快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

国際女性デーに 女性の連帯から何かがはじまる――『99%のためのフェミニズム宣言』(ナンシー・フレイザーほか(著), 菊地夏野(解説), 惠愛由 (翻訳))

 前回に続き、800字書評(正確には、批評講座だけど)ですが、今回のお題は本ではなく、森喜朗氏の例の発言について評論するというものでした。
 正直なところ、例の発言とそれをめぐる報道については、「またこの人か……」と思った程度で、それほど注目してなかったのですが、あらためて考えながら、以下のように書きました。 

※※マーガレット・アトウッド誓願』のネタバレがあるので、ご注意を※※

    -----------------------------------------------------------------------

題)1%と99%が手を結ぶとき                              


 今回の発言に関する報道を聞いてまず感じたのは、そもそもそういう会議に出席できるのはどういう女性なのだろう? という疑問だった。

 先日放映されたNHKスペシャル「コロナ危機 女性にいま何が」では、コロナによって職場を奪われた女性たちが取材されていた。ある女性は子どもを抱えて困り果て、またある女性は公的扶助を申請しても却下され、なかには風俗の仕事をはじめても思うように稼げない女性もいた。この現状に目を向けると、オリンピック組織委員会とやらが悪い冗談のようにも思えてくる。

 もちろん、発言の機会を持つ女性が増えることによって、女性全体の地位向上が進むというのは事実だろう。だが一方で、男性社会に入りこむことで、男性社会に都合のいい価値観を身につける女性も増えているのではないかと危惧してしまう。

 今回の発言は男性が発したものだが、去年「女性はいくらでも嘘をつける」と語ったのは女性だった。結局、社会の枠組みが変わらないかぎり、男性が通った道を女性も通ってしまうだけなのではないか――女性のあいだで分断が広がり、彼女たちの内面に能力主義や自己責任論が刻みつけられる――とも思えてくる。

 『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院 2020年)では、男性社会の「内側に入りこむ(リーン・イン)」ことができる1%の女性のためではなく、残りの99%の女性を対象としたフェミニズムを志向している。自分たちが求めるのは、「職場での搾取と社会全体における抑圧」から得られる利益を、支配者層の男女に平等に分担する「支配の機会均等」ではなく、支配を終わらせることだと定義している。

 かつて『侍女の物語』(早川書房 2001年)で、女性が徹底的に抑圧される架空の共和国を描いたマーガレット・アトウッドは、2019年に続編『誓願』(早川書房 2020年)を発表した。そこでは、共和国で実権を握るリディア小母が、共和国内で抑圧を受けながら育った少女と、共和国を脱出した女性が生み落とした少女と手を結ぶ。リディア小母が共和国の価値観を身につけ、女性でありながら支配者となったのは、そうしなければ生きのびることができなかったからだ。1%としての痛みを存分に味わったリディア小母が、共和国の支配に終焉をもたらすために少女たちと結託し、新しい世界を生きる若い女性たちに語りかける。

 現実の世界でそのようなことが起こりうるのだろうか? 女性たちがつながることは可能なのだろうか? 

    -----------------------------------------------------------------------

  さて、上でも紹介している『99%のためのフェミニズム宣言』は、男性社会の「内側に入りこむ(リーン・イン)」フェミニズム――政府が推進する〝女性活躍社会〟のようなフェミニズム――を「資本主義の侍女」と批判する、たいへん刺激的な本だった。 

 たとえば〝セクハラ〟にしても、異性への単なる性的嫌がらせではなく、権力関係に基づいたものであり、多くの場合、仕事の実権を握る者が、自分に逆らえば生計を立てられなくなる相手に対して行うものであることを考えると、ジェンダーと権力、資本主義が深く結びついていることがわかる。 

貧しい女性たちであり、労働者階級の女性たちであり、人種化された女性たちであり、移民の女性たちであり、クイアやトランスジェンダーの女性たちであり、障害を持つ女性たちであり、資本に搾取されているにも関わらず、「中産階級」(ミドルクラス)の自負を抱くよう促されてきた女性たち

  この本では、こういった女性たちの要求と権利を擁護すると書かれている。最後の「資本に搾取されているにも関わらず、「中産階級」(ミドルクラス)の自負を抱くよう促されてきた女性たち」というのが、多くの高学歴女性たち、高学歴でありながら、同じような学歴の男性とはまったく異なる給料体系や立場(非正規など)で働いている女性たちに刺さる言葉ではないだろうか。

  いや、この本で再三書かれているように、いまや搾取する側も男性ばかりではない。資本主義のヒエラルキーの高い地位に立つ女性も増えてきている。「能力があれば」女性でも高い地位につくことができる。
 けれど、能力で人間を分断するのは正しいことだろうか? 森氏の発言を題材にした講座では、そもそもオリンピックそのものが「競争と優勝劣敗思想をあおる」ものだと批判した方もいた。

 とはいえもちろん、どれだけ成果をあげても、いくら頑張ろうとも、そうでない場合とまったく差がつかず、なんの見返りもない社会が正しいとも思えない。
 資本主義や能力主義が99%の男女を押しつぶしつつあるのは事実でも、それに代わるものを具体的に構想できるわけではない(少なくとも私は)。独自で自給自足のコミュニティを作るとかいった代替案を実践している人もいるのかもしれないが、そういうコミュニティ思想にも一歩引いてしまう自分がいる。

 上の評で「社会の枠組みが変わらないかぎり、男性が通った道を女性も通ってしまうだけなのではないか」と書いたけれど、では、どうやって社会の枠組みを変えるのか? と考えると、やはりクォータ制のようなものを取り入れて、社会の中枢部での女性の割合を増やすしかないのか……しかし、それはつまり「支配の機会均等」なのではないか? とも思え、頭の中でぐるぐると疑問が渦巻く。

 と、ジェンダーと資本主義の問題については、まったく答えは見つからない。けれども、いまのような社会では、1%の女性も99%の女性もどちらも追いつめられ、多大な痛みを被ってしまうのはまちがいない。

 自己責任論や内面化された能力主義に傷ついている人や、いくら働いても生活が楽にならない現状に疑問を抱いている人、あるいは、〝飲み会を一切断らずに〟高い地位についた女性なども、『99%のためのフェミニズム宣言』のような本を読んで問題を可視化するだけでも、社会全体が変わるきっかけになるのかもしれない。

 さて、今日3月8日は「国際女性デー」です。こういう〇〇デーとは、行政主導の単なるかけ声のように思ってしまうけれど、この本の解説によると、起源は20世紀初めの社会主義運動に根ざしているらしい。 

1908年のこの日、1万5000人の衣料品産業の女性労働者たちが賃上げや労働時間短縮、参政権を求めてマンハッタンの中心を行進した。その多数は移民女性だった。その翌年、織物労働者の移民女性たちがストライキを行い、警察や経営者の弾圧にあった。

  そして1910年に「国際女性労働者デー」の組織化が行われた。
 110年前、いやもっと昔から、女性の連帯は続いてきたのだろう。明確な解決策があるのかどうかはわからなくても、痛みに気づいた女性たちが連帯するだけでも、何かが変わり、何かがはじまるのかもしれない。