快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

存在するルールは自分がつくるルールだけだ――『アメリカン・ブラッド』(ベン・サンダース著 黒原敏行訳)

マーシャルの件を頼める相手はほかにもいますが、確実にやってもらいたいですから。マーシャルには生きていてもらいたくない。これは大事な問題です。

 なんだか前回の続きのようですが、また黒原さんの訳書『アメリカン・ブラッド』を読みました。 

アメリカン・ブラッド (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

アメリカン・ブラッド (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 

 元ニューヨーク市警のマーシャルは、証人保護プログラムのもとで身を隠し、サンタフェでひっそりと暮らしていたが、たまたま目にした行方不明のアリス・レイという女の写真から過去を思い出し、アリスを救出しようと麻薬組織に接触しはじめる。麻薬組織を追いつめるマーシャルだが、一方では、過去の因縁からマーシャルを執拗に追い続ける者がいた――

 といっても、具体的にどんな話なのかあまり見えてこないかもしれないが、実際に読みはじめても、なかなか見えてこない。
 主人公はマーシャルであるが、短い章ごとに視点が変わり、またマーシャルの過去も挿入されるので、いったい何がどうなっているのかなかなかわからない。いや、勘のいいひとなら途中で全体像をつかめるのかもしれないが、正直なところ、私は一番最後まで読んで、そういうことか!と思ってまた読み直したりして、ようやく把握した。ただ、先にも書いたように、章が短いので読みやすく、出てくる登場人物がそれぞれキャラが立っているので、場面場面ごとでもおもしろく、最後まで退屈せず読み通すことができた。


 登場人物のキャラが立っているといっても、あらためて読み直すと、マーシャルはそんなに色がついておらず(視点人物ゆえに仕方のないことかもしれないが)、この類の小説の主人公としてよくある感じで、やはり読者の多くは、血も涙もない(ように思える)殺し屋<ダラスの男>に興味がひかれるのではないだろうか。

人生というのは無意味なものだ。人はみなより高い意味をつかもうとするが、そんなものはないんだ。生きて、そして、死ぬ。なにをしようと、きみという人間はどうでもいい存在だ。

 絶対的な道徳律などない。普遍的な善悪の基準などない。存在するルールは自分がつくるルールだけだ。

 訳者あとがきでは、コーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』(映画では『ノー・カントリー』)を意識しているのではないかと書かれているが(もちろん、自分が訳したという理由からではなく)、このあたりの価値観から、たしかにそんなふうに読み取れる。 

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

 

 あと、恐れを知らない女刑事ローレン・ショアもかっこよく描かれているが、狂言回しのような役にとどまり、期待したほどの活躍がなかったのが残念だった。ただ、この本は三部作の第一作らしいので、今後もっと活躍していくのだろうか。


 ほんと、この殺し屋<ダラスの男>くらい、容赦なくどんどん殺していくのも、それはそれで小気味よい。あくまで小説では。少し前にエルモア・レナードの『野獣の街』を読んだのだけど、これに出てきたレイモンド・クルースも、ひとを殺すことに良心の呵責などかけらも持ちあわせていない痛快な悪党だった。 

野獣の街 (創元推理文庫 (241‐1))
 

 ただ、『野獣の街』にあった爽快感は、『アメリカン・ブラッド』など昨今の小説では薄れ、かわりに殺伐とした荒涼さが強まっているように感じられるのは、やはり時代の趨勢だろうか。あるいは、作者ベン・サンダースは、1989年生まれの(ということは、平成生まれか)ニュージーランド出身の若い作家であるが、アメリカの外で生まれ育った作家が、いま「アメリカ」の小説を描こうとしたら、こういう荒涼としたものになるのかもしれない。

 また、殺し屋<ダラスの男>には、そうなるに至った家族の事情があり、殺し屋<ダラスの男>だけではなく、憎めない小悪党ロハスなど(母親との会話はほほえましかった)、この小説の登場人物の多くは家族と否が応にも結び付いている。麻薬密売業も家族経営だったりする。これもいまのアメリカのリアルなのかもしれない。 

やっぱり新訳! 『BOOKMARK』の最新号(08号) 『すばらしい新世界』『まるで天使のような』など

 さて、前回書いたように、今号の『MONKEY』が翻訳特集でしたが、フリーペーパー『BOOKMARK』の最新号も「やっぱり新訳!」と、翻訳のなかでも新訳に絞った特集でした。

 「翻訳は新しい方がいい」というのは、すべての新訳に言えるのかどうかはわからないですが(金原さんも「古びて味の出る翻訳」について「話すとまた長くなるので、いずれ、そのうち」と書かれているので、こちらの続きも気になる)、一般的には、死語となった言葉が使われていたり、黒人英語が謎の訛りで訳されているものよりは、新しい訳がいいのは事実でしょう。

 今回取りあげられているもので、読んだことがあるのは、『災厄の町』に『月と六ペンス』、そして『すばらしい新世界』は、ここでは大森望さんの新訳が取り上げられているけれど、黒原敏行さんの新訳を以前読んだ。 

災厄の町〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

災厄の町〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

  『災厄の町』の紹介文で、「『十日間の不思議』の新訳刊行をなんとしても実現したい」と書かれていて、『十日間の不思議』は古いもので読んでもおもしろかったので、ぜひとも新訳刊行してほしい!と思った。しかしそのためには、この『災厄の町』と『九尾の猫』が「大いに売れなくてはいけない」らしい。菅田くんがエラリーを演じるとかの大型企画が持ちあがらないものだろうか。 

 

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 『すばらしい新世界』は黒原さんの訳書もおもしろかったので、大森望さんの方もぜひ読んでみたい……で、いま検索したところ、光文社古典新訳のページに黒原さんのインタビューが載っていた。

www.kotensinyaku.jp


 それによると、以前黒原さんが訳した、ジョナサン・フランゼンの『コレクションズ』は『すばらしい新世界』の「本歌取り」をした作品だとのこと。なんと。どちらも読んでいるのに気づかなった。いや、どちらもディストピア小説だとはわかっていたけれど。インタビューにあるように、たしかに『コレクションズ』のアスランと、『すばらしい新世界』のソーマは共通するものがある。『コレクションズ』に野蛮人って出てきたっけ…?? まあ、『コレクションズ』の方を先に読んだと思うので、気づかなかったのは仕方ないということにしよう。 

コレクションズ (上) (ハヤカワepi文庫)

コレクションズ (上) (ハヤカワepi文庫)

 

 黒原さんの新訳というと、マーガレット・ミラー『まるで天使のような』も以前読んだけれど、新興宗教のコミュニティが舞台となっていて、これまたディストピアというかユートピアというか、いや、『すばらしい新世界』で明確に描かれていたように、ディストピアユートピアはまさに表裏一体なのでしょう。
 とはいえ、マーガレット・ミラーは修道女、修道士を狂信的な恐ろしい人物と見なしているわけではない。信仰心があろうがなかろうが、人間はだれでも、何かのきっかけで歯車が狂って精神の異界に入る可能性があるというのを、ミラーはくり返し描いているように思う。 

まるで天使のような (創元推理文庫)
 

  この『まるで天使のような』に出てくる修道女、修道士たちには、源氏名、ちがうか、戒名、これもちがうな、なんというのか、コードネームというか出家名(千眼美子というような)があるのですが、旧訳では「祝福尼」となっているのが、新訳では「救済の祝福の修道女」となっているなどの比較ができるのが、旧訳と新訳がある本の楽しさですね。


 そのほか、この『BOOKMARK』では、カズレーザーが以前推薦していたので読まないと、と思いながらまだ読んでいない『幼年期の終わり』とか、いったい新訳いくつあるの?と思う『フランケンシュタイン』や、『ジャングル・ブック』対決などもあって楽しい。


 そして町田康のエッセイに共鳴を受けた。日本の古典を現代訳した経験から、翻訳は「気合と気合と気合」と。その通り! 何事においても無意味な気合がなにより大事。タアアアアッ。

 

本当の翻訳の話をしよう(村上春樹・柴田元幸)――『MONKEY vol. 12 翻訳は嫌い?』

"You in love with him?"
"I thought I was in love with you."
"It was a cry in the night," I said. 

村上訳
「彼に恋しているのか?」
「私はあなたに恋していたつもりだったんだけど」
「そいつは夜の求めの声だったのさ」と私は言った。

柴田訳
「あいつに恋してるのか?」
「あなたに恋してると思ったのに」
「あれは夜の叫びだったのさ」と俺は言った。

今号の「MONKEY」の翻訳特集は、上の引用であげたように、これまで村上春樹が訳してきたチャンドラー、フィッツジェラルドカポーティ柴田元幸さんも訳して比較するという企画で、いつもにもまして読みごたえがあった。 

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

 

  上の部分は、短くて英語も簡単ですが、それでもちがう。ここだけではなく全体的に言えることだけど、村上訳は原文のニュアンスも訳そうとする傾向があり(この箇所でいうと、「(恋していた)つもり」という言葉を入れたり)、柴田訳は端的でシャープな訳文になっている。

 これはチャンドラーの『プレイバック』からの引用で、『プレイバック』というと、そう、あの例の名文句が出てくるのだけど、その名文句をおふたりがどう訳しているかというのは、この本の最大の売りだと思うので、ここでは書きません。しかし、その前文もかなり個性が際立っている。

"How can such a hard man be so gentle?" she asked wonderingly.

村上訳:
「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」、彼女は感心したように尋ねた。

柴田訳:
「そんなに無情な男が、どうしてこんなに優しくなれるわけ?」納得できない、という顔で彼女は訊いた。

  ここでは、あとの名文句にもつながる "hard"という言葉について、ふたりがいろいろと検討しているが、よく見たら、"wonderingly"の訳し方もかなりちがう。wonderinglyというもとの言葉のトーンは、どちらからもよく伝わってくるけれど。こういうどのようにも訳せる言葉ってむずかしい。

 フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』の有名な冒頭部も、それぞれの訳が掲載されている。

He didn't say any more but we've always been unusually communicative in a reserved way and I understood that he meant a great deal more than that.

村上訳:
父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるとことがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味がこめられているのだという察しはついた。

柴田訳:
父はそれ以上何も言わなかったが、僕たちはいつも一見よそよそしいようでも並外れて深く思いを伝えあってきたので、もっといろんなことを父が言おうとしているのが僕にはわかった。

 『プレイバック』のところで書いた、それぞれの特質がはっきりとあらわれている。ここだけではないけれど、柴田訳の言葉数の少なさはすごい。ふつう、英語の文章を日本語に訳すと1.5倍くらい長くなると言われているのに、柴田訳の多くは、訳文の長さが英文と大差がないところがまさに匠の技といった感じだ。

 ところで、柴田さんの解説によると、フィッツジェラルドコンラッドの影響を受けているらしい。『グレート・ギャツビー』も『闇の奥』も読んだはずなのだが、まったく気づかなかった。村上春樹も柴田さんの訳したコンラッド『ロード・ジム』を賞賛しているので、こちらも読んでみないと。 

 あと、村上春樹村上博基さんの訳したル・カレが好きで、『スクールボーイ閣下』を何度も読んでいるらしい。ル・カレは『誰よりも狙われた男』を読んで、スパイの世界って複雑やな~とそれっきりにしていたが、やはり『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から読まないといかんな。いまの体たらくでは、閣下というとデーモンしか…(ベタですいません) 

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

 

 それと、ダーグ・ソールスターが『Novel 11, Book 18』の続編を書いたというのが気になった。前にも書いたけど、かなりヘンだけどおもしろい小説だったので、続編もぜひとも読みたい。 

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

 

 ちなみに、ちょうどこの『MONKEY』で、ここで以前『話の終わり』を紹介したリディア・デイヴィスが、そのソールスターの家族サーガ(サーガというのは大河小説みたいなもんです、たぶん)を読みながら、独学でノルウェー語を勉強するエッセイが掲載されているのだけど、これがまた凄まじかった。

 独学といっても、単にひとりで勉強しているという意味ではない。辞書や参考書や文法書を使わずに、自分で言葉の意味を類推し、自前の文法体系を作りあげているのだ。私なんてこれまで何年も英語を勉強し、辞書や文法書が使い放題であっても、村上・柴田両氏みたいに英語の小説を読んだり訳したりすることができるようになるのか、はなはだ疑問なのに。世界には猛者が山ほどいるようです。 

 

 

これが私の生きる道??? 『れんげ荘』(群ようこ)

 前回の続きですが、これからの女子が生きるにはどうしたらよいか?? というと、なんだかオーバーですが、多少なりのヒントを求めて、群ようこ『れんげ荘』を読んでみました。 

れんげ荘 (ハルキ文庫 む 2-3)

れんげ荘 (ハルキ文庫 む 2-3)

 

 群さんの本を読むのはひさしぶり。無印シリーズの頃から、その時代ごとの”ふつう”の女性の生態を軽妙に切り取ってきた作者ですが、不景気で停滞するいまの時代を生きる女性はどんなふうに描かれているのだろう? と興味がありました。

キョウコは会社に勤めているときに、歓送迎会で来たことのある町を歩いていた。四十五歳になってはじめて実家を出ようと決めた日、ふと頭に浮かんだのがこの町だった。駅前は再開発でビルが建ち並んでいるが、少し歩くと古くからの住宅街が広がっている。駅周辺は今風の格好をした若者たちが多いが、それにまじって古くからの住人とおぼしき、高齢者の姿も多い。(ここだったら、まぎれて暮らせる)
 東京生まれで東京育ちのキョウコが、はじめて自分の意志で住むのを選んだ場所だった。 

と、冒頭部にあるように、四十五歳のキョウコはそれまで勤めていた会社を辞めて、実家を出てひとり暮らしをはじめる。それまで広告代理店で忙しく働いてきたので貯金もあり、退職金とあわせると、月十万円で生活すると今後働かなくてもやっていけると計算したのだ。

 家賃三万円のアパート「れんげ荘」に移り住み、あたらしい生活を開始する。若い板前見習いのサイトウくん、謎めいた過去のありそうな初老の婦人クマガイさん、物置に住む「職業:旅人」のコナツさんといった隣人たちに囲まれた生活がはじまった……


 と書くと、ユートピア、あるいは桃源郷みたいなふわふわした生活を描いた映画やドラマのような物語に思える。あるいは、キョウコ自身も憧れる森茉莉の『贅沢貧乏』みたいな話かと思うかもしれない。
 けれど、群さんはもっとビターな現実を描く。当然のことながら、古い木造アパート「れんげ荘」は、夏は暑く冬は寒い。ミミズやなめくじや蚊にも襲われる。これだけで私は無理だなと思った。


 そしてなにより、キョウコが仕事も辞めて家も出るに至った理由が、毒親といえる母親の存在だという点が、いまの時代のリアルだなと感じた。世間体や見栄が一番大事で、マイホームや贅沢な生活を求めて、父の給料に文句を言い続け、父がローンを返し終えるやいなや亡くなったあとも、あらゆる愚痴をキョウコにえんえんと垂れ流す母から離れたかったのだ。

 最初は仕事を辞めたことも、新居の詳細についても、母親には語らず家を出たキョウコだったが、やがて母親もキョウコの現在の生活を突き止める。そして案の定、「れんげ荘」に押しかけてきてヒステリーを起こす。

「大学まで出して、名前の通った広告代理店に勤めて、どうしてこんなことになるのよ。これってお母さんに対する嫌がらせじゃないの」
まさか、そういう部分もありますともいえないので黙っていた。

「人から見て物置みたいでもね、私にとってはほっとする場所なのよ。お母さんがいるあの家よりずっとねっ」

 とは言え、実家よりほっとする場所ではあるのはたしかだが、キョウコはいまの生活に安らいでいるわけでも、のほほんと暮らしているわけでもないこともリアルだった。仕事を辞めたくて辞めたはずなのに、しょっちゅう「こんなことでいいのだろうか」と不安になる。

「何かやらなくちゃ」
とやらなきゃならないことを、つい探してしまう。そして何もやらなくていいとあらためて認識したとき、ほっとするのとやることがない虚しさが同時に襲ってくるのだった。

森茉莉って、すごいなっってあらためて思ったわ。あの人は無職じゃなくて、書く仕事があったけど、よっぽど精神的に強くないと、ああいう生活は続けられないのね。私なんかここに来て、まだ三か月くらいしか経ってないのに、カビが生えただけでがっくりきちゃって」

というのは、まさにそうだろうなって思う。ふつうの人間が森茉莉みたいな域にはなかなか到達できない。私も仕事辞めて、本を読んで暮らしたいと常々思っているが、ほんとうに仕事を辞めたら、精神的に不安定になりそうな気がする。凡人はヒマだとろくなこと考えないのだ。以前ここでも紹介したphaさんみたいに、コミュニティでも作ったらまた違うのかもしれないが、ひとりで無職となると、気楽というより修行めいてきそうだ。

 それでも、キョウコはこの無職の生活を続ける。きっと、これまで母親と広告代理店の空虚な仕事(実際の代理店の仕事が空虚かは知らないが、この本で描かれている仕事)からのダメージがあまりにも強かったからだろう。

 この「れんげ荘」シリーズには続編もあるので、キョウコがこれからどうなるのか、やはり仕事はしないのか、母親との関係は変化するのか、そしてこの本の中にも、地震が起きたらこのアパートは潰れてしまうというセリフがあるが、大震災以後の生活は描かれているのか、読んでみたいと思った。

エリート女性を取り囲むグロテスクな状況 『高学歴女子の貧困』~『グロテスク』(桐野夏生)

 それにしても、恐ろしいですね、あの豊田議員の怒声。いや、精神衛生に悪そうなんであの怒声は聞いていないのですが、記事を読むだけでめちゃ恐ろしいのはわかる。
 それにしても「桜蔭中・桜蔭高、東大法学部を経て、97年、厚生省入省。ハーバード大大学院留学」とスーパーエリートであるのはまちがいない。
 なのに、いったいどうしてこんなことになってしまったのか? 
 そこで、以前から気になっていた、この『高学歴女子の貧困~女子は学歴で「幸せ」になれるか?~』を読んでみた。 

なぜこれほど、高学歴女子たちの心理状態は荒れがちなのだろうか? (略)
我が国の女子は、社会制度などの不備に端を発する問題の当事者として苦境に立たされており、「自力・努力」といったことが報われない状況のなかで心身を消耗していたのだった。
高学歴女子には、もちろん努力家が多い。しかし、どれほど頑張っても己の力とは関係のないところに大きな壁がそびえている。おそらくそのことが、彼女たちの苛立ちを増幅させているように思う。 

 すると、さっそく「はじめに」のところに答えのようなものが書いてあった。


 といっても、この本は、いい大学を出て官僚や一流企業勤務になったスーパーエリートの病理を描いたものではなく、一流大学の大学院まで出ているのに、というか、院まで出てしまったがゆえに、研究職以外の道が閉ざされ、しかし大学の常勤講師などになるのはものすごい高倍率であり、結局仕事にあぶれ貧困生活を送らざるを得ないという問題を取りあげている。
 複数の書き手が自らの経験談を語っているので、深く掘り下げられるわけではないところが少々物足りないが、それでもいくつかの問題が浮かびあがってくる。


 まずひとつは、あちこちでよく言われていることだけど、女性の貧困は見えづらいということだ。

そもそも、フリーターというのは、漠然と「男性」のイメージでもあった。女性は、結局は結婚をするだろう、と。
正確に言えば、主婦という立場でパートやアルバイトとして働くことで生計を立てている人は多い。夫と別居中の女性だっている。何ゆえこの人たちはフリーターと呼ばれないのか? しかも、世間では、主婦パートが、待遇の極めて悪い非正規雇用とはあまり認識されない。

 と、書き手のひとり、栗田隆子さんが指摘しているように、高学歴であってもなくても、女性は「結婚して夫に養ってもらえばいい」という固定概念がまだ根強いので、なかなか貧困とはカウントされない。
 この固定概念が、女性にとっての仕事の壁となり、女性だけではなく、男性も苦しめているのは言うまでもない。しかしいまは、あちこちで報道されているように、未婚率がどんどん上がっているので、これからの社会の認識がどう変わってくるのかはおおいに気になる。


 そしてもうひとつは、やはり「自己責任」という言葉の重さについてである。自己責任。ほんと嫌な言葉だ。いや、これは自戒をこめて言っている面もある。
 というのも、私自身この本を読みながらも、「けど、文系で院まで行くと仕事がないということは、私が大学生のときでも広く知れ渡った事実ではあったしな……」とふと思ってしまう瞬間があった。

 ここに書いている人たちに対して「自己責任だ!」と非難するつもりはないけれど、そういう現実を「仕方ない」として受け止めてしまう自分、つまり自己責任論を内面化している自分がいることに気がついた。院まで出て仕事がないのは仕方がない、大学新卒の時点で就職しなかったのだから仕方がない、採用では男の方が優先されるのは仕方がない、非正規の待遇が悪いのは仕方がない……うかうか油断していると、そんな自己責任論、もっとはっきり言うと奴隷根性が自分の中で根づいてしまう。気をつけないといけない。


 で、話を豊田議員に戻すと、勝手な印象というか、完全な偏見ですが、この本に出てくるような人たちとは真逆で、ひたすら「社会的地位の上昇」を求めていった末路が、病的なまでのヒステリーとなったように感じられた。うっかり桜蔭時代の友人(と称する人)のフェイスブックでの投稿まで見てしまったせいか、桐野夏生の『グロテスク』の主人公和恵を思い出した。 

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

 

 とにかくなんにでも「勝ちたい」努力家の和恵は、勉強を頑張るのみならず、お金持ちでイケてるクラスメートに対抗しようと、ラルフローレンのロゴを自ら刺繍したり(!)、華やかなサークルに入れてもらおうと懇願したりする。
 一流企業の数少ない女性総合職として就職してからも、男と同等に「認められたい」と懸命に努力するが、やはり女性ゆえの壁によって阻まれ、夜の仕事にのめりこむようになり、昼は会社の床だか机の上だかで大の字になって寝るようになる。和恵の壊れ方が豊田議員の常軌を逸した怒り方と繋がっているように感じられた。


 ひたすら「勝ちたい」「認められたい」と社会的地位の上昇を目指す生き方(結果、往々にして壊れてしまう)がいいのか、社会的地位の上昇や安定した身分を捨てて、自分の興味のある道を進むのがいいのか(結果、往々にして貧困になる)、ほんと難しい問題だ。
 ただひとつ思うのは、前者の道を進むにせよ、後者の道を進むにせよ、奴隷のように生きるよりはマシかもしれないということでしょうか。

続・最強のブックガイド 「私が」選ぶ岩波文庫の三冊 『対訳 ディキンソン詩集』『マイケル・K』『冥途・旅順入場式』

 前回は、岩波書店のPR誌『図書』の臨時増刊「岩波文庫創刊90年記念 私の三冊」で、さまざまな人が選んだ「私の三冊」を紹介しましたが、となると、「『私の』三冊」も選んでみたくなるのが人情。で、私が選んだ三冊はというと――


まず思い浮かんだのが『対訳 ディキンソン詩集』。 

対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)

対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)

 

  隠遁生活のなかでひっそりと詩を書き綴り、いまではアメリカ文学史上最高の女性詩人と言われるエミリー・ディキンソンの詩集。
 詩というとどうしても難解なイメージがあるけれど、ここに掲載されている詩はどれも非常に読みやすく、すっと心に入ってくる。選者の亀井俊介があとがきで

幅広い階層の読者をもつ文庫の性格を考え、私はまず短いことに加えて、なるべく易しい詩を選ぶことにつとめた。しかしディキンソンの代表作や、あまり知られていないけれども彼女の神髄を示すと私の思ういくつかの詩は、難易にこだわらず収めた

と記しているとおり、ほんとうに目配りのきいた、ベタな言葉でいうと、たいへん「おトク」な詩集だと思う。いま再度ぱらぱらと読んでみても、どの詩も簡潔ながら、斬新さや清廉さに心が奪われる。

This is my letter to the World
That never wrote to Me――

これは世界にあてたわたしの手紙です
わたしに一度も手紙をくれたことのない世界への――

  次は『マイケル・K』(J. M. クッツェー著 くぼたのぞみ訳)。 

マイケル・K (岩波文庫)

マイケル・K (岩波文庫)

 

マイケル・Kは口唇裂だった。母親の体内からこの世界に送り出すのを手伝った産婆が、最初に気づいたのはそのことだった。唇が蝸牛の足のようにめくれ、左の鼻孔が大きく裂けていた。産婆はその子を母親にはすぐには見せず、小さな口を突いて開け、口蓋が無事だと知ってほっとした。

と物語がはじまり、そして大きくなったマイケル・Kが母親のアンナ・Kを手押し車に乗せて、紛争がやまない南アフリカの大地を横断する描写を最初に読んだときのインパクトは忘れがたい。ペーソスやユーモアのまじった洗練された筆致の『恥辱』や『遅い男』とはまた違う、生々しさがある。原著を読むと、クッツェーの英語は一見易しく読みやすいのだけれど、切りつめられた言葉から伝わってくるものの大きさに圧倒される。これを日本語に移し替えるのも一苦労だろう。余計な言葉を書き足してはいけないし。

 

そして最後は、私の青春の一冊、内田百閒の『冥途・旅順入場式』。 

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

 

 といっても、べつに甘酸っぱい思い出があるとかではまったくなく(そんな本でもないし)、単に卒論で内田百閒を選んだというだけなのですが。(国文学専攻だったので)

 『件』は、簡単に言うと人面牛みたいな話なのですが、そこから百閒の「おもて」、つまり表層へのこだわりを見出し、そして『山高帽子』の帽子へとつながり……みたいなことを論じようとした記憶はおぼろげにあるけれど、具体的に何を書いたのか、さっぱり覚えていない。
 しかしまあ、あれから何年も経ってるけれど、相変わらずひとりで本を読んでうだうだしている、自分という人間の変わらなさ、成長の無さがなんだか恐ろしい、というのが、「岩波文庫の三冊」の最終的な感想になってしまった。。。

最強のブックガイド 岩波書店のPR誌『図書』「岩波文庫創刊90年記念 私の三冊」

 たまたま書店でもらった、岩波書店のPR誌『図書』の臨時増刊「岩波文庫創刊90年記念 私の三冊」が結構おもしろかった。
 タイトル通り、さまざまな人が岩波文庫から三冊取りあげ、その理由や簡単な紹介を書いているだけなのだけど、なんといっても岩波文庫のラインナップの幅広さゆえに、えっ、こんな本が文庫であったの!の連続で、読んでいて飽きない。


いくつか挙げてみると、上野千鶴子は『コリャード 懺悔録』を紹介している。 

コリャード 懺悔録 (岩波文庫)

コリャード 懺悔録 (岩波文庫)

 

 「日本を訪れたイエズス会宣教師たちが祖国に書く送った日葡対訳の報告書が、数奇な運命をたどって翻訳された。こんひさん(confession)のなかの『姦淫』の項が、近代以前のセクシュアリティを知る上で、わけても興味深い」とのことで、そう、ちょうど先日ここで紹介した、星野博美の『ずっと彗星を見ていた』の関連本のようで読んでみたくなった。近代以前のセクシュアリティっていうのが、なんというか、上野節ですね。

 で、フェミニストつながり、と雑なことを言ったら怒られそうですが、北原みのりは『おんな二代の記』(山川菊栄)をあげており、「『大杉栄の恋愛事件は、彼がもてすぎたからではなく、お金がなさすぎたから』そんな恐いことをサラリと書く山川菊栄」と紹介している。 

おんな二代の記 (岩波文庫)

おんな二代の記 (岩波文庫)

 

これもここで紹介した、栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』に通じる本であり、この栗原康の本でも、山川菊栄伊藤野枝のライバル(いや、論争相手ですが)として登場している。そんな山川菊栄大杉栄のことをなんと言ってるのか、ちょっと気になる。

 そしてまたフェミニズムつながりですが、以前紹介したアディーチェの『We Should All Be Feminist』の翻訳者、くぼたのぞみは『ウンベルト・エーコ 小説の森散策』(和田忠彦訳)をあげている。 

ウンベルト・エーコ 小説の森散策 (岩波文庫)

ウンベルト・エーコ 小説の森散策 (岩波文庫)

 

 なんでも「チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが多用する技法をフラッシュ・フォワードと呼ぶことを遅ればせながらこの本で知った」とのこと。エーコの理論についていけるかは自信がないが、いったいどういう技法なのか知りたい。


 小説では、夏目漱石フローベールが多くに選ばれているのはまあ当然ですが、保坂和志恩田陸コンラッド『闇の奥』(中野好夫訳)を選んでいるのが興味深い、というか納得。 

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

 

 また、『やし酒飲み』(エイモス・チェツオーラ 土屋哲訳)も複数から選ばれていて、ドイツ文学者・翻訳家の松永美穂によると「奇想天外で豪快なアフリカの小説。生と死、人と界の境界線が軽々と越えられていく。翻訳の文体もおもしろい」とのことで、前から気になっていたけれど、こりゃほんと読まないと!と思った。 

やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

 

 あと、ギリシア悲劇の代表といえる『ソポクレス オイディプス王』(藤沢令夫訳)も大澤真幸金原瑞人古井由吉に選ばれている。金原さんは「『アーサー王』『カラマーゾフ』『スターウォーズ』にまで受け継がれていく父親殺し」と書いていて、私は”父親殺し”というと『海辺のカフカ』がすぐに思い浮かぶのだけど、そういったあらゆる小説の原点なのかもしれない。ちなみに、古井由吉はコメントなし。(この本だけではなく、ほかの二冊についても書名のみ。さすが御大ですね) 

オイディプス王 (岩波文庫)

オイディプス王 (岩波文庫)

 

  さっきも書いたけど、やはり夏目漱石はたくさん選ばれている。数えてないけれど、一番選ばれているのではないだろうか。しかも一作品に偏らず、さまざまな作品が選ばれているのがさすがだ。
 小説はぜんぶ(新潮文庫で)読んでいるのだけど、加藤陽子が推薦している『漱石書簡集』(三好行雄編)には心ひかれた。なぜかというと、1906年の森田草平宛書簡にはこう書かれているらしい。
「君なども死ぬまで進歩するつもりでやればいいではないか」
死ぬまで進歩……いい言葉だ。 

漱石書簡集 (岩波文庫)

漱石書簡集 (岩波文庫)