快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

存在するルールは自分がつくるルールだけだ――『アメリカン・ブラッド』(ベン・サンダース著 黒原敏行訳)

マーシャルの件を頼める相手はほかにもいますが、確実にやってもらいたいですから。マーシャルには生きていてもらいたくない。これは大事な問題です。

 なんだか前回の続きのようですが、また黒原さんの訳書『アメリカン・ブラッド』を読みました。 

アメリカン・ブラッド (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

アメリカン・ブラッド (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 

 元ニューヨーク市警のマーシャルは、証人保護プログラムのもとで身を隠し、サンタフェでひっそりと暮らしていたが、たまたま目にした行方不明のアリス・レイという女の写真から過去を思い出し、アリスを救出しようと麻薬組織に接触しはじめる。麻薬組織を追いつめるマーシャルだが、一方では、過去の因縁からマーシャルを執拗に追い続ける者がいた――

 といっても、具体的にどんな話なのかあまり見えてこないかもしれないが、実際に読みはじめても、なかなか見えてこない。
 主人公はマーシャルであるが、短い章ごとに視点が変わり、またマーシャルの過去も挿入されるので、いったい何がどうなっているのかなかなかわからない。いや、勘のいいひとなら途中で全体像をつかめるのかもしれないが、正直なところ、私は一番最後まで読んで、そういうことか!と思ってまた読み直したりして、ようやく把握した。ただ、先にも書いたように、章が短いので読みやすく、出てくる登場人物がそれぞれキャラが立っているので、場面場面ごとでもおもしろく、最後まで退屈せず読み通すことができた。


 登場人物のキャラが立っているといっても、あらためて読み直すと、マーシャルはそんなに色がついておらず(視点人物ゆえに仕方のないことかもしれないが)、この類の小説の主人公としてよくある感じで、やはり読者の多くは、血も涙もない(ように思える)殺し屋<ダラスの男>に興味がひかれるのではないだろうか。

人生というのは無意味なものだ。人はみなより高い意味をつかもうとするが、そんなものはないんだ。生きて、そして、死ぬ。なにをしようと、きみという人間はどうでもいい存在だ。

 絶対的な道徳律などない。普遍的な善悪の基準などない。存在するルールは自分がつくるルールだけだ。

 訳者あとがきでは、コーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』(映画では『ノー・カントリー』)を意識しているのではないかと書かれているが(もちろん、自分が訳したという理由からではなく)、このあたりの価値観から、たしかにそんなふうに読み取れる。 

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

 

 あと、恐れを知らない女刑事ローレン・ショアもかっこよく描かれているが、狂言回しのような役にとどまり、期待したほどの活躍がなかったのが残念だった。ただ、この本は三部作の第一作らしいので、今後もっと活躍していくのだろうか。


 ほんと、この殺し屋<ダラスの男>くらい、容赦なくどんどん殺していくのも、それはそれで小気味よい。あくまで小説では。少し前にエルモア・レナードの『野獣の街』を読んだのだけど、これに出てきたレイモンド・クルースも、ひとを殺すことに良心の呵責などかけらも持ちあわせていない痛快な悪党だった。 

野獣の街 (創元推理文庫 (241‐1))
 

 ただ、『野獣の街』にあった爽快感は、『アメリカン・ブラッド』など昨今の小説では薄れ、かわりに殺伐とした荒涼さが強まっているように感じられるのは、やはり時代の趨勢だろうか。あるいは、作者ベン・サンダースは、1989年生まれの(ということは、平成生まれか)ニュージーランド出身の若い作家であるが、アメリカの外で生まれ育った作家が、いま「アメリカ」の小説を描こうとしたら、こういう荒涼としたものになるのかもしれない。

 また、殺し屋<ダラスの男>には、そうなるに至った家族の事情があり、殺し屋<ダラスの男>だけではなく、憎めない小悪党ロハスなど(母親との会話はほほえましかった)、この小説の登場人物の多くは家族と否が応にも結び付いている。麻薬密売業も家族経営だったりする。これもいまのアメリカのリアルなのかもしれない。