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快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

匿名の住民たちが恐怖に陥る、街を描いたサイコ・スリラー――『九尾の猫』 エラリイ・クイーン

  前回の『十日間の悲劇』で探偵を辞めると固く決心したエラリーだったが、地元ニューヨークで連続殺人事件が発生する。被害者たちには一見なんの共通項もなく、無差別殺人かとニューヨークの住民たちは震撼する。父親のリチャード警視から捜査に協力するよう要請されたエラリイは激しく惑い…… 

九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

  というわけで、前々回の『十日間の悲劇』に続いて、『九尾の猫』も読みました。さっき、「激しく惑い……」と書きましたが、実のところ、『十日間の悲劇』の最後で

あなたのおかげで、ぼくはこれ以上そういうことを続けることができなくなりました。ぼくは終わりです。ぼくは今後、決して二度と事件には関係しないつもりです。

 とまで言っていたのに、本作の導入部でさくっと「ぼくも一緒に(事件現場に)行きますよ」とあっさり前言を翻している。

 いや、まあ、そうでないと物語がはじまらないのですが、しかし結局、エラリイはこの作品でも散々苦しめられ、「またしても手遅れだった」と慟哭することになる。


 ここからはネタバレになるかもしれないので、未読の人はお気をつけください。


 先日の読書会で、大都会ニューヨークを舞台にしたこの作品は、「街」自体を主役にした作品であり、『災厄の町』や『十日間の悲劇』といった架空の田舎町ライツヴィルを舞台にした作品と対照的であると聞いて深く納得した。
 
 たしかに、『十日間の悲劇』では、ハワード、サリー、ヴァン・ホーン、ウルファートといった一家の面々を詳細に描写しているのに対して(『災厄の町』でも同様に、ライツ家の人々を細かく描いている)、この作品は被害者も、そして、犯人すらも顔が浮かんでこない、限りなく匿名に近い存在である。9人の被害者は新聞記事の抜粋のような情報を羅列されるだけで、どういう生活を送り、どうやって殺されたのか最後までわからない。

 読書会でも話題に出たが、犯人の心理についても最後まで推測に留まり、犯人が具体的にどうやって被害者に接近して殺したのかも書かれていないので、読んだときは釈然としない気持ちになったけれど、作者が描きたかったのは、顔のない群集のひとりである被害者、影のような存在の犯人、そして恐怖に陥いる街だったのだろう。
 その証拠とも言えるのが、街が大パニックになる場面であり、ここで被害者の9人を大幅に上回る39名が死亡するが、大都会ニューヨークにおける39人なんてたいしたことではないと言わんばかりに、さらっと流されている。

 解説では、この作品のパニック描写は第二次世界大戦の騒乱を背景にしているが、現在の視点から読むと、9/11などのテロに脅える街の姿と重なる、と書かれていて、その通りだと感じた。街を舞台にしたシリアル・キラー作品ということ自体が、当時としては非常に斬新だったのだろうが、街の様相や見えない恐怖に脅える住民の姿はいまでも変わらない。


 そして、『十日間の悲劇』に続いて、ここでも犯人の動機について、心理学的なアプローチがなされている。といっても、先に書いたように犯人の独白などはなく、精神病に対する認識も現代から考えると雑な感じは否めないが
 
     ***ここからは一層のネタバレになりますが***

 夫婦の相克が興味深かった。一気に下世話な話になりますが、自分が取りあげた子でありながら、ほんとうに自分の子なのかとカザリンが疑うところは喜多嶋舞騒動が頭に浮かび、また、やはり二十歳以上年が離れた夫婦は難しいのだろうか……と高橋ジョージ問題も想起した。けど、真面目な話、女性が名前のない存在であることを指摘するあたりは、エラリイ・クイーンはこの時代において先駆的なフェミニストだったのではないでしょうか。


 あと読書会では、セリグマン博士(彼が黒幕ではないかという意見もあった)の家政婦のキャラが立ちすぎ、パンチきいてると話題になりましたが、考えたら、クイーン家のジューナはどこに行ったのだろう?