快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

はじめての海外文学@梅田蔦屋書店(2019/01/26)前編 『ピアノ・レッスン』(アリス・マンロー 著 小竹由美子訳)など

 さて、先週土曜日は、梅田蔦屋書店で行われたイベント「はじめての海外文学」に行ってきました。 

 「はじめての海外文学」って何なんそれ?
 という方もいるかと思いますが、ふだん海外文学になじみのない読者に向けて、翻訳者さんがおすすめの本を紹介するという趣旨のもと、書店でのフェアや読書会を開催し、今回のように、翻訳者さんが登壇しておすすめの本をプレゼンするというイベントも行ったりと、
 要は、海外文学ビギナーのためのファンミのようなもの……? いや、ファンミというと閉鎖的な感じもしますが、誰でも参加できるオープンな会です。

 で、東京では何回か開催されていたけれど、大阪では今回が初のイベント。8人の翻訳者さんが、10分の持ち時間でそれぞれのおすすめ本について語ってくれました。
 ※ちなみに、以下のレポートは、誰々がこう語ったと明記しているところ以外は、私の(勝手な)感想です。

 まず、トップバッターの越前敏弥さんがプレゼンしたのは、自らの訳書『おやすみ、リリー』。 

おやすみ、リリー

おやすみ、リリー

 

  ここでも紹介したように、動物を愛するひとすべてに読んでもらいたい本。

 犬でも猫でもペットを飼っているひとなら、常に感じていることだろうが、私たちが犬や猫にしてあげていることより、犬や猫から私たちが受けとるものの方がずっと多い。(おそらく子育てもそうなのでしょう)そのことがひしひしと強く伝わってくる。


 ずっとリリーに支えられてきた「ぼく」が、これからは自分がリリーを守ろうと奮闘するさまが、ときにコミカルに、ときに胸に迫り、思わず「ぼく」に感情移入し、ひきこまれてしまう。

 動物が好きだからこそ、こういう本はつらくて読めない……というのはよくわかる。でも、別れはいつかは訪れるものなので、そのときの予行演習だと心を決めて読んでみてはどうでしょうか。


 越前さんが話されていたように、タコと「ぼく」のやりとりも絶妙。ビートたけしの口調を意識して訳したとのことだけど、『テッド』の有吉あたりを想像してもよさそう。

 ほかには、先日惜しくも亡くなられた(「惜しくも」という言葉がこれほどあてはまる事態はそうそうない)天野健太郎さんの訳書『星空』を紹介し、先日のお別れ会で配られた遺稿集をまわしてくれたのが有難かった。 

星空 The Starry Starry Night

星空 The Starry Starry Night

 

  じっくりとは読めなかったけれど、台湾の本を日本に紹介するにあたり、天野さんがどれくらい真剣に戦略を練っていたのかがよくわかった。『歩道橋の魔術師』のヒットは偶然の産物ではなく、ある意味必然ですらあったのだろう。
 だからこそ、ほんとうに惜しいひとを失ったな、と……

 次の小竹由美子さんがプレゼンしたのは、BOOKMARK13号にも紹介されているグラフィックノベル、『マッド・ジャーマンズ ドイツ移民物語』。冷戦下にアフリカのモザンピークから東ドイツに移民した、ふたりの少年とひとりの少女の物語。小竹さん曰く、文章も絵もシンプルでありながらリリカルな物語らしい。 

マッドジャーマンズ  ドイツ移民物語

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語

 

   小竹さんと言えば、やはりノーベル賞作家アリス・マンローの翻訳の印象が強い。
ということで、マンローの『ピアノ・レッスン』も紹介された。 

ピアノ・レッスン (新潮クレスト・ブックス)

ピアノ・レッスン (新潮クレスト・ブックス)

 

  こちらはマンローの初期作品集で、マンローをはじめて読むひとにもおすすめとのこと。これを読めば、「男のひとは女がわかる、女のひとならぐっとくるはず」という小竹さんの熱弁に胸を打たれて購入した。(いや、最初から買うつもりだったのですが)


  さっそくいま読んでいるところだけど、たしかにどの短編もストーリーにすっと入りこめる。これだけ読みやすいのに、短い物語に人生がぎゅっと凝縮されている味わいは、のちのマンローの作品と変わらない。

 訳者あとがきで、「マンローはまさに真のフェミニストであると思う」と書かれているけれど、「わたしには仕事場が要る」とマンローに近いと思われる主人公が決意する「仕事場」は、どうしてもヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を想起させる。

 この短編では、仕事場を借りることはすんなりと成功するのだが、その後の顛末がなかなか数奇で(でも、こういうひといるよな…という気もする)、人生の奇妙な味わいについて考えさせられる。
 そのほかにも、作者の子供時代や少女時代の思い出を材料にしているような、少女たちの繊細な心の動きや痛ましさが描かれている物語がとくに印象的だった。

 

 次の芹澤恵さんがプレゼンしたのは、『マンゴー通り、ときどきさよなら』。 

マンゴー通り、ときどきさよなら (白水Uブックス)

マンゴー通り、ときどきさよなら (白水Uブックス)

 

  先程の『ピアノ・レッスン』も、少女が成長していく過程の出来事が綴られている短編が多かったが、こちらも移民一家の少女の成長を描いた物語らしい。

 移民というとアメリカンドリーム的なものを連想するが、この主人公の少女は、「希望」という意味を持つ自分の名前を毛嫌いしているとのこと。自分なりの「希望」を探し求める話なのだろうか。読んでみたくなった。

 そして、自らの訳書のキャサリンマンスフィールドの『不機嫌な女たち』と、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の紹介も。 

  キャサリンマンスフィールドは日本では早くから紹介されていたけれど、早すぎたのではないか、と。いまようやく時代が追いついたような気がする、と語られていた。

 たしかにそんな気もする。いや、「ガーデン・パーティー」などの代表作しか読んだことがないけれど、アリス・マンローのところで表現した「女ならぐっとくる」「少女の繊細さや痛ましさ」という言葉が、こちらにもぴったりとあてはまるように思えるので、いまこそ読むべき作家なのかもしれない。

 『フランケンシュタイン』は、やはり映画『メアリーの総て』も話題になったので。ここで『ヒロインズ』を紹介したときに、『メアリーの総て』の感想も書いたけれど、おもしろかったので原作も読まないと。

 次の田中亜希子さんは、『サキ 森の少年』をプレゼン。 

サキ―森の少年 (世界名作ショートストーリー)

サキ―森の少年 (世界名作ショートストーリー)

 

 あとに登壇された和爾桃子さんも訳されているように、サキのアンソロジーはたくさんあるけれど、こちらは児童文学の翻訳で定評のある千葉茂樹さんの訳なので、海外文学のビギナーにもたいへん読みやすく、けれども、サキ特有のシニカルなオチはじゅうぶんに楽しめる短編集とのこと。

 いま検索したら、有名な「開いた窓」に、言葉を理解する猫が登場する、私も好きな「トバモリー」が収録されている。ほかの訳と読み比べてみるのもいいかも。

 また、千葉さんと同じく田中さんも児童文学を専門としているので、自分の訳書では『ぼくはアイスクリーム博士』という絵本を紹介。 

ぼくはアイスクリーム博士

ぼくはアイスクリーム博士

 

 「だいすきなアイスでいつも頭がいっぱい」で「なんでもアイスに結びつけ」るジョーくんの物語らしい。
 
 気持ちわかる! いや、私はアイスはそれほど好きではないけれど、パンやあずきのことばっか考えたり、しょっちゅう食べログでおいしいぜんざいの店を探したりしてしまう。

 しかし、おとながお菓子ばっかり食べていても、絵本にならないのが悲しい。絵本どころか、セットになるのは肥満や糖尿病だ。はては、勝手に検索履歴をチェックされて、こんな本が広告欄にあがってきたりする始末。 

あんこ読本  あんこなしでは生きられない

あんこ読本 あんこなしでは生きられない

 

と、最後はついどうでもいいことを書いてしまったが、とりあえず前編はここまで。


 イベントでは個々の本の話を聞くのが楽しく、またあとで振り返ると、現在の日本ではどのように海外文学が受容されているのか、海外文学を読んでもらうためにはどうしたらいいのか、考えるきっかけになった2日間でした。自分なりに、考えをまとめていきたいと思います。

生身の人間たちによる公民権運動の記録 『March』(ジョン・ルイス、アンドリュー・アイディン 作 ネイト・パウエル 画 押野素子 訳)

 先週末、スーパーで買ったお好み焼きと焼きそばのセットを食べたところ、焼きそばの油が合わなかったのか(もしくは単に食べ過ぎたのか)、食あたりになって寝込んでしまいました。
 読書会の告知文書きにも、日本翻訳大賞の投票にも後れを取ってしまいましたが、とりあえず、BOOKMARK最新号にも紹介されているこちらの本をご紹介。 

MARCH 1 非暴力の闘い

MARCH 1 非暴力の闘い

 

    この『March』は、アメリカの公民権運動の闘士、ジョン・ルイス議員の半生を描いたグラフィックノベルである。

 第一巻の冒頭は、アラバマ州セルマのエドモンド・ベタス橋で黒人のデモ隊が警官隊と衝突するところからはじまる。
 「やってやれ!」「ニガ―ども」と、警官隊は力でデモ隊を制圧するだけにとどまらず、容赦なく催涙ガスまでふりまく。

 次の舞台は2009年1月20日のワシントンDCへ飛ぶ。オバマ大統領の就任式だ。そこに招かれるジョン・ルイスが、少年時代からここに至るまでの歩みを振り返るという形で、ストーリーが語られていく。

 おそらく大方の人は、1861年南北戦争勃発、1863年エイブラハム・リンカン(最近の教科書は「リンカーン」ではないらしい)の奴隷解放宣言、そして1950年代、白人に席を譲ろうとしなかったローザ・パークスが逮捕された事件を皮切りに公民権運動が盛りあがり、マーチン・ルーサー・キング牧師の指揮のもと1964年に公民権法が成立された、といった世界史的な流れはご存じのことだろう。

 しかし、この本を読むと、歴史の教科書では、「公民権運動が盛りあがった」という一行で片付けている事実の裏側で、どれほどの怒りや悔しさといった生身の人間の感情があふれ、どれほどの痛みが伴い、どれほどの血や涙が流れたのかが、痛烈に伝わってくる。

 そう、この本からは、差別をする側もされる側も、生身の人間であるということがよくわかる。

 差別をされる側も、差別を覆したいという目的を共有していても、当たり前だが、考えていることはひとりひとり異なっている。よって、「公民権運動」といっても、実際にはなかなか一枚岩にまとまらない。

 徹底的に非暴力でありながら、どこまでも妥協せず、黒人禁止の場所で座りこみやデモを続けるジョン・ルイスたちに対し、「いったん中止すべきだ」と宥和策を提案する仲間もいれば、逆に、そんなやり方は手ぬるい、少なくとも暴力を受けたら反撃すべきだと主張する仲間もいる。

 第一巻では、当時の代表的指導者であるサーグッド・マーシャル(ウィキペディアによると、アフリカ系アメリカ人初の合衆国最高裁判所判事になった人物らしい)が、「刑務所を出してやるといわれたら出るんだ!」と同胞たちを諭しているのを聞いた、若きルイスは納得できないものを感じ、「伝統的な黒人の指導者層に対しても抵抗しなければならない」と決意する姿が印象的だった。

 フェミニズムや反貧困運動など、どんな運動であっても、内部でのさまざまな意見の対立や、過去の指導者が脱け出せない価値観や因習を乗り越えることがなによりも大事な点であり、それによって運動体はさらに力を得て、その哲学が研ぎ澄まされるのだろう。

 そして、差別する側も生身の人間である、ということも忘れてはならない。

 認めたくない事実、とまで言うとおおげさだが、しかしこの本の中で、とことんまでルイスたち運動家を痛めつけ、女でも子どもでも暴力の標的にし、何人もの命を奪っていく白人至上主義者たちが、私たちと同じ人間であるとはどうしても信じがたい。
 けれども、第二巻の大森一輝の解説にあるように、「南部の白人は狂人でも鬼や悪魔でもなかった」のである。 

人種差別をしていたのは、生まれ育った地域を愛し、それまで「当たり前」だった暮らしや流儀を壊させまいとしていた、私たちと同じ「普通」の人間だったのです。

  大森氏は続けて、非難する相手を悪魔化し、自分は絶対にあんなことをしないと思ってしまうと、差別を「自分と関係のない特殊な出来事」だと考えてしまう陥穽に陥る可能性を指摘している。

 そうではなく、差別をする側、される側が無くならないかぎり、自分もまた差別する側、される側であり続けるのだ。自由ではないひとがいる限り、自分もまた自由ではないのだ。

 第三巻で指導者のひとりであるボブ・モーゼズが、「ミシシッピの黒人を『助ける』ためには来ないでほしい 彼らの自由と君たちの自由が一つのものだと心から理解できたら来てくれ」と呼びかけているのは、きっとそういうことなのだろう。

 といっても、いまの私たちの感覚では、人種隔離を主張する白人たちの気持ちを理解するのは難しい。そういう相手も同じ人間で、愛や良心を持ちあわせているはずだ、とはなかなか思えない。

 だが、ルイスはガンジーの非暴力の哲学がベースにあるからかもしれないが、自分をおそう者に対しても、愛を持ちつづけようとする。

 どうしてそんなことができるのか――そこで、物語の冒頭で描かれていたルイスの少年時代に思い至る。

 綿花やコーンを栽培していた実家で、ルイスは鶏の面倒をみていた。
 聖書に心うたれたルイスは鶏やひよこ相手に演説をし、ときには洗礼式まで行い、鶏やひよこが死んでしまうと悲しみにくれた。そして、養鶏にはつきものの事態――家で鶏をつぶした日の夕食時には姿を消した。鶏やひよこを真剣に愛していたのだ。

 一見、公民権運動の闘士というキャリアには何の関係もないように思えるエピソードだが、ここで振り返ると、最初に置かれていた意味が理解できる。
 陳腐な言葉かもしれないが、差別に抵抗できるのは愛ということだろう。

 また、登場場面は多くないが、マルコムXも強い印象を残す。
 とくにルイスが最後に会ったとき、これからは「活動の焦点を人種から階級に移すべきだ」「階級こそがアメリカだけでなく 世界各地の問題の根源なのだ」と、マルコムXが語るところは、現在から考えると、まさに慧眼である。

 人種や階級が異なる者同士が共生することは可能なのだろうか? 
 2019年現在の世界を見ると、残念だが、どうしても悲観的な気持ちになりそうになるが――

 少し前に読んだ、レイ・ブラッドベリの短編「さなぎ」を思い出す。
 白人になりたい黒人の少年と、黒人になりたい白人の少年が夏の海辺で邂逅する。大人が黒人の少年を無視しようとも、彼らの夏はそんなことでは色褪せない。
 こんな世界ならば、共生は可能なのかもしれない。 

 

 

 

最近読んだ本(2019年1月)『作者を出せ!』(デイヴィッド・ロッジ 高儀進訳)『「女子」という呪い』(雨宮処凛)『ポップスで精神医学』

さて、最近読んだ本をさくっと数点紹介したいと思います。

(いや、ここ最近、1つのトピックで長々書いてしまいがちなので、そんなに長く書いたら、もともとその話題に興味あるひと以外誰も読まないぞー!というのは承知しているので、今年は短い紹介記事もアップしたいと思います)

 まずは、デイヴッド・ロッジ『作者を出せ!』。以前紹介した、デイヴッド・ロッジによる『絶倫の人』は、H・G・ウェルズの生涯を描いていたが、この本では『絶倫の人』ではウェルズの年長の友人であったヘンリー・ジェイムズが主人公になっている。 

作者を出せ!

作者を出せ!

 

  しかし、『タイムマシン』で大成功をおさめ、妻がいながら次から次へと恋愛沙汰を巻き起こしたウェルズと、純文学に身を捧げ、生涯独身で友人たちと節度ある交流を楽しんだヘンリー・ジェイムズとは、同じ作家であっても生き方は正反対だ。

 なので、内容も『絶倫の人』に比べると地味で淡々としているのは事実だが、「偉大な」作家として高く評価されつつも、一般受けしない(つまりは、売れない)ことに対するヘンリー・ジェイムズの鬱屈や足掻きが詳細に描かれていて読み応えがあった。

 その難解な作風から気難しい性格だったのかと思っていたが、この本によると、友人の多い社交的な人柄だったようだ。なかでも、挿絵画家ジョージ・デュモーリエ(『レベッカ』のダフネ・デュ・モーリアの祖父)と、女性作家コンスタンス・フェニモアとの関係がきわめて興味深かった。

 ヘンリーがデュモーリエに小説を書くよう激励したにもかかわらず、いざデュモーリエが大衆受けする作品を書いて一躍ベストセラー作家になると平常心ではいられず、しかしながら、善良で慎み深いヘンリーは妬み嫉みをあらわにすることもできず……という葛藤。
 そして、「友達以上恋人未満」という昭和の言葉(もう平成も終わるのに)がぴったりなフェニモアとの切ない関係は、最後まで印象に残った。

 また、登場場面は多くないが、あらゆる面でライバルとも言えるオスカー・ワイルドの存在感も大きかった。

 ヘンリーは同性愛者だったという説もあるようだが(同性の恋人がいたわけではないので、内面的に)、妻がありながら男の恋人を寵愛し、ロンドンの風紀を攪乱していたオスカー・ワイルドに、潔癖なヘンリーは反感を抱いている。


 文筆業においても、人気作家になるのを諦めつつあったヘンリーは、それならばと人気劇作家になるべく悪戦苦闘するのだが、すでに『真面目が肝心』などの舞台の成功で華々しい注目の的となっていたオスカー・ワイルドをどうしても意識し、ついつい嫉妬するヘンリーの人間らしさが、いいスパイスとなっている。

 ネタバレになるかもしれないが、伝記の事実なので書いてしまうと、そこからオスカー・ワイルドは逮捕され転落するのだが、人生の栄枯盛衰はさまざまだとあらためて感じた。

 次は、雨宮処凛の『「女子」という呪い』。 

「女子」という呪い

「女子」という呪い

 

  女であるゆえの生きづらさ、みたいなことは、『ヒロインズ』やスリッツの映画の感想と重複するのでくり返さないけれど、日本における日常的な事例が書かれているので、具体的に納得することが多かった。
 

 たとえば、作者が老後の不安を感じ、上野千鶴子の『おひとりさまの老後』を読むと、

〈わたしの世代である団塊世代の持ち家率は8割を超える〉

〈非婚のおひとりさまでも、働き続けていれば、自分名義の不動産のひとつくらいはあるだろう〉

と書かれており、自分たちの世代とあまりに違うことに愕然とするくだりとか。 

少なくとも私のまわりのいつも金欠な友人たちは、努力している。いろんな能力も持っている。だけど、たぶん彼ら・彼女らは〈不動産のひとつ〉も手にすることはないだろう。そういうことに、まったくリアリティーが持てないのだ。

 まさに同感。いや、努力すればするほど金欠になったりする。資格を取ろうとして学校に行ったり、「英語を活かせる仕事」を目指して留学したり、転職すればするほど貧しくなるのだ。

 部屋を借りるのに苦労するくだりも、よーくわかる。
 そもそも猫OKのマンションが非常に少なく、しかも雨宮さんはやっと見つけたと思いきや、フリーランスということで門前払いをくらうのだ。

 そして、保証人問題! 
 同意するあまりに「!」をつけてしまったが、父親が65歳以上だったり年金生活だったりすると、NGになることもあるのだ。

 私は前回の引っ越しのとき、父親がまだ仕事もしていて、かつ年金ももらっていると証明書を提出してなんとか通ったが、今後は保証会社をつけろとか言われるかもしれない。ちなみに、貧乏ゆえによりお金がかかるという、この倒錯した事態のことを「ポバティ・タックス」と言うらしい。 

男性を中心にした時代遅れの発想による社会保障制度設計が、「正社員の夫と専業主婦の妻、プラス子ども」みたいな標準世帯からもれる一人親世帯や単身女性の貧困リスクを高めているのだ。

「(保証人的なことで)頼れる男」――多くの場合は父親か夫――がいないと、女は「部屋を借りる」といった生活の基盤すら維持できないことがあるのだ

 あと、『ポップスで精神医学』。 

ポップスで精神医学  大衆音楽を“診る

ポップスで精神医学 大衆音楽を“診る"ための18の断章

 

  たまたま図書館で(すみません)目にして、「この本何やろ?」と借りたのだが、それぞれ著作を出している精神科医たちが、「精神疾患の隠喩として大衆音楽をサンプルに」(斎藤環の言葉より)したもの……

と「はしがき」に書かれているが、とくに難しかったり、学術的なものではなく、各先生方が思い出の曲や好きな曲を選んで、自身の専門に絡めてエッセイを書いている。

 で、その斎藤環は結構なロックファンらしく、RCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」から、神聖かまってちゃんまで取りあげている。
 かまってちゃんの「友達なんていらない死ね」から、「スクールカースト」や「いじめPTSD」について考察している。いまなら、岡崎体育の「弱者」あたりも聞いてみてほしい。

 春日武彦ゆらゆら帝国の「昆虫ロック」について書いているのは、イメージ通りで納得という気もするが、あざらしという(私は)まったく知らない猟奇パンクバンド(すでに解散しているらしい)を取りあげているのにはおどろいた。

 しかし、一番おもしろかったというか、これ書いていいの?と思ったのは、松本俊彦による岡村靖幸論だ。

 依存症が専門なだけあって、いまや封印されている岡村ちゃんの3回の覚せい剤逮捕に踏みこんでいる。
 といっても、非難や中傷しているわけではなく、松本さん自身も、四半世紀におよぶファンとして、岡村ちゃんのことを「掛け値なしの天才だと確信している」ので、ちゃんと愛を感じられる。

 また、アルコール依存症への応援歌として、SUPER BUTTER DOGハナレグミやレキシの池ちゃんがいたバンドです)の「サヨナラCOLOR」(超名曲!)を挙げているのもよかった。アルコール依存症になると、「嘘」と切っても切れない関係になり、なにより自分自身に対して、もっとも「嘘」をつくらしい。

僕をだましてもいいけど 自分はもうだまさないで

 孤独ゆえに依存症となり、依存症になるとますます孤独になるという悪循環があるようだ。ともあれ、岡村ちゃんは現在は安泰のようで一安心。この本も買って読もうと思いつつ、まだ読めていない。 

岡村靖幸 結婚への道 迷宮編

岡村靖幸 結婚への道 迷宮編

 

 

 

 

女がパンクでなぜ悪い? スリッツ『ヒア・トゥ・ビー・ハード』/ヴィヴ・アルバータイン『Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys.』

    さて、2019年真っ先にしたことは(1月2日ですが)、女だけのパンクバンド、スリッツのドキュメンタリー映画『ヒア・トゥ・ビー・ハード』の鑑賞でした。 

theslits-l7.com

 スリッツは1976年に結成され、81年に解散したバンドで、もちろん私はリアルタイムでは知らないのだけど、岡崎京子がマンガの中やあちこちで「スリッツ大好き」と書いていたので、以前から気になっていた。

 そして、たまたま映画の公開前に、スリッツのギタリストであるヴィヴ・アルバータインの自伝『Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys.』を読んで、彼女たちの生きざま(って、大袈裟な物言いなので、極力使わないようにしているのですが)に、いっそう魅きつけられた。 

Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys.

Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys.

 

   といっても、この自伝はスリッツのことがメインではない。
    もちろん、スリッツや当時のパンク・シーンについてもたっぷりと書かれているけれど、ひとりの女性、そしてひとりの表現者として、ヴィヴがどう生きてきたかに焦点があてられている。

  内容は一部と二部にわかれていて、一部ではスリッツ解散まで、二部ではスリッツ以降の人生が書かれている。パンクや音楽にそれほど関心がなければ、あるいは客観的に読めば、再び自分の人生を取り戻そうとする二部の方が興味深いかもしれない。

 一部では、ロンドンの下町で育ったヴィヴがビートルズを聞いてロックに目覚め、アート・スクールに通い、バンドに夢中になり、Boysことバンドマンたちと知りあっていく。それでもヴィヴは、女である自分が、音楽を演奏する側になるなんて考えてもいなかった。 

Every cell in my body was steeped in music, but it never occurred to me that I could be in a band, not in a million years――

No girls played electric guitar. Especially not ordinary girls like me.

(身体中の細胞が音楽漬けになっていたけれど、自分がバンドの一員になれるだなんて考えもしなかった、夢にも思わなかった――
エレキギターを弾く女の子なんていなかった。まして、わたしのようなありふれた女の子が弾くなんてあり得ない)

  しかしある日、ロンドンで話題になりつつあったセックス・ピストルズのライブを見て、衝撃を受ける。
 
 ピストルズは、それまで遠い存在だと感じていたロックスターたちと、なにもかもが異なっていた。歌も演奏も上手ではない。けれども、ありのままのむき出しの姿で歌うジョン・ライドンを見て、ありのままの自分でもロックができるかもしれないと思うようになる。

 当時の恋人であったギタリストのミックは、自らのバンド、クラッシュを軌道にのせるのに悪戦苦闘していたので、先に成功をおさめたピストルズを見るのは拒んだが、ヴィヴがギターをはじめると、よろこんで協力してくれた。

 ふとした運命の悪戯で、ヴィヴはジョン・ライドンの友人のシド・ヴィシャスとFlowers of Romanceというバンドを組むが、一緒にいると楽しいけれどエキセントリックなシドにさんざん振り回された挙句、バンドを解雇される。

 そこで、スリッツがギタリストを探していると聞き、女だけのバンドには興味がなかったが、とりあえずライブを見に行くと、奔放にステージを駆け回る14歳のボーカリスト、アリ・アップの姿に、かつてジョン・ライドンを見たときと同じ衝撃を受け、バンドに加入する――

 アリの無邪気かつ奔放、そして生意気な魅力は、映画からもあふれていた。
 この本からは、アリがとてつもなく魅力的である一方、自我が強く尊大で、付きあうのはしんどそうな性格であることも伺えたが、映画でも同様だった。

 映画はベーシストのテッサがおもな語り手となっていて、謙虚で思いやり深いテッサが、最後までアリについていったようだった。バンドにはこういう人柄が絶対に必要ですね。

 ところで、本では、アリがステージの上でおしっこをしたと書かれていておどろいたが、映画でも、ステージの上ではなかったが、アリがそのへんの道端でおしっこをする映像があった。
 どうして女が立ちションしたらいけないの? ってことだろうか。

    いや、本では、そういうパンク的な理由でもなく、ただアリは音楽に夢中になっていてトイレに行き損ねた、と書かれていたけれど。ほんと自由だ。

 女の子だけでバンドを結成して、好きな服を着て、好きな音楽を作る――それだけのことが、当時どれだけ困難だったか、逆風や偏見にさらされたかは、映画からもヴィヴの本からもよくわかる。 

We don’t see ourselves as entertainers. …… We see ourselves as warriors. We’d rather people confronted their anger and dissatisfaction and did something about it.

(わたしたちはエンターテイナーのつもりはなかった。戦士だと考えていた。ひとびとに自らの怒りや不満と向きあい、そこから何か行動を起こしてほしかった)

  たまたま同じ日に、THE FUTURE TIMES 9号を入手したのだけど、CHAIのインタビューを読むと、「アートに戦いとか必要ない」(ユウキ)「フェミニズムって言葉も最近知ったもんね」(マナ)といった自然体で、ゆっくりとではあるが時代は変わりつつあるのだと感じた。

 といっても、戦うべき相手がいなくなったわけではない。女は可愛くないといけない、若くないといけない、反抗してはいけない……という価値観はいまだ根強く残っている。

  CHAIが一般的な「美人」ではない自分たちのルックスを肯定して「コンプレックスはアートなり」と掲げたのは、インタビュアーの後藤正文(ゴッチことアジカンのメガネのひと)が
「結果、それが既存の価値観に対するアンチテーゼになってるんだよね」
「いろいろな概念にしなやかに抵抗している感じがする」
と解説しているように、彼女たちの戦い方なのだろう。

 戦いが終わったわけではなく、戦い方が変わったのだ。

 この映画で、スリッツや当時のパンク・シーンに興味を持った方には、ヴィヴの自伝もオススメします。いまのところ英語だけですが。映画も話題になったし、翻訳の予定もあるのかな?

 「あいつロンドンに友達いないんだ、頼むよ」とシドに言われて、ナンシーの相手をするところなどは、以前読んだキム・ゴードン(元ソニック・ユース)の自伝で、カートと親しくしていたため、コートニー・ラヴのホールのプロデュースもしぶしぶ(いや、そうは書いてなかったが)引き受けたというくだりを思い出した。

 スリッツ以後、ロンドン・カレッジ・オブ・プリンティングに入学して映像を学び、プライベートでは結婚をするが、不妊治療に病気との闘い……という第二の人生も読み応えがある。
 一度は専業主婦になっていたヴィヴがどうやって再び自らの表現と向きあうようになるのか、その背後には、まさかあの男が関わっていたとは?!と、意外な男の影があったのだった。

 長年のブランクののちに、ヴィヴが再びギターを手にとった矢先に、スリッツの復活話が舞いこむ。
 しかし、自分の表現を追求したいと思っていたヴィヴは、再びスリッツをするのはちがうと思って断る。映画では、ヴィヴがすげなく断ったように見えないこともなかったが、本を読むとそのあたりの事情も理解できる。

 スリッツは若いメンバーを加えて再結成するが、若いメンバーがアリについていけなくなって活動を休止し、まもなくアリが亡くなる。
 誰もそこまで病気が進んでいたとは知らなかった。アリは体調不良もあったのだろうし、残された時間が少ないことを知って焦っていたのかもしれない。

 音楽が好きなひとならよくわかっていることだと思いますが、バンドとはひとつの人格であり、ひとつの人生ですね。
 今年は読書にも励みますが、音楽(ライブの追っかけ、もとい、鑑賞)にも精進したいと思いました。(あれ、仕事は?)

 

女が自らを救うために――『ヒロインズ』(ケイト・ザンブレノ著 西山敦子訳)

精神病院で死んだ、モダニストの狂った妻たち。閉じ込められ、保護されて。忘れられ、消し去られ、書き換えられて。ヴィヴィアン・エリオットは自分の分身を書いた。名前はシビュラ。彼女の夫の詩『荒地』は、甕のなかに閉じ込められた彼女の声で始まる。それから、ゼルダフィッツジェラルド。夫の名声の陰で、色あせてしまった人気者。ノースカロライナ州アッシュビルで、精神病院の火事で死んだ。

  「ヒロイン」という言葉には、甘美な響きがある。華やかで可憐な女が脳裏に浮かぶ。そう、まさにゼルダフィッツジェラルドのような。

 しかし、ヒロインとはヒーローがいてはじめて成立するものなのだろうか? ヒーロー抜きのヒロインとはあり得ないのだろうか? 辞書で「ヒロイン」を検索すると、当然のように「女主人公」と出てくる。男の主人公の存在が前提となっているのだろうか? 

ヒロインズ

ヒロインズ

 

 この『ヒロインズ』の作者ケイト・ザンブレノは、夫の転勤にともない、知り合いのまったくいない町に引っ越し、孤独な日々を送る。

 仕事を見つけようとしても、よそ者の自分を雇ってくれるところなんて、なかなか見つからない。原稿書きに集中しようとしても、知らない町にひとりでいることに耐えがたいものを感じる。こんなはずじゃなかったのに。
 いつのまに、自分はただの「妻」になってしまったのか? 

 精神のバランスを失いつつある「私」はカウンセリングに通い、同じようにこんなはずじゃなかったとくり返す「妻」を描いた物語――『ボヴァリー夫人』を読みふけり、それから、実際に存在した「妻」たち――T・S・エリオットの妻のヴィヴィアン、スコット・フィッツジェラルドの妻のゼルダに、まるで憑依されたかのようにのめりこんでいく。 

ときどき、私は敵と暮らしているように感じる。
ときどき、私は敵と暮らしていると確信する。 

 夫に抑圧される妻を描いた文学について、女子学生たちに講義する私。それと同じ人生をひそかに送っている私。 

  ヴィヴィアンやゼルダが自ら綴った文章、発した言葉にふるまい、彼女たちの存在すべてが、夫の芸術の材料となって吸いつくされていった。

 彼女たちの才能や知性はすべて無きものと見なされ、ただその美しさや奔放さによって “ファムファタル” というレッテルをつけられ、男にとって都合のいい檻に入れられる。

 夫の作品のインスピレーションの源泉になったとむやみに称揚されたかと思えば、すぐに手のひらを返され、夫を破壊し、名声を損ねた悪女として攻撃される。ついに男の手に負えなくなれば、「狂気」に陥ったとして精神病院に幽閉される。
日本でいうと、高村光太郎の妻であった高村智恵子が似たような例だろうか。

 彼女たちには夫ほどの圧倒的な才能がなかったから仕方ない。そう思うかもしれない。
 けれども、輝かしい才能を持った女たちも苦しんでいた。

 子育てに加え、夫テッド・ヒューズの秘書やタイプ打ちも務めたシルヴィア・プラス
 『ジェイン・エア』の屋根裏の狂女に言葉を与えたジーン・リース
 ヴィヴィアン・エリオットに嫌悪感を示したヴァージニア・ウルフも、あり余るほどの知性と才能を持ちながら苦しんだ女のひとりだ。

 先日見た映画『メアリーの総て』も同じだった。
 アナーキストの父とフェミニストの母のもとに生まれたメアリーは、父を慕う若い詩人シェリーと恋におちる。
 
 しかし、シェリーには妻と子がいた。メアリーは義理の妹とともに家を出て、シェリーのもとに身を寄せる。「自由恋愛」を志向して一緒になったふたりは、ただひたすら愛に身を任そうとした。ところが、現実はそう甘くはなかった…… 

gaga.ne.jp

 苦悩と失意の日々を送るメアリーが、自らの絶望を怪物に重ね合わせて『フランケンシュタイン』を書きあげる。だが、出版社は若い女性の作者にふさわしくない物語だと難色を示す。結局、作者名は匿名で、シェリーの序文つきという条件で、なんとか出版が可能になる。

 この映画で描かれたメアリーとシェリーの関係、『フランケンシュタイン』の制作過程が史実に基づいているのかどうかは、よくわからない。(史実とちがうという評も目にした)

 もしかしたら、当時実在したメアリーはシェリーへの愛に疑問を持つことはなかったのかもしれない。でも、ふたりの関係をいま物語にするならば、こういう描き方になってしまうのではないだろうか。

 『ヒロインズ』に戻ると、先に述べたように、ヴィヴィアン、ゼルダジーン・リース……とさまざまな女の苦しみが描かれているが、一番胸に迫るのは、作者ケイト・ザンブレノの叫びだ。 

私はひそかに決めていた。いつか、自分と同じようにめちゃくちゃになってしまった女の子のための『インフィニット・ジェスト』を書こう。

けれど、めちゃくちゃな女の子について書いていい、と実際に言ってくれる人は誰もいなかった。……それは小説の題材として使えると教えられてきたような経験ではなかった。壊れてしまうこと。恋に溺れること。あまりにパーソナルで、ひどくエモーショナルで、まさに「女のたわごと」だから。 

  「女のたわごと」を攻撃するのは男だけではない。

  ヴァージニア・ウルフがヴィヴィアンを嫌ったように、メアリー・マッカーシーフェミニズムを批判した。ボーヴォワールは『審判』や『ユリシーズ』は女には書けないと言った。アンジェラ・カーターはジーン・リースの描くヒロインに反発した。

  ケイト・ザンブレノは、一部のフェミニストが「力や権利を勝ち取った女性像を書かねばいけない」という意識を持っているようだと書き、自分が化粧やファッションを好きだと言えるようになるまで何年もかかったと告白している。

 どうして一部の女たちは「愚かな女」や弱い女に反発するのだろうか? どうして女たちは分断されるのだろうか?

 ケイト・ザンブレノも示唆しているが、抑圧された結果として、女同士の分断が発生するのだろう。
 心のなかに刻まれた傷によって、女は女を攻撃するのだ。
 攻撃対象は「愚かな女」だったり、「男並みになろうとする女」だったり、あるいは自罰にむかったりする。 


 「抑圧と闘うこと」「自分を抑えないこと」「自分自身に確信を持つこと」
 これが自分を救う方法なのだとつくづく教えられた一冊だった。胸に刻み、2019年を迎えたいと思います。

 

ディケンズとクリスマス 『Merry Christmas! ロンドンに奇跡を起こした男』と『クリスマス・キャロル』(池央耿 訳)

 さて、きょうはクリスマス・イヴ。

 ここ数年は本気でその存在を忘れてしまいがちなクリスマスですが、実は19世紀においても、すでに廃れつつある行事になりかけていたらしい。

 という事実を、先日映画『メリークリスマス ロンドンに奇跡を起こした男』を見て知った。想像していたよりずっと、ディケンズの生涯やヴィクトリア朝の世相に肉迫した映画で、かなり見応えがあって楽しめた。 

merrychristmas-movie.jp

 『オリヴァー・トゥイスト』などで一躍人気作家になったディケンズだが、ここ数年はヒット作に恵まれず、その一方、子どもは次から次へと生まれ、生活が苦しくなりつつあった。
 アメリカでの講演旅行は好評だったが、アメリカでは海賊版が横行していて、いくら本が売れても自分の懐にはまともに入ってこず、頭が痛い。(ここも史実に忠実)

 そこで、クリスマスをテーマにした本を作ろうと思い立つが、周囲からはクリスマスなんて、ただ家で過ごすだけでなにひとつおもしろいことのない、シケた行事じゃないかと言われる。しかし、ディケンズは屈することなく、自ら挿絵画家のジョン・リーチを説得し、出版の準備を進める。 

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

 

 が、突然両親がロンドンの家にやって来る。昔から変わらない、よく言えば豪放磊落、悪く言えばだらしない父親の姿を見て、子ども時代のトラウマが蘇り、仕事どころではなくなるディケンズ。そんなディケンズの前に、自分がいま書いているはずのスクルージがあらわれる……

 映画の中で再三描かれていた、ディケンズのトラウマである靴墨工場も、もちろん史実に即している。

 かつて両親と姉は、父親の借金のため債務者監獄に入れられたことがあり、ひとり残された12歳のディケンズは靴墨工場での労働を強いられたのだ。
 以前『絶倫の人』を紹介したウェルズも、苦しい家計のため、呉服屋の丁稚奉公をさせられたことがトラウマになったようだが、12歳ながら靴墨工場で働かされたディケンズの方が上ですね。
(しかし、当時革靴は非常に高価なものであり、靴墨工場は破格の給料だったらしいので、労働と稼いだ額の比率で考えると、ウェルズの方が損だったかもしれない)

 ただ、ディケンズがとくに異例だったわけではない。産業革命まっただなかのヴィクトリア朝では、児童労働はまったく珍しいことではなかった。

 スラムに生まれた子どもたちは、煙突掃除や路上のごみ拾いなど散々にこき使われて健康を損ね、深刻な社会問題となっていた。
 そこで、チャールズ・キングズリーが煙突掃除の子どもを主人公にした小説『水の子』を発表し、ディケンズも『荒涼館』において、どこに行っても追い払われる路上掃除の少年ジョーを登場させたり、作家たちはそんな社会を告発していたのだ。

 

 この映画でも、スラム育ちと思われる汚い子どもたちが、随所できちんと描かれていた。そして、『クリスマス・キャロル』のインスピレーションの素となる、ディケンズ家の若いメイドのタラも、救貧院出身の身寄りのない子どもという設定だった。

 

 そして、そんなディケンズの前にスクルージがあらわれるのだが……

 しかし、『クリスマス・キャロル』をいま読んでみると、スクルージ、そこまで悪いやつなのか? と思ってしまう。
 恵まれない他人のことなど一切無視して、自分の稼いだ金を必死に守る……現代社会では当たり前の姿のように感じる。 

「今のあなたは拝金主義」

「商売は誰に恥じることもない、正々堂々の行為だ! 世の中に、貧乏ほど始末の悪いものはない。それなのに、金儲けというと、世間では蛇蝎のように忌み嫌う!」 

 さらに現代の企業や国家レベルで考えると、スクルージなんてまだまだ甘ちゃんとすら言える。

 派遣や契約、さらには外国人労働者と、感心するほど次から次へと手を変え品を変えて、安い労働力の確保に余念のない企業。いくら企業が潤っても労働者に還元されることはなく、一方で、税金や医療・介護費は右肩上がりに増え続け、どんどんと一般庶民の家計は苦しくなっていく。


 スクルージは精霊によって、金をしこたま貯めこんで惨めに死んでいく将来の自分を見せられるが、現実においては、金のない人間の方が惨めに死ぬ可能性が圧倒的に高い。だから、みんなスクルージ化して、自分のことしか考えられなくなっているのだろう。

 けれども、ディケンズスクルージを悪人として描いているわけではない。先に引用した、恋人との別れの場面や、さらに昔の幼少時代のひとりぼっちのスクルージには、誰だって同情するはずだ。 

「考えてみれば、気の毒な人だよ。どうしても、伯父には腹が立たないんだなあ。あの頑固でひねくれた根性で、いつも結局は自分が損してばかりだからね」

と、甥が言うように、愛すべき気の毒な人物であるからこそ、『クリスマス・キャロル』がこれほどの人気を誇っているのだろう。 


 映画では、このスクルージがどうしても老けメイクをした古田新太に見えて仕方がなかったが……。なんなら吹替も古田新太でいいのではと思ったが、市村正親が演じている。

 なんでも、パンフレットの市村正親のコメントによると、「『クリスマス・キャロル』を1人54役で演じたこともある」らしい。ということは、スクルージはもちろん、スクルージを訪れる精霊も、なんならタイニー・ティムもひとりで演じたのだろうか??

 というわけで、日本のスクルージ市村正親だったのか、と納得しつつあったのだが、なんと、最近ホリエモンが『クリスマス・キャロル』を演じていると知って、またおどろいた。 

christmascarol.jp

“お金に執着した偏屈な自分の生き方にサヨナラし、本当はこうなりたかった素直な自分に回帰する”をテーマとし、IT企業の経営者として未曾有の成功を収めたものの、社内ではお金が全ての守銭奴と恐れられ、特にクリスマスに対し何故かほとんど憎しみとも思えるような感情をもつ主人公・スクルージを演じるのは“ホリエモン”の愛称で馴染みのある、実業家でタレントとしても活躍中の<堀江貴文>。

  こう書かれると、たしかにホリエモンこそが日本のスクルージにふさわしい人物なのかも、と思えてくる。それにしても、目下は宇宙旅行に専念しているのかと思っていたが、演劇にも手を染めていたとは。まさに「多動力」を実践していますね。

 ディケンズホリエモンを一緒にしたら怒られそうだが、ディケンズもたしかに多動力のひとではあったようで、小説を書くだけではなく、自ら雑誌を発刊して編集長を務め、そして生涯を通じて素人劇団に情熱を注いだ。

 この映画では、妻との夫婦愛も柱のひとつになっていたが、実際は、のちにディケンズは劇団で知り合った若い女優と不倫し、とっとと妻をお払い箱にして、愛人と暮らそうと目論むのである。

 愛人に送ったはずのプレゼントが間違って妻のもとに届けられたり、ディケンズの愛人は義理の妹らしいという誤った噂がロンドンに広まると、作家仲間のサッカレーが、「いや、相手は女優だよ」といらん証言をしたりと(サッカレー、映画でもいい味出してましたね)、コントのようなドタバタ劇が繰り広げられたようである。(このあたりのことは、『大いなる遺産』の解説に書かれています) 

大いなる遺産(上) (岩波文庫)
 

 と、クリスマスにふさわしいのかふさわしくないのか、よくわからない話になりましたが、こんな人間らしい一面のあるディケンズだからこそ、スクルージのような愛すべき人物を次々産みだせたのではないかと思うのでした。

 これからは、クリスマスを祝う心を、年中、忘れないようにしよう。過去、現在、未来――三世を生きるこの身にクリスマスの霊は宿る。……ここに、神とクリスマスの時候をたたえよう。

 

ひとりでも多くのひとに知ってもらいたい『THE LAST GIRL――イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』(ナディア・ムラド 著 吉井智津 訳)

ナディアは、ISISによって連れ去られ、フェイスブック上に開設された市場で、ときにはたったの20ドル程度で売買された数千人のヤズィディ教徒のひとりだった。ナディアの母親は、80人の高齢女性たちとともに処刑され、目印ひとつない墓穴に埋められた。彼女の兄たちのうち6人は、数百人の男性たちと一緒に、一日のうちに殺された。

             ――アマル・クルーニーの序文より

  さて、今週はノーベル賞ウィーク。前回もちらっと書きましたが、今年のノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラドさんの『THE LAST GIRL――イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』を読みました。 

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

 

  それにしても、自分が何も知らないということは知っていたつもりだったけれど、こういう本を読むと、思っていた以上に自分は何も知らないのだということをつくづく思い知らされる。

 この本の語り手であるナディアはヤズィディ教徒として生まれ、イラク北部の小さな村コーチョで育った。

 実はヤズィディ教というのも、この本を読むまで知らなかったのだが、中東に古代から伝わる宗教のひとつで、クジャクを天使とする教義は口承のみで伝えられている。
 他教からヤズィディ教への改宗も許されないため、イラク国内においても少数派である。(世界全体でヤズィディ教徒は100万人程度とのこと)コーチョにはヤズィディ教徒約200家族が暮らし、まるで村全体がひとつの大きな家族のようだった。

 圧倒的な多数派であるイスラム教信者のアラブ人やクルド人からは、長きにわたり迫害されてきたが、その一方、学校や交易などを通じてイスラム教信者と友情が生まれることもあり、平和な時代においては、周囲とも良好な関係が保たれ、おおむね平穏に暮らしていた。

 ところが、イラクの平和は瞬く間に失われた。

 いや、ナディアにとっては存在しなかったとも言える。93年生まれのナディアにとって、戦争が終わることはなかった。イラン・イラク戦争サダム・フセインによる専制、そしてクウェート侵攻、湾岸戦争……。

 サダム・フセインクルド人を迫害し、ヤズィディ教徒にはアラブ化を強制し、アイデンティティを奪おうとした。湾岸戦争後の海外からの経済制裁によって苦しめられたのは、当然ながらサダム・フセインではなく、イラクの一般庶民だった。

 その後、2003年にアメリカがバグダッドに侵攻し、サダム・フセインが政権から追われると、クルド人とヤズィディ教徒は解放されたかのように思えた。携帯電話を入手し、衛星放送を見ることができるようになった。アメリカ資本によって、クルド人はどんどんと豊かになり、ヤズィディ教徒の暮らしも楽になると期待した。

 ところが、富と自治政府を手に入れたクルド人とヤズィディ教徒が結びつくのを、スンニ派アラブ人は快く思っていなかった。
 サダム・フセイン政権の恩恵を受けていたスンニ派アラブ人は、アメリカの侵攻後はシーア派に権力を掌握されて没落し、怒りの矛先をヤズィディ教徒に向けるようになった。

 2007年にはヤズィディ教徒を狙ったテロが起き、800人という史上二番目の犠牲者を出した。そうして、イラク国内のヤズィディ教徒が迫りくる危険を感じているなか、どんどんとISISは勢力を拡大していった。 

2010年の議会選挙から数か月後にアメリカ軍が去ったあと、国内のグループが権力争いを始めた。毎日のようにイラクの至るところで爆弾が爆発し、シーア派の巡礼者やバグダッドでは子供たちも命を落とし、私たちがアメリカ侵攻後のイラクの平和に対して抱いていたどんな希望も引き裂かれてしまった。

  状況の説明だけで長くなってしまったが、「イスラム国の奴隷になった女性の物語」というと、いったいどんなふうにイスラム国に襲われてさらわれたのか、連れていかれた先ではどんな目にあったのか、どうやってそこから脱出したのかがメインテーマのように思えるけれども、この本全体を読んで一番印象に残ったのは、ISISに襲われるまでの、平和で愛情に満ちた家族の暮らしだった。

 先にも書いたように、ヤズィディ教に他教から改宗することは認められていない。親から子へ伝えるしかない。ということは、子供をたくさん産まないと廃れてしまうのだ。

 ナディアの家も例外ではなく、末っ子であるナディアには10人の兄と姉がいる。母は父の二番目の妻なので、腹違いの兄と姉も4人いる。

 父はナディアが生まれてまもなく、新しい女性を家に入れるようになった。案の定、その女性が父の新しい妻となり、母は金も土地もろくに分けてもらえないまま11人の子供たちとともに捨てられ、一家は父の土地の外れにある粗末な小屋での生活を強いられる。

 しかし、母はどんなに大変な状況であっても冗談に変えてしまう明るさを持っていた。11人の子供を養うために朝から晩まで働きどおし、子供たちの服も手縫いし、兄たちも母や姉たちと一緒にほかの家の畑を耕したり、ときには井戸掘りなどもして、なんとか生計を立てた。

 経済制裁が厳しかったときも、母は大麦をお菓子に交換してもらったり、衣料品をツケで売ってもらうよう頼みこんだり、子供たちにみじめな思いをさせないよう必死だった。

 アメリカ軍の侵攻後、ヤズィディ教徒も公職に就けるようになり、兄たちが警察などの安定した職を得たことで、一家は小屋から出て、自分たちの家を持てるようになった。 

 これまでひたすらに頑張ってきた母がようやく報われるときがきた。
 そんなときだった。ISISがコーチョの村を襲ったのは。 

21年のあいだ、私の母はいつも毎日の中心にいた。毎朝早く起きては、中庭の窯のまえで低い椅子に腰を下ろし、パンを焼いていた。丸めた生地を平らにして、窯の内側にたたきつけ、気泡ができるまで焼き上げ、黄金色に溶けた羊のバターをつけて食べられるよう準備をするのだ。

  村にやって来たISISの戦闘員が、村人全員に学校に集まるよう命令したとき、ナディアはパンをビニール袋に入れて携える。お腹が空いたときのためだけではない。(最初私は「たしかに、腹が減っては戦も何もできへんからな」と思ってしまったが)
 パンは祈りなのだ。 

パンはもう干からびて固くなり、埃や糸くずにまみれていた。私たち家族を守ってくれるはずのものなのに、守ってくれはしなかった。 

 そのあと、ISISによって家族や親戚と引き裂かれ、トラックの荷台につめこまれたナディアはこう思う。
 そしてパンを投げ捨てる。ナディアからすると、たしかにそのとおりだ。
 
 けれども、母はきっとこう思っているだろう。パンがナディアの命を救ったのだと。


  ISISが支配するイラク第二の都市モースルでナディアの身におきたことは、言うまでもなく想像を絶するむごたらしさだ。しかし、ナディアも語っているように、それと同じくらい、町の人々の様子もおぞましく感じる。

 目の前でISISによってサビーヤ(性奴隷)にさせられる女たちがトラックで運ばれているのに、見て見ぬふりをする一般市民たち。隣の家に、なんなら自分の家にサビーヤが連れこまれていても、同情の色を浮かべることもない(ように思える)女たち。 

なぜ女たちまでもがジハーディストたちと一緒になって女性の奴隷化を大っぴらに祝うことができるのかは、私には理解できなかった。イラクに住む女性が手に入れてきたものには、宗教に関係なく、どの人も苦しい戦いを経ないものはなかった。議会における議席も、生殖に関する権利も、大学における地位も。これらはみな、長きにわたる戦いの結果として女性たちが手にしてきたものだ。

  読んでいるともちろん、なんてひどい……と怒りと悲しみを覚える。

 だが、いざ自分だったら、自分の身の危険もかえりみず、囚われた者を救おうと動けるだろうか? 正直、自信がない。
 とはいえ、こんな異常な状況に適応できる気もしないが、戦時下では、かつての日本人もそうだったように、あらゆる感覚が麻痺し、相手も同じ人間だということがわからなくなるのだろう。自分だっていつ命が奪われるかわからない事態なのだから。


 けれども、なかにはほんとうに自らの危険もかえりみず、囚われた者に手を差し伸べるひとたちも存在する。
 ナディアもそうして救われるのだが、この脱出場面はかなりスリリングなのでぜひ読んでみてほしい。もちろん、いま彼女は生きて活動しているので、脱出に失敗して処刑されたり、イスラム国に戻される話ではないとわかっているのだが、それでもなお緊迫感に満ちている。

 この本は、ナディアの話をライターがまとめたもののようだが、先に書いたISISに襲われるまでの家族の暮らしぶりにしても、イスラム国に捕えられてからにしても、情景がありありと目に浮かんできて、ただの「勉強になる本」ではなく、読みものとしても価値が高い。 

 この本を読んでいるあいだ、以前ここでも紹介した『死体展覧会』(ハサン・ブラーシム著 藤井光訳)を思い出した。『死体展覧会』で描かれていたイラクの凄惨な日常はフィクションではあるが、この『THE LAST GIRL』を読むと、現実と地続きであることがよくわかる。

2018/02/18 柴田元幸×藤井光「死者たち」朗読&トーク@恵文社『死体展覧会』(ハサン・ブラーシム 著 藤井光 訳) - 快適読書生活


  なんとか助かったナディアだが、最初は自分の体験を話すことができなかった。同じく生き残り、ようやく再会した家族の前でも口にできず、ただ毎日泣き暮らしていた。
 しかし、テロリストが犯した罪を罰するためには、どんなにつらくても自らが語らないといけないと決心する。 

きっと神には私を助ける理由があり、ヤズダの活動家と出会わせる理由もあったのだと思う。だから私はこの自由を当然のものと受け止めはしない。…… 私たちは、彼らの犯罪に対して、報いのないままにさせておかないことで、彼らに挑んでいく。私が自分の体験をどこかで話すたび、テロリストからいくらかでも力を奪っているように感じている。

 戦争、宗教間の争い、マイノリティへの差別、性暴力…… 簡単には語ることのできない重要な問題が、この本にはいくつも含まれている。


 まずは知ること――世界のどこかでこんなことが起きていたなんて、自分は何も知らなかった――ということを知ることが、最初の一歩になるはずだ。
 ひとりでも多くのひとに知ってもらうために、ノーベル平和賞も与えられたのだろう。その取っかかりとして、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。