快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

おおさか東線開通の今日、あらためて福知山線脱線事故を振り返る 『軌道』(松本 創 著)

 福知山線脱線事故の日のことは、いまでもよく覚えている。2005年4月25日、私もJRに乗って神戸に向かおうとしていたからだ。
 

 その日は神戸国際会館でのスピッツのライブに行こうと、有休をとっていた。午前中からテレビを見ていると、突然画面が切り替わり、電車の事故現場のようなものが映し出された。

 尼崎近くで、JRがマンションに衝突したという。第一報では「負傷者も出ている模様」くらいに伝えられたが、マンションに激突したように見える車両が実は先頭ではなく、先頭車両はマンションにめりこんでいるという情報を聞くと、とんでもない事故になるのでは……と、おそろしくなった。

 当時は大阪市の港区に住んでいたので、弁天町からJRに乗った。改札で駅員に「神戸線は動いてますか?」と念のために聞いたら、なんでそんなことを聞くのかとばかりに返事されたので(まだ事故の詳細がわからないときだった)そのまま神戸に向かった。
 何事もなく尼崎を通り過ぎ、ほんの少し先であれほどの事態になっているなんて実感がわかなかった。 

本事故による死亡者数は107名(乗客106名及び運転士)、負傷者は562名である。(事故調査報告書より)

  このノンフィクション『軌道』は、福知山線脱線事故を通じて、「組織」と「個人」のあり方をどこまでも追究している。 

  軸となるのは、この事故で妻と妹を失い、娘が重傷を負ったA氏である。(本では本名で書かれていますが、ブログで本名を書いていいのかわからないので匿名にしておきます)

 A氏は一級建築士として都市計画コンサルタント事務所で働いていたが、住民を置いてきぼりにした「官製まちづくり」に疑問を抱くようになり、技術屋として住民運動に関わりはじめる。
 二大大気汚染地域であった倉敷と尼崎の公害訴訟を支援し、阪神淡路大震災の復興にあたっては、培った知識と経験を総動員して、行政と住民の調停役をつとめてきた。

 つまり、ひたすら被害者の支援に尽力していたA氏が、この脱線事故で完全に当事者となってしまったのだ。

 これまでの経験から、被害者が連帯して交渉する重要性や手法はよくわかっていたが、いざ自分が当事者となれば話は別だった。傷のなめあいなんて鬱陶しいし、自分の苦しみなんて誰にもわかるわけがないとも思う。
 それでもやはり、遺族説明会でJR西日本相手にひるむことなく疑問を追及する手腕を見込まれ、遺族で結成された〈4.25ネットワーク〉の世話人になってほしいと依頼される。

 こうして、A氏という個人がJR西日本という巨大な組織と「対話」をはじめようとする。ところが、「対話」はまったく成立しない。


 JR西日本は「100パーセント私どもの責任。誠心誠意対応したい」と型通りの謝罪をくり返すばかりで、こんな事故がなぜ起きたのか、どうやって再発防止するのか説明してほしいと訴えても、とにかく言質をとられまいと言い逃れに終始し、遺族の要望にはまったく耳を貸さない。

 そもそも官僚的な硬直した体質から脱却するために、国鉄の分割・民営化が行われたはずだ。それがいったいどうしてこうなってしまったのか? 

 と、この本では民営化からの歴史を振り返る。すると、「私鉄王国」の関西で赤字路線ばかり抱えていたJR西日本が、カリスマ経営者井手正敬の辣腕によって、“アーバンネットワーク”(関西人は聞いたことありますね)を築き、収益性の高い組織として見事に生まれ変わったが、効率と利益を優先する過程で生じた弊害が露わになっていく。

 といっても、井出氏個人を攻撃しているわけではない。
 A氏およびこの本は、そういった個人に非を求める体質を真っ向から否定し、組織に原因があると考えている。

 この事故までのJR西日本の考え方は――井出氏個人の考え方でもあるが――事故の原因は個人の能力の欠如、あるいは気の緩みだと見なし、ミスを起こした個人を激しく叱責する「根性主義」「精神論」に依拠していた。「ミスをすれば犯罪者扱い」と証言した運転士もいる。

 しかし、人間は絶対にミスをする。

 重要なのは、そのミスをいかにして防ぎ、大事故につながらないようにするかということである。この事故のあと、JR西日本の懲罰的な「日勤教育」の実態が報道されたが、ミスをすると罰則を与えられる組織では、人間はなるだけミスを隠そうとする。亡くなった運転士も車掌にミスを報告しないよう頼んでいた。 

本件運転士のブレーキ使用が遅れたことについては、虚偽報告を求める車内電話を切られたと思い本件車掌と輸送指令員との交信に特段の注意を払っていたこと、日勤教育を受けさせられることを懸念するなどして言い訳等を考えていたこと等から、注意が運転からそれたことによるものと考えられる。(事故調査報告書より) 

 この事故から10年以上経った2016年、JR西日本は「ヒューマンエラーは非懲戒」とする画期的な方針を掲げた。すでに航空業界ではスタンダードになっているらしいが、意図的でないミスは不問とすることで、ミスをした乗務員が報告・相談しやすくなる仕組みだ。

  この考え方は、どんな仕事にもあてはまる。
 私の職場も法律関係なので、ひとつのミスが致命的な事態になりかねない(と、うるさく言われている)が、ミスを防ぐ仕組みが構築されているとは言い難い。結局、現場は個人の技量に任されており、ミスが発生したら「〇〇は仕事ができない」とレッテルを貼られて終わりとなる。
 会社で働いているひとなら誰でも、組織や構造を改革することの難しさについて思い当たるのではないだろうか。

 さらにこの本は、A氏という個人がJR西日本という硬直した組織と対峙する物語であるが、一方で、あくまで組織の一員であったJR西日本の社員たちがA氏との対話を通じて、個人としてのあり方を取り戻す姿も描かれている。

 なかでも、事故の後に子会社から呼び戻されてJR西日本の社長となり、「敗戦処理」を任された山崎社長の姿が興味深い。
 それまで事務方のエリートが中枢を占めていたJR西日本で、技術屋出身の山崎氏は異色であり、井出「天皇」とも反りが合わず出向していた。だが、官僚的な応答ではなく自分の言葉で語る山崎氏が社長に就任してはじめて、A氏は「対話」ができる人物が現れたと感じる。

 そして、この山崎社長のもとでJR西日本は改革の道を進む……となれば、話はスムーズだったのだが、事故の処理に追いつめられた山崎氏もまた過ちをおかす。
 
 それでもなお、被害者と加害者という壁を越えて、A氏と山崎氏のあいだにはある種の絆が生まれる。独立独歩の「個人」として周囲を支援し続けてきたA氏の姿に、山崎氏は巨大組織の「官僚」として生きてきた自分に無いものを見出して感銘を受けたと語る。 

自分自身が“やられる側”になった彼は、妻と妹を亡くした遺族という「個人」の立場で、巨大企業に対峙した。…… 
糸口は、組織の中にいる個人を見つけることだった。…… 
Aと山崎という2人の技術屋が出会い、共鳴し、外と内から組織に穴を穿った

  そういえば今日は、JR西日本にとって記念すべき日だ。おおさか東線が放出~新大阪まで開通した。

 考えたら、私は港区の次には放出に住み、通勤にJR学研都市線を使っていたのだが、この事故のあと回復運転を止めたJRは毎日のように遅れ、しょっちゅうイライラしていた。
 利益よりも安全を最優先させる組織となってほしいと言いつつ、遅れたらイライラする乗客としての自分もいる。自省もこめて、社会全体がゆとりを取り戻すことが大事なのだろうとあらためて思った。