快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

400年前のキリシタン弾圧と私たちとのつながり 『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(星野博美)

 ノンフィクションにとくに詳しいわけではないけれど、高野秀行さんと星野博美さんの作品は新作が出るとつい読んでしまう。このふたりの作品に共通していることは、最初はごくごく個人的な興味からはじまり、そしてそれをどこまでも追求し、海外や辺境地まで足を運んで取材するが、決して一般論に陥らずあくまでも個人の視点で書き、それでいて個人と社会、また日本と世界との関わりを見事に描き出している、というところではないかと思う。 

 この『みんな彗星を見ていた』も、星野さんが以前からなぜかキリシタン関係の本をよく読んでいた、という単純なきっかけからはじまる。
 ちょうど先祖について調べていたこともあり(これは『コンニャク屋漂流記』にまとめられていますね)、自分の先祖がキリシタンと交流があったのではないかと思いはじめ、天正遣欧使節が奏でたという当時の楽器リュートを習いはじめる。高野さんもそうですが、取材対象について、”まずは自分で体験してみる”というところがすごい。


 さて、安土桃山時代~江戸時代のキリスト教の布教と弾圧というと、私もそうでしたが、ザビエル来日、織田信長の庇護、キリシタン大名天正遣欧使節、豊臣秀吉の弾圧、江戸時代の禁教令、天草の乱……といった歴史の授業で習った事柄の羅列から、細川ガラシャ伊東マンショといった「えっ? 何人??」と思うような名前とか(名前だけ見ると、いまのキラキラネームみたいですね)、遠藤周作の『沈黙』のようなドラマチックな棄教(断末魔の表情で踏み絵を踏むイメージ)や殉教シーンを思い浮かべたり、美輪明宏はほんとうに天草四郎の生まれ変わり?なんて思ったりする程度なんではないでしょうか。
 これらはまちがいではないけれど、これだけではないということが、この本を読むとよくわかった。


 まず、布教する側にもさまざまな事情があり、一枚岩ではなかったというのが興味深かった。世界史で習ったように、ポルトガルの隆盛と、それに対抗するスペインの動きがあり、つまり、当時ポルトガルとスペインで世界を二分割しようとしていたため、キリスト教会派もポルトガル系のイエズス会だけではなく、スペイン系の托鉢修道会があった。大航海時代の領地争いが日本を舞台に繰り広げられたという一面もある。

 と言っても、宣教師にとっては、もちろん布教することが目的であり、領地や貿易目当てで来たわけではない。なんといっても、イベリア半島から極東日本まで当時の船で来ることは、ほんとうに命がけだったのだから。いま、我々が「ニューヨークまで飛行機で12時間か~遠いなあ」というのとはワケが違う。
 しかも、幕府が禁教令を出してからは、布教=殉教を覚悟しないといけないのだが、それ目当て、いや目当てという言い方もおかしいが、殉教する気マンマンで来た宣教師も少なくなかったというのもおどろきだった。なんでも、殉教と認めてもらうにもいろいろな基準があり、そう簡単なことではないのだが、日本はまさにその条件に適っていたらしい。

 そして、受け入れる日本側も、南蛮人が物珍しい&最新の文化を持っている→ひれ伏す→キリスト教は危険思想だ!と気づく、といった単純なものではなかった。
 徳川家康はさすが老獪で、南蛮貿易で利益を得るためスペインと交渉しようとあれこれ策を練っていたようだ。また、庶民も冷静で、南蛮人に盲目的に従ったわけではないため、宣教師側も日本人の信頼を得るために、まるで現代の営業マンのようなマニュアルを作っていたというところはおもしろかった。

 しかし、幕府や棄教した大名も最初は穏便に済まそうと、宣教師をなるだけ殺さず追放しようと試みたが、先に書いたような結果として、殉教に価値を求める宣教師たちと、そして「どうしてキリシタンの日本人はすぐ殺されるのに、宣教師は殺されないのか」という信者内で批判的な声もあり、拷問がどんどん激化し、凄惨なものになっていったという点が恐ろしかった。いまはイスラム国の拷問(斬首をネットで中継するとか)が話題になっているが、それよりずっと残酷な、逆さ吊りにしてじわじわ殺すとかが横行していたのだ。いや、私なら速攻で棄教するので、棄教者を弱虫だとはとうてい思えない。(そもそも最初からそんな信仰心もないが)


 結構長い作品で、内容も一直線に「キリシタンの知られざる歴史を語る」というものではなく、当時の世界情勢の変化や、宣教師たちの動向を綴るあいまに、リュートのレッスンにまつわる話(亡くなったマンドリン好きのおじさんのエピソードがよかった)や、長崎やスペインでの取材旅行での出来事や、さまざまな逸話が挿入されるので、なかなか入りこむことができないかもしれないが、それによって、当時の社会情勢、宣教師たちや信者たちの息遣いが、現在の我々ともつながっていることを感じることができる。


 で、ここまでつらつら書いておいてなんですが、このインタビューを読むと、この本の読みどころなどが一番よく理解できると思う。

なぜ日本人が熱しやすく冷めやすかったり、何かを系統立てて理論的に考えたりしないのか。振り子が触れるように、一方から一方へなだれこむ傾向があるのはなぜか。人目を気にし、出る杭となることを恐怖すること。自主性より全体を重んじる傾向。忘れっぽさ。西洋に対するねじれた羨望と、東洋に対する優越感。結婚式はキリスト教で、死ぬときは仏教、というように、宗教に寛容なのではなく、無節操になったのはなぜか――そういった諸々の日常的なこともふくめて、400年前のキリシタンの時代が関係あるのでは?という漠然とした考えがあったんです。

 ほんとそうだな。日増しにそんな傾向が強まる気すらする。

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