快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

女性兵士とフェミニズムの困難な関係 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳)

この不穏な状況を予期したように、先月の書評講座(1000字)の課題書は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳)でした。

前の課題書『同志少女よ、敵を撃て』にも描かれていたように、ソ連では第二次世界大戦で100万人をこえる女性が従軍した。他国のように看護婦などの専門職に限定されることなく、多くの女性が武器を手にして最前線で敵と戦った。

この『戦争は女の顔をしていない』では、そんな女性兵士たちの生の肉声が収められている。彼女たちをそこまで突き動かしたのは、いったいなんだったのか――

 

私の書評は以下のとおりです。


ここから―――――――――――――――――――――――――――――


(題)〈戦争の英雄〉と〈普通の女性の幸せ〉という集団幻想

 

『戦争は女の顔をしていない』において、もっとも印象に残ったのはシベリアから軍曹として出兵した女性ワレンチーナ・パーヴロヴナ・チュダーエワの語りだった。


彼女の父はかつての国内戦の英雄であった。そんな父のもとで育った彼女は、ドイツとの戦いがはじまると、志願して戦線へ出た。父の戦死の知らせを聞き、仇を討ちたいと高射砲の指揮官となった。壮絶な戦闘を経て、背中には砲弾の破片が入り、さらに片足を切断することになった。戦争が終わり、女性兵士たちも家へ戻ったが、彼女たちを待ち受けていたものは何もなかった。


「男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿になった。でも女たちに向けられる眼は全く違っていた。私たちの勝利は取り上げられてしまったの。〈普通の女性の幸せ〉とかいうものにこっそりすり替えられてしまった」


〈普通の女性の幸せ〉という言葉が胸にひっかかった。
戦争を語る際に、しばしば〈普通の人たち〉〈普通の生活〉という言葉が、戦争の対義語として用いられる。この語りの中でも、男が誇った〈戦争の英雄〉という勲章と、女にあてがわれた〈普通の女性の幸せ〉が対照的に扱われている。


この本でも、戦地においても〈普通の女性の幸せ〉を求める女性たちの姿が強調されている。
前線に向かいつつも「なぜかハイヒールが買いたくなった」「ハイヒールもワンピースも袋にしまい込まなければいけないというのがとても残念でした」という彼女たちの語りによって、〈普通の女性の幸せ〉を破壊する戦争の非道さが浮き彫りになり、「女が戦争を語る」ことの意義が強く伝わってくる。

だが一方で、ハイヒールやワンピースに象徴される〈普通の女性の幸せ〉を求める彼女たちの意思が、どこまで自発的なものだったのかという疑問も浮かぶ。彼女たちの証言からは、戦地であっても、「かわいい女の子」として男に癒しを与える存在であることが求められていたことがわかる。
ワレンチーナの語りは、〈戦争の英雄〉に憧れつつも、〈普通の女性の幸せ〉の圧力に引き裂かれる女性兵士の葛藤をあらわしている。

しかし、〈戦争の英雄〉と〈普通の女性の幸せ〉は対照的な存在なのか? そもそも本当に存在するのか? 
いや、どちらも世間や社会が作りあげた幻想に過ぎない。そして国や独裁者は、〈普通の人たち〉が抱く〈戦争の英雄〉や〈普通の女性の幸せ〉への憧れを利用して、人々を戦地へ送りこむのではないだろうか。


ここまで―――――――――――――――――――――――――――――

 

前段で書いたように、彼女たちをそこまで突き動かした理由を知りたいと思って読んだものの、「わからなかった」というのが正直な感想だ。

書評で取りあげたワレンチーナ以外にも、非常に多くの女性が自ら志願して戦場へ向かっていることに驚いた。もちろん、女性は好戦的な性格ではないとか、女性は敵を殺したりできないとか、そんな考えを抱いているわけではない。

しかし、自分自身にあてはめてみると――もし自分の国が攻めこまれたら――ナチスに攻めこまれたドイツのように、ロシアに攻めこまれたウクライナのように――武器を手にして戦おうと思えるのだろうか? 

いま、とりあえず平和な自分の部屋で想像したかぎりでは、そんな気はしない。
戦うのは絶対に嫌だ。逃げたい。隠れたい。どれほどみっともなくとも生き残りたい。

男女平等を実現するためには、女性も兵士となるべきなのだろうか?

この問題は、フェミニズムのあいだでも賛否が分かれている。
きちんと意見を述べられるほど勉強していないが、私としては、フェミニズムは戦争や軍隊の存在そのものを否定するものであってほしいと思う。
もちろん、いくらこちらが戦争を否定していても、相手から攻めこまれる事態は起こり得るというのはわかっているけれど……

女性兵士の問題については、ポリタスTVの深澤真紀さんと津田大介さんの「月イチトーク」で、深澤さんが解説されていたのがわかりやすかった。メンバー限定動画だけど、念のため貼っておきます。

深澤×津田月イチトーク #6|日本の反戦反核の歴史、ウクライナと世界の女性兵士、ウクライナ侵攻の背景を理解できる映像作品……|ゲスト:深澤真紀(3/15)#ポリタスTV - YouTube

そこで、深澤さんがこちらの『軍事組織とジェンダー』を勧めていた。

版元のサイトには、上野千鶴子さんによる推薦文が掲載されている。

軍隊への男女共同参画は、究極の男女平等のゴールなのか?

イラクアメリカ軍女性兵士に目を奪われているあいだに、日本の自衛隊にも女性自衛官が着々と増えつつある。女も男並みに戦場へ・・・は、もはや悪夢でなく、現実だ。

フェミニズム最大のタブーに挑戦する本格派社会学者の登場。

「女も男並みに戦場へ・・・は、もはや悪夢でなく、現実だ」という痛烈な言葉が記されているが、よく考えたら、戦争のみならず、資本主義や企業社会へ女性が進出していったのも、ある意味軌を一にしているのかもしれない。
男性が作りあげた社会や価値観を否定するのではなく、身を投じることは正しいのだろうか?

と悩んでしまうが、しかしながら、ほとんどの人間は資本主義や企業社会に参加せずに生きていくことはできないのだから、職場においては男女平等が推奨されるべきだし、女性の役員や管理職の比率も増えた方がいいのは言うまでもない。

では、やはり軍隊も男女平等であるべきなのでは?と考えると、それはどうだろう……とまたも悩んでしまう。

現実社会を生きのびるためのフェミニズムとはなんと難しいのか。
結局なんの答えも出ていないけれど、わからないことに出くわすたびに、ひとつひとつ考えていくしかないのだろう。

動物とは結びつくことができるのに、人間を愛することは難しい駄目な人間たち――R. L. Maize『Other People's Pets』

猫や犬たちが感じている痛みや苦しみが自分にも伝わったらいいのに――

猫や犬などの動物とともに暮らしている人なら、誰でもそう願ったことがあるのではないでしょうか?

動物はとても我慢強く、「痛い」や「苦しい」となかなか言わないので、人間が気づいたときには悪化していたということも少なくありません。
もし彼ら彼女らの苦しみを自分の身体で感じることができれば、どこが痛いのかすぐにわかることができれば、もっと深くわかりあえて、もっと長くともに生きることができるのに……

前回紹介したケヴィン・ウィルソンが推薦文を寄せている、R. L. Maize『Other People's Pets』は、そんな不思議な能力“Animal Empath”(動物との共感)を持つラーラを主人公とした、一風変わった物語。

冒頭、1999年の冬、コロラド州に住む幼いラーラは湖の上でアイススケートをしながら鳥を追いかけ、湖にあいた穴に落ちてしまう。穴から脱出しようとしても、スケート靴が重く、身体を持ちあげることができない。
一緒に来ていた母親のエリッサの方を振り返り、「ママ」と声をあげる。

ところが、エリッサはラーラを見捨て、どこかへ消えてしまう。ラーラは必死に手足を動かしてもがく。すると、どこからともなく黒い犬があらわれる。ラーラは犬を目がけて泳ぎ、なんとか氷の端にしがみつく。もうひとりじゃない。

そうしてラーラは無事に救助隊に助けられる。通りすがりのカップルが犬に目を留め、それからラーラを発見し、救助隊を呼んだのだ。犬はまたどこかへ姿をくらます。

次の朝、つがいに呼びかけるハトの鳴き声を聞いたラーラは、ハトの胸の高まりに呼応して、自分の鼓動も早くなっていることに気づく。このときから動物の気持ちが伝わるようになった。

この事件のあと、エリッサは家を出る。またも捨てられたラーラは、普通の人とはかなり異なった人生を歩むことになる。

といっても、動物との共感能力があるからではない。
ラーラの父親ゼヴは錠前師として通っているが、その本業は泥棒だったのだ。男手ひとつでラーラを育てることになったゼヴは、自らの職場、つまり他人の家にラーラを連れていき、泥棒の技術を教えこむ。しかし、とある事件をきっかけにラーラは泥棒から足を洗う。

それからラーラは動物に共感できる能力を活かし、獣医学部の学生となる。カイロプラクターの恋人クレムと一緒に暮らし、学校を卒業したら結婚しようと約束する。

だが、そんな幸せな日々は長くは続かなかった。ゼヴが捕まった。
盗みに入った家で倒れている老人を発見し、あわてて救急を呼んだせいで犯罪が発覚したのだ。さらにゼヴは老人を殺した容疑までかけられてしまう。

なんとしてもゼヴを救いたいラーラは、敏腕弁護士オバノンに依頼したい。
でも、そんな金はどこにもない。ラーラはひとりで泥棒業を再開する。苦しんでいるペットがいる家に忍びこみ、ペットを治療するついでに現金や金目のものを奪う。動物を治療する奇妙な泥棒がいると噂が立つ。

盗みの合間に、ラーラはエリッサの行方を探しはじめる。苦境に陥ったゼヴや自分を助けてくれるにちがいない。だって母親なのだから……

と、動物との共感のみならず、泥棒稼業(家業)まで加わり、かなりヘンテコな要素が渋滞した物語である。

この小説に出てくる人間たち全員、問題を抱えている。
ラーラを愛しているが、まっとうに生きることのできないゼヴ。
ラーラを愛することができなかったエリッサ。

そんなふたりに育てられたラーラは、孤独感や見捨てられ恐怖を常に抱いている。泥棒業からいったん足を洗うきっかけになった事件も、その孤独な心が招いたものだった。

恋人のクレムは誠実な人間だが、世間の人にcivility(親切心)を思い出させるために、「ちょっといい話」を集めたブログを運営するという、これまたちょっと変わった善人であり、ゼヴとラーラの生き方を受けいれることができない。

そんな奇妙な人間たちに寄り添うのが、動物たちだ。
エリッサが置いていった猫のモー。ラーラとクレムがシェルターから引き取った犬のブラックとブルー。駄目な人間たちとちがい、彼ら彼女らはけっして人間を見捨てることはない。人間とはうまくつながることのできない登場人物たちも、動物のことは裏切るまいと努力する。

ゼヴとラーラ、そしてエリッサといった歪さを抱えた登場人物が、動物たちとの絆によって、自分の生きる道にたどりつく姿が心に残る。ゼヴとラーラ、それぞれの救世主となる人物も、動物との縁によって導かれる。

作者のR. L. Maizeは、2019年に短編集『We Love Anderson Cooper』でデビューした新人作家であり、この『Other People's Pets』が初の長編となる。

『We Love Anderson Cooper』といっても、アンダーソン・クーパーは出てこない。

表題作の「We Love Anderson Cooper」は、同級生の男子に恋をしているユダヤ人の少年が、バル・ミツヴァー(ユダヤ教の成人式)で同性愛を禁じた「レビ記」を読まされそうになるのに抵抗する物語。

表題作には動物が出てこないものの、そのほかの短編は、ユダヤ人であるバリーが愛猫マックの気持ちをひとり占めしようとする「The Infidelity of Judah Maccabee」、父親を突然亡くしたシャーロットに母親が鳥を与える「No shortage of Birds」、不思議な能力を持つ猫を描いた「A Cat Called Grievous」、思いがけない事故で愛犬を失った「Ghost Dogs」など、やはり動物の話が多い。

『Other People's Pets』の最後に載っているインタビューで、R.L.Maizeはこう語っている。

I thought it would be interesting to write about a character who understands animals and is very attached to them but who has to learn to love people.

動物を理解して深く結びついているが、人間を愛することを学ぶ必要のある人物を描きたいと思ったようだ。

どうして動物というテーマに魅かれるのかについては、こんなふうに答えている。

Often their lives are shorter than ours.  So it’s important to cherish them while they’re here and also to take care of them as best we can.

そう、猫や犬の寿命は人間よりも短い。だからこそ一緒にいられる時間を慈しみ、彼ら彼女たちが幸せに暮らせるように、ありったけの愛情を降りそそがないといけない……

一緒にいられる時間が限られているからこそ、動物と人間の結びつきを描いた本は切なく、それゆえに強く心がひきよせられてしまうのだろう。

トンネルでつながる孤独な人間たち『モンスターズ: 現代アメリカ傑作短篇集』(B・J・ホラーズ編 古屋美登里訳) 『地球の中心までトンネルを掘る』(ケヴィン・ウィルソン 芹澤恵訳)

前回は翻訳アンソロジー『楽しい夜』(岸本佐知子編訳)から、アリッサ・ナッティングのショートショート「アリの巣」「亡骸スモーカー」などを紹介しました。

モンスターをテーマにした短編が16編収められた『モンスターズ: 現代アメリカ傑作短篇集』(古屋美登里訳)にも、アリッサ・ナッティングによる「ダニエル」が収められています。

「ダニエル」は、ナンシーが破水する場面からはじまる。ストレッチャーに乗せられるとき、ナンシーは「わたしの犬が向こうで死んでる」と救急隊員に告げる。愛犬のラブラドールのビルコが14歳で死んだ数時間後、ナンシーはダニエルを産み落とす。

わたしの犬は死んで、わたしの赤ちゃんに生まれ変わろうとしている、わたしが産もうとしているのはわたしの犬なのよ、と。

夫のクリスはビルコのかわりに新しい犬ビックルを連れてきた。クリスが自分に愛情を示すたびに、ナンシーは冷え冷えとした気持ちに襲われる。
一方、息子のダニエルは自らを吸血鬼だと信じこんで、歯に牙をつけようとし、コウモリを飼おうとしたあげくに、ついにはピックルの血を吸って、死んだ鳥の頭をくわえるまでに至る。
モンスターのように奇矯なふるまいをくり返す息子を見て、ナンシーは思い出す。

ダニエルを産んだ瞬間、夫と赤ん坊がこのまま消えてしまえばいいのにと強く望んだことを。

愛犬ビルコが赤ん坊を育ててくれることを願っていた。でもビルコは先に逝った。結婚した直後に抱いた恐怖が蘇ってきた……

胸キュン奇想とも言えた「亡骸スモーカー」とは異なり、息子がモンスターになることを通じて、人間を愛せないことのいびつさやグロテスクさが生々しく胸に迫る短編だった。

そもそも、“モンスター”とは何なのか? 

モンスターに魅せられた編者B・J・ホラーズによる序文では、この本には「ゴリラ・ガールの幻想譚に、血に飢えて逆上したゾンビやゴジラの手ひどい失恋の世界」や、「泥人間や蛾男、ミイラ、吸血鬼」が登場すると書かれている。

それから、人の形をした亡霊のようなモノも登場する。自然に反するひどい罪を犯したために、邪悪な存在になってしまった、もはや人とは言えないモノ

「人の形をした亡霊のようなモノ」を描いているのが、エイミー・ベンダーによる「わたしたちのなかに」ではないだろうか。

『燃えるスカートの少女』などで日本でも人気が高いエイミー・ベンダーによるこの短編は、ゾンビをモティーフとして、共食いするゾンビ、共食いから派生した狂牛病、有名俳優の頭の中に入っていく映画(『マルコヴィッチの穴』でしょう)……
と、イメージを連ねて人間社会を寓話的に描いている。
そのなかでも、最後に置かれた「本当にあった話」というエピソードが興味深かった。

40年連れ添った妻に突然出ていかれた男。あらゆることを妻に頼っていたので、妻がいなければ卵を茹でることも、歯みがきをどこで買ったらいいのかもわからない。
作者たち友人を招いたとき、男は妻がいたときと同じようにもてなし、同じように挨拶をしようとするが……。
ゾンビは「空想の産物」なのだろうか? 「ばかばかしい話」なのだろうか? 

ケヴィン・ウィルソンによる「いちばん大切な美徳」も、短いながらも見逃せない一編だ。
吸血鬼になるという娘の選択を支持しようと努力する両親の姿が描かれている。娘のことをまったく理解できないが、愛している。無償の愛とは科学的なものではない。
理解のない愛と、愛のない理解、どちらが好ましいだろうか? なんて考えてしまう、どことなくとぼけた味わいの作品。


ケヴィン・ウィルソンは、短編集『地球の中心までトンネルを掘る』(芹澤恵訳)が日本でも話題を呼んだ。
この本に収められた物語は、どれも人と人の奇妙なつながりを描いている。

冒頭の「替え玉」は、「自分の家族というものを築かずに生きてきた」女性が、核家族対象の祖父母派遣サーヴィス会社に登録して、あちこちの家庭で「祖母業」を務める物語。

親から依頼を受け、死別などの理由で祖父母と交流できない子どもたちの前に、「祖母」としてあらわれる。完璧なおばあちゃんであるために、「祖母」になっているあいだはその家族のことを心から愛し、顧客から高い評価を得ている。とはいえ、あくまでビジネスなので、仕事が終わるとその家族のことをすっぱり忘れて、立ち入らないように心掛けている。

ところが、とある家庭に“替え玉”(本物の祖母が生きている場合は“替え玉”となる)として派遣されたとき、孫からいつもの子守唄をせがまれてしまう。高いプロ意識を持つ主人公は、子守唄を教えてもらおうと、祖母のもとを訪ねてしまい……

「発火点」の主人公「ぼく」は、三年前に自然発火で両親を失い、弟とふたりで暮らしている。
工場で〈スクラブル〉のコマを文字ごとに選り分ける仕事をしながら、弟の面倒をみて、いつか自分の身にも両親と同じことが起こるんじゃないかと怯えている。

自然発火(現実にはありえないはずだが、ディケンズ『荒涼館』などさまざまな文学作品で言及されている)、〈スクラブル〉のコマ、水泳のおもりといった珍奇な事象と、まだ少年である「ぼく」と弟の心細さが対照的で、忘れがたい余韻が残る。最近の言葉でいうと、「ぼく」はまさにヤングケアラーなのかもしれない。

 

モータルコンバット」は、ハイスクールの〈クイズボウル〉に出場する男子高校生ウィンとスコッティの〈小さな恋のものがたり〉である。

「当然のことながら、校内ではまるで人気がない生徒」のふたり。パーティーなどとも無縁。
「用意されていた場所に、すんなりと居心地よくおさまることができないだけ」だという諦念を抱いて、淡々と高校生活を送っている。しかし互いにクイズを出し合っているうちに、ふたりの距離が縮まっていき、これまで感じたことのない胸の高鳴りを覚える……と、思春期特有のゆらぎをうまく捉えている。

 

「ゴー・ファイト・ウィン」も、奇妙な恋の顛末を描いている。
運動能力と容姿に秀でていたため、母親に強硬に勧められてチアリーダーになったものの、〈リア充〉仲間にまったくついていけないペニーと、そんなペニーに接近してくる隣人の12歳の少年。ふたりが周囲から距離を感じれば感じるほど、心の結びつきは強くなっていく。そんな袋小路の思いが、ある事件をひきおこす……

表題作「地球の中心までトンネルを掘る」は、文字通り穴を掘ってトンネルを作る話だが、この本の物語はすべて――暗闇の中でひとりトンネルを掘っていると偶然に誰かと出会う――そんな瞬間を切り取っている。
あるいは、砂で作った山にトンネルを掘っていると、反対側から伸ばされた誰かの手と触れるような感覚。

孤独が消えるわけではないけれど、それぞれ孤独なままで、誰か、あるいは何かとつながることができるのだという思い。

そして今年は、ケヴィン・ウィルソン『Nothing to See Here』(原題)の芹澤恵さんによる訳書が集英社から出るとのこと。こちらも楽しみです。

また先日、ケヴィン・ウィルソンが推薦文を寄せていたので気になった、R.L. Maizes 『Other People's Pets』を読みました。

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動物の痛みや苦しみが自分の身体に伝わる、不思議な能力を持ったラーラの物語。
次回はこちらを紹介したいと思います……
と、女子大生数珠つなぎならぬ、本の数珠つなぎになっている今日この頃。

アンソロジーにこそ、翻訳小説を読む愉しみがある(かもしれない)――『恋しくて』(村上春樹編訳)『楽しい夜』(岸本佐知子編訳)

先月、ローレンス・ブロック『短編回廊』(田口俊樹他訳)で読書会を行いました。
翻訳ミステリー大賞シンジケートのサイトにレポートがアップされています。

honyakumystery.jp

そこで、ここでは読書会レポートでは書ききれなかった、『恋しくて』(村上春樹編訳)と『楽しい夜』(岸本佐知子編訳)を紹介したいと思います。

『恋しくて』は、村上春樹が短編を選び、自ら訳したラブストーリーのコレクション。

といっても、実際の恋愛がそうであるように(たぶん)、甘いばかりではなく、苦い味が残る話も多い。各短編のあとに、まるでミシュランのように、村上春樹による「恋愛甘辛度」の採点があるのがおもしろい。

実はこの本、初読時にも紹介したのだが、当時の感想を読み返すと、まったく救いのないラブストーリー「薄暗い運命」(リュドミラ・ペトルシェフスカヤ)がいちばん心に残ったと書いていて驚いた。
というのも、今回もやはり「薄暗い運命」がいちばん好みだと思ったので。訳者解説ではこう書かれている。

ものすごく短い話だが、暗澹とした事実が『どうだ、これでもか』といわんばかりに、隅から隅までぎっしりと詰め込まれている

甘いラブストーリーがいちばん気に入ったと思える日は来るのだろうか?(来ない気がする)

と、一筋縄ではいかないラブストーリーがつまったこの本のなかでも、とくに読みごたえがあるのは、ノーベル文学賞を受賞したアリス・マンローによる「ジャック・ランダ・ホテル」だろう。

主人公ゲイルは、恋人だったウィルが若い女とオーストラリアへ向かったことを知り、自らもカナダから飛行機に乗って追いかける。そしてウィルの居場所を突きとめたゲイルがとった行動とは……。

訳者解説で「誰に対しても、不思議なくらい感情移入ができない」と書かれているとおり、ゲイルの行動は奇妙で理解できない。
しかし、人生において、何かに突き動かされて奇妙な行動をとってしまう瞬間は誰にでも訪れるのではないだろうか? 

ゲイルが手紙を書く場面で、「常々文章を書くのが苦手だった」自分が、「精妙でいかにも嫌みな文体」をすらすら書けてしまうことに驚くように、自分自身でもまったく理解のできない行動をとってしまうことがあるのではないだろうか? 

人生のそんな不思議な瞬間をすくいあげることにかけては、アリス・マンローにかなう者はいないのでは?と感心させられる一編。

また、ローレン・グロフによる「L・デバードとアリエット――愛の物語」も心に残った。
「愛の物語」という――原題も“A Love Story”と書かれている――いささか古めかしい題が示唆するように、「大河ドラマを思わせるような壮大な歴史小説仕立て」(訳者解説)の物語。

世界大戦が終盤にさしかかった1918年のニューヨークを舞台とし、1908年のロンドンオリンピックで金メダルを獲ったデバードは脚の悪い少女アリエットに水泳を教えるよう依頼される。水泳を通じて、デバードとアリエットの距離は縮まっていくが、スペインやインドで猛威を振るっていた疫病がニューヨークにも忍び寄っていた……

戦争、疫病、八方塞がりの愛と息詰まる状況が描かれているからこそ、水面に浮上して息を吸いこむ素晴らしさが心にしみる。こんな情熱的な恋に落ちたい!とは思わなかったが、水につかって手足を伸ばしたくなる物語だった。

むずかしい愛ばかり語られているわけではなく、冒頭のマイリー・メロイによる「愛し合う二人に代わって」は、高校時代の同級生同士の恋愛がたどる道のりを描いた、比較的ストレートな恋愛小説である。内向的な男子と夢を追う女子という組み合わせもいじらしい。

ちなみに原題は“The Proxy Marriage”(代理結婚)となっている。
主人公のふたりがイラクへ出兵する兵士の代わりとなって結婚式を執り行うため、このタイトルになっているのだろうけど、それを「愛し合う二人に代わって」と訳したのはさすがだなと感じた。

そして村上春樹編のアンソロジーのお楽しみ、この本のために書き下ろされた短編も収められている。「恋するザムザ」というタイトルのとおり、カフカの「変身」をベースにしたいわば二次創作だ。

虫のようなよくわからないものに変身した「変身」のザムザとは反対に、人間に変身した、あるいは人間に戻ったザムザの物語。右も左もわからないザムザだが、家にやってきた背の曲がった娘の姿を見ていると、なぜだか胸が熱くなり、この不可思議な世界を一緒に解き明かしたいと願う。

『楽しい夜』は、岸本佐知子が短編を選び、自ら訳したアンソロジー
ルシア・ベルリン、ミランダ・ジュライ、ジョージ・ソーンダーズといった、岸本訳でおなじみの作家たちの作品も収められ、個性豊かなというか、豊か過ぎる個性にあふれていて、どの短編も読んでいてほんとうに楽しい。

冒頭のマリー=ヘレン・ベルティーノによる「ノース・オブ」は、こんなふうにはじまる。

アメリカの国旗が、学校の窓に、車に、家々のポーチのスイングチェアにある。その年の感謝祭、わたしは実家にボブ・ディランを連れて帰る

そう、家族の食卓にボブ・ディランが加わるのだ。

ルシア・ベルリン「火事」は癌で死にかけた妹に会いに行く物語で、ルシア・ベルリンのほかの短編と同様に、奇想を描いているわけではないのに、その切り取り方によって日常ががらりと色を変えてしまう、ルシア・ベルリンの唯一無二の世界がある。

ミランダ・ジュライ「ロイ・スパイヴィ」では、飛行機の中で主人公がハリウッドのセレブと出会う物語。
ただでさえ現実から数ミリ浮遊しているようなミランダ・ジュライの物語が、“雲の上の“セレブといううってつけの登場人物によって、よりいっそう現実という重力から解き放たれたように自由に漂う。が、最後には現実が待ち受けている。

ジェームズ・ソルターによる表題作の「楽しい夜」は、楽しかったのだろうか? いや、きっとそのときは楽しかったにちがいない。生や楽しさの刹那について考えてしまう物語。

この本でいちばん興味をひかれたのは、アリッサ・ナッティングによる「アリの巣」と「亡骸スモーカー」だった。

「アリの巣」は、地球が手狭になったので、人類はほかの生物を体表か体内に寄生させなければならなくなったという物語。大半の人はフジツボやカツラネを選ぶが、主人公はアリを体内に飼うことにする……

「亡骸スモーカー」は、遺体の髪をタバコのように吸うと、遺体の生前の記憶が映画みたいに脳内に映しだされると語るギズモと、そんなギズモに恋したわたしの物語。身体から切り離される髪の毛と、失ったり上書きされたりする記憶との結びつきにはっとさせられる。

二編ともきわめて短いショートショートなのだけど、短いのに、あるいは短いゆえか、奇想と心の動きがシンクロすることによって生じるインパクトは大きく、胸に残った。

アリッサ・ナッティングの短編は、B・J・ホラーズが編集した翻訳アンソロジー『モンスターズ: 現代アメリカ傑作短篇集』(古屋 美登里訳)にも収められているらしい。
こちらも近々読んで感想を書きたいと思います。

 

真の「敵」とはなんだったのか? 戦争を描く難しさ――『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬)

今月の書評講座の課題書は、直木賞候補にもなった話題作、『同志少女よ、敵を撃て』でした。

激化する独ソ戦を舞台としたこの物語は、主人公セラフィマの村に突然ドイツ兵があらわれる場面からはじまる。

セラフィマの目の前で村人たちが惨殺され、さらに一緒にいた母親もドイツ兵イェーガーに撃たれて命を落とす。セラフィマも殺されそうになったそのとき、ソ連軍がやってきて、なんとか命拾いする。
ところが、ソ連軍の女性兵士イリーナは、母親の死体を足蹴にして火をつける。そしてイリーナに「戦いたいか、死にたいか」と問う。セラフィマはイェーガーとイリーナに復讐するために、イリーナについていくことを決める……

 

私の書評は以下のとおりです。
*謎解きミステリーではありませんが、物語の核心に触れているのでご注意ください。


(ここから)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(題)大義が揺らぐ瞬間

 

独ソ戦を舞台とした『同志少女よ、敵を撃て』では、主人公セラフィマが母親を殺したドイツ兵イェーガーと、母親の死体を足蹴にして火をつけたソ連軍の女性兵士イリーナに復讐するために狙撃兵となる。

現実の戦争を小説の題材にするのは難しい。
まずは史実に忠実でなければいけない。戦闘が陳腐なアクション映画のようになってもいけない。命を賭けて戦う兵士は感動的だが、慎重に描かないと戦争や軍人を美化しているようになりかねない。現在においては、戦地で女性はどのように扱われたかというジェンダーの問題も無視するわけにはいかない。

 

そういった観点からこの小説を読むと、各方面にじゅうぶん配慮し、問題点をすべてクリアしていることに驚かされる。

 

戦況の説明や実在した女狙撃兵リュドミラ・パヴリチェンコの描写からは、誠実に史実を調べたことが伝わってくる。臨場感にあふれた戦闘場面には思わずひきこまれてしまうが、一方で、戦争のむごたらしさや非道さもきちんと記している。ドイツ兵を人間離れした悪魔のように描いたりもせず、ソ連軍の暴虐に目をつぶったりもしない。

そしてなにより、イリーナ率いる女狙撃兵たちが力を合わして戦いに臨む姿は、まさにシスターフッドの手本のようで、この小説のいちばんの魅力と言える。

と感心しつつも、若干の物足りなさも感じた。
戦争には正しさも大義もない。しかし、セラフィマは大義を追い求める。スターリングラードの戦いのあと、セラフィマはドイツ兵の愛人となったサンドラと対峙する。

そのとき、疑うことなく信じていた「被害者と加害者。味方と敵。自分とフリッツ。ソ連とドイツ」という図式が揺らぎうることに気づく。ソ連兵士として戦うことで、「女性を救う」という自らの大義が成立するのか疑問を抱く。

 

しかし、サンドラの愛人がイェーガーだと知った瞬間、セラフィマはその困惑を捨てる。
その方が母の仇を討つ〈キャラ〉としては筋が通るのかもしれないが、この揺らぎをもっと掘り下げた方が物語として深みが出たのではないだろうか。幼なじみのミハイルが唐突に豹変する場面も、セラフィマの大義の正しさを念押しするための展開のように感じられた。

とはいえ、大義を追い求めずに戦争を描くことが可能なのかどうかはわからない。カート・ヴォネガットは「大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつない」*と書いた。戦争を描くことの困難さについて考えさせられた。

*引用文献:『スローターハウス5』(伊藤典夫訳 早川書房

(ここまで)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


と、微妙な評価をしてしまったけれど、スピーディーな展開のため退屈することなく読み進められる、よくできた小説であるのはまちがいない。書評でも指摘したように、戦争や兵士を美化することなく描いているので、学生などの若い人にも安心して勧めることができる。

ただ、講座でも「アニメだよね」という意見があったように、登場人物たちを〈キャラ〉のように感じてしまい、ちょっと興ざめしてしまったのも事実である。

受講生たちもおもしろく読んだという人が多数だったけれど、なかには「キャラクターが類型的」などわかりやすさの罠を指摘した人や、「個人的復讐が祖国の防衛に昇華する」展開に違和感を覚えた人、シスターフッドや百合要素をはっきりと「あざとい」と評した人もいた。

さらに、「美貌」のイリーナ率いる、セラフィマをはじめとする狙撃兵たちが「(美)少女戦士」なのに疑問を抱いたという指摘もあった。

この『同志少女よ、敵を撃て』は本屋大賞にもノミネートされているが、去年本屋大賞の翻訳部門を受賞した『ザリガニの鳴くところ』も、家族に置き去りにされて森にひとり暮らす美少女の話であり、正直なところ、
「もしこれが美少女ではなかったら、ここまで熱く支持されたのだろうか……」
と考えてしまったのを思い出した。
(いや、「森に棲む美少女」のもとへ男たちが通いにくるというのがミステリーの要なので、美少女でなければ成立しないとも言えるのだが)

と、少々批判的な書き方になってしまったけれど、細部にまで神経の行き届いた、臨場感にあふれる戦争の描写など、デビュー作とは思えない筆力には感心させられた。

ただ、戦争小説というと、書評でも挙げた『スローターハウス5』や、『同志少女よ、敵を撃て』と同じ独ソ戦を扱った『卵をめぐる祖父の戦争』といった傑作とくらべてしまうので、どうしても評が厳しくなってしまうのかもしれない。

 

スローターハウス5』は、第二次世界大戦のときにアメリカ兵としてドイツに出征し、ドレスデンの大空襲をかろうじて生きのびた作者カート・ヴォネガットが、その経験を小説にまとめようとしているが、どうしてもうまく書けないというくだりからはじまる。
現実の戦争を描くことにはそういった逡巡がつきものなのではないかと思う。

『同志少女よ、敵を撃て』の「敵」とはなんだったのか?

もちろんイリーナではなく、仇敵のイェーガーでもない。最終的にセラフィマが銃を向けたのは、ドイツ人女性に襲いかかる幼なじみのミハイルだった。

では「敵」はミハイルだったのか?
いや、「敵」の正体は、人間を人間離れした悪魔に変えてしまう「戦争」だ――というのが正しい読みなのだろうが、単純化されている印象は否めない。

また、『同志少女よ、敵を撃て』は、ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の影響のもとで書かれている。

というのは、私が勝手に決めつけているわけではなく、参考文献として挙げられていて、物語の中でも『戦争は女の顔をしていない』が言及されている。
フィクションにおいて、現実に存在するノンフィクション(と作者)の名前が出てくる展開についても、講座でさまざまな意見が出たため、来月の課題書は『戦争は女の顔をしていない』に決まった。

 

お金と「私だけの部屋」への困難な道のり――『母の遺産:新聞小説』(水村美苗)

先月の書評講座の課題書は、水村美苗『母の遺産:新聞小説』でした。

ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?

と、ドキっとする言葉がコピーとなっているこの小説では、亡くなった父親に続き、母親の介護に直面した主人公美津紀が、自らの内にある母に対する愛憎と対峙する。
そのうえ介護のただなかで、夫の浮気が発覚する。夫の浮気ははじめてではなかったが、今回は深入りしているらしく、相手の女に真剣に離婚を迫られているようだ…………

私の書評は以下のとおりです。

(ここから)------------------------------------------------------------

(題)お金と「私だけの部屋」への困難な道のり

 

かつてヴァージニア・ウルフは、〈女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない〉と書いた。『母の遺産』は主人公である美津紀が、お金と「私だけの部屋」を手に入れる物語である。

物語の冒頭、美津紀は死んだ母の有料老人ホームの返金額を計算する。姉の奈津紀と分けても、3500万円は入ってくる。芸者上がりの祖母の庶子として生まれ、貧しい長屋で育った母が、どうしてこれだけの額を遺すことができたのか? おそらくその大半は先に死んだ父が稼いだものであろう。

ここからふたつの事実が浮かぶ。①母が生きた昭和の時代、女が財産を手に入れる方法は結婚だった。②昭和の時代は、大学を出て真面目に働いていれば、家や土地を買って資産を形成できた。

①については、籍を入れてもらえなかった祖母の暮らしぶりからも、結婚しなければ財産を確保できないことがわかる。平成になっても、金持ちのもとへ嫁いだ奈津紀や、離婚した友人の昌子が体現しているように、結婚が女にとっての生活保障であることは変わらない。


だが、財産とは無縁だった祖母はもちろん、結婚によって財産を手に入れた母も奈津紀も、美津紀のように真剣に金の計算をするわけではない。美津紀が金を計算するのは、①を失いつつあるからだ。美津紀が金の計算をする姿は、母の死を契機に、自立して生きていこうとする決意を象徴している。

「芸術と知」に憧れ、分不相応なものを追い続けた母を美津紀は許すことができない。晩年の父を自分に押しつけ、つまらない男へ走った母の死すら願う。
けれども、美津紀が自立できたのは「母の遺産」があったからこそであった。

ウルフは〈無名の女性たち〉の努力のおかげで、女性への不正が改善されつつあると語ったが、祖母、母といった〈無名の女性たち〉からの遺産によって、ようやく美津紀はお金と「私だけの部屋」を手に入れ、①を手放すことができた。

しかし、これは①と②がまだ有効だった時代の話である。時代が進み、②が崩壊するのに伴い、①も不確実になった。
この物語には、もうひとり金の計算をする女が登場する。美津紀の夫である哲夫を奪おうとする女だ。女の細かい計算は、失われつつある①と②に必死にしがみつこうとする姿のようにも見える。

ウルフは女たちに年収500ポンド稼ぐことと、自分自身でいることを説いた。それから百年近く経っても、まだ成し遂げられていないのかもしれない。

(ここまで)------------------------------------------------------------

※引用文献:ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』 (平凡社 片山亜紀訳 2015年)

祖母、母、姉、そして主人公といった女たちが、過酷な運命にそれぞれのやり方で対処しながら生きていくさまが描かれていて、大河ドラマを観ているようなどっしりとした読みごたえのある物語だった。

祖母、母、姉はすべて男(夫)の庇護のもとで生きていたが、主人公はようやく自らの脚で立って生きていくことを選択する。といっても、母の遺産があったから可能だったわけで、タイトルにもなった「母の遺産」が象徴するものは大きい。

もうひとつタイトルに銘打たれている「新聞小説」は、この小説が2010年から2011年にかけて(東日本大震災を挟んで)新聞に連載されていたという事実にくわえ、新聞に連載されていた『金色夜叉』によって、祖母の人生が変わってしまったことが関係している。

さらに、この小説は『金色夜叉』のみならず、『ボヴァリー夫人』にも言及している。語学の非常勤講師と翻訳業を営んでいる美津紀のもとに、『ボヴァリー夫人』の新訳の話が舞いこんでくるのだ。
新聞小説」という観点や、『金色夜叉』や『ボヴァリー夫人』とのつながりから、この物語を読み解くのもおもしろい。

受講生の中には、『金色夜叉』と対比して、

当時の女たちは「愛か金か」という選択を迫られたのかもしれないが、100年経った現代では、愛は脇に置き「夫か貧乏か」にさし変わっている

という興味深い指摘をした人もいた。「夫か貧乏か」……切実な問いだ。

しかし書評にも記したように、いまの世の中では、「夫がいても貧乏」というケースも多いのではないだろうか。「ひとりで貧乏」と「ふたりで貧乏」、どちらがマシなのかはわからない。
ふたりの方が貧乏も耐えられるのでは? という気もするが、一方、金がないことによってふたりの仲がこじれ、互いの憎しみをつのらせていく場合も少なくないように思える。

ここでまたウルフに戻ると、書評にも引用した『自分ひとりの部屋』で、

なぜ男たちの飲み物はワインで、女たちは水なのか? なぜ男性はあれほど裕福なのに、女性はあれほど貧乏なのか? 貧困は文学(フィクション)にどう作用するのか?

と疑問を呈している。

『母の遺産』は、高度成長期から平成の時代を生きた一家の物語であり、貧しい育ちの母も娘に相当の資産を遺すことができた。
経済成長が止まり、男も女も大多数の人間が貧乏になっていく現代の日本では、貧困は文学(フィクション)にどう作用するのか……?

2022年を生きのびるための1冊――『これは水です』(デヴィッド・フォスター・ウォレス 阿部重夫訳)

2022年になりました。あけましておめでとうございます。

正月といっても、ふだんと何も変わりはしないけれど……
と思いつつ、去年から積読していた、デヴィッド・フォスター・ウォレス『これは水です』をふと手に取ったところ、年末年始でぼんやりしていた目がはっと覚め、まさに年頭に読むのにふさわしい1冊だった。

デヴィッド・フォスター・ウォレスは、トマス・ピンチョン以降のアメリカのポストモダン文学を代表する作家であり、『Infinite Jest』をはじめとする難解な小説で知られている。
なので、去年『これは水です』が売れていると聞いたときは、なんでまた?と、おどろいた。

といっても、『これは水です』は小説ではなく、スティーヴ・ジョブズの “Stay hungry”のように、2005年にケニオン・カレッジの卒業式で披露したスピーチだと知って納得した。こちらでそのスピーチを聞くことができる。

www.youtube.com

 

スピーチの冒頭、デヴィッド・フォスター・ウォレスは、大学を卒業して、これから実社会に出ていこうとする学生たちにこう語りかける。(原文はこのサイトから引用しています)

I’m supposed to talk about your liberal arts education’s meaning

学生たちが大学で学んだリベラル・アーツ教育の意味について語ろう、と。

そこで疑問が浮かぶ。
そもそも、リベラル・アーツって何なん? 「一般教養」といった漠然としたイメージしかない。

訳書の訳者解説によると、リベラル・アーツとは単なる「一般教養」ではなく、言語(文系)や数学(理系)の枠を超えて、あらゆるものを包括する学問であり、「本来は『人を自由にする技芸』という意味」だと定義されている。人は学ぶことによって自由になるのだ。

とはいえ、リベラル・アーツの定義がどうあれ、どうせ教養や知識を身につけることが大切だ、といった説教くさい話じゃないの? 
と、スピーチというものに対して、そんな先入観を抱いている人もいるだろう。


しかし、デヴィッド・フォスター・ウォレスは、真のリベラル・アーツとは、教養や知性をどれだけ身につけるかではなく、何について考えるのか選択することだと語る。

the really significant education in thinking that we’re supposed to get in a place like this isn’t really about the capacity to think, but rather about the choice of what to think about.

そう、大事なのは capacity(容量)ではなく、the choice of what to think aboutなのだ。そして、自らを省みてこう告白する。

my deep belief that I am the absolute centre of the universe;

自分が世界の中心であると心の底から確信していた、と。
いや、どんな人でも、自分が世界の中心だと疑うことなく考えてしまう。だって、考えている主体は自分なのだから。それが私たちの初期設定(デフォルト)なのだ。

しかし、実社会に出るとそうはいかない。
学校を卒業してから待ち受けている日々とは……

One such part involves boredom, routine and petty frustration.

そう、「退屈 決まりきった日常 ささいな苛立ち」なのだ。
ここから、「平均的な社会人の1日」として、苛立ちに満ち、決まりきった退屈な日常を怒涛のように語りはじめる。

毎朝「ホワイトカラーの仕事」に出勤し、9時間か10時間働き、1日の終わりにはぐったり疲れる。家には食料がないので、帰りにスーパーに立ち寄らないといけない。道路は大渋滞。やっと着いても、スーパーもおそろしくごった返している。

And the store is hideously lit and infused with soul-killing muzak or corporate pop and it’s pretty much the last place you want to be but you can’t just get in and quickly out; you have to wander all over the huge, over-lit store’s confusing aisles to find the stuff you want and you have to manoeuvre your junky cart through all these other tired, hurried people with carts

しかも、蛍光灯はぞっとする光を放ち、死にたくなるような音楽(あるあるですね)か、もしくはCMソングがうるさく流れている。
ほんとうなら、こんなところ1秒たりともいたくない。とっとと出ていきたい。
でも食料を買わなければならない。同じように疲れた顔で、そそくさとカートを押している客にまじって、自分も馬鹿みたいなカートを押す。

なんとか買うものを決めてレジにたどり着くと、案の定、レジも大混雑している。しかし、自分以上に無意味な労働でぐったり疲れているレジ係にわめき散らすわけにもいかない。さんざん並んで会計を済ませ、へとへとになって駐車場へ戻り、買ったものを車に積みこんで、家へ向かって車を走らせると、またも道路は大渋滞――

これが現実であり、この日常が死ぬまでえんえんと続くのだ。

いったいどうしたら、この世界を生きのびることができるのか? 

そのためには、生まれもった初期設定――自分は世界の中心である――から脱却しないといけない。それが the choice of what to think about なのだ。

つまり、仕事終わりでへとへとの我が身のことばかり考えるのは初期設定のままであり、何ひとつ choice していない。そうではなく、自分と同じように疲れた顔でレジに並ぶ人たちの背景、大渋滞のなか車を走らせている人たちの事情について考えてみる能力が、the choice of what to think aboutなのだと、デヴィッド・フォスター・ウォレスは説く。

こう書くと、たやすいことのように思えるかもしれないが、とんでもなく難しい。

仕事終わりにスーパーのレジの長い列に並び、前のおばさん(or おじさん)がレジ係に何度もあれこれ聞き返しているとき、前のサラリーマンが領収書を発行しろとレジ係に言っているとき、前の家族のカートをよく見たら1か月くらい籠城するのかと思うほど食料がつめこまれているとき、レジ係が新人なのかあきらかに両横のレジより進むのが遅いとき……

イライラしない人がこの世に存在するだろうか? 
当然ながら私も、ハゲるのではないかと思うくらいイライラする。
初期設定からぜんぜん脱却できていない。

デヴィッド・フォスター・ウォレスはさらに語る。
真の教育によって得られる自由とは、何について考えるかを選択するということであり、くわえて、何を崇めるのかを決めることだと。

崇める? 自分は何も崇めていない。そう思う人もいるかもしれない。

が、現実の世界に生きる人間はかならず何かを崇めている。といっても、神様や宗教の話ではない。金、権力、美貌、知性……誰でも何かを崇めている。
そしてここでも、初期設定から脱却できなければ、金に固執し、権力に執着し、美が失われることに怯え、愚かだと思われることを恐れる人生を歩むことになると説く。

自分中心の初期設定のまま生きるのか、あるいは他者に思いを馳せ、ほんのささやかな、人目につかないやり方で、他者のために自分の身を尽くして生きるのか……

That is real freedom. That is being educated, and understanding how to think.

後者こそがほんとうの自由であり、それが教育を受けるということであり、ものの考え方を学ぶことだと、デヴィッド・フォスター・ウォレスは語る。

どうにかそれを身につけて 

銃で自分の頭を撃ち抜きたいと

思わないようにすることなのです

そう、それを身につけなければ、この世界を生きのびることはできない。

このくだりは実際のスピーチにはなく、本になるときに書き足されたものである。
スピーチの3年後の2008年、デヴィッド・フォスター・ウォレスが自殺した事実を考えると、この一節が胸に重くのしかかり、苦しさがこちらにも伝わってくる。

ところで、デヴィッド・フォスター・ウォレスといえば、代表作である『Infinite Jest』すら翻訳本が出ていないので、ほとんどの作品が未訳かと思っていた。
けれども、今度の『短編回廊』読書会の参考図書として、村上春樹編訳のアンソロジー『バースデイ・ストーリーズ』を読んでいると、短編「永遠に頭上に」が収録されていた。

13歳の誕生日を迎えた少年が、プールに飛びこむというだけの短い物語なのだが、大人になりつつある少年と、梯子をのぼって飛びこみ台に立つ高揚感がうまく重ね合わされた、「不思議なクールさと優しさをこめた」(村上春樹の解説より)作品だ。

また、『Infinite Jest』については、『世界物語大事典』で詳しく紹介されている。
それによると、アメリカがメキシコ、カナダと合併して北米国家機構という巨大国家を形成した近未来を舞台として、並外れた知性を持ち、テニススクールに通う17歳のハルを主人公としたSF小説らしいが……わかるような、わからないような……とにかく翻訳本が出てほしいものだ。

そして、GRAPEVINEの「これは水です」も、おそらくこのスピーチの影響のもとで作った曲なのだろう。文学性の高い歌詞で知られる田中さんは、読書家としても名高い(『文學界』に寄稿したりもしていますね)。

というわけで、自分中心の初期設定から脱却して、レジの大行列に巻きこまれてもイライラせずに(できるかな…?)、2022年を生きのびよう! 
と、年頭の誓いを立てました。

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