快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

空飛ぶ少女のゆくえ――『メアリと魔女の花』(メアリ―・スチュアート著 越前敏弥訳)

 ナウシカラピュタ、トトロで自分の中のジブリ映画が止まってしまっているし(紅の豚魔女の宅急便も見たはずだけど、あまり覚えていない)、『君の名は』など最近のアニメも見ていないため、、ジブリやアニメについて語る資格はないのですが、この『メアリと魔女の花』、原作を読んで映画を見に行ったところ、思っていたより楽しめました。

まったく、いやになるくらい、ありふれた名前だ。メアリ・スミスだなんて。ほんとにがっかり、とメアリは思った。なんの取り柄もなくて、十歳で、ひとりぼっちで、どんより曇った秋の日に寝室の窓から外をながめたりして、そのうえ名前がメアリ・スミスだなんて。 

  原作と映画は結構異なる点が多いが、どちらも「なんの取り柄もない」メアリ・スミスがシャーロット大おばさまの家で退屈しているところからはじまる。(ちなみに講演で聞いたところ、「メアリ・スミス」というのは、日本でいうと「山田花子」くらいありふれた名前とのこと)

 その平凡なメアリが、黒猫ティヴに導かれ、夜間飛行という不思議な”魔女の花”と出会い、魔法の力によってほうきで空を飛び、着いたところは「魔法学校」だった――というのは原作も映画も一緒である。


 映画では、やはりメアリの飛行シーンの躍動感や爽快さが強く印象に残り、たしかにこれまでのジブリのアニメの名場面をどうしても思い出してしまう。

で、ここからの感想はネタバレを含みますが――


 さっき「ナウシカラピュタ、トトロ」と書いたが、よく考えたら、少し前の『かぐや姫の物語』は映画館で見た。どうしてわざわざ映画館に行ったのかというと、こちらの雨宮まみさんの感想を読んで興味をもったからだ。

mamiamamiya.hatenablog.com

かぐや姫の物語』では、求婚者たちに辟易し、都での生活に絶望したかぐや姫が幼なじみの捨丸と再会して空を飛びまわるシーンだけが、姫が楽しそうに生き生きとした場面だった。しかし、結局捨丸とも一緒になれず(実は捨丸には妻子がいたのだった。またも最近話題のゲス不倫ですな)、求婚者たちも断って、月へ帰ってしまう――雨宮まみさんは「姫が月へと帰るのは、自殺だと私は解釈している」と書いている――哀しいお話だったけれど、このメアリも、最後は魔法を捨て、空を飛ぶ力を失ってしまう。

 ということは、『かぐや姫の物語』と同様に哀しいお話なのかというと、まったくそうではない。魔法を解いてピーターや動物たちを救ったメアリは、以前までの平凡なメアリではない。「成長物語」という言葉がまさにふさわしい。

メアリはシダの歯をぼんやり指で引っぱりながら、少しためらった。それから、まっすぐピーターを見つめた。(引っ込み思案でめったに人と打ちとけない、二日前の自分だったら、ぜったいにこんなことは言えなかっただろうと思うと、なんだか変な感じだ) 

  絶世の美女だったかぐや姫とちがい、メアリは原作の冒頭では何度も"plain"(不器量な)という単語で表され、映画ではさすがにブサイクにするわけにもいかないからか、”赤毛”がコンプレックスという設定になっていて、そんな冴えないメアリがすべての魔法を解くというのは、メタファーとしても興味深かった。

 魔法というとなんだか素敵に感じられるが、魔法学校のマダムやドクターの執着ぶりから考えると、魔法というより「呪い」のようにも感じられた。またSFのように妙にハイテクな魔法学校の描写からは、原発などの「人間の手に負えない」最新テクノロジーのメタファーとも解釈できた。

 思い出せば、「アナ雪」でも、エルサの魔力は封印されて、最終的には人畜無害なものにコントロールされていた。いいことなのかどうかはわからないけれど、いまは「魔法」が歓迎される世の中ではないようだ。


 あと、原作と大きく異なっていた点のひとつは、メアリの家族とシャーロット大おばさまだ。原作では、メアリにはふつうに父と母、双子の兄と姉がいて、たまたま大おばさまのところに預けられているという設定だが、映画ではメアリの家族については触れられず、孤児のような雰囲気を漂わせている。

赤毛のアン』や『あしながおじさん』など、孤児というのは児童文学やアニメの定番であり、主人公の少女の淋しさやよるべなさが際立つ。映画では、魔法学校での冒険のすえに、シャーロット大おばさまの過去と邂逅するというストーリーなのだが、ここでは孤児アンナが主人公の『思い出のマーニー』が頭に浮かんだ。 

新訳 思い出のマーニー (角川文庫)

新訳 思い出のマーニー (角川文庫)

 

  そう考えると、これまでの児童文学やアニメが築きあげたものをきちんと継承している映画なのだなとあらためて感じる。

 原作は映画にくらべるとシンプルなストーリーですが、イギリスの田園風景の美しさやティヴの愛らしさが目に浮かぶように描かれているので、映画を観た人は読んでみてもいいのではないでしょうか。

ふとんの上を歩きまわって、ゴロゴロ喉を鳴らしているティヴはとても満足そうで、とても眠そうな――たぶん、ほんとうに眠いんだろう――ごくふつうのネコだった。もう二度と魔女の使い魔になろうとはしないにちがいない。

 

ハードボイルドな金髪の悪魔――『マルタの鷹』(ダシール・ハメット著 小鷹信光訳)

 サミュエル・スペードの角張った長い顎の先端は尖ったV字をつくっている。……
 見てくれのいい金髪の悪魔といったところだ。

 さて、今更ながらですが、ハードボイルドの金字塔『マルタの鷹』を読んでみました。 

マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

まず最初に「ほんとうに『マルタの鷹』を探す話やったんや!」と思った。
何かの象徴ではなかったのだ。となると、以前に読んだブコウスキーの『パルプ』で「赤い雀」を探すというのは、完璧にパロディーだったんですね。(ただ、この鷹は高価な彫刻だけど、『パルプ』の「赤い雀」は生きている鳥でしたが) 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

  ストーリーは(ご存じの方も多いでしょうが)、私立探偵サム・スペードのもとにワンダリーと名乗る美女があらわれ、妹がフロイド・サーズビーという怪しげな男と駆けおちしたので、サーズビーを監視して、できたら妹と別れさせる手助けをしてほしいと依頼する。サム・スペードは相棒のマイルズ・アーチャーにサーズビーを尾行させる。ところが、アーチャーが死体となって発見される。尾行に気づいたサーズビーに撃たれたのかと思いきや、サーズビーも死体となって発見される。そして、以前からアーチャーの妻アイヴァと不倫していたサム・スペードがアーチャーを殺したのではないかと疑われる……


 と、↑の最後のくだりでおわかりのように、サム・スペード、女遊びや不倫が異常に激しくバッシングされる昨今の日本にいたならば、炎上必至の男である。渡辺謙など最近のゲス不倫ピープルの比ではない。(いっそのこと、謙さんが演じてみてはどうか。年齢がちがうか)

 この『マルタの鷹』に代表される、ダシール・ハメットの描写の特徴として、主人公の内面に入らず、客観描写に徹するということがよく言われているが、たしかにサム・スペードの内面は測りがたい。エエモンなんかワルモンなのか、読んでいても最後までわからない。チャンドラーのマーロウなら、エエモンであることがすぐわかるのに。チャンドラーはハメットに影響を受けて書きはじめたものの、ハメットの三人称による客観描写を採用せず、結局一人称で書いたとのことだが、それがサム・スペードとマーロウとのちがいに繋がるのだろうか。

で、ここから完全にネタバレになりますが――

 

 この作品の読みどころは、なんといってもサム・スペードと、ワンダリー改めブリジッド・オショーネシーの丁々発止の騙しあいである。「おずおずとした笑み」を浮かべ、「訴えかける」ような目で嘘ばかりつくブリジッド。どんな男も手玉に取れると思っている女。

 それにしても、女が殺人の真犯人、あるいは黒幕であるというのは、ハードボイルドのお約束なんだろうか。チャンドラーの『ロング・グッドバイ』『大いなる眠り』しかり、最近の作品でも山のようにある。フェミニズム学者なら、ミソジニーの標本といって分析するところだ。(そんな分析や批評はすでにたくさんあるのでしょうが)

「わたしを嘘つきだといったわね。こんどは、あなたが嘘をついてるわ。心の奥底では、わたしがどんなことをやったにせよ、あなたを心底愛していることを知ってるはずよ」……
「愛しているかもしれない。だからどうだっていうんだ」


 そして先にも書いたように、ゲス不倫もビックリのスペード、関わる女はブリジッドだけではない。夫を裏切り、サムを愛している(つもり)にもかかわらず、そのあまりの凡庸さにファム・ファタールになり得ない(ミス・ブランニュー・デイみたいですね。いや、私はサザン世代ではないですが)アイヴァ。心優しくひたすら献身的な秘書エフィ。


 ところで、この『マルタの鷹』で検索したところ、非常に詳細に分析されているサイトを見つけた。

第2回 『マルタの鷹』改訳決定版

書評家の杉江松恋さん主催の過去の読書会のレポートのようだ。しかし、参加者みんなこんなレジュメを提出しないといけない読書会とは、なんてハードルが高いんだ……。

 時系列の整理や、唐突に語られるフリッツクラフトの挿話(ホーソーンの『ウェイクフィールド』を少し思い出した)の意義についての考察など、たいへん読みごたえがあるが、なかでも翻訳家田口俊樹さんによる最後の問いかけ、
「サム・スペードとエフィの関係って何?」
というのがおもしろい。

 ちなみに、田口さんは「絶対ヤってると思う」とのこと。が、読書会で討議した結果、「ヤってない派」(下品ですみません)が多数を占め、翻訳した小鷹さんも「ヤってない派」とのこと。「『angel』という呼びかけを見ても、スペードはエフィを女性として見ていないように思います」と。

 で、私も「ヤってない派」ですね。小鷹さんが言うように、深い関係なら、女はangelでいられないのではないかと思うので。いや、深い関係になると、アイヴァ(凡庸な女)か、ブリジッド(ファム・ファタール/悪女)のどちらかになるのか思うと、それはそれでなんだかおそろしいですが…


 しかし、ハードボイルドは奥が深い。いや、もともとの自分のなかに存在しない要素なので、いちいち唸らされることが多い。共感できない読書、というのもおもしろいものだと感じる今日この頃です。

存在するルールは自分がつくるルールだけだ――『アメリカン・ブラッド』(ベン・サンダース著 黒原敏行訳)

マーシャルの件を頼める相手はほかにもいますが、確実にやってもらいたいですから。マーシャルには生きていてもらいたくない。これは大事な問題です。

 なんだか前回の続きのようですが、また黒原さんの訳書『アメリカン・ブラッド』を読みました。 

アメリカン・ブラッド (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

アメリカン・ブラッド (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 

 元ニューヨーク市警のマーシャルは、証人保護プログラムのもとで身を隠し、サンタフェでひっそりと暮らしていたが、たまたま目にした行方不明のアリス・レイという女の写真から過去を思い出し、アリスを救出しようと麻薬組織に接触しはじめる。麻薬組織を追いつめるマーシャルだが、一方では、過去の因縁からマーシャルを執拗に追い続ける者がいた――

 といっても、具体的にどんな話なのかあまり見えてこないかもしれないが、実際に読みはじめても、なかなか見えてこない。
 主人公はマーシャルであるが、短い章ごとに視点が変わり、またマーシャルの過去も挿入されるので、いったい何がどうなっているのかなかなかわからない。いや、勘のいいひとなら途中で全体像をつかめるのかもしれないが、正直なところ、私は一番最後まで読んで、そういうことか!と思ってまた読み直したりして、ようやく把握した。ただ、先にも書いたように、章が短いので読みやすく、出てくる登場人物がそれぞれキャラが立っているので、場面場面ごとでもおもしろく、最後まで退屈せず読み通すことができた。


 登場人物のキャラが立っているといっても、あらためて読み直すと、マーシャルはそんなに色がついておらず(視点人物ゆえに仕方のないことかもしれないが)、この類の小説の主人公としてよくある感じで、やはり読者の多くは、血も涙もない(ように思える)殺し屋<ダラスの男>に興味がひかれるのではないだろうか。

人生というのは無意味なものだ。人はみなより高い意味をつかもうとするが、そんなものはないんだ。生きて、そして、死ぬ。なにをしようと、きみという人間はどうでもいい存在だ。

 絶対的な道徳律などない。普遍的な善悪の基準などない。存在するルールは自分がつくるルールだけだ。

 訳者あとがきでは、コーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』(映画では『ノー・カントリー』)を意識しているのではないかと書かれているが(もちろん、自分が訳したという理由からではなく)、このあたりの価値観から、たしかにそんなふうに読み取れる。 

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

 

 あと、恐れを知らない女刑事ローレン・ショアもかっこよく描かれているが、狂言回しのような役にとどまり、期待したほどの活躍がなかったのが残念だった。ただ、この本は三部作の第一作らしいので、今後もっと活躍していくのだろうか。


 ほんと、この殺し屋<ダラスの男>くらい、容赦なくどんどん殺していくのも、それはそれで小気味よい。あくまで小説では。少し前にエルモア・レナードの『野獣の街』を読んだのだけど、これに出てきたレイモンド・クルースも、ひとを殺すことに良心の呵責などかけらも持ちあわせていない痛快な悪党だった。 

野獣の街 (創元推理文庫 (241‐1))
 

 ただ、『野獣の街』にあった爽快感は、『アメリカン・ブラッド』など昨今の小説では薄れ、かわりに殺伐とした荒涼さが強まっているように感じられるのは、やはり時代の趨勢だろうか。あるいは、作者ベン・サンダースは、1989年生まれの(ということは、平成生まれか)ニュージーランド出身の若い作家であるが、アメリカの外で生まれ育った作家が、いま「アメリカ」の小説を描こうとしたら、こういう荒涼としたものになるのかもしれない。

 また、殺し屋<ダラスの男>には、そうなるに至った家族の事情があり、殺し屋<ダラスの男>だけではなく、憎めない小悪党ロハスなど(母親との会話はほほえましかった)、この小説の登場人物の多くは家族と否が応にも結び付いている。麻薬密売業も家族経営だったりする。これもいまのアメリカのリアルなのかもしれない。 

やっぱり新訳! 『BOOKMARK』の最新号(08号) 『すばらしい新世界』『まるで天使のような』など

 さて、前回書いたように、今号の『MONKEY』が翻訳特集でしたが、フリーペーパー『BOOKMARK』の最新号も「やっぱり新訳!」と、翻訳のなかでも新訳に絞った特集でした。

 「翻訳は新しい方がいい」というのは、すべての新訳に言えるのかどうかはわからないですが(金原さんも「古びて味の出る翻訳」について「話すとまた長くなるので、いずれ、そのうち」と書かれているので、こちらの続きも気になる)、一般的には、死語となった言葉が使われていたり、黒人英語が謎の訛りで訳されているものよりは、新しい訳がいいのは事実でしょう。

 今回取りあげられているもので、読んだことがあるのは、『災厄の町』に『月と六ペンス』、そして『すばらしい新世界』は、ここでは大森望さんの新訳が取り上げられているけれど、黒原敏行さんの新訳を以前読んだ。 

災厄の町〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

災厄の町〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

  『災厄の町』の紹介文で、「『十日間の不思議』の新訳刊行をなんとしても実現したい」と書かれていて、『十日間の不思議』は古いもので読んでもおもしろかったので、ぜひとも新訳刊行してほしい!と思った。しかしそのためには、この『災厄の町』と『九尾の猫』が「大いに売れなくてはいけない」らしい。菅田くんがエラリーを演じるとかの大型企画が持ちあがらないものだろうか。 

 

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 『すばらしい新世界』は黒原さんの訳書もおもしろかったので、大森望さんの方もぜひ読んでみたい……で、いま検索したところ、光文社古典新訳のページに黒原さんのインタビューが載っていた。

www.kotensinyaku.jp


 それによると、以前黒原さんが訳した、ジョナサン・フランゼンの『コレクションズ』は『すばらしい新世界』の「本歌取り」をした作品だとのこと。なんと。どちらも読んでいるのに気づかなった。いや、どちらもディストピア小説だとはわかっていたけれど。インタビューにあるように、たしかに『コレクションズ』のアスランと、『すばらしい新世界』のソーマは共通するものがある。『コレクションズ』に野蛮人って出てきたっけ…?? まあ、『コレクションズ』の方を先に読んだと思うので、気づかなかったのは仕方ないということにしよう。 

コレクションズ (上) (ハヤカワepi文庫)

コレクションズ (上) (ハヤカワepi文庫)

 

 黒原さんの新訳というと、マーガレット・ミラー『まるで天使のような』も以前読んだけれど、新興宗教のコミュニティが舞台となっていて、これまたディストピアというかユートピアというか、いや、『すばらしい新世界』で明確に描かれていたように、ディストピアユートピアはまさに表裏一体なのでしょう。
 とはいえ、マーガレット・ミラーは修道女、修道士を狂信的な恐ろしい人物と見なしているわけではない。信仰心があろうがなかろうが、人間はだれでも、何かのきっかけで歯車が狂って精神の異界に入る可能性があるというのを、ミラーはくり返し描いているように思う。 

まるで天使のような (創元推理文庫)
 

  この『まるで天使のような』に出てくる修道女、修道士たちには、源氏名、ちがうか、戒名、これもちがうな、なんというのか、コードネームというか出家名(千眼美子というような)があるのですが、旧訳では「祝福尼」となっているのが、新訳では「救済の祝福の修道女」となっているなどの比較ができるのが、旧訳と新訳がある本の楽しさですね。


 そのほか、この『BOOKMARK』では、カズレーザーが以前推薦していたので読まないと、と思いながらまだ読んでいない『幼年期の終わり』とか、いったい新訳いくつあるの?と思う『フランケンシュタイン』や、『ジャングル・ブック』対決などもあって楽しい。


 そして町田康のエッセイに共鳴を受けた。日本の古典を現代訳した経験から、翻訳は「気合と気合と気合」と。その通り! 何事においても無意味な気合がなにより大事。タアアアアッ。

 

本当の翻訳の話をしよう(村上春樹・柴田元幸)――『MONKEY vol. 12 翻訳は嫌い?』

"You in love with him?"
"I thought I was in love with you."
"It was a cry in the night," I said. 

村上訳
「彼に恋しているのか?」
「私はあなたに恋していたつもりだったんだけど」
「そいつは夜の求めの声だったのさ」と私は言った。

柴田訳
「あいつに恋してるのか?」
「あなたに恋してると思ったのに」
「あれは夜の叫びだったのさ」と俺は言った。

今号の「MONKEY」の翻訳特集は、上の引用であげたように、これまで村上春樹が訳してきたチャンドラー、フィッツジェラルドカポーティ柴田元幸さんも訳して比較するという企画で、いつもにもまして読みごたえがあった。 

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

 

  上の部分は、短くて英語も簡単ですが、それでもちがう。ここだけではなく全体的に言えることだけど、村上訳は原文のニュアンスも訳そうとする傾向があり(この箇所でいうと、「(恋していた)つもり」という言葉を入れたり)、柴田訳は端的でシャープな訳文になっている。

 これはチャンドラーの『プレイバック』からの引用で、『プレイバック』というと、そう、あの例の名文句が出てくるのだけど、その名文句をおふたりがどう訳しているかというのは、この本の最大の売りだと思うので、ここでは書きません。しかし、その前文もかなり個性が際立っている。

"How can such a hard man be so gentle?" she asked wonderingly.

村上訳:
「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」、彼女は感心したように尋ねた。

柴田訳:
「そんなに無情な男が、どうしてこんなに優しくなれるわけ?」納得できない、という顔で彼女は訊いた。

  ここでは、あとの名文句にもつながる "hard"という言葉について、ふたりがいろいろと検討しているが、よく見たら、"wonderingly"の訳し方もかなりちがう。wonderinglyというもとの言葉のトーンは、どちらからもよく伝わってくるけれど。こういうどのようにも訳せる言葉ってむずかしい。

 フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』の有名な冒頭部も、それぞれの訳が掲載されている。

He didn't say any more but we've always been unusually communicative in a reserved way and I understood that he meant a great deal more than that.

村上訳:
父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるとことがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味がこめられているのだという察しはついた。

柴田訳:
父はそれ以上何も言わなかったが、僕たちはいつも一見よそよそしいようでも並外れて深く思いを伝えあってきたので、もっといろんなことを父が言おうとしているのが僕にはわかった。

 『プレイバック』のところで書いた、それぞれの特質がはっきりとあらわれている。ここだけではないけれど、柴田訳の言葉数の少なさはすごい。ふつう、英語の文章を日本語に訳すと1.5倍くらい長くなると言われているのに、柴田訳の多くは、訳文の長さが英文と大差がないところがまさに匠の技といった感じだ。

 ところで、柴田さんの解説によると、フィッツジェラルドコンラッドの影響を受けているらしい。『グレート・ギャツビー』も『闇の奥』も読んだはずなのだが、まったく気づかなかった。村上春樹も柴田さんの訳したコンラッド『ロード・ジム』を賞賛しているので、こちらも読んでみないと。 

 あと、村上春樹村上博基さんの訳したル・カレが好きで、『スクールボーイ閣下』を何度も読んでいるらしい。ル・カレは『誰よりも狙われた男』を読んで、スパイの世界って複雑やな~とそれっきりにしていたが、やはり『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から読まないといかんな。いまの体たらくでは、閣下というとデーモンしか…(ベタですいません) 

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

 

 それと、ダーグ・ソールスターが『Novel 11, Book 18』の続編を書いたというのが気になった。前にも書いたけど、かなりヘンだけどおもしろい小説だったので、続編もぜひとも読みたい。 

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

 

 ちなみに、ちょうどこの『MONKEY』で、ここで以前『話の終わり』を紹介したリディア・デイヴィスが、そのソールスターの家族サーガ(サーガというのは大河小説みたいなもんです、たぶん)を読みながら、独学でノルウェー語を勉強するエッセイが掲載されているのだけど、これがまた凄まじかった。

 独学といっても、単にひとりで勉強しているという意味ではない。辞書や参考書や文法書を使わずに、自分で言葉の意味を類推し、自前の文法体系を作りあげているのだ。私なんてこれまで何年も英語を勉強し、辞書や文法書が使い放題であっても、村上・柴田両氏みたいに英語の小説を読んだり訳したりすることができるようになるのか、はなはだ疑問なのに。世界には猛者が山ほどいるようです。 

 

 

これが私の生きる道??? 『れんげ荘』(群ようこ)

 前回の続きですが、これからの女子が生きるにはどうしたらよいか?? というと、なんだかオーバーですが、多少なりのヒントを求めて、群ようこ『れんげ荘』を読んでみました。 

れんげ荘 (ハルキ文庫 む 2-3)

れんげ荘 (ハルキ文庫 む 2-3)

 

 群さんの本を読むのはひさしぶり。無印シリーズの頃から、その時代ごとの”ふつう”の女性の生態を軽妙に切り取ってきた作者ですが、不景気で停滞するいまの時代を生きる女性はどんなふうに描かれているのだろう? と興味がありました。

キョウコは会社に勤めているときに、歓送迎会で来たことのある町を歩いていた。四十五歳になってはじめて実家を出ようと決めた日、ふと頭に浮かんだのがこの町だった。駅前は再開発でビルが建ち並んでいるが、少し歩くと古くからの住宅街が広がっている。駅周辺は今風の格好をした若者たちが多いが、それにまじって古くからの住人とおぼしき、高齢者の姿も多い。(ここだったら、まぎれて暮らせる)
 東京生まれで東京育ちのキョウコが、はじめて自分の意志で住むのを選んだ場所だった。 

と、冒頭部にあるように、四十五歳のキョウコはそれまで勤めていた会社を辞めて、実家を出てひとり暮らしをはじめる。それまで広告代理店で忙しく働いてきたので貯金もあり、退職金とあわせると、月十万円で生活すると今後働かなくてもやっていけると計算したのだ。

 家賃三万円のアパート「れんげ荘」に移り住み、あたらしい生活を開始する。若い板前見習いのサイトウくん、謎めいた過去のありそうな初老の婦人クマガイさん、物置に住む「職業:旅人」のコナツさんといった隣人たちに囲まれた生活がはじまった……


 と書くと、ユートピア、あるいは桃源郷みたいなふわふわした生活を描いた映画やドラマのような物語に思える。あるいは、キョウコ自身も憧れる森茉莉の『贅沢貧乏』みたいな話かと思うかもしれない。
 けれど、群さんはもっとビターな現実を描く。当然のことながら、古い木造アパート「れんげ荘」は、夏は暑く冬は寒い。ミミズやなめくじや蚊にも襲われる。これだけで私は無理だなと思った。


 そしてなにより、キョウコが仕事も辞めて家も出るに至った理由が、毒親といえる母親の存在だという点が、いまの時代のリアルだなと感じた。世間体や見栄が一番大事で、マイホームや贅沢な生活を求めて、父の給料に文句を言い続け、父がローンを返し終えるやいなや亡くなったあとも、あらゆる愚痴をキョウコにえんえんと垂れ流す母から離れたかったのだ。

 最初は仕事を辞めたことも、新居の詳細についても、母親には語らず家を出たキョウコだったが、やがて母親もキョウコの現在の生活を突き止める。そして案の定、「れんげ荘」に押しかけてきてヒステリーを起こす。

「大学まで出して、名前の通った広告代理店に勤めて、どうしてこんなことになるのよ。これってお母さんに対する嫌がらせじゃないの」
まさか、そういう部分もありますともいえないので黙っていた。

「人から見て物置みたいでもね、私にとってはほっとする場所なのよ。お母さんがいるあの家よりずっとねっ」

 とは言え、実家よりほっとする場所ではあるのはたしかだが、キョウコはいまの生活に安らいでいるわけでも、のほほんと暮らしているわけでもないこともリアルだった。仕事を辞めたくて辞めたはずなのに、しょっちゅう「こんなことでいいのだろうか」と不安になる。

「何かやらなくちゃ」
とやらなきゃならないことを、つい探してしまう。そして何もやらなくていいとあらためて認識したとき、ほっとするのとやることがない虚しさが同時に襲ってくるのだった。

森茉莉って、すごいなっってあらためて思ったわ。あの人は無職じゃなくて、書く仕事があったけど、よっぽど精神的に強くないと、ああいう生活は続けられないのね。私なんかここに来て、まだ三か月くらいしか経ってないのに、カビが生えただけでがっくりきちゃって」

というのは、まさにそうだろうなって思う。ふつうの人間が森茉莉みたいな域にはなかなか到達できない。私も仕事辞めて、本を読んで暮らしたいと常々思っているが、ほんとうに仕事を辞めたら、精神的に不安定になりそうな気がする。凡人はヒマだとろくなこと考えないのだ。以前ここでも紹介したphaさんみたいに、コミュニティでも作ったらまた違うのかもしれないが、ひとりで無職となると、気楽というより修行めいてきそうだ。

 それでも、キョウコはこの無職の生活を続ける。きっと、これまで母親と広告代理店の空虚な仕事(実際の代理店の仕事が空虚かは知らないが、この本で描かれている仕事)からのダメージがあまりにも強かったからだろう。

 この「れんげ荘」シリーズには続編もあるので、キョウコがこれからどうなるのか、やはり仕事はしないのか、母親との関係は変化するのか、そしてこの本の中にも、地震が起きたらこのアパートは潰れてしまうというセリフがあるが、大震災以後の生活は描かれているのか、読んでみたいと思った。

エリート女性を取り囲むグロテスクな状況 『高学歴女子の貧困』~『グロテスク』(桐野夏生)

 それにしても、恐ろしいですね、あの豊田議員の怒声。いや、精神衛生に悪そうなんであの怒声は聞いていないのですが、記事を読むだけでめちゃ恐ろしいのはわかる。
 それにしても「桜蔭中・桜蔭高、東大法学部を経て、97年、厚生省入省。ハーバード大大学院留学」とスーパーエリートであるのはまちがいない。
 なのに、いったいどうしてこんなことになってしまったのか? 
 そこで、以前から気になっていた、この『高学歴女子の貧困~女子は学歴で「幸せ」になれるか?~』を読んでみた。 

なぜこれほど、高学歴女子たちの心理状態は荒れがちなのだろうか? (略)
我が国の女子は、社会制度などの不備に端を発する問題の当事者として苦境に立たされており、「自力・努力」といったことが報われない状況のなかで心身を消耗していたのだった。
高学歴女子には、もちろん努力家が多い。しかし、どれほど頑張っても己の力とは関係のないところに大きな壁がそびえている。おそらくそのことが、彼女たちの苛立ちを増幅させているように思う。 

 すると、さっそく「はじめに」のところに答えのようなものが書いてあった。


 といっても、この本は、いい大学を出て官僚や一流企業勤務になったスーパーエリートの病理を描いたものではなく、一流大学の大学院まで出ているのに、というか、院まで出てしまったがゆえに、研究職以外の道が閉ざされ、しかし大学の常勤講師などになるのはものすごい高倍率であり、結局仕事にあぶれ貧困生活を送らざるを得ないという問題を取りあげている。
 複数の書き手が自らの経験談を語っているので、深く掘り下げられるわけではないところが少々物足りないが、それでもいくつかの問題が浮かびあがってくる。


 まずひとつは、あちこちでよく言われていることだけど、女性の貧困は見えづらいということだ。

そもそも、フリーターというのは、漠然と「男性」のイメージでもあった。女性は、結局は結婚をするだろう、と。
正確に言えば、主婦という立場でパートやアルバイトとして働くことで生計を立てている人は多い。夫と別居中の女性だっている。何ゆえこの人たちはフリーターと呼ばれないのか? しかも、世間では、主婦パートが、待遇の極めて悪い非正規雇用とはあまり認識されない。

 と、書き手のひとり、栗田隆子さんが指摘しているように、高学歴であってもなくても、女性は「結婚して夫に養ってもらえばいい」という固定概念がまだ根強いので、なかなか貧困とはカウントされない。
 この固定概念が、女性にとっての仕事の壁となり、女性だけではなく、男性も苦しめているのは言うまでもない。しかしいまは、あちこちで報道されているように、未婚率がどんどん上がっているので、これからの社会の認識がどう変わってくるのかはおおいに気になる。


 そしてもうひとつは、やはり「自己責任」という言葉の重さについてである。自己責任。ほんと嫌な言葉だ。いや、これは自戒をこめて言っている面もある。
 というのも、私自身この本を読みながらも、「けど、文系で院まで行くと仕事がないということは、私が大学生のときでも広く知れ渡った事実ではあったしな……」とふと思ってしまう瞬間があった。

 ここに書いている人たちに対して「自己責任だ!」と非難するつもりはないけれど、そういう現実を「仕方ない」として受け止めてしまう自分、つまり自己責任論を内面化している自分がいることに気がついた。院まで出て仕事がないのは仕方がない、大学新卒の時点で就職しなかったのだから仕方がない、採用では男の方が優先されるのは仕方がない、非正規の待遇が悪いのは仕方がない……うかうか油断していると、そんな自己責任論、もっとはっきり言うと奴隷根性が自分の中で根づいてしまう。気をつけないといけない。


 で、話を豊田議員に戻すと、勝手な印象というか、完全な偏見ですが、この本に出てくるような人たちとは真逆で、ひたすら「社会的地位の上昇」を求めていった末路が、病的なまでのヒステリーとなったように感じられた。うっかり桜蔭時代の友人(と称する人)のフェイスブックでの投稿まで見てしまったせいか、桐野夏生の『グロテスク』の主人公和恵を思い出した。 

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

 

 とにかくなんにでも「勝ちたい」努力家の和恵は、勉強を頑張るのみならず、お金持ちでイケてるクラスメートに対抗しようと、ラルフローレンのロゴを自ら刺繍したり(!)、華やかなサークルに入れてもらおうと懇願したりする。
 一流企業の数少ない女性総合職として就職してからも、男と同等に「認められたい」と懸命に努力するが、やはり女性ゆえの壁によって阻まれ、夜の仕事にのめりこむようになり、昼は会社の床だか机の上だかで大の字になって寝るようになる。和恵の壊れ方が豊田議員の常軌を逸した怒り方と繋がっているように感じられた。


 ひたすら「勝ちたい」「認められたい」と社会的地位の上昇を目指す生き方(結果、往々にして壊れてしまう)がいいのか、社会的地位の上昇や安定した身分を捨てて、自分の興味のある道を進むのがいいのか(結果、往々にして貧困になる)、ほんと難しい問題だ。
 ただひとつ思うのは、前者の道を進むにせよ、後者の道を進むにせよ、奴隷のように生きるよりはマシかもしれないということでしょうか。