快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

穏やかな日常のどこかに隠れている悪夢のような世界 『アオイガーデン』(ピョン・ヘヨン 著 きむふな 訳)

 もう少ししたら職場に行く準備をしないと、と思った朝の8時、いきなり激しい揺れに襲われた。

 けれど、阪神淡路大震災東日本大震災にくらべたら短かったので、やれやれと思って部屋を見回すと、うちの猫がいない。ベランダの戸を開けていたので、飛び出したのだろうか……? ここは4階なのに。でも部屋のどこにもいない。

 私もあわてて部屋を飛び出し、近所から不審者として通報されかねないくらい半狂乱になって探し回る。出くわした同じマンションの人にも懇願したりしながら、道路の向こうまであちこち探したあげく、ようやくマンションの自転車置き場に潜んでいるところを発見。

 ネットを見たら、「行方不明になった犬や猫は、だいたい家の近くで隠れている」と出ていましたが、ほんとうにそのとおりなので、もしいまもまだ探し中のひとがいたら、家のまわりをよくよく見てください。

家を出ていた猫が戻ってきた。彼女は今回ばかりは猫を家に入れようとしなかった。うまくなだめて猫を抱き上げると、ベランダに出て外へなげてしまった。

猫は死ななかった。しばらくすると何ともない様子で現れたのだ。マンションの八階は猫のやわらかい脊椎に害を与えるほどの高さではなかったのか、運良く体を支えてくれるゴミの山の上に堕ちたかだろう。

 で、シンクロしているようなしていないような、上記に引用した『アオイガーデン』の表題作は、疫病が広まり廃墟となりつつある街が舞台になっている。 

アオイガーデン (新しい韓国の文学シリーズ)

アオイガーデン (新しい韓国の文学シリーズ)

 

  多くの住民がアオイガーデンを去り、他の都市に頼れる親戚などがいない住民だけが残っている。閉じこもって暮らしていた「僕」と彼女のもとに、お腹の膨れた姉が帰ってくる。

 血を分けた肉親である彼女と姉と「僕」が密室に閉じこもり、彼女も姉も、そして猫もおびただしい血を流す。世界の終わりの最果ての光景を描いているが、そこに漂っているのは死の臭いではなく、新しい命を生み落とそうとする生への執着だ。

 現実離れした物語に感じられるが、訳者あとがきによると、2003年のSARS騒ぎで香港の九龍にある高層住宅アモイガーデンの住民に隔離命令が出された事態をモデルにしているらしい。
 前回の『タイムマシン』も、私たちが生きる現実を諷刺したディストピア小説であったけれど、この『アオイガーデン』も、現実社会に存在し得るおぞましさを拡大して見せつけてくるようだ。この本に収録されている「貯水池」も、現実の事件を想起させる。

しばらくはあんたたちで過ごすのよ。だから、お母さんがお金を稼いで帰ってくるまで、家の中に隠れて待っててね。他の人に見つかったら大変よ。そうなったら、お母さんは刑務所に入れられるわ。お母さんが刑務所に入ったら、どうなる?

 置き去りにされる子どもというのは、実際にそう珍しい事件ではなく、これまでも映画などでモチーフにされてきたと思うが、「貯水池」ではこれまでに類のないほどグロテスクに描かれており、なおかつ不気味なリアリティがある。あと、最近話題の「池の水全部抜く」要素もある……って、いや、まったく関係ありませんが。


 「アオイガーデン」や「貯水池」は、現実から乖離した悪夢のような世界を描いているが、後半の「飼育所の方へ」や「紛失物」では、主人公は毎日会社に通う日常生活を送っている。なのに、いつのまにかディストピアに迷いこむさまもまた不気味だ。

 「飼育所の方へ」の主人公は妻と子どもと認知症の母と暮らし、せっせと会社勤めをしているが、家を買って子どもの教育費を支払うためにローンを組む。そして破産する。いまの家を明け渡さないといけないので、一家は田舎の村へ向かう。

子どもと彼の笑い声が犬の鳴き声にかき消された。犬の鳴き声は村のバックミュージックだと言っていいほど、いつものことだ。しかし、いつもと違っている。数匹の犬が山の方から駆け下りてきた。何かに追われているように緊迫した鳴き方だ。その声だけでもどれほど獰猛なやつらか察することができた。

 いつもの日常が惨憺たる光景に一変するのは、ふとしたきっかけなのだと思い知らされる。

 「紛失物」は会社勤めをする主人公、朴が重要な書類を入れたカバンを失くしてしまい右往左往する物語で、どことなくカフカ的な趣きがある。会社の上司である宋は口臭がひどく、また家では、妻が子どもの預かり仕事をしているため、知らない子どもの乳くさい匂いに悩まされる。最近では人の顔の区別もつかなくなってきた。

人の顔をよく思い出せなくなってからは、オフィスにいるのがもっと好きになった。オフィスでは苦心して誰かを区別しなくてもよかった。顔を忘れて困ることもなかった。

 しかし、余震が来るかもと思いながらディストピア小説を読むと、なんだかいつもより真に迫った感じがする。ほんの一瞬で穏やかな日常が崩壊する可能性を実感するからだろうか。
 
 日が経つとそんな気持ちは薄れていき、もちろん毎日サバイバルのつもりで生きていけないので当然なのですが、でもやはり、人生いつどうなるかわからないということは心に留めておこうと思いました。