快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

歴史小説/時代小説の難しさ パンデミックに襲われた奈良の都を描いた『火定』(澤田瞳子)

間が空いてしまいましたが、先月は人生初の入院&手術を受ける羽目になりました。その顛末は、こちらの

note.com

に書いてあります。


さて、800字書評の先月の課題書は、澤田瞳子『火定』でした。 奈良の都に天然痘が広がるさまを描いたパンデミック小説です。

まずは、自分の書評をアップします。

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「病とは恐ろしいものだ」と、『火定』の主人公である名代は思う。「人と人との縁や信頼、理性をすら破壊し、遂には人の世の秩序までも、いとも簡単に打ち砕いてしまう」

この小説は現代より約1300年も昔の奈良時代を描いている。ところが、都に痘瘡(天然痘)が広がるさまは、コロナ禍に見舞われた現代と恐ろしいほど酷似している。
病を持ちこんだ遣新羅使について、「彼らをひとところに押し込め、新たな発病者が現れなくなるまで、何があってもそこから出さぬことだったのだ」と、もうひとりの主人公である諸男が考える場面は、どうしてもダイアモンド・プリンセス船の騒動が頭をよぎる。


貴族から貧しい庶民まで多数の者が命を落とすにつれて、ひとびとは人間の無力さと生の儚さに直面する。自分だけが助かればいいと考える比羅夫のような者や、恐怖につけこんで金儲けをする宇須のような者が出現するくだりも現代と共通している。
とくに、宇須に煽られた民衆が自分たちと異なる相貌の者、異なるルーツを持つ者を抹殺しようとするさまは、近隣国への醜い感情をあらわにする現代人の姿と重なるものがある。

何が変わって何が変わっていないのかを象徴しているのが、悲田院の孤児たちの存在だ。病に罹った孤児たちは、蔵に押しこめられて見殺しにされる。現代では考えられない所業のように思える。
だが、現代でも弱い者は見殺しにされているのではないだろうか? これほどまでにあからさまになっていないだけで。しかも、隆英のように孤児と運命をともにする者が、現代には存在するだろうか? 

時代小説には苦手意識があった。何百年も昔の人が、現代人と同じような価値観や倫理観に従って行動しているのを読むと、そんなやつおらへんやろ~とどうしても違和感を抱いてしまう。
この小説においても、迷える青年である名代や、悪役になりきれない諸男といった主要な登場人物については、この違和感をぬぐえないところもあった。また、宇須や虫麻呂といった強烈なキャラクターがあっさり命を失うのも少々肩透かしに感じられた。

しかし、悲田院の蔵をあける場面の凄惨さには、そういう物足りなさも打ち消されてしまった。「彼らの死は決して、無駄ではない」と書かれている。たしかに、無駄な生や死はない。けれども、意味があるのかどうかもわからない。人間は死ぬまで生きる、ただそれだけだという無常を、死体が積み重なる秋篠川の岸辺から強く感じた。

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1300年も昔の奈良時代を舞台としているにもかかわらず、パンデミックに襲われた都の人々がパニックに陥るさまは、まさに現在の世の中をありのままに写し取っているような臨場感があった。
さらに、この小説が投げかける、人間にとって病とは何か? 生と死は何か? という問いは、まさにいまの自分に合致したテーマであった。


けれども、退屈することなく最後まで読み進めたものの、そこまで物語の世界に没入できなかったというのが正直な感想だ。


第一には、ほかの受講生も指摘していたが、書評でも引用した「彼らの死は決して、無駄ではない」といった、生と死への意味づけのようなものが小説内で綴られていることに、ちょっと抵抗を感じてしまったからかもしれない。上にも書いたように、人間は死ぬまで生きる、ただそれだけなのではないかと思った。


第二には、これも書評で書いたように、歴史小説/時代小説(ちなみに今回、史実に基づいて書かれているものが歴史小説で、古い時代を舞台にしながらも、荒唐無稽な設定や筋立てで書かれているものが時代小説だと知った)を読み慣れていないからかもしれないが、何百年も昔の世界を描いているのに、登場人物たちが現代の価値観や倫理観に従って行動していると、どうしても違和感を抱いてしまう。


とはいっても、まったく現代と異なる価値観で登場人物が動いていたならば、現代の読者は共感できず、物語の世界に入りこむことができないだろうから、難しい問題だとは思うけれども……


というようなことを考えつつ、次に『指差す標識の事例』を読みはじめた。 

 こちらは17世紀のイングランドを舞台とした歴史ミステリーで、去年翻訳ミステリー大賞を受賞した作品である。
 4部構成の小説で、第1部はヴェネチア出身の医学生コーラが語り手となり、まだ人体の仕組みが解き明かされていないこの時代に、さまざまな実験をくり返しながら、科学の発展に貢献しようと奮闘するさまが綴られている。


『火定』と同様に〈医療〉〈歴史〉の要素があり、さらに〈外国〉すら加わって三拍子そろっているが、不思議なことに、こちらに対しては、歴史小説/時代小説への違和感が湧きあがってこないことに気がついた。どうしてだろうか?

〈外国〉の〈歴史〉小説ゆえに、最初からまったく異なる世界の読み物として受けとめているので、ひっかからないのだろうか? 
それとも、それぞれの小説の登場人物の描き方の問題だろうか? (『火定』は三人称で、『指差す標識の事例』は手記という形式の一人称という点は関係があるように思える)

原文ではなく翻訳文であるがゆえに、現代風の話し言葉であっても、逆にひっかからないのかもしれない。(『火定』は奈良の都を舞台としているのに、登場人物が江戸っ子みたいな口調なのが気になった、という感想を述べた受講生もいた)


この疑問の解はまだよくわからないけれども、小説というものは非常に微妙なバランスで成り立っているのだな、ということをあらためて感じた。