もうすぐ日本翻訳大賞しめきり 再度『月と六ペンス』を読んでみた
さて、ミュージカル『キャバレー』を見に行ったりしているうちに、日本翻訳大賞の応募締め切りが近づいていました。
(ちなみに、『キャバレー』はなんの予備知識もないまま行ったので、こういう話だったのか!とおどろいた。(いまさらかもしれませんが)
このいまの時代に再演する意義を感じた。残念ながら、後ろの方の席だったので、長澤まさみ嬢のセクシー衣装はあまり堪能できなかったけど。小池徹平くんは、去年の『ちかえもん』でいい演技をみせていましたが、今回も頑張っていました)
この翻訳大賞、前回の選考時の座談会でも話題になっていたように、作品の良さで選ぶのか、翻訳の良さで選ぶのか、そもそも、作品の良さと翻訳の良さは切り離すことができるのかよくわかりませんが、とりあえず「おもしろかった」「もっと読まれてほしい」「翻訳の意義を感じた」作品を選ぼうとは思っているのですが、まあでもとにかく、推薦文を読んでいるだけでも、じゅうぶんおもしろくて、今後の読書の参考になる。
そこで、こないだ読んだ『月と六ペンス』ですが、金原瑞人訳に続いて、土屋政雄訳を見てみると、翻訳とはほんとうに興味深いものだと感じる。
冒頭部分を例に挙げると
正直いって、はじめて会ったときは、チャールズ・ストリックランドが特別な人間だなどとは思いもしなかった。いまでは、ストリックランドの価値を認めない人間はいない。(金原瑞人訳)
いまでは、チャールズ・ストリックランドの偉大さを否定する人などまずいない。だが、白状すると、私はストリックランドと初めて出会ったとき、この男にどこか普通人と違うところがあるとは少しも思わなかった。(土屋政雄訳)
I confess that when first I made accquaintance with Charles Strickland I never for a moment discerned that there was in him anything out of the ordinary. Yet now few will be found to deny his greatness.(原文)
どちらも原文と言っている内容は同じなのですが(当然ながら)、印象がどことなく異なる。
日本の現代小説が、設定も身近で感情移入しやすいという意見もたしかによくわかるのだけれど、こうやっていくつもすぐれた訳が出るのは、海外の名作にしかない強みだと思う。
あと先日の感想で、「月」(芸術)だけではなく、それと切り離せない「六ペンス」(通俗)について深く考察されているのがこの小説の特徴ではないかと書きましたが、この光文社古典新訳の解説でも、
この小説は、第一次世界大戦前後の世界における芸術に位置づけを巨視的に見つめ、芸術や芸術家の意味が、資本主義や大衆消費社会の発展によって変化を余儀なくされていることを浮き彫りにしている。
とあり、続けて
少し穿った見方をするなら、この小説は、モームの分身である語り手が、<芸術>のアレゴリーであるストリックランド像を追い求める物語であるともいえるかもしれない。
とも書かれていて、そう、自らも小説家という芸術家である「わたし」が、いまや神聖な芸術家となったストリックランドを追及する話という視点が、先日の感想には抜けていたなと思い至った。
いま冒頭の章を読み返してみると、「わたし」が、自らの芸術である「本」について考察するところが胸に迫ってくる。「わたし」は魂を鍛えるために、あえて嫌なことを自らに課すのだが、そのうちひとつに、文芸誌を読むということを挙げており
おびただしい数の新刊本、著者が抱く希望、新刊本がたどる運命、それらについて考えることは、魂の健康にとってよい鍛錬になる。いったいどれだけの本が後世にまで残るのだろう?(金原瑞人訳)
いま書かれつつある厖大な数の本を思い、その出版を切望する著者の思いを思い、現実にその本を待ち受けている過酷な運命を思ってきた。これは実に有益な心の鍛錬となる。(土屋政雄訳)
うーーん、考えさせられますね。現代の本の状況にどんぴしゃりのような気もする。翻訳大賞の希望あふれる話から、結構現実的なしょっぱい話になってしまいました。。。