トンネルでつながる孤独な人間たち『モンスターズ: 現代アメリカ傑作短篇集』(B・J・ホラーズ編 古屋美登里訳) 『地球の中心までトンネルを掘る』(ケヴィン・ウィルソン 芹澤恵訳)
前回は翻訳アンソロジー『楽しい夜』(岸本佐知子編訳)から、アリッサ・ナッティングのショートショート「アリの巣」「亡骸スモーカー」などを紹介しました。
モンスターをテーマにした短編が16編収められた『モンスターズ: 現代アメリカ傑作短篇集』(古屋美登里訳)にも、アリッサ・ナッティングによる「ダニエル」が収められています。
「ダニエル」は、ナンシーが破水する場面からはじまる。ストレッチャーに乗せられるとき、ナンシーは「わたしの犬が向こうで死んでる」と救急隊員に告げる。愛犬のラブラドールのビルコが14歳で死んだ数時間後、ナンシーはダニエルを産み落とす。
わたしの犬は死んで、わたしの赤ちゃんに生まれ変わろうとしている、わたしが産もうとしているのはわたしの犬なのよ、と。
夫のクリスはビルコのかわりに新しい犬ビックルを連れてきた。クリスが自分に愛情を示すたびに、ナンシーは冷え冷えとした気持ちに襲われる。
一方、息子のダニエルは自らを吸血鬼だと信じこんで、歯に牙をつけようとし、コウモリを飼おうとしたあげくに、ついにはピックルの血を吸って、死んだ鳥の頭をくわえるまでに至る。
モンスターのように奇矯なふるまいをくり返す息子を見て、ナンシーは思い出す。
ダニエルを産んだ瞬間、夫と赤ん坊がこのまま消えてしまえばいいのにと強く望んだことを。
愛犬ビルコが赤ん坊を育ててくれることを願っていた。でもビルコは先に逝った。結婚した直後に抱いた恐怖が蘇ってきた……
胸キュン奇想とも言えた「亡骸スモーカー」とは異なり、息子がモンスターになることを通じて、人間を愛せないことのいびつさやグロテスクさが生々しく胸に迫る短編だった。
そもそも、“モンスター”とは何なのか?
モンスターに魅せられた編者B・J・ホラーズによる序文では、この本には「ゴリラ・ガールの幻想譚に、血に飢えて逆上したゾンビやゴジラの手ひどい失恋の世界」や、「泥人間や蛾男、ミイラ、吸血鬼」が登場すると書かれている。
それから、人の形をした亡霊のようなモノも登場する。自然に反するひどい罪を犯したために、邪悪な存在になってしまった、もはや人とは言えないモノ
「人の形をした亡霊のようなモノ」を描いているのが、エイミー・ベンダーによる「わたしたちのなかに」ではないだろうか。
『燃えるスカートの少女』などで日本でも人気が高いエイミー・ベンダーによるこの短編は、ゾンビをモティーフとして、共食いするゾンビ、共食いから派生した狂牛病、有名俳優の頭の中に入っていく映画(『マルコヴィッチの穴』でしょう)……
と、イメージを連ねて人間社会を寓話的に描いている。
そのなかでも、最後に置かれた「本当にあった話」というエピソードが興味深かった。
40年連れ添った妻に突然出ていかれた男。あらゆることを妻に頼っていたので、妻がいなければ卵を茹でることも、歯みがきをどこで買ったらいいのかもわからない。
作者たち友人を招いたとき、男は妻がいたときと同じようにもてなし、同じように挨拶をしようとするが……。
ゾンビは「空想の産物」なのだろうか? 「ばかばかしい話」なのだろうか?
ケヴィン・ウィルソンによる「いちばん大切な美徳」も、短いながらも見逃せない一編だ。
吸血鬼になるという娘の選択を支持しようと努力する両親の姿が描かれている。娘のことをまったく理解できないが、愛している。無償の愛とは科学的なものではない。
理解のない愛と、愛のない理解、どちらが好ましいだろうか? なんて考えてしまう、どことなくとぼけた味わいの作品。
ケヴィン・ウィルソンは、短編集『地球の中心までトンネルを掘る』(芹澤恵訳)が日本でも話題を呼んだ。
この本に収められた物語は、どれも人と人の奇妙なつながりを描いている。
冒頭の「替え玉」は、「自分の家族というものを築かずに生きてきた」女性が、核家族対象の祖父母派遣サーヴィス会社に登録して、あちこちの家庭で「祖母業」を務める物語。
親から依頼を受け、死別などの理由で祖父母と交流できない子どもたちの前に、「祖母」としてあらわれる。完璧なおばあちゃんであるために、「祖母」になっているあいだはその家族のことを心から愛し、顧客から高い評価を得ている。とはいえ、あくまでビジネスなので、仕事が終わるとその家族のことをすっぱり忘れて、立ち入らないように心掛けている。
ところが、とある家庭に“替え玉”(本物の祖母が生きている場合は“替え玉”となる)として派遣されたとき、孫からいつもの子守唄をせがまれてしまう。高いプロ意識を持つ主人公は、子守唄を教えてもらおうと、祖母のもとを訪ねてしまい……
「発火点」の主人公「ぼく」は、三年前に自然発火で両親を失い、弟とふたりで暮らしている。
工場で〈スクラブル〉のコマを文字ごとに選り分ける仕事をしながら、弟の面倒をみて、いつか自分の身にも両親と同じことが起こるんじゃないかと怯えている。
自然発火(現実にはありえないはずだが、ディケンズ『荒涼館』などさまざまな文学作品で言及されている)、〈スクラブル〉のコマ、水泳のおもりといった珍奇な事象と、まだ少年である「ぼく」と弟の心細さが対照的で、忘れがたい余韻が残る。最近の言葉でいうと、「ぼく」はまさにヤングケアラーなのかもしれない。
「モータルコンバット」は、ハイスクールの〈クイズボウル〉に出場する男子高校生ウィンとスコッティの〈小さな恋のものがたり〉である。
「当然のことながら、校内ではまるで人気がない生徒」のふたり。パーティーなどとも無縁。
「用意されていた場所に、すんなりと居心地よくおさまることができないだけ」だという諦念を抱いて、淡々と高校生活を送っている。しかし互いにクイズを出し合っているうちに、ふたりの距離が縮まっていき、これまで感じたことのない胸の高鳴りを覚える……と、思春期特有のゆらぎをうまく捉えている。
「ゴー・ファイト・ウィン」も、奇妙な恋の顛末を描いている。
運動能力と容姿に秀でていたため、母親に強硬に勧められてチアリーダーになったものの、〈リア充〉仲間にまったくついていけないペニーと、そんなペニーに接近してくる隣人の12歳の少年。ふたりが周囲から距離を感じれば感じるほど、心の結びつきは強くなっていく。そんな袋小路の思いが、ある事件をひきおこす……
表題作「地球の中心までトンネルを掘る」は、文字通り穴を掘ってトンネルを作る話だが、この本の物語はすべて――暗闇の中でひとりトンネルを掘っていると偶然に誰かと出会う――そんな瞬間を切り取っている。
あるいは、砂で作った山にトンネルを掘っていると、反対側から伸ばされた誰かの手と触れるような感覚。
孤独が消えるわけではないけれど、それぞれ孤独なままで、誰か、あるいは何かとつながることができるのだという思い。
そして今年は、ケヴィン・ウィルソン『Nothing to See Here』(原題)の芹澤恵さんによる訳書が集英社から出るとのこと。こちらも楽しみです。
また先日、ケヴィン・ウィルソンが推薦文を寄せていたので気になった、R.L. Maizes 『Other People's Pets』を読みました。
動物の痛みや苦しみが自分の身体に伝わる、不思議な能力を持ったラーラの物語。
次回はこちらを紹介したいと思います……
と、女子大生数珠つなぎならぬ、本の数珠つなぎになっている今日この頃。