快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

【800字書評に挑戦】「健康」な恋愛への「不健康」なためらい――尾崎翠「第七官界彷徨」

 さて、先日とある講座を受けたところ、800字の書評を書くという課題を出されました。
 800字というと、400字詰め原稿用紙2枚。短いので、なんとかなるかな……と思いきや、短い字数であらすじをまとめ、さらに考察も入れるとはなんとも難しいとつくづく感じた。

 しかも課題書は、尾崎翠第七官界彷徨」。 

第七官界彷徨 (河出文庫)

第七官界彷徨 (河出文庫)

  • 作者:尾崎 翠
  • 発売日: 2009/07/03
  • メディア: 文庫
 

  大学のときにはじめて読んでから、ずっと大好きな物語ではあるのだけれど、読んだことのある方はおわかりでしょうが、その魅力を語るのはきわめて困難だ。
 「第七官界彷徨」の第七官界とは、人間の感覚である五官、さらに霊感とも言われる第六感の次の感覚を指していて、主人公である小野町子が「人間の第七官にひびくような詩を書いてやりましょう」という思いを心に抱くところから取られている。この小説自体が第七官界にひびくものであり、感覚の極北で綴られた物語とも言える。

  私が持っている筑摩書房版の解説で、矢川澄子尾崎翠ドッペルゲンガーへのこだわりをひいて(「第七官界彷徨」では『ドッペル何とか』と書かれている)、「尾崎翠はもしかして二人いたのではなかろうか」と書き、こんなふうに続けている。

ひとは彼女の語りの「異常なまでの明るさ」に目をみはり、その文章の「悲痛な軽やかさ」に心打たれる。 

 「異常なまでの明るさ」と「悲痛な軽やかさ」とはまさに言いえて妙で、尾崎翠の魅力について語ろうとしても、白夜のような明るさに私たちは目がくらみ、蘚(コケ)の花粉のような軽やかさは私たちの手をすり抜けてしまう。

 悲痛というのは、文学の志を抱いて鳥取から上京し、昭和初期のモダニズムの時代に斬新な文章で注目を集め、同じく新人作家であった林芙美子に敬慕されるほどの才気を発揮したにもかかわらず、さまざまな事情が重なって地元へ戻り、そのまま文壇から忘れ去られてしまったという尾崎翠の生涯を重ね合わせているのかもしれないが、たしかに、彼女の愛したチャップリンのような物悲しさが物語の片隅に漂っている。

 こんなふうに考えていくと、やはり800字で書くなんて無理だと思ったりもしたけれど、とりあえず提出したので、「第七官界彷徨」の冒頭に続けて載せておきます。(なお、800字と言ってますが、課題は800字から1000字のあいだという指定でした)

 よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。

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題:「健康」な恋愛への「不健康」なためらい
 

 『第七官界彷徨』では、蘚の恋愛と人間の恋愛が並行して語られる。

 「我ハ曾ツテ一人ノ殊に可憐ナル少女に眷恋シタルコトアリ」と論文の冒頭に綴る小野二助は、失恋したことをきっかけに植物の恋愛の研究に没頭するようになる。蘚の恋愛はこやしによって触発されるため、物語の主人公である町子が兄の一助と二助、そして従兄の三五郎とともに暮らす家には常にこやしの匂いが漂い、恋情をそそられて花をひらけた蘚の花粉が舞い散っている。「植物の恋愛がかえって人間を啓発してくれる」と三五郎が町子に言うとおり、蘚の花粉を吸いこんだ住人たちもそれぞれ恋に落ちる。


 ところが、蘚とくらべると人間の恋愛はどうにもあやふやだ。二助が恋した少女には、二助のほかに「深ク想エル人間」がいた。病院に勤務する精神科医の一助は入院患者に恋をするが、もうひとりの医者との三角関係に悩まされる。音楽を勉強する受験生である三五郎は、町子を慈しんでいたにもかかわらず、隣の家の少女も気にかかる。そんな三五郎を見て泪を流していた町子も、束の間の恋に落ちる。どういうわけだか人間は、蘚のように「健康な、一途な恋愛」をすることができず、一助の言うところの「分裂心理」に陥ってしまう。恋心はあてもなく空回り、「誰を恋愛しているのか」すらも解らなくなる。

 どうして蘚のように「健康な、一途な恋愛」ができないのだろう? 蘚はあんこのように煮たてた熱いこやしを養分として、大量の花粉を放出し、再生産へ邁進する。一方、一助や三五郎は浜納豆やすっぱい蜜柑をつまんで、三角関係に悩む。町子は短い恋の相手の家で塩せんべいとどら焼きを食べて、睡気を覚える。二助は蘚が開花せずにためらっているのに気づき、「分裂病ニ陥レルニ非ズヤ」と心配する。結局それはこやしが中温度であったからだと判明するのだが、焦った二助は栗とチョコレートを取り違える。

 生命力にあふれた「健康」な蘚と比べると、栄養分に乏しい食物ばかり口にして、「分裂心理」に陥る人間の「不健康」さが際立つ。蘚の花粉によって恋心を刺激されても、住人たちは足踏みをするばかりで、恋の成就に向けて踏み出すことができない。再生産にはほど遠い。その「不健康」なためらいこそが、現在においてもこの作品がまったく古びず、共感を得る理由なのだと思う。