快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

理不尽な社会で愛は存在するのか? 『ヒトラーの描いた薔薇』(ハーラン・エリスン 著 伊藤典夫・他 訳)

その都市の地下には、またひとつの都市がある。じめじめした暗い異境。下水道をかけまわる濡れた生き物と、逃れることにあまりにも死にもの狂いのため冥府のリステックスさえも抑えきれぬ急流の都市。その失われた地底の都市で、ぼくは子どもを見つけた。

 『ヒトラーの描いた薔薇』を読みはじめた途端、ハーラン・エリスンの訃報がとびこんできた。 

 この短編集『ヒトラーの描いた薔薇』の冒頭に収められた「ロボット外科医」は、ロボットが医者となって手術を行い、人間の医者はロボットの助手にまわされるという近未来を描いている。

 昔から定番のモチーフであり、最近にわかに現実味をおびてきた「機械が人間にとってかわる」小説である。
 医療を心のないロボットに任せていいのか? 人間よりロボットの医者の方がすぐれているのか? と、主人公である人間の医者が葛藤する。このあたりはよくある展開だが、最終的に主人公がロボットと思いっきり格闘する場面――憎悪と暴力の炸裂(「憎悪を吐き出し抵抗しつづけた」)――に、この作者の特徴があらわれていると感じた。

 同じく前半に収められた「恐怖の夜」や「死人の眼から消えた銀貨」は、SFというより、黒人差別の事象を切り取った短編である。といっても、声高に社会正義を訴えているわけではなく、極寒のなか暖を求めて入ったレストランから追い出される黒人の一家を描いた「恐怖の夜」(伊藤典夫訳)のラストは、暴力的で不気味な気配が感じられる。

白人たちは、長いあいだ、あまりにも長いあいだ権力をほしいままにしてきた。だが今こそその地位は逆転するのだ。もはや、それをくいとめることはできない。今まで態度を保留してきたのは、彼が暴力を好まぬ人間だったからだ……だが、もうちがう。こうなるほかはないのだ。なぜなら、白人たちが彼らにこうなることを強いたのだから。 

 「バシリスク」では、暴力は気配にとどまららない。
 バシリスクとは、「死の息」を吐く(というと、口臭いんかな? って感じですが)伝説の怪物であり、主人公は戦争中にバシリスクに襲われ、敵軍に捉えられて捕虜となる。敵軍から拷問に近い取り調べを受けるが、襲われたことで自らもバシリスクになった主人公は死の息を吐き……と、捕虜となり怪物となった主人公があらゆるところで虐げられ、そこからスペクタクルな大殺戮へと展開するさまは、まさに理不尽な社会から生まれる憎悪と暴力の炸裂である。

 しかし、後半に収録されている作品では、また少し様相が変わってくる。冒頭に引用した「クロウトウン」(伊藤典夫訳)は、斎藤美奈子の『妊娠小説』のラインナップに加えてほしい作品だが、主人公の「ぼく」が闇に葬った子どもを探しに地下へ降りる物語である。するとそこには異境が広がり、「ぼく」が次から次へと流した子どもたちがいる。どうしようもなくなってトイレに流したアリゲーターもいる。ここでの「ぼく」は、理不尽な社会の犠牲者ではない。

 

 その次の「解消日」は、「ぼく」がもうひとり存在するという、わりとよくあるモチーフの作品だが、もともとの「ぼく」は、親にも恋人にも酷薄な人でなしで、もうひとりの「ぼく」から、「あんたはミザントロープなんだ。人間嫌いだ」「女に不幸しかもたらさない男だ」(いますね、こういうひと)と糾弾されるさまがおもしろい。
 ここでの「ぼく」は犠牲者ではなく、加害者であることを突きつけられている。

 ちなみに、この原題は、”Shatterday”とSaturdayをもじったものであり、解説によると、伊藤典夫が苦労して「火曜日」とひっかけたらしく、章題も「酔狂日」「目標日」「緊張日」「動揺日」「忍従日」「欠用日」と工夫がこらしてある。

 

 表題作の『ヒトラーの描いた薔薇』も、一家殺戮の濡れ衣を着せられてヒトラーと同じ地獄に落とされた女の物語である。彼女を蹂躙した男たちは―ーそして真犯人もーー天国にいる。

 地獄の扉が開いた瞬間、彼女は天国にいる神様に問いただす。どうしてなにも悪いことをしていない自分が地獄にいないといけないのか? ほんとうに地獄に落ちるべきはーー

あまりにも長い時が、地獄で過ごしたあまりにも多くの瞬間が、あの夜の記憶とともに二人を隔てていた。

そして彼は泣いた。

途方に暮れた眼差しで彼女を見つめた。いまや男は完全に屈服していた。彼女の名をささやき、もう一度ささやいた。

  しかし、神は無実の彼女をなんとしても地獄へ落とそうとする。「世の中には、恋をする資格のない人間もいるんですね」と神に告げ、彼女は結局地獄へ戻る。「雄々しく姿勢を正して」、「ここから先はひとりで行けます」と言う。

 この本に収められた物語には、おさまりのいい「愛」なんてものは存在しない。消滅した世界で生き残った少年と少女を描いた「冷たい友達」も、ふつうなら “小さな恋のメロディ”のような展開になるかと思いきや、そうはいかない。せっかくの愛の告白も、失われた世界と同様に、無意味なものとなる。

 世界がわたしとあなただけであったらいいのにーーそう願ったことのあるひとは少なくないかもしれないが、ハーラン・エリスンの世界では、そんなものは通用しない。「愛」はねじれて、ゆがんだものになる。

 
 ちなみに、ハーラン・エリスンの本を読もうと思ったきっかけは、以前紹介したウェルズの『タイムマシン』の原型である、『時の冒険者たち』が収録されたアンソロジー『ベータ2のバラッド』から「プリティ・マギー・マネーアイズ」を読んだことだった。 

ベータ2のバラッド (未来の文学)

ベータ2のバラッド (未来の文学)

 

 で、この本についても紹介したいと思っていたけれど、長くなってしまったので、またそのうちに……