本当の翻訳の話をしよう(村上春樹・柴田元幸)――『MONKEY vol. 12 翻訳は嫌い?』
"You in love with him?"
"I thought I was in love with you."
"It was a cry in the night," I said.村上訳
「彼に恋しているのか?」
「私はあなたに恋していたつもりだったんだけど」
「そいつは夜の求めの声だったのさ」と私は言った。柴田訳
「あいつに恋してるのか?」
「あなたに恋してると思ったのに」
「あれは夜の叫びだったのさ」と俺は言った。
今号の「MONKEY」の翻訳特集は、上の引用であげたように、これまで村上春樹が訳してきたチャンドラー、フィッツジェラルド、カポーティを柴田元幸さんも訳して比較するという企画で、いつもにもまして読みごたえがあった。
- 作者: 柴田元幸,長崎訓子,村上春樹,伊藤比呂美,小沢健二,イタロ・カルヴィーノ,マット・キッシュ
- 出版社/メーカー: スイッチパブリッシング
- 発売日: 2017/06/15
- メディア: 雑誌
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上の部分は、短くて英語も簡単ですが、それでもちがう。ここだけではなく全体的に言えることだけど、村上訳は原文のニュアンスも訳そうとする傾向があり(この箇所でいうと、「(恋していた)つもり」という言葉を入れたり)、柴田訳は端的でシャープな訳文になっている。
これはチャンドラーの『プレイバック』からの引用で、『プレイバック』というと、そう、あの例の名文句が出てくるのだけど、その名文句をおふたりがどう訳しているかというのは、この本の最大の売りだと思うので、ここでは書きません。しかし、その前文もかなり個性が際立っている。
"How can such a hard man be so gentle?" she asked wonderingly.
村上訳:
「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」、彼女は感心したように尋ねた。柴田訳:
「そんなに無情な男が、どうしてこんなに優しくなれるわけ?」納得できない、という顔で彼女は訊いた。
ここでは、あとの名文句にもつながる "hard"という言葉について、ふたりがいろいろと検討しているが、よく見たら、"wonderingly"の訳し方もかなりちがう。wonderinglyというもとの言葉のトーンは、どちらからもよく伝わってくるけれど。こういうどのようにも訳せる言葉ってむずかしい。
フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の有名な冒頭部も、それぞれの訳が掲載されている。
He didn't say any more but we've always been unusually communicative in a reserved way and I understood that he meant a great deal more than that.
村上訳:
父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるとことがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味がこめられているのだという察しはついた。柴田訳:
父はそれ以上何も言わなかったが、僕たちはいつも一見よそよそしいようでも並外れて深く思いを伝えあってきたので、もっといろんなことを父が言おうとしているのが僕にはわかった。
『プレイバック』のところで書いた、それぞれの特質がはっきりとあらわれている。ここだけではないけれど、柴田訳の言葉数の少なさはすごい。ふつう、英語の文章を日本語に訳すと1.5倍くらい長くなると言われているのに、柴田訳の多くは、訳文の長さが英文と大差がないところがまさに匠の技といった感じだ。
ところで、柴田さんの解説によると、フィッツジェラルドはコンラッドの影響を受けているらしい。『グレート・ギャツビー』も『闇の奥』も読んだはずなのだが、まったく気づかなかった。村上春樹も柴田さんの訳したコンラッド『ロード・ジム』を賞賛しているので、こちらも読んでみないと。
あと、村上春樹は村上博基さんの訳したル・カレが好きで、『スクールボーイ閣下』を何度も読んでいるらしい。ル・カレは『誰よりも狙われた男』を読んで、スパイの世界って複雑やな~とそれっきりにしていたが、やはり『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から読まないといかんな。いまの体たらくでは、閣下というとデーモンしか…(ベタですいません)
それと、ダーグ・ソールスターが『Novel 11, Book 18』の続編を書いたというのが気になった。前にも書いたけど、かなりヘンだけどおもしろい小説だったので、続編もぜひとも読みたい。
NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン
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ちなみに、ちょうどこの『MONKEY』で、ここで以前『話の終わり』を紹介したリディア・デイヴィスが、そのソールスターの家族サーガ(サーガというのは大河小説みたいなもんです、たぶん)を読みながら、独学でノルウェー語を勉強するエッセイが掲載されているのだけど、これがまた凄まじかった。
独学といっても、単にひとりで勉強しているという意味ではない。辞書や参考書や文法書を使わずに、自分で言葉の意味を類推し、自前の文法体系を作りあげているのだ。私なんてこれまで何年も英語を勉強し、辞書や文法書が使い放題であっても、村上・柴田両氏みたいに英語の小説を読んだり訳したりすることができるようになるのか、はなはだ疑問なのに。世界には猛者が山ほどいるようです。