快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

再び、いまヴォネガットが生きていたら…… 『現代作家ガイド カート・ヴォネガット』(伊藤典夫・巽孝之ほか)

あらゆることが政治化されてしまった今日では、例えばオリンピックを廃止しようというのならそれで結構。別に残念だとも思いませんよ。どの道、オリンピックはばかばかしいくらいに政治的で、国家主義的なものですし。みっともない。

  やっぱりあのひとの言ってたことは正しかった。と、あとになってつくづく思うことがある。忌野清志郎東京電力を揶揄していたのは正しかった、とか。

 で、上記の引用は東京オリンピックを批判する発言……ではなく、1984年に初来日したカート・ヴォネガット大江健三郎と対談して語った台詞だ。
 
 三十数年前に、すでにヴォネガットはオリンピックに冷ややかな目を向けていたけれど(この発言はロス五輪のことを指しているのか)、オリンピックのばかばかしいくらいの政治化と国家主義化はいっこうに止まることなく、そして日本では無邪気に、あるいは一部のひとは無邪気を装って、いま東京オリンピックが喧伝されている。

 先日ヴォネガットの『タイタンの妖女』の読書会に参加したので、予習のためにこのブックガイドを読んでみたところ、この対談のほかにも伊藤典夫巽孝之が寄稿していたり、短編が収録されていたりと、年譜や既刊本のあらすじをまとめただけみたいな、よくあるブックガイドとは一線を画する充実した一冊だった。 

カート・ヴォネガット (現代作家ガイド)

カート・ヴォネガット (現代作家ガイド)

 

 私のアイディアの一つ、コンピューターが小説を書けるようプログラムする方法について話をするつもりです。割りとちゃんとした指示を与えることができると思いますよ。そしてコンピューターからは結構ましな小説が出て来るでしょう。でもどうして私達がコンピューターによって置き換えられなければいけないのか、そのことはわかりません。

 この発言も、まさに三十数年後のいまを予見している。巽孝之による「はじめにーー人生で大事なことはすべてヴォネガットから学んだ」という序文で、「いまなぜヴォネガットか?」ではなく、「いまこそヴォネガットなのだ!」と書かれているのにも深く頷いてしまう。

 しかし、ヴォネガット大江健三郎モラリストであることはまちがいないが、モラリストであることが一流の小説家の必要条件とは限らないのも難しいところ。この対談でヴォネガット反ユダヤ主義ファシストを支持したセリーヌを高く評価している。
 もちろん、その思想信条は一切擁護せず、検閲が必要だと語っているが、『夜の果ての旅』と『なしくずしの死』は傑作であると述べ、ペンギンブックスに解説文を寄せているらしい。悪口雑言をはき散らしながらも、愛について語ったセリーヌの文章の見事さを賛美している。

 とはいえ、いま私が好きな作家がヘイト言説をまき散らすようになったら、どれほどその作品がすばらしくても、もうその作家を好意的に読むことはできなくなるな……とも思ってしまうが。

 このブックガイドに収められている短編「ハリスン・バージロン」では、ヴォネガット特有の皮肉なユーモアが発揮されている。 

2081年、人びとはついに平等になった。神と法のまえだけの平等ではない。ありとあらゆる意味で平等になったのだ。人より利口な者はいない。人より見ばえのする者はいない。人より力の強い者も、すばしこい者もいない。 

 という世界で、つまり、人よりすぐれた能力を持つ者はハンディキャップを課されるのである。人より頭がいい者は、他人を出し抜かないように思考の邪魔をするハンディキャップ・ラジオの装着を義務づけられ、稀に見る美貌の持ち主はおぞましい仮面をかぶらされる。本来なら美を体現するはずのバレリーナも、弾のつまった袋や分銅を背負わされる。

 これは『タイタンの妖女』で書かれていた〈徹底的に無関心な神の教会〉(Church of God the Utterly Indifferent)の信者たちの姿と同じである。
 強健な者や美しい者がハンディキャップを背負うのは言うまでもなく、視力のいい者は度の合わないメガネをつけ、性的魅力にあふれた男はセックスを嫌悪する女を選ぶ(ちなみに、その女は利口なので、頭が悪い者を選ぶ目的で、性的魅力にあふれた男を選んだのだ)。

 宗教、博愛、平等、民主主義……徹底的にモラリストでありながら(あるゆえに)、徹底的にこうしたことを茶化すヴォネガットのおもしろさがそこにはある。

 もうひとつ収録されている「魔法のランプ」は、ヴォネガットの捻りとヒューマニストな面がよくあらわれた作品だが、お蔵入りになりかけたらしい、訳者の伊藤典夫によると、黒人メイドがステレオタイプ過ぎたからではないか、と。結局改稿されて、『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』に収録されたらしいが、似ても似つかない作品となった、とのこと。こちらも読んでみよう。 

  もしヴォネガットが生きていたら、この現状をどう思っただろう……とは、『国のない男』でも感じたことだけど、読むたびに何度でも考えてしまう。

 ところで、伝記『人生なんて、そんなものさ』によると、著名な科学者であったヴォネガットの兄は、人工降雨の研究をしていたらしいが、いまのこの大雨を見ていると、なんで雨を止める方法を考えなかったのか……と思ってしまう。