幸福って何だっけ? 『幸福の遺伝子』(リチャード・パワーズ著 木原善彦訳)
輝かしい雰囲気に囲まれた彼女はしゃべるときも気楽そうだ。彼は彼女がアルジェリアの内戦を逃れてきたと言ったように感じ、もう一度今の言葉を繰り返してほしいと言いたくなる。しかし彼は慌てて、彼女に人生哲学を言うように促す。
「人生は哲学で語るには素晴らしすぎる」と彼女は皆に言う。
子どものとき、テレビアニメ「世界名作劇場」で『ポリアンナ物語』を観ていた。
どういう物語かというと、「世界名作劇場」の常道どおり、幼い少女ポリアンナは両親に先立たれて孤児となり、叔母のもとに引き取られるが、それ以後も常道どおり、次々と苦難に見舞われる。けれども、美しい心を持つポリアンナはけっして環境や運命を呪ったりせず、どんな不幸のなかでも「よかった探し」をして、周囲のひとびとの心に感銘を与える……というものだった。
同じく幼い少女であった私は、この「よかった探し」がとにかく嫌で仕方なかった。
「よかった」なんてあるわけないやろ!と、子どもながらにイライラしていた。いま考えると、とくにこれという不幸に見舞われたことのなかった子どもとして、不幸にあるからこそ、「よかった」を探さないとやっていけない心情などまったく理解できず、ポリアンナがただいい子ぶっているように思えて、ひたすらウザかったのである。
どうしてこんなことを思い出したかというと、リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』を読んだからである。
物語の中心人物であるラッセル・ストーンは、かつて身のまわりのひとたちをネタにしていくつかの物語を書き、一躍人気作家となった。だが称賛を受ける半面、ネタにされた実在の人物たちからの抗議を受け、なかには自殺未遂まで起こす相手もいて、一切書くことができなくなった。
旧友の紹介でシカゴに行き、『自分自身になる』という自己啓発雑誌の編集に加わり、読者の熱意あふれる投稿をなんとかまともに読める文章に直すというのを生業にする。すると今度は大学から声をかけられ、創作学科の非常勤講師を依頼された。
『生き生きした文章を書くために』という本をテキストに教壇に立つと、ひとりの女子生徒に目が留まった。
タッサというその生徒はアルジェリア出身で、大量殺戮が横行するその国で父は殺され、母はそのショックから衰弱して病死し、パリに脱出してモントリオールに移住した……という顛末を、生き生きと、なんなら楽しげとまで言えるほどにのびのびと語った。
タッサのまわりには笑顔があふれ、どんなに辛いことも彼女の手にかかると美しい物語となった。さらにはレイプされかけても、加害者をかばおうとする。不幸のあまり感情がハイになっているのか? 多幸症か? と疑わずにいられないストーンは、スクールカウンセラーであり、昔の恋人にどことなく似た面影を持つキャンダスに相談をもちかける。
「先生は私が幸せすぎると思っているんじゃありません? みんな、私があまりにも幸せそうだというんですよね。ここってアメリカじゃないんですか? 何々すぎるっていうことが存在しない国でしょう?」
一方、世界的なセレブリティーである遺伝子学者、トマス・カートンは「人が不安になりやすい、あるいは小児期に落ち着きがない、あるいは鬱状態になりやすい」というのは、特定の遺伝子が関連しているのではないかと研究していた。
講演に訪れたシカゴで、タッサに引き合わされたカートンは、その多幸症とも思える症例には遺伝子が関連しているのではないかと考え、タッサをボストンの研究所に招いてさらに調査をする。その結果、「幸福の遺伝子」というものが存在すると発表する。
幸福は大部分が遺伝だということが、ついに科学の手によって明らかになりました。
幸福の遺伝子が、なぜか、あまり広がりを見せていないのは興味深い。
私たちはあとどれくらいの年月で、もう少し幸福になれるでしょうか?
と、SFのような舞台設定のもと、いくつものテーマが交錯する。
幸福とはいったい何なのか?
幸福や不幸を感じるのも、結局は遺伝などの肉体的条件に由来するものなのか?
鬱病を治す薬があるように、脳をいじくったら幸福を感じられるのか?
(SFの古典であるオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』に出てくる、幸せになる薬「ソーマ」についても言及されている)
という「幸福の遺伝子」をめぐる主題から、書けなくなったカートンが、タッサやキャンダスとの交流から幸福と呼ぶことができるようなものに近づき、書くことについて再び向きあうようになる――誰も傷つけずに書くことは可能なのか?
そして、基本的に三人称で語られるこの小説の中で、時折顔を出す書き手の「私」とはいったい誰なのか? という疑問が浮かびあがる。
単純な感想として、たいした人生経験もないのに、頭の中だけで鬱屈を抱えている者にとっては、幾多のつらい経験を乗り越えて、それでも人生を明るくポジティヴに受けとめている人間の存在が脅威に感じるんだな、とあらためて思った。
子どもの頃の私がポリアンナを見てイライラしたように、このラッセル・ストーンもタッサに出会って、自分の足元を崩されるような脅威を感じる。まあなんて微笑ましい、とスルーすることができない。
この物語の原題はGenerosityであり、「ジェネラス」という言葉はルビとなって何度も顔を出す。「ジェネラス」が――「寛大」や「包容力」が、タッサを表現する言葉である。「包容」には、基本的には自分以外のもの、他者を包みこむイメージがある。
かつてラッセル・ストーンは、他者の人生を勝手に物語化したことによって他者を傷つけ、自らも心に深い傷を負った。それ以後、他者の物語を語ること――他者を「包容」すること――に強い恐怖心を抱くようになった。
ところが、タッサは他者を「包容」することをまったく恐れない。おそらくこの点が、ラッセル・ストーンがタッサにひどく怯えながらも、無視することができなかった最大の理由なのだろう。
では、タッサの「包容力」は結局どこから来たものだったのか? やはり遺伝子の仕業だったのか?
他者を「包容」すること――他者の物語を語ること――は可能なのか?
これについては、それぞれこの本を読み進め、ラッセル・ストーンやトマス・カートンとともに追究してほしい。
また、この物語には時間軸がふたつあり、ひとつはタッサをめぐるラッセル・ストーンやトマス・カートンによる騒動が現在進行形で語られ、もうひとつは、二年後の世界がテレビ司会者の女性の視線で語られる。この二年後の世界の意義がよくわからなかったが、物語の結末でようやく納得した。
結論を出すのは死んだ後だ。私に選択肢はない。喜びが私からあふれ出す。「気分は?」と私は訊く。「調子はどう?」と。彼女はあらゆる寛大な(ジェネラス)答えを返す。