こぼれたミルク、だめになったスープ、恋人は共犯者…どう訳す?『この英語、訳せない!』(越前敏弥)など
山下達郎の「サンデーソングブック」を聞いていたら、アメリカのファンク/ソウルグループの100 PROOFによる「TOO MANY COOKS (SPOIL THE SOUP)」がかかった。ミック・ジャガーもカバーしている(プロデューサーはジョン・レノン)名曲で、要は「オレの女に手を出すな」という歌らしい。
Don't want another man well lovin' you
Cause too many cooks will spoil the soup
I know your love, is a boiling hot
Don't want another man's, finger in the pot
と、ほかの男が指をつっこんだら、スープの味が台無しになってしまうと歌っている。
さて、” Too many cooks spoil the soup/broth”とは、「料理人が多すぎるとスープができ損なう」(ルミナス英和辞典)という英語のことわざであり、日本の「船頭多くして船山に登る」に相当する。とはいえ、この歌詞にはboilingとかpotなど、前後にスープに関連する言葉も出てくるので、和訳を作るとしても「船頭多くして船山に登る」とはできないだろう。
そもそも、「料理人が多すぎるとスープができ損なう」でじゅうぶん意味がわかるので、あえて「船頭多くして船山に登る」とする必要はないかもしれない。けれども、もっと意味がわかりにくいことわざや慣用句の場合はどうしたらいいのか? どこまで日本語に置き換える必要があるのか?
といった、英語と日本語のあいだでわきおこる疑問をひとつひとつていねいに解きほぐしてくれるのが、この『この英語、訳せない!』である。
上記のようなことわざや慣用句については、「慣用表現の対処法」①~③で解説されている。
”It’s no use crying over spilt milk”は、「後悔先に立たず」でいいのか? それとも「覆水盆に返らず」がピッタリなのか? いや、やはり「こぼれたミルクのことを嘆いてどうするのか」なのか? (そういえば、日本でも人気のあったバンド、ジェリーフィッシュのアルバムのタイトルは、「こぼれたミルクに泣かないで」でしたね)
ほかにも、一人称をどう訳すか、頭韻や脚韻、複数形をどう示すかといった、英語と日本語のあいだで必ず出てくる問題が考察されている。
さらに、とりわけ訳しにくい単語については、例文とともに解説されているが、 ”condescend”という単語が要注意だと気づかされた。たしかに、リーダーズを見てみると、
「1 同じ目線の高さに立つ[でものを言う], 高ぶらない」
「2《腰は低いが》〈相手を〉見くだしたふるまいをする」
と、どっちやねん!と言いたくなる定義が書かれている。いや、あえて腰を低くする(同じ目線に立つ)というのがもともとの意味であり、そこから嫌味っぽさが生じるのだろう。感覚としてはじゅうぶんに理解できるひとが大半だろうが、訳すのは難しい。
と思いつつ、同じく最近買った『韓国・フェミニズム・日本』を手に取り、責任編集の斎藤真理子さんと翻訳者の鴻巣友季子さんの対談を読んでいると、偶然にもこの単語が出てきた。
この本はフェミニズムをキーワードにして、現代の韓国文学を日本から読み解いていくためのブックガイド(だと思う)であり、この対談でも『82年生まれ、キム・ジヨン』などフェミニズムをテーマにした小説について語られている。そこで、小説で描かれてきた親や夫からのモラルハラスメントについての話題になり、鴻巣さんがこう言っている。
近年まで日本人の読者は、そういう陰険なモラルハラスメントについて語る言葉を、意外と持っていなかったように思います。せいぜい「おせっかい」くらいでしょうか。だから、英語のcondescend(ing)が出てくると訳せなかった(笑)
そして、この十年でようやく、condescend(ing)をあらわすのに「便利な言葉」が出てきたと続けている。その「便利な言葉」のひとつは、『この英語、訳せない!』でも解説で挙げられていたので、condescend(ing)の意味について深く納得できた(つもり)。気になる方は、ぜひ本を読んでみてください。
また、『この英語、訳せない!』では「度量衡で示す訳者の考え」という章で、フィート/メートルにポンド/キロといった、これまたおなじみの単位の問題を取り上げているけれど、鴻巣友季子さんの『全身翻訳家』でも、「訳せない単位」という章で「単位の翻訳には、なかなか気を遣う」と書かれている。
英語には、six of one, a half dozen of the otherというフレーズがある。「六と言おうと半ダースと言おうとおなじ」、つまり「どちらでも違いがないもの」というほどの意味だ。ところが、日本語で「六」と「半ダース」はおおいに違う。
たしかに、ダースというのは日本人の感覚ではあまりピンとこない。もちろん12というのは知っているが、12や6がキリのいい数字という感覚がない。『全身翻訳家』でも書かれているように、日本人にとってキリがいいのはやはり5や10である。つまり、単位問題は単に換算したらいいのではなく、肌感覚とセットになっているからやっかいなのだろう。
英語と日本語それぞれの単語の意味は、一対一で対応していない。
…というのは、翻訳を語る際に常に言及されることであり、『この英語、訳せない!』でも、head や evening といった基本的な単語から、mindのように抽象的で複雑な意味を持つ単語まで説明されている。
"Reading is to the mind what food is to the body."は、「読書の精神に対する関係は食物の肉体に対する関係に等しい」という訳がベストなのか? 判で押したように、mind=精神でいいのだろうか?
しかし、こう考えていくと、翻訳者は裏切り者という言葉があるように(もとはイタリアの慣用句?)、その言葉の持つ文化や背景、ネイティヴが受ける語感などのすべてを落とさずに翻訳することも、また、翻訳されたものを読んですべてを理解することも不可能なのだろうか…という、うっすらとした絶望感を抱いてしまう。
そんなことを思いながら、今度は原田勝さんのブログを見たところ、『おすすめ! 世界の子どもの本──JBBY選 日本で翻訳出版された世界の子どもの本──』というブックガイドが紹介されていて、それに収録されている宇野和美さんのエッセイに触れられていた。
結局わからないとしても、どこまでも他者を理解しようとするのをあきらめないのが翻訳者だと思う、と(宇野和美さんは)書いていらっしゃいます。それによって、既存の価値観や常識が広がることがあるのだし、わからないことも伝えるのが、わたしたちの仕事なのだ、と。
ここを読んで、そうだ、何から何までぜんぶわからなくてもいい、結局わからなかったとしても諦めずに粘ることができたらいいんだ、と心から思えた。翻訳する側も、読む側も、ある意味共犯者、”Partners in crime”として、遠く離れた外国で書かれた本と格闘し、ときに楽しく戯れられたら、それでいいのではないかと……だめでしょうか?
ちなみに”Partners in crime”も、冒頭に書いた山下達郎のサンソンで、Rupert Holmesの歌がかかっていて、これも和訳するのに難しい言葉だな(ここでは不倫を歌っているので、「共犯者」という直訳でも大丈夫そうですが)…と、聞きながらつくづく思ったのでした。