快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

奇面組のような変人揃いのクラブを舞台にした悲喜劇 『ミランダ殺し』 マーガレット・ミラー

  それにしても、こんな奇妙キテレツな有閑倶楽部があったもんだと、このマーガレット・ミラーの『ミランダ殺し』を読んで思った。 

ミランダ殺し (創元推理文庫)

ミランダ殺し (創元推理文庫)

 

  この小説は、お金持ち専用のスイミングクラブ、“ペンギン・クラブ” が舞台になっているが、ここに集まる人々がことごぐ変人揃いなのである。
 「憂える一市民」「すべてを知る者」「賢者の言葉」「怒れる納税者」などの、ありとあらゆる名前を使って、個人あての中傷の手紙、あるいは、役所や企業などにクレームの手紙を送り続けることのみが生きがいの孤独な老人(いまの世なら、ネットにはりついているんだろうか)、九才の悪ガキ、いや、いたずらっ子みたいな可愛いもんじゃない、放火騒ぎを平気でおこしたりするような本物の悪ガキ(『じゃりん子チエ』のコケザルを思い出した)、そして、鼻っ柱が強く、いつも言いあいばかりしているおてんば姉妹――これもこう書くと可愛い感じだが、

「あら、この人が悪いのよ」とジュリエット(妹)。「わたしよりもうんと年上なんだもの」
「何さ、たかだか二歳じゃないの」コーデリア(姉)も負けじと言い返す。……
「あら、思いやりがないのは姉さんの方じゃない。あたしより二つも年上だなんて。いつまでたっても追いつけないなんて不公平だわ」…
誰もかれもが彼女たちをお嬢さんと呼んだ。コーデリアは三十五歳、ジュリエットは三十三歳であるにもかかわらず。

 

  最後のところで、「なぬ?」ってなりますね。
 主人公ミランダは、年の離れた夫を亡くした、五十二歳の美しくて魅力的な未亡人。そのミランダが、このクラブの監視員をしているグレイディーという若い男と駆け落ちをする。ミランダは、グレイディーに車を買ってあげたり贅沢三昧させるが、実は、お金持ちだったはずの亡き夫は、投資で失敗して多大な債務を抱えており、ミランダは無一文だったのだ…


 そこで、弁護士のトム・アラゴンが、遺産相続に関わる手続書類のため、ミランダの行方を探すのだが、上記のあらすじとタイトルから、トムがミランダの死体を発見して、グレイディーに殺人容疑がかかる話かと推測してしまうかもしれないが、ミラー女史はそんな単純な展開にはしない。
 トムは、メキシコのかかりつけの美容外科医のもとで、激しい若返り治療のため息も絶え絶えになっているミランダを発見する。山羊のリンパ腺をお尻に注射したりする壮絶な治療は、岡崎京子の『ヘルター・スケルター』を思い出した。

 なにもかも失ったミランダは新しい人生を送りはじめ、ミランダと周囲の変人たちによるスラップスティック喜劇のような話が展開し、冗長に感じるほど、いつまでたっても殺人などの事件は起こらず、終盤にさしかかったところで、唐突に意外な人物が死ぬ。そのまま最後まで、物語は悲劇のレールを疾走し、いかにもミラー的な苦い結末にあっけにとられ、また同時に、期待を裏切られなかったことに納得する。

 『狙った獣』と同様に、最後の一文が余韻を残す。また、『狙った獣』のヘレンと同様に、ミランダの孤独も心に刺さる。たとえ、愛もなにも得られなかったとしても、諦めてそれなりに生きていけばいいのに、期待を捨てきれず、どうしてもなにかにすがりつこうとしてしまう。そう考えると、馬鹿娘として描かれているコーデリアは「どうせ何にも向いてないなら、せいぜい面白おかしくやってた方がいいわ」と中身のない人生を平気で送るのだが、それがほんとうは賢明なのかもしれない。

 ミラーが描く愛の悲劇については、この本の若島正の解説が、さすがと言うべきか、たいへん読みごたえがあった。ミランダの愛の対象になるグレイディーは、「もともと誰も愛せないし、愛されることは束縛だと考える男である」。こういう人と出会ってしまうと、前に書いた松浦理英子の『奇貨』のセリフ、「わたしたちが思うような愛情や友情が成立しない人もたくさんいるんだよ。」をつぶやくしかない。


 弁護士トム・アラゴンは、この小説のなか、ただひとりまともというか、妻と電話で「愛してるよ」をおきまりの言葉として言いあう、まともな家庭生活を送っている登場人物なのだが、若島正は、「おそらくミラーの全作品中で、これほど『愛してる』と言う言葉が手軽に安売りされる例はないだろう」「余りにも幼い愛」と書き、「彼はどこまでも凡庸で無色透明」だと、グレイディー以上にこきおろすのも興味深かった。トム・アラゴンが登場する前作『明日訪ねてくるがいい』も読みたくなった。

 また、この解説で取りあげている、ミラーの短編『マガウニーの奇蹟』は、「愛はつねに一方通行に終わる」ミラーの作品のなかで唯一と言ってもよい「愛の奇蹟」が起こる話らしいのだが、ただ、その愛は孤独な男やもめと蘇生した中年女とのあいだで交わされるとのこと。これもぜひとも読んでみたいと思った。一回死ぬくらいのことがないと、愛は成立しないのでしょうか? 引き続き考察したい問題です。