めようとする。しかし、女は安らげだけを与えてくれる存在ではない。そこで悲劇が生まれる。
 
 物語の後半では、「わたし」やストルーヴェとも別れて、ひとりタヒチに発ったストリックランドが描かれる。
 といっても、ストリックランドを主人公とした物語が繰り広げられるわけではなく、ストリックランドの死後、「わたし」がストリックランドと関わった人たちから断片的に話を聞くというスタイルをとっていて、「わたし」との丁々発止のやりとりや、ストルーヴェとのスリリングな関係が描かれていた前半にくらべると、読んでいて少々まどろっこしく感じるのは事実だが、これも、ストリックランドが芸術を追い求める姿、「月」をそのまま描くのではなく、それをまったく理解していない噂好きで凡庸な人たちの視線から語ること、「六ペンス」が必要だったのだろう。

 ストリックランドは、タヒチの女からこれまで得ることのできなかった限りない安らぎを手にするものの(まあ、このあたりの描き方は、現在のフェミニズムの視点からは異論があるでしょうが)、難病にかかり、壮絶な、でもある意味幸せな最期を迎え、それはまさに芸術家の最期にふさわしいものなのだけど、この物語はそこでは終わらない。

 聞き取りを終えた「わたし」は、ロンドンに戻り、ストリックランドが捨てた家族に顛末を報告する。妻は、捨てられたときの激しい怒りもなかったことのように、いまは天才画家と呼ばれている、かつての夫の話をするのが自分の使命とばかりに誇らしげな様子を見せる。
 
 と、ここで、この小説の冒頭とつながっていることに気がつく。冒頭では、この物語を語っている時点でのストリックランドを巡る状況が書かれていて、単なる導入部かのように思えるが、ここからすでに芸術と対照的な「俗」の価値観がしっかりと提示されていたのだった。
 芸術をテーマとして描きつつ、「俗」ではじまり、「俗」で終わるこの小説。イギリス人作家って、ほんと一筋縄でいかないな、とあらためて感じた。

圧倒的な孤独を描いた短編集 『レキシントンの幽霊』(村上春樹)

さっきロンハー見てたら、ジャルジャルの福徳の部屋にブタの貯金箱が置いてあって、前回の『コドモノセカイ』のエドガル・ケレットの作品を思い出してしまった。

 いや、それはともかく、村上春樹の新作『騎士団長殺し』って、最初は冗談かと思った。虚構新聞かなにかの類の。どうしても、「ワンナイトカーニバル~」と歌う翔やんが殺されるのかと思えてしまうが…(ベタですいません)
 
 で、この季節になると読み返してしまうのが、『レキシントンの幽霊』に収録されている短編『氷男』だ。 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 

氷男は暗闇の中の氷山のように孤独だった。

そして私はそんな氷男のことを真剣に愛するようになった。氷男は過去もなく未来もなく、ただこの今の私を愛してくれた。そして私も過去も未来もないただこの今の氷男を愛した。それは本当に素晴らしいことのように思えた。

  人間の男と氷男とはどこが違うのだろう? なにもかもが凍てついた南極と、私たちが住んでいるこの世界はどこが違うのか? 過去を氷に閉じこめ、未来も消去して、ただ今だけを生きることがどうしてこれほど孤独になるのか?  

私はほんとうにひとりぼっちなのだ。世界中の誰よりも孤独な冷たい場所にいるのだ。私が泣くと、氷男は私の頬にくちづけする。すると私の涙は氷に変わる。 

 しかし、いまこの短編集を読み返すと、どの話も圧倒的な孤独を描いていることにあらためて気づく。『トニー滝谷』も、孤独な男滝谷省三郎から生まれた、孤独な息子トニー滝谷の人生を描いている。トニー滝谷は、恋に落ちて結婚することによって孤独から脱出したかのように見えたが、実は、その孤独は妻に伝染していただけのようにも思える。妻は服を買いあさったすえに、あっさりとトニー滝谷の人生から姿を消す。妻が去ったあと、やってきた女が綺麗な服を見て涙を流す場面は、『グレート・ギャツビー』を思い起こさせる。けれど、この物語はたしか映画や舞台になっていたように思うけれど、どんな感じだったんだろう?
 
 そして『沈黙』は、村上春樹の短編にはめずらしく、学校というリアルな社会での厳しい状況をストレートに描いたものであり、読者とのメールのやりとりなどを見ていると、やはり学校などで、そういうつらい思いをしたことのある読者に人気のようだ。いま読むと、『多崎つくる』につながるものもあるような気がする。

でもね、僕は思うんです。たとえ今こうして平穏無事に生活していても、もし何かが起こったら、もし何か悪意のあるものがやってきてそういうものを根こそぎひっくりかえしてしまったら、たとえ自分が幸せな家庭やら良き友人やらに囲まれていたところで、この先何がどうなるかはわからないんだぞって。

  どの作品も、初期の『中国行きのスロウ・ボート』や『パン屋再襲撃』などに収められている短編と違って、ユーモアやとぼけた感じは影をひそめ、もちろん”100パーセントの女の子”なんていうような祝祭感はまったくなく、そして『東京奇譚集』以降の作品のような、よくできた「物語」感もなく、それでも、上に書いた『沈黙』や『トニー滝谷』のように一度読むと胸に深くくいこむ作品が多い。『めくらやなぎと、眠る女』は、昔の作品をエディットしているのだけれど、単に短くしただけではなく、感触がどことなく、でもはっきりと変わっている。

 
 さて、『騎士団長殺し』、どんな作品なんでしょうか。考えたら、最近の作品は『1Q84』にしても、『多崎つくる』にしても、サスペンスっぽい要素を取り入れていたけれど、今回は”殺し”とタイトルからしてそのままズバリである。予想通り、物騒な(?)作品なのか、もしかしたら『羊をめぐる冒険』みたいな感じに戻ったりもするのだろうかという期待もある。まあなんだかんだ言いつつ、楽しみです。

<見えない敵>と戦う、子供の過酷な日々を描いたアンソロジー 『コドモノセカイ』(岸本佐知子編訳)

 子供の頃は毎日がバラ色だった、なんて人いるのだろうか? 子供時代というと、幸福の象徴のように思われることが多いが、そんなことってあるのだろうか? 
 『コドモノセカイ』を編訳した岸本佐知子さんは、あとがきでこう書いている。 

コドモノセカイ

コドモノセカイ

 

町で子供を見かけると、私はいつも少し緊張する。たとえその子が笑ったり元気に走りまわったりしていても、それはうわべだけのことなのではないか。この小さい体の中では本当はいま嵐が吹き荒れているのではないかと想像してしまう。 

それなりに長く生きてきて、いろんな苦しいこと怖いこと恥ずかしいことはあったけれど、振り返ってみても、大人になってからより子供時代のほうがずっと難儀だった。ことに幼稚園は、まじり気なしの暗黒時代だった。 

 よくわかる。ひとりっこで育った私も、幼稚園でいきなり子供の群れに放りこまれて、なにがなんだかだったのをかすかに記憶している。
 
 そしてこの『コドモノセカイ』は、そんな子供の過酷な日々を描いた短編のアンソロジーである。過酷な日々といっても、内戦やテロが舞台になっているわけではないが――いやもちろん、そういった環境のもとにある子供たちは、ほんとうに過酷な日々を送っていると思うが、一見ありふれた日常で暮らす子供たちも、内面は<見えない敵>と戦っているということがよくわかる。
 
 <見えない敵>という言葉は、この本に収録されているジョイス・キャロル・オーツの『追跡』で書かれていて、まさに「コドモノセカイ」をよく表している。『追跡』は初期の短編らしいが、『アグリー・ガール』や『二つ、三ついいわすれたこと』などの、のちに作者が手がけるビターなヤングアダルト作品につながるものがある。というか、あとがきでもあるように、恐るべし多作のこの作者、なんでも手がけているようですが。多作過ぎて敬遠されているのかもしれないが、日本でももっと紹介されたらいいのにといつも思う。 

アグリーガール

アグリーガール

 

  

二つ、三ついいわすれたこと (STAMP BOOKS)

二つ、三ついいわすれたこと (STAMP BOOKS)

 

  あと、ほかの作品も読んだことのある作家というと、『ジェーン・オースティンの読書会』が日本でもよく知られているカレン・ジョイ・ファウラーの『王様ネズミ』は、しみじみとした余韻の残る、この本のなかで一番ストレートに胸に迫る話だった。最後の「二つのこと」には、涙が出る人もいるのではないだろうか。 

ジェイン・オースティンの読書会

ジェイン・オースティンの読書会

 

  その次のアリ・スミスの『子供』は、うってかわって”邪悪な子供”系の話で、これはまたおもしろかった。いまの時流を反映した、イギリスの作家らしい皮肉なユーモアだ。『変愛小説集』の『五月』の作家か……読んだはずだけど、すぐに思い出せない。ほかの作品も読んでみたくなった。

 いや、ここに収録されている作家、どれも「ほかの作品も読んでみたい」なのだ。先に書いたジョイス・キャロル・オーツですら、ノーベル賞候補と言われながら、日本でそんなに紹介されているわけではないので、やはり単著として紹介されるには、高いハードルがあるのだろう。

 
 あと、最近人気のエドガル・ケレットも二編収録されており、なんとなく難解系の作家なのかと勝手に思っていたけれど、二編ともまったくそんなことはなくて非常に読みやすく、かつ非常におもしろく、『突然ノックの音が』や『あの素晴らしき七年』も読んでみたくなった。しかし、ブタの貯金箱にお金を入れて、貯まったらかち割って取りだす……って、万国共通なんですね。 

突然ノックの音が (新潮クレスト・ブックス)

突然ノックの音が (新潮クレスト・ブックス)

 

  

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

 

  そのほかの作品もハズレなしで、短編なのでどれもすぐ読めるし、海外文学初心者(私含む)や、子供を描いた作品って、甘々な”いい話”なんじゃないの~と偏見を持ちがちな人(私含む)におすすめの作品集です。

 
 そういえば、訳者の岸本さんも審査員をつとめている、日本翻訳大賞の第三回推薦作も募集がはじまってますね。いま見たら、もう推薦文のいくつかがアップされていました。この推薦文、ほんと参考になるので楽しみにしている人も多いことでしょう。みんなすごい上手に紹介されてますね。今年はどの本にしようかな……