快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

救いのない人生で見出したものとは? 『タイタンの妖女』(カート・ヴォネガット・ジュニア 著 浅倉久志 訳)

かつてウィンストン・ナイルズ・ラムフォードは、火星から二日の距離にある、星図に出ていない、ある時間等曲率漏斗(クロノ・シンクラスティック・インファンディブラム)のまっただなかへ、自家用宇宙船で飛び込んでしまったのである。彼と行をともにしたのは、一頭の愛犬だけだった。現在、ウィンストン・ナイルズ・ラムフォードとその愛犬カザックは、波動現象として存在しているーー 

 先月、カート・ヴォネガットタイタンの妖女』の読書会に参加しました。
 もともと『スローターハウス5』や『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』が好きだったけれど、『タイタンの妖女』はあまりにSF過ぎるというか、奇想天外過ぎて、きちんと読めていなかったので、この機会に原書に加えて翻訳本も買い、じっくり読んでみました。  

タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)

タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)

 

  ストーリーは、冒頭の引用にあるように、時間等曲率漏斗にまきこまれて波動現象となった、ラムフォードという名家の紳士が実体化するところからはじまる。
 ラムフォードが実体化する瞬間を一目見ようと押し寄せた群衆にまぎれて、ラムフォード夫人からの招待状を手にした大富豪、マラカイ・コンスタントもやってくる。

 実体化したラムフォードは、「わたしは家内に、きみと彼女がいずれ火星で結婚することになるだろう、と話したのさ」とコンスタントに告げる。続けてラムフォードは、ラムフォード夫人は火星でクロノという息子を生み、コンスタントの最終目的地は火星でも水星でもなく、タイタンであると予言する。

 金にも女にも不自由していないコンスタントはそんな予言を一蹴するが、それからしばらくして、気がつくとコンスタントは破産していた。コンスタントは火星からの使者に従い、宇宙船へと乗りこむ。


 そして舞台は数年後の火星に移り、アンクは忠実な兵隊として任務をこなしていた。しかし、基地病院から解放されたばかりのアンクの記憶は何もかも消去されていた。上官の命ずるまま、アンクはとある兵隊を絞め殺す。兵隊は息を引き取る直前、アンクに手紙のありかを教える。


 その手紙はアンクが記憶を消される前に書いたもので、アンクには妻と息子と、なにより大事な無二の親友がいたらしい。アンクは彼らを探す旅に出るーー

 と、ストーリーを書いてみても、なにがなんやらかもしれない。

 もちろん、このアンクがマラカイ・コンスタントであり、ラムフォードが予言したとおり、アンクは親友に会うために火星から水星に行き、地球にいったん戻り、それからタイタンへ向かう旅路を描いた、壮大なスペースオペラ(のパロディ)小説である。

で、ここからネタバレになりますがーー

 

 アンクが探しつづける無二の親友というのは、自ら絞殺した兵隊である。

 といっても、このことは殺したときに書かれているので(読者はわかっているが、アンクだけが知らないというパターン)、ネタバレではないかもしれないけれど、つまり、親友を探すアンクの旅路はすべて無駄だったということになる。なんて救いのない人生なのだろうか。

 いや、アンクだけではない。ラムフォードが全知の神に近い存在なのかと思いきや、物語の終盤、アンクがタイタンにたどり着くと、そこにはサロというトラルファマドール星人がいる。(トラルファマドールは『スローターハウス5』でもおなじみですね)。サロは不時着したタイタンで、宇宙船の交換部品を持った人間があらわれるのを待っていたのだ。

 ここで、アンクも、ラムフォードも、いや地球の人類全体が、サロに交換部品を渡すために生かされていたという事実が明かされる。
 なんてばかばかしいのかって? 
 いや、人生に意味を求めることのばかばかしさを、ここまで突きつけられると爽快である。

 人生に意味はないのか? 救いはないのか? いやそんなことはない、と宗教を信じるひとなら言うかもしれない。しかし、ヴォネガットの世界では、宗教や神様はとことんまで茶化される。
 
 ラムフォード自体が神のパロディのような存在であり、ラムフォード夫人が火星でクロノという息子を生むことをコンスタントに予言する場面は「受胎告知」である。(読書会の指摘で気がついたのですが)事実、ラムフォード夫人は結婚しているものの、この時点では処女である。

 そして、アンクがいったん地球にもどる場面では、前々回に書いたように、ラムフォードを教主とする〈徹底的に無関心な神の教会〉が登場する。

 信者たちは「平等」になるため奇妙なハンディキャップを背負い、マラカイ・コンスタントを忌まわしいものとして呪詛し、〈宇宙のさすらいびと〉であったアンクがコンスタントだと判明すると、タイタンへ追いやる。

おれはひとつながりの偶然(アクシデント)の犠牲者だった。

みんなとおなじように。 

 では、人生に意味はなく、神も存在しないのなら、いったいどうやって生きていけばいいのか? こんな理不尽な世界で、どうやって幸せを見出したらいいのか? 

 アンクとともに火星から脱出した兵隊ボアズは、水星でコンサートを開き、ハーモニウム(スライムみたいな生物)に音楽を聞かせるようになる。ハーモニウムはボアズの音楽に聞き惚れ、「ボクラハ アナタヲ アイシテルヨ ボアズ」とメッセージを送る。水星からの脱出方法が判明したときも、ボアズは水星に残ることを決める。 

おれはなにもわるいことをしないで、いいことのできる場所を見つけた。おれはいいことをしてるのが自分でもわかるし、おれがいいことをしてやってる連中もそれがわかってて、ありったけの心でおれに惚れている。アンク、おれはふるさとを見つけたんだ。

  このボアズのくだりは深く納得した。好きなミュージシャンのすばらしいライブを見ているときの自分は、まさにハーモニウムではないか、と。いいライブは多幸感につつまれるものだけど、それを小説でこんなふうに見事に描くなんて。

 前にも書いた『国のない男』で、ヴォネガットはこう書いている。 

もしわたしが死んだら、墓碑銘はこう刻んでほしい。

  彼にとって、神が存在することの証明は音楽ひとつで十分であった。

 ヴォネガットにとって、音楽がこの世界で救いといえるもの、限りなく神に近いものであることはまちがいない。 

 そして、この救いのない物語のラスト、ひとりぼっちになったアンクこと、マラカイ・コンスタントが最後に行きついたところも、水星の場面と同じような幸福感につつまれる。たとえ幻であったとしても、まぎれもなく幸福な瞬間が描かれている。
スラップスティック』のサブタイトルでもある、この言葉が頭に浮かんだ。

もう孤独じゃない!(Lonesome No More)

 

虚実入り乱れるメタ時代劇? 松尾スズキ作 『ニンゲン御破算』(阿部サダヲ主演)森ノ宮ピロティーホール

 さて、ヴォネガットの本を読んでいる合間に、大人計画『ニンゲン御破算』を見てきました。そういえば、松尾スズキヴォネガットに影響を受けたとよく語っているのでつながっているとも言える。

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 ↓絶賛CM中のキンチョーからも花が来ていた。長澤まさみはなんであんなに関西弁がうまいのか?

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 この舞台は、15年前に中村勘三郎(当時は勘九郎)のために、松尾さんが書き下ろしたもので、当時の歌舞伎界で人気と実力もナンバーワンだった大御所の勘九郎と、過激な作風で知られる松尾スズキがコラボ? と、かなり話題になっていたのはおぼえている。 
 でも、結局初演は見ていないのですが、今回阿部サダヲが主演と聞いてチケット取りました。

 ストーリーはちょっと複雑で、黒船が来航して江戸幕府がゆらぎ、武士たちは佐幕か勤王か選択を迫られていた時代、阿部サダヲ演じる加瀬実之助は、藩で勘定方をつとめる武士でありながらも、芝居好きで狂言作家になることを夢見ていた。
 そして、鶴屋南北松尾スズキが演じる!)と河竹黙阿弥(ノゾエ征爾)のもとへ弟子入りしようとするが、あえなく拒否される。なんとしても諦めきれない実之助は追いすがり、すると、脚本より自分の身の上話の方がおもしろいのではないかと南北に言われ、これまでの遍歴を語りはじめる……

 

 と、実之助の現在と語られる過去が交錯する形式なので、最初はちょっと理解するのに時間がかかった。(しかし、前半の途中で、鶴屋南北河竹黙阿弥がていねいに解説してくれるくだりもある)

 武士の身分を捨てて作家になろうとする実之助が語る話では、実之助と反対に、武士になろうとする兄弟(荒川良々岡田将生)が出てくるところが興味深い。身分制なんて、いや、身分制だけではなく「この世はすべて嘘っぱち(フィクション)」というテーマが強く感じられた。

 実際、物語の後半では、この兄弟が幕末の動乱に巻きこまれ、「桜田門外の変」に加わるのだけれど、その模様を実之助が自分の劇として中継するという、まさに「虚実入り乱れる」展開になっていく。ちなみに、この兄弟の幼なじみのお吉(多部未華子)って、「唐人お吉」として有名な実在の人物をモデルにしていたんですね。いま検索してはじめて知った。

 

 狂言作家が語る物語という形式を使うことで、史実と劇をどろどろにかき混ぜ、時代劇というものをひっくり返そうという試みだったのだろう。なので、タイトルの「メタ時代劇」としてみました。(ダサい響きだとは思ったが)
 時代劇(そして歌舞伎)の定番のモチーフである「仇討ち」を茶化しているところからもそれがわかる。実之助は藩の悪事に巻きこまれて殺人をおかし、「仇討ち」として命を狙われているのだが、その「仇討ち」を目論んでいたはずの武士たちが、「(どうでも)ええじゃないか」となって、実之助の舞台の役者になるのだ。

 しかしこの作品を、当時歌舞伎界のエスタブリッシュメントであった(もちろん、型破りな役者でもあったけれど)勘九郎にぶつけたんだなと思うと感慨深い。

 

 それにしても、ほんと舞台のサダヲは無敵だなとあらためて認識した。いつも思うけれど、動きのキレや発声が飛びぬけているのか、サダヲが出るとそれだけで舞台が締まるような気がする。
 といっても、私はそれほど舞台を見ているわけではなく、とくに歌舞伎やミュージカルといった華やかな舞台はほとんど見たことがないので、なんとも言えませんが。きっと勘九郎も出るだけで舞台が締まる役者だったんでしょう。

 あと、岡田将生多部未華子もすごくよかった。岡田くんは『ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン』のときにも感心したが、とにかくなんといってもあの顔の小ささ! 
 ……いや、スタイルだけではなくて、立ち回りのときのキレのある動きや、振りきったように(?)ギャグに身を投じるさまもよかった。
 多部ちゃんもあんなに舞台でよく通る声をしていたとは知らなかった。最初、田村たがめかな?と思ったけれど、考えたら、たがめちゃん私より年上ですからね……

 鶴屋南北を演じる松尾さんを見ると、NHKの時代劇『ちかえもん』を思い出した。あれもおもしろかった。しかし、これもまたいつも思うことですが、松尾さん、ほんとハードワーカーだ。この新しい小説も芥川賞候補になって話題なので、読んでみないと。    

natalie.mu

 いや、松尾さんのみならず、サダヲもいっぱい出てるし、あとはクドカンに、なんといっても星野源、と大人計画絡みのひとたちの働きっぷりって、考えたら異様やな……借金でも抱えているのか(そんなはずはない)。
 クドカン脚本の『パンク侍、斬られて候』も、もちろん気になっているのだけど、そこまで手が回らない。

  あと、「松尾スズキ大人計画30周年」も楽しそう。大阪なら絶対行きたいところですが。

www.cinra.net

「何かが起きる! 劇団員の年齢相応の何かが!」というコピーが素敵です。 “なんとかここまで起訴されず”という文句も、なかなかキャッチーですが。退団した過去のメンバーに会いに行くというのもいい。職場の行事でやってみてもいいかもしれない。(ものすごく嫌がられるだろうが)
 年齢を重ねるのも悪いことばかりではないとつくづく思う(ことにする)。 

 

 

再び、いまヴォネガットが生きていたら…… 『現代作家ガイド カート・ヴォネガット』(伊藤典夫・巽孝之ほか)

あらゆることが政治化されてしまった今日では、例えばオリンピックを廃止しようというのならそれで結構。別に残念だとも思いませんよ。どの道、オリンピックはばかばかしいくらいに政治的で、国家主義的なものですし。みっともない。

  やっぱりあのひとの言ってたことは正しかった。と、あとになってつくづく思うことがある。忌野清志郎東京電力を揶揄していたのは正しかった、とか。

 で、上記の引用は東京オリンピックを批判する発言……ではなく、1984年に初来日したカート・ヴォネガット大江健三郎と対談して語った台詞だ。
 
 三十数年前に、すでにヴォネガットはオリンピックに冷ややかな目を向けていたけれど(この発言はロス五輪のことを指しているのか)、オリンピックのばかばかしいくらいの政治化と国家主義化はいっこうに止まることなく、そして日本では無邪気に、あるいは一部のひとは無邪気を装って、いま東京オリンピックが喧伝されている。

 先日ヴォネガットの『タイタンの妖女』の読書会に参加したので、予習のためにこのブックガイドを読んでみたところ、この対談のほかにも伊藤典夫巽孝之が寄稿していたり、短編が収録されていたりと、年譜や既刊本のあらすじをまとめただけみたいな、よくあるブックガイドとは一線を画する充実した一冊だった。 

カート・ヴォネガット (現代作家ガイド)

カート・ヴォネガット (現代作家ガイド)

 

 私のアイディアの一つ、コンピューターが小説を書けるようプログラムする方法について話をするつもりです。割りとちゃんとした指示を与えることができると思いますよ。そしてコンピューターからは結構ましな小説が出て来るでしょう。でもどうして私達がコンピューターによって置き換えられなければいけないのか、そのことはわかりません。

 この発言も、まさに三十数年後のいまを予見している。巽孝之による「はじめにーー人生で大事なことはすべてヴォネガットから学んだ」という序文で、「いまなぜヴォネガットか?」ではなく、「いまこそヴォネガットなのだ!」と書かれているのにも深く頷いてしまう。

 しかし、ヴォネガット大江健三郎モラリストであることはまちがいないが、モラリストであることが一流の小説家の必要条件とは限らないのも難しいところ。この対談でヴォネガット反ユダヤ主義ファシストを支持したセリーヌを高く評価している。
 もちろん、その思想信条は一切擁護せず、検閲が必要だと語っているが、『夜の果ての旅』と『なしくずしの死』は傑作であると述べ、ペンギンブックスに解説文を寄せているらしい。悪口雑言をはき散らしながらも、愛について語ったセリーヌの文章の見事さを賛美している。

 とはいえ、いま私が好きな作家がヘイト言説をまき散らすようになったら、どれほどその作品がすばらしくても、もうその作家を好意的に読むことはできなくなるな……とも思ってしまうが。

 このブックガイドに収められている短編「ハリスン・バージロン」では、ヴォネガット特有の皮肉なユーモアが発揮されている。 

2081年、人びとはついに平等になった。神と法のまえだけの平等ではない。ありとあらゆる意味で平等になったのだ。人より利口な者はいない。人より見ばえのする者はいない。人より力の強い者も、すばしこい者もいない。 

 という世界で、つまり、人よりすぐれた能力を持つ者はハンディキャップを課されるのである。人より頭がいい者は、他人を出し抜かないように思考の邪魔をするハンディキャップ・ラジオの装着を義務づけられ、稀に見る美貌の持ち主はおぞましい仮面をかぶらされる。本来なら美を体現するはずのバレリーナも、弾のつまった袋や分銅を背負わされる。

 これは『タイタンの妖女』で書かれていた〈徹底的に無関心な神の教会〉(Church of God the Utterly Indifferent)の信者たちの姿と同じである。
 強健な者や美しい者がハンディキャップを背負うのは言うまでもなく、視力のいい者は度の合わないメガネをつけ、性的魅力にあふれた男はセックスを嫌悪する女を選ぶ(ちなみに、その女は利口なので、頭が悪い者を選ぶ目的で、性的魅力にあふれた男を選んだのだ)。

 宗教、博愛、平等、民主主義……徹底的にモラリストでありながら(あるゆえに)、徹底的にこうしたことを茶化すヴォネガットのおもしろさがそこにはある。

 もうひとつ収録されている「魔法のランプ」は、ヴォネガットの捻りとヒューマニストな面がよくあらわれた作品だが、お蔵入りになりかけたらしい、訳者の伊藤典夫によると、黒人メイドがステレオタイプ過ぎたからではないか、と。結局改稿されて、『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』に収録されたらしいが、似ても似つかない作品となった、とのこと。こちらも読んでみよう。 

  もしヴォネガットが生きていたら、この現状をどう思っただろう……とは、『国のない男』でも感じたことだけど、読むたびに何度でも考えてしまう。

 ところで、伝記『人生なんて、そんなものさ』によると、著名な科学者であったヴォネガットの兄は、人工降雨の研究をしていたらしいが、いまのこの大雨を見ていると、なんで雨を止める方法を考えなかったのか……と思ってしまう。

時間のかかる小説 『機械』(横光利一)『時間のかかる読書』(宮沢章夫)

 最近ちょいちょいスマホでラジオをつけていて、なかでもNHKの「すっぴん!」の月曜(宮沢章夫)と金曜(高橋源一郎)をよく聞いています。(それにしても、ほかの曜日はユージに麒麟の川島君、そしてダイアモンド☆ユカイと、いったいどういう基準でパーソナリティーを選んでいるのが謎ですが) 

 今週の月曜放送での、寺山修司が関わった映画の紹介もおもしろかった。宮沢さんがとくに好きだと語る、寺山が脚本を書いた『サード』や、歌集だけだと思っていた『田園に死す』を見たくなった。

 ちなみに、『サード』は永島敏行主演の少年院を舞台にした青春映画らしい。検索したところ、ヒロインは森下愛子で(体を張った演技が見どころらしい)、母親役には島倉千代子とのこと(こちらは体を張っていないと思う)。

filmarks.com

 あと、フェリーニの名作『8 1/2』を、映画『トパーズ』やピチカート・ファイヴの「東京は夜の七時」PVがオマージュしている(が、失敗している)という話で、映画『トパーズ』、あったな~と思い出した。

 島田雅彦とか出ていたのが話題になっていたような……いや、当時は18歳以下だったし見てないので、おもしろいのかどうかはなんとも言えませんが……もちろん、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』や『69』は、学生のころに読んで衝撃を受けたので、また刺激的な小説を書いてほしいものです。(最近作については私が知らないだけかもしれんけど)

 さて、数週前ではその宮沢章夫本人の『時間のかかる読書』が話題に出ていた。

時間のかかる読書 (河出文庫)

時間のかかる読書 (河出文庫)

 

 これは横光利一の短編『機械』を、文字通り時間をかけて読むという内容で、なんと11年かかっている。というか、読みはじめるまでにも連載の数回分を費やしている。宮沢さんというと、もともとは演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を主宰していたけれど、まさにこれもラジカルな読書である。

 しかし、そのネタとなった『機械』をあらためて読んでみると、これはこれでネタになるだけあって、たいがいラジカルというか相当に奇妙な小説である。

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

 

 初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子供が彼を嫌がるからと云って、親父を嫌がる方があるかと云って怒っている。

とはじまり、「私」が主人の経営するネームプレート工場で働いていることが語られる。昭和5年に発表された小説で、当時の「ネームプレート工場」がどういうものだったのかはよくわからないが、特殊技術を扱う工場であることは、あとの展開からもわかる。  

全く使い道のない人間と云うものは誰にも出来かねる箇所だけに不思議に使い道があるもので、このネームプレート製造所でもいろいろな薬品を使用せねばならぬ仕事の中で私の仕事だけは特に劇薬ばかりで満ちていて、わざわざ使い道のない人間を落し込む穴のように出来上っているのである。

 そして、私は先輩職人の軽部に仕事の秘密を盗みに来たスパイではないかと目をつけられ、あれこれと嫌がらせをされるようになる。いや、金づちを頭上から落とされたり、劇薬を飲まされそうになるので、「嫌がらせ」というレベルではないが。

どうもつまらぬ人間ほど相手を怒らすことに骨を折るもので、私も軽部が怒れば怒るほど自分のつまらなさを計っているような気がして来て終いには自分の感情の置き場がなくなって来始め、ますます軽部にはどうして良いのか分からなくなって来た。

 しかし、軽部との争いも収まりかけたころ、仕事が忙しくなり、屋敷という職人を新たに迎える。そこで私は、この屋敷は仕事の秘密を盗みに来たのではないかと疑いの目を向けるようになる……と、工場での心理劇を事細かに描いた短編である。

 この小説を最初に読んだのは、国文学を専攻していた大学のときだったので、ヘンな小説だなと思っただけだったが、解説に書かれているように、「昭和初年プルーストジョイスがはじめて紹介され」、その衝撃に呼応して書かれたものだと考えると、その奇妙さの由来もなんとなくわかる。(しかし、ジョイスを同時代で紹介するのもすごいなあと、ほんとつくづく感じますが)

 といっても、ジョイスの小説をそれほど理解できているわけではないけれど、句読点を省いた文体で、「私」の思いをずらずらと語るあたりは、『ユリシーズ』のモリーの独白に感化されたのかもしれない。
 また、カフカの世界とも共通するような(横光がカフカの影響を受けたのかは知りませんが)実存的な不安も感じられ、最後のオチに至っては「信頼できない語り手」の要素もある。

 誰かもう私に代って私を審いて(さばいて)くれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。

 やはり文学というのは、世界的なパースペクティブで読まないと、見落としてしまうこともあるな……と、あらためて思いました。

 しかし、宮沢さんは11年かけて『機械』を読んだわけだけど、私は大学のときから数十年かけて(11年よりは多い)ようやく気づいたので、やはり「時間のかかる小説」であることはまちがいない。

穏やかな日常のどこかに隠れている悪夢のような世界 『アオイガーデン』(ピョン・ヘヨン 著 きむふな 訳)

 もう少ししたら職場に行く準備をしないと、と思った朝の8時、いきなり激しい揺れに襲われた。

 けれど、阪神淡路大震災東日本大震災にくらべたら短かったので、やれやれと思って部屋を見回すと、うちの猫がいない。ベランダの戸を開けていたので、飛び出したのだろうか……? ここは4階なのに。でも部屋のどこにもいない。

 私もあわてて部屋を飛び出し、近所から不審者として通報されかねないくらい半狂乱になって探し回る。出くわした同じマンションの人にも懇願したりしながら、道路の向こうまであちこち探したあげく、ようやくマンションの自転車置き場に潜んでいるところを発見。

 ネットを見たら、「行方不明になった犬や猫は、だいたい家の近くで隠れている」と出ていましたが、ほんとうにそのとおりなので、もしいまもまだ探し中のひとがいたら、家のまわりをよくよく見てください。

家を出ていた猫が戻ってきた。彼女は今回ばかりは猫を家に入れようとしなかった。うまくなだめて猫を抱き上げると、ベランダに出て外へなげてしまった。

猫は死ななかった。しばらくすると何ともない様子で現れたのだ。マンションの八階は猫のやわらかい脊椎に害を与えるほどの高さではなかったのか、運良く体を支えてくれるゴミの山の上に堕ちたかだろう。

 で、シンクロしているようなしていないような、上記に引用した『アオイガーデン』の表題作は、疫病が広まり廃墟となりつつある街が舞台になっている。 

アオイガーデン (新しい韓国の文学シリーズ)

アオイガーデン (新しい韓国の文学シリーズ)

 

  多くの住民がアオイガーデンを去り、他の都市に頼れる親戚などがいない住民だけが残っている。閉じこもって暮らしていた「僕」と彼女のもとに、お腹の膨れた姉が帰ってくる。

 血を分けた肉親である彼女と姉と「僕」が密室に閉じこもり、彼女も姉も、そして猫もおびただしい血を流す。世界の終わりの最果ての光景を描いているが、そこに漂っているのは死の臭いではなく、新しい命を生み落とそうとする生への執着だ。

 現実離れした物語に感じられるが、訳者あとがきによると、2003年のSARS騒ぎで香港の九龍にある高層住宅アモイガーデンの住民に隔離命令が出された事態をモデルにしているらしい。
 前回の『タイムマシン』も、私たちが生きる現実を諷刺したディストピア小説であったけれど、この『アオイガーデン』も、現実社会に存在し得るおぞましさを拡大して見せつけてくるようだ。この本に収録されている「貯水池」も、現実の事件を想起させる。

しばらくはあんたたちで過ごすのよ。だから、お母さんがお金を稼いで帰ってくるまで、家の中に隠れて待っててね。他の人に見つかったら大変よ。そうなったら、お母さんは刑務所に入れられるわ。お母さんが刑務所に入ったら、どうなる?

 置き去りにされる子どもというのは、実際にそう珍しい事件ではなく、これまでも映画などでモチーフにされてきたと思うが、「貯水池」ではこれまでに類のないほどグロテスクに描かれており、なおかつ不気味なリアリティがある。あと、最近話題の「池の水全部抜く」要素もある……って、いや、まったく関係ありませんが。


 「アオイガーデン」や「貯水池」は、現実から乖離した悪夢のような世界を描いているが、後半の「飼育所の方へ」や「紛失物」では、主人公は毎日会社に通う日常生活を送っている。なのに、いつのまにかディストピアに迷いこむさまもまた不気味だ。

 「飼育所の方へ」の主人公は妻と子どもと認知症の母と暮らし、せっせと会社勤めをしているが、家を買って子どもの教育費を支払うためにローンを組む。そして破産する。いまの家を明け渡さないといけないので、一家は田舎の村へ向かう。

子どもと彼の笑い声が犬の鳴き声にかき消された。犬の鳴き声は村のバックミュージックだと言っていいほど、いつものことだ。しかし、いつもと違っている。数匹の犬が山の方から駆け下りてきた。何かに追われているように緊迫した鳴き方だ。その声だけでもどれほど獰猛なやつらか察することができた。

 いつもの日常が惨憺たる光景に一変するのは、ふとしたきっかけなのだと思い知らされる。

 「紛失物」は会社勤めをする主人公、朴が重要な書類を入れたカバンを失くしてしまい右往左往する物語で、どことなくカフカ的な趣きがある。会社の上司である宋は口臭がひどく、また家では、妻が子どもの預かり仕事をしているため、知らない子どもの乳くさい匂いに悩まされる。最近では人の顔の区別もつかなくなってきた。

人の顔をよく思い出せなくなってからは、オフィスにいるのがもっと好きになった。オフィスでは苦心して誰かを区別しなくてもよかった。顔を忘れて困ることもなかった。

 しかし、余震が来るかもと思いながらディストピア小説を読むと、なんだかいつもより真に迫った感じがする。ほんの一瞬で穏やかな日常が崩壊する可能性を実感するからだろうか。
 
 日が経つとそんな気持ちは薄れていき、もちろん毎日サバイバルのつもりで生きていけないので当然なのですが、でもやはり、人生いつどうなるかわからないということは心に留めておこうと思いました。

SFの父、ディストピアの元祖、そして絶倫の人? 『タイムマシン』(H・G・ウェルズ 著 金原瑞人訳)

さて、SF小説の元祖、H・G・ウェルズの『タイムマシン』を読んでみました。 

タイムマシン (岩波少年文庫)

タイムマシン (岩波少年文庫)

 

  タイムスリップものというと、どうしてものび太の机の引き出しが頭に浮かんだり(『のび太の恐竜』とか)、あるいは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い出すので(「2」と「3」にレッチリのフリーがちょろっと出演しているのが笑える)、ハート・ウォーミングで楽しい物語かと思いきや、この『タイムマシン』を実際に読んでみると、想像以上にダークで陰惨な物語だった。

 そもそも、TTことタイム・トラヴェラーが、タイムマシンに乗ってどの時代に行くかというと、西暦80万2701年なのだ。100年や1000年先ではなく、西暦80万年って。ちょっと風呂敷大きすぎでは。

 かつて手塚治虫藤子・F・不二雄は、来るべき21世紀を高度に進化した未来都市として描いたけれど、実際の21世紀はまったくぱっとしていないのと同様に、この西暦80万年も未来都市とは言いがたい。それどころか、19世紀の主人公の目から見ても退化しているように思われる。

ぼくは、人類がほろびかけているところに出くわしたらしい。たそがれていく風景をながめていると、『人類のたそがれ』という言葉が頭に浮かんできた。そしてそのときはじめて、よりよき社会を目標にした努力が、どんなに不気味な結果をもたらしたがわかりかけてきたんだ。

 TTは西暦80万年の地上の世界に住む未来人エロイが、性差も見分けがつかないくらい華奢でか弱く、エネルギーも好奇心も極端に欠如していることに気づく。

まったく快適でまったく安全な新しい世界では、19世紀のわれわれにとっては『力』であるはずの、ありあまるエネルギーは逆に欠点なんだ。

 このあたりは、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を思い出す。 

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

  欲望は完全に管理され、不満も怒りも完全に消滅し、完全に幸せな社会で暮らす未来人たち。性行為と生殖行為は完全に分離され、工場で「完全な人間」が生産される。キリストを基準とする「西暦」ではなく、「フォード暦」が採用されている。資本主義が神様となったのだ。

 ちなみに、オルダス・ハクスリーとウェルズは繋がっていて、ハクスリーの祖父であるT・H・ハクスリーは、「ダーウィンの番犬」と呼ばれたほど熱心に進化論を支持した生物学者であり、ウェルズはこのT・H・ハクスリーの教え子だったらしい。SFが進化論といった当時の最先端の科学の影響を色濃く受けていることがわかる。


 そして、TTはウィーナという未来人の少女と恋に落ち、安全な未来世界で完璧な幸福を味わう――と思いきや、なんと、この未来世界には、攻撃的な地下人モーロックが生息していた。
 しかもモーロックには、いま(19世紀)の自分たちですら捨て去った、野蛮でおぞましい風習がある。TTはモーロックの魔の手から逃れるため、ウィーナを19世紀に連れて帰ろうとするが……


 最近ディストピアものが流行っているようだけど、SFの元祖である『タイムマシン』も、まさにディストピアを描いている。ディストピアというのは、現実とまったく乖離したものを描いているわけではなく、私たちの生きている社会を諷刺したものが多いのではないだろうか。

 この『タイムマシン』でも、TTは頭も肉体も弱いながらも地上で優雅に暮らすエロイと、地下の闇に住む凶暴なモーロックの姿を、現在(19世紀)と重ね合わせる。

ぼくは最初、19世紀イギリスの社会問題が鍵になると思った。つまり裕福な資本家階級と貧しい労働者階級の差だ。これは一時的な社会問題と考えられているが、この差がどんどん開いていって、二種類の人間が生まれたとしか考えられないんだ。

 年譜などによると、ウェルズは社会問題に非常に関心が強く、のちに労働党に入党して選挙に立候補したりもしている。この『タイムマシン』はウェルズの長篇デビュー作といえる小説ですが、キャリアの初期から問題意識を強く持っていたのでしょう。

 そしていま、現在の日本に置き換えて考えると、最近もテレビで「ミッシング・ワーカー」という特集があったけれど、いわゆる「ロスジェネ世代」(団塊ジュニア就職氷河期世代)は、非正規のまま歳を重ねたり、あるいは正規職でも二十代前半の就職時とほとんど変わらない賃金で働いているので、こうなったらモーロックになるしかないのだろうか……

 しかし一方で、ウェルズの年譜をよく読むと、ちょいちょい妻を捨てたり、あるいは、妻ではない女性がウェルズの子供を産んだりしているのも目につく。すると、こんな本もあった。 

絶倫の人: 小説H・G・ウェルズ

絶倫の人: 小説H・G・ウェルズ

 

 タイトルもなかなかインパクトがあるが、『小説の技巧』のデイヴィッド・ロッジが書いているので、きっとおもしろいにちがいない。社会問題も気になるが、こちらもちょっと読んでみないと……

どうして女が自分を肯定することは、こんなにむずかしいのだろう? 「BUTTER」(柚木麻子)

 どうして私たちは木嶋佳苗に注目してしまうのだろう? 

 木嶋佳苗をめぐる事件は、まるでプリズムのようにさまざまな角度から語ることができる。援助交際、性の売買、婚活、女の容姿、「家庭的」な女、父と娘、母と娘、地方と東京、セレブ志向……

 柚木麻子の『BUTTER』ではこう語られる。

こんなにもこの事件が注目されたのは彼女の容姿のせいだろう。美しい、美しくない以前に、彼女は痩せていなかったのだ。このことで女達は激しく動揺し、男たちは異常なまでの嫌悪感と憎しみを露わにした。…… 女は痩せていなければお話にならない、と物心ついた時から誰もが社会にすり込まれている。 

BUTTER

BUTTER

 

  この小説は、週刊誌記者の里佳が、木嶋佳苗をモデルにしたと思われる梶井真奈子、交際していた男を次々に殺したとして刑務所に入っている“カジマナ”に独占取材を試みるところからはじまる。

 しかし、ボーイッシュでスレンダーな里佳は、女子高時代は女子からラブレターをもらう王子様的な存在であり、食べることにもさほど興味がなく、“カジマナ”とはあまりに対照的で、どこから取っ掛かりをつけたらいいのかもわからない。

 そこへ、里佳の学生時代からの親友であり、いまは専業主婦をしている伶子が「料理好きな女にはレシピを聞いたらいい」と助言する。そうして料理の話題から“カジマナ”に接近した里佳は、まるで“カジマナ”に洗脳されたかのように次から次へと食べはじめ、あれほど細かった身体の線はすっかり崩れてしまう……

 この小説では、「自己肯定」、自分を愛して大切にするとはどういうことなのか? という角度から、“カジマナ”をめぐる事件と、里佳をはじめとする登場人物たちを描いている。

 上記の引用にあるように、多くの女は、きれいでいないといけない、太ったらダメだ、醜い女には価値がない、と強くすりこまれている。

 醜くてなにが悪いのか? 男に選ばれないから? 男に選ばれないといけないのか? 
 と、つきつめて考えると、たとえ実際に男から選ばれることを求めていなくても、男から見て(多少なりとも)「魅力的な女」でないといけない、というすりこみがあるのは事実だ。

 そうでなければ、男からはもちろん、同性である女からも蔑まれるような気がする。人並みの容姿でなければ、身の程をわきまえて、分相応に振る舞わなければいけない。つまり、いわゆる「ブス」のくせに自信満々だったら物笑いの種になるような気がする。

ところが、梶井は何よりもまず、自分を許している。己のスペックを無視して、自分が一人前の女であることにOKを出していたのだ。大切にされること、あがめられること、プレゼントや愛を与えられること、そして労働や集団行動など苦手なものから極力距離をとること。それらをごく当たり前のこととして要求し続け、その結果、自分にとっての居心地の良い環境を得て超然と振る舞っていたのだ。

 そう、だから“カジマナ”、あるいは木嶋佳苗は、女たちからある種の喝采を浴びたのだ。
 太っているのにもかかわらず、まったく物怖じすることなく欲望を全開にし、男に近づいて堂々と金を巻きあげ、そして最終的には息の根まで止める(比喩ではなく)姿が、常に男の視線にジャッジされることに脅え、せめて人並みの容姿を維持しようと汲々としている女たちから、ある種の羨望のまなざしをむけられたのだ。

 この小説の主人公里佳は、これまで自分の欲望とむきあったことはなかった。しかし、「バター醤油ご飯を作りなさい」からはじまる“カジマナ”の手ほどきを受け、「自らが欲するもの」について真剣に考えるようになる。

 そして体型が変わるにつれて、太っている女(里佳はそれまでが細すぎただけだが)がどれだけ世間から冷たい目で見られるかということにも気づく。ついには、自分のこれまでの人生ををふりかえり、蓋をしていた父親との記憶にも対峙するようになる。
 
 一方、親友伶子は、“カジマナ”に洗脳されてどんどん太っていく里佳に恐怖を感じ、“カジマナ”に激しい反発を覚える。

 もともと“カジマナ”と接点のなかった里佳とちがい、料理好きであるが肥満とは無縁の体型で、完璧に家事をこなし、きちんと「母」になるために仕事を辞めた伶子は、“カジマナ”とは「裏と表」ともいえる関係にある。里佳の知らないところで、ひとりで勝手に“カジマナ”について調査した伶子は、ひとつの疑問への答えを求め、思いもよらぬ行動をとる。
 どうして男は華奢で美しい自分より、“カジマナ”に癒しを求め、欲情するのか?
 
 どうして女が自分を肯定することは、こんなにむずかしいのだろう? と、あらためて考えてしまう。 

 また、この小説は女の自己肯定だけを描いているわけではない。男にも焦点をあてている。 
 どうして男たちは、あれほどたやすく“カジマナ”にひっかったのか? ちょっと料理を作ってもらっただけで、話を聞いてもらっただけで、全面的に(何度も何度も睡眠薬で眠らされるほど)自分の存在を託してしまったのか? 
 
 ここで“カジマナ”に関わった男だけでなく、先に触れた里佳の父親も浮上する。里佳の父親は、母親が里佳を連れて家を出て行ったあと、自暴自棄な生活を送るようになって、早々に死んでしまったのだ。
 どうして彼らは、自分で自分の面倒がみれないのか? ケアをしてくれる女が去ってしまうと、まるであてつけのように、自分を痛めつけるような生活を送るのか? 

男性を喜ばせるのはとても楽しいことで、私にとっては、あなたが思うような『仕事』ではないの。男の人をケアし、支え、温めることが神が女に与えた使命であり、それをまっとうすることで女はみんな美しくなれるのよ。……
話す内容とは裏腹に、梶井の顔は激しい怒りと苛立ちでじわじわと歪みつつあった。 

 “カジマナ”は男が憎くて犯罪をおかしたわけではない。少なくとも自分ではそれを否定し、男性を喜ばせ、ケアを与えることが女の使命だと語る。フェミニストが語る「女の自立」なんて、“カジマナ”にとっては寝言以下だ。

 しかし、自分が殺したとされている男たちについて語り出すと、口調は冷ややかになり、軽蔑といらだちが露わになる。

婚活市場にいるような男性の、理想のタイプって、突き詰めると生命力をできるだけ感じさせない女ってことよ。死人とか幽霊がベストなんだと思う。
そう、現代の日本女性が心の底から異性に愛されるには『死体になる』のがいいのかもしれない。そういう女を望む彼らだって、とっくに死んでいるようなものなんだもの。

 まるで19世紀の小説のように、この小説では、登場人物たちによる議論がえんえんと交わされる。

 しかし、最終的には、作者はなにも結論づけることはなく、登場人物たちがそれぞれ抱えた悩みがはっきり解決されることもなく、また、いわゆる“イヤミス”にありがちな破綻にむかうこともない。
 なにひとつとして、だれひとりとして――“カジマナ”ですらも――断罪されない。

 ネットの感想などを見ると、そこが中途半端だと不満を抱いているものもいくつかあったが、それこそがこの小説の一番大事な意図なのではないだろうか。
 なぜなら、これほどまでに女が、そして男も、生きづらくなったのは、まさに「女は(男は)こうでなければいけない」という断罪する姿勢のせいなのだから。

 なにひとつ変わらなくても、変わろうとしなくても、そのままであなたは肯定される、あなたには「居場所」がある――こういってしまうと怪しげな自己啓発本のメッセージのようでナンですが、この小説の着地点は、まさにそのことを描いているのだと思った。