快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

欲望から目をそらさず対峙した一冊 『愛と欲望の雑談』(雨宮まみ、岸政彦)

 このひとがいま生きていたなら、どう言っただろう?


 と、ふとした瞬間に考えさせられるひとたちがいる。

 前回取りあげたヴォネガットや、最近またベスト本が出るらしいナンシー関など。

 そして、雨宮まみもたしかにそのひとりだなと、岸政彦との対談本『愛と欲望の雑談』をひさしぶりに読み返して思った。 

愛と欲望の雑談 (コーヒーと一冊)

愛と欲望の雑談 (コーヒーと一冊)

 

 90年代頃は、そういう社会的規範から外れたものがかっこいいという考え方が強かったように思います。(略)その頃は性的なことにしろ、ドラッグカルチャーにしろ、そういうものを突き詰めてる人がすごいし偉い、という雰囲気があったんですよ。援交しているほうが偉い、女といっぱいヤってるほうが偉いみたいな。

  いま読み返しても、出版された当時と自分の感想はさほど変わらないけれど、世の中の流れは変わってきたように思う。変わったというか、この本で語られていたことに時代が追いついたというか。

 上記のくだりにおいては、最近もうひとりの雨宮さん、雨宮処凛も似たようなことを書いていて、ネットで話題に、というかちょっとした炎上騒ぎになっていた。 

maga9.jp

 私には「90年代サブカルスイッチ」というものがあって、そのスイッチを押すと、すべてに鈍感になり、普段「人権」とか言っている自分がどこかにすっ飛んでしまうような感覚がある。

  と、雨宮処凛はAVやドラッグといった、いわゆる「良識に反するもの」が散々もてはやされた時代を振り返り、「より鬼畜な方が偉い」という価値観が蔓延し、実際に過激なAVや体験ルポをやってのけ、「身体を張って」男たちの承認を得ていた女たちについて書いている。
 そして、そんなカルチャーを「わかっている」自分も、そのへんの女たちとはちがうという顔をしていたと。

 百人中百人が「ひどすぎる」と思うような状況であっても、それを言ってしまえば私が否定した「つまらない人間」と同じになるだけだった。それの究極が「正論を振りかざすPTAのオバサン」的な存在で、だからこそ、私は痛みを感じることを頑なに拒んだ。

  ちなみに、この文章については、「読解力がなく、サブカルの上澄みしか理解していなかったのが悪い」「オリジネイターたちの精神をわかっていない」という批判も目にしたけれど、受け取る側全員が高いリテラシーを持っているとは限らないと思う。とはいえ表現規制的なものを支持したくはないので、難しい問題ではあるけれど……


 雨宮処凛は、上記の文章で「90年代サブカルスイッチ」が内蔵された自分がいま、#MeTooといった問題にどうやって取り組むべきなのか問うているけれど、雨宮まみが生きていたら、#MeTooブームや、「生産性」発言にどういう声を発したのだろうか? なんて考えたりもする。

 この『愛と欲望の雑談』に戻ると、この対談が行われた2015年は、そんな90年代の狂騒も過去の遺物となり、すっかり「過激さがダサイ」(雨宮まみの発言より)という風潮に落ち着きつつあった。カップルのデートも、ふたりで漫画喫茶に行って、それぞれ別の漫画を読んでいるような。

 しかし、完全に非日常を求める欲望を捨てきれるのか? そう簡単にロマンチックに陶酔することを諦められるのだろうか? 

欲望の話に戻ると、幸せになれないとわかっていても求める気持ちというのもあって、それは理解できないまま自分の中に存在してますね。

  欲望や陶酔とつきあうのは難しい。
 なにかに陶酔するというのは、その対象に自分勝手な幻想やロマンティシズムを押しつけることになる。対象が人間なら、自分のみならず相手やその関係者を傷つけることにもなりかねない。

 アイドルとかに陶酔しているとかが一番罪がないのかもしれないが、対象が身近な人間でないからといって、まったく問題がないとは限らない。岸政彦は自分のテーマである沖縄について、こう書いている。 

僕がいま沖縄に関して書いていることは、全部沖縄にハマっていた自分を否定する作業なんですよ。(略)沖縄に対するくだらない自分のセンチメンタリズムに落とし前をつけたくて。そのロマンはマジョリティ側の考えであって、沖縄に基地を押し付けている側が沖縄に癒しを求めるということに、何かすごく偽善的なものを感じるんです。

  しかも、欲望のやっかいなところは、それがほんとうに自分の欲望なのかわからなくなるところだ。
 この本でも、「欲望の三角形」「欲望自体が他者の欲望の内面化」ということが語られているけれど、自分が心から欲していたつもりでも、実はみんなが欲しがっているから欲しいような気がしていただけだった、ということも往々にある。

 じゃあ、こんな混沌とした欲望など捨て去って、あるいは蓋をして、身のまわりの生活に満足を見出して、淡々と生きていくのが正解なのだろうか? それが正解なのだろうとは思うけれど――

希望を持たないほうが楽だというのは、何かを放棄してると思うんです。希望を持たないほうが楽っていうのは、私は……こういう言い方は変ですが、「美しくない」と思うんです。生き方として。傷ついても希望を引き受ける人のほうが美しい。やっぱり、欲望が好きなんですね。

  この発言からわかるように、雨宮まみは混沌とした欲望から逃げたり、けっして目をそらしたりしなかったのだろうな、とつくづく感じる。全身で欲望も希望、そして絶望もネガティヴな感情もすべて受け止めていたのだろう。 

アカデミズムクソ野郎みたいな人がいっぱいいましたよね。ただのヤリチンのくせに威張れる神経、どうかしてますよね。それで性とか語っちゃうんだけど、「俗は極めると聖になる」みたいな、しょうもないことしか言わないんですよ。女に対する幻想もすごかったりして。

  こんな発言を読むと、ほんとうにほんとのことしか言わなかったひとなんだな、とあらためて思う。このひとがいま生きていたなら、なんと言っただろう?(お盆だからかな)