快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

人間を「物」として扱う社会とは――『地下鉄道』(コルソン・ホワイトヘッド著 谷崎由衣訳)、『フライデー・ブラック』(ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー著, 押野素子訳)

砦までの道のりでコーラの祖母は何度か売られ、宝貝やガラスのビーズと引き替えに奴隷商の手から手へと渡った。ウィダで彼女の値段が幾らだったか知ることは難しい。というのもまとめ買いだったから。八十八の人間が、ラム酒と火薬を入れた木箱六十個と交換された。

 『地下鉄道』は、主人公コーラの祖母アジャリーが誘拐されて売られ、船につめこまれてアメリカへ送られる場面からはじまる。何度も何度も売られ、商人の手から手へと渡る。そうしてジョージアのランドル農園に行きつく。

 三人の夫とのあいだに五人の子どもを産むが、ひとりは錆びた鋤で足を切って死に、ひとりは奴隷頭に殺された。それでも、子どもを売りとばされないだけマシだった。成長した娘はメイベルといい、のちにコーラを産んだ。 

地下鉄道

地下鉄道

 

  コーラは母親メイベルを恨んでいた。メイベルはコーラを置いて脱走したのだ。
 農園の主人ランドルは警報を発令し、白人の民警団や逃亡奴隷を捕まえることで生計を立てる自由黒人が森を捜索した。奴隷狩りの名手リッジウェイは二年にわたり徹底的に追うが、それでも見つけることができず、老ランドルの死の床で詫びた。

 10歳か11歳で――正確な歳は誰も知らない――みなしごになったコーラは、祖母から受け継がれた畑を守るために斧を手にして戦った。そうして、頭がおかしくなった女たちの小屋に押しこめられた。農園では、それなりに穏健に奴隷を扱っていたランドルに続いて、長男のジェイムズも死に、冷酷な次男のテランスが主人となった。

 そんな折、コーラは奴隷仲間のシーザーから一緒に逃げようと誘われる。なんでも、「地下鉄道」という北へ通じる鉄道が地中を走っているらしい。白人の力添えのもと、その「地下鉄道」に乗る手はずを整えたとシーザーが語る。だが逃亡して捕まえられたら命はない。迷うコーラだが、憎きメイベルに思いを馳せ、自分も脱出することを決意する……

 差別問題について語るのは難しい。差別はいけない、けっして許されることではないとは、この時代、だれでも口にする。
 しかし、どうして差別というものが生じるのか、どうして差別がなくならないのか、という問題と真剣に向き合おうとするならば、社会構造や差別する側の心情を複眼的に解析しないといけない。

 この『地下鉄道』では、逃亡奴隷となったコーラやシーザーと、どこまでも追いかけるリッジウェイ一行との活劇という側面にくわえて、ジョージアの農園での奴隷の暮らし、農園主であるジェイムズとテランスそれぞれが抱える「病」、表面的にはジョージアよりはるかに進歩的に見えるサウス・カロライナの真の姿、ノース・カロライナで逃亡奴隷をかくまうマーティンとエセル夫妻などの白人の命運がていねいに描き出されている。

 それによって、いくつもの視点から小説を読み解くことが可能となり、「鉄道」に乗るだけあってスピーディーに展開するストーリーを味わうだけではなく、人間を「物」として扱う社会のあり方や、差別する側が抱える問題について、自分が体験したかのように理解できる。 

アメリカでは、人間は物だという警句がまかり通る。大洋を渡る旅に耐えられない老人に掛けるコストは削減するべきだ。強い個体群から出た若い牡鹿に、顧客はよい金を払う。子どもを捻り出す奴隷娘は造幣局のようなもので、金を生み出す金である。 

  人間を「物」として扱うこと、「商品」と見做すことが奴隷制の本質なのだろう。冒頭に引用したように、アジャリーが売買される場面からこの小説がはじまるということも、それを象徴している。
 さらに、アジャリーを買った者は、「じつにしばしば破産した」。最初の主人は、ホイットニーの綿繰り機をめぐる詐欺にひっかかり、アジャリーは治安判事によって処分を命じられる財産のひとつとなった。

 ちなみに、Wikipediaのホイットニーの項によると、ホイットニーの発明した綿繰り機は「産業革命の鍵」となり、「(ホイットニーが意図していたか否かとは無関係に)アメリカの奴隷制度の経済的基盤を築いた」とされている。

 また、この小説でもっともおそろしく、そしてある意味もっともおもしろく感じてしまうのは、逃亡奴隷を追いかけることに執念を燃やすリッジウェイ一行のくだりではないだろうか。

 リッジウェイは、鍛冶屋の職人として地道に働く父親に反発し、農民や商人、金持ちにも自らの理想像を見つけることができず、逃亡奴隷を追いかける獰猛な警邏団に生きる目的を見出す。そうして、銃や畑の工具を作る父親も、逃亡奴隷を追いかける自分も、「どっちもイーライ・ホイットニーに仕えてるんだ」と語る。

 白人が先住民から力でもって新世界を奪ったこと、土地や奴隷という自らの財産を確保すること、これこそがアメリカにおいて、なにより正しいことであり、真の偉大なる精神(グレート・スピリット)だという信念を抱く。このリッジウェイの思考回路や上昇志向は、現代人に無縁だと言えるだろうか? いや、もっとも現代人に近い心性があるように思われる。 

 しかしリッジウェイ自身は、土地や奴隷を所有することにまったく興味を持っていない。同類だと感じた黒人少年ホーマーを買い受け、自由黒人として読み書きを教える。黒人少年ホーマーはシルクハットに誂えのスーツという正装をまとい、何があってもリッジウェイに付き従う。皮肉ともいえるこの倒錯した奇妙な関係が、小説に深みを与えている。

 人間を「物」として扱う社会は、現代を舞台にした短編集『フライデー・ブラック』にも克明に描かれている。 

フライデー・ブラック

フライデー・ブラック

 

 「ジマー・ランド」では、主人公の「俺」はゲームの登場人物となり、白人を脅かして最後には銃で撃たれる怪しい黒人を演じている。「俺」を罵倒し、殺してやりたいと願うプレイヤーたちの相手をするのだ。あくまでアトラクションとして。
『地下鉄道』のサウス・カロライナの“驚異の自然博物館”において、コーラがアフリカから連れてこられた奴隷役を演じさせられる場面と重なる。 

男は俺に拳銃を向けた。俺が生きるか死ぬかは、俺のことなど何も知らない男の胸一つで決まる。そしてその男は、俺に生きる価値などないと思っていた。

「待ってくれ」と俺は言ったが、男は俺を撃った、偽の弾丸が俺の胸で破裂した。

  タイトル作の「フライデー・ブラック」では、ショッピングモールの店員である「俺」は、ブラック・フライデーに殺到する客の相手をする。三日間で百万ドルの売上をあげないといけない。その大半が「俺」の腕にかかっている。

 店に押し寄せる客は、「火事や銃声から逃げる人」のようだ。そう、まさに戦場だ。比喩ではなく、「俺」は最初のブラック・フライデーで腕を噛みちぎられ、客たちは殴り合い、いったん人の波がひくと死体がごろごろと転がっている。それでも、モールの経営陣は、「顧客サービスと人間どうしの結びつきを大切にする当モールの姿勢に、変わりはありません」と語る。

 客はブラック・フライデーで人気のブランドの服や大型テレビを買うことに、「俺」は売り上げをあげることに、血道を上げる。買い物をすることが、儲けることが、命よりも大事なのだ。

 いや、現代社会では、買い物ができないこと、儲けることができないことは、死んでいるのと同じと見做される。買い物をすることや、儲けることによって、生きる価値が与えられ、「何者」かになったような気持ちになれる。逃亡奴隷を捕まえることに生きる目的を見出したリッジウェイと似ているのかもしれない。
 けれども、続く短編では、「俺」をはじめとする店員たちの消耗ぶり、やるせない日々が描かれている。 

小売業界では、ルーシーになっちゃだめ。殺伐とした状況を、少しでも良くする方法を見つけなくちゃ。ルーシーは先月、昼休み中に四階から飛び降りた女の子。タコ・タウンのレジ係だった。

  これらの短編からは、「売買」というものが持つグロテスクさが強く伝わってくる。売る側も買う側も無傷ではいられない。何かが大きく損なわれる。差別する者も同じだ。何かが大きく損なわれる。

 藤井光さんの解説によると、『フライデー・ブラック』の作者であるアジェイ=ブレニヤーは、『地下鉄道』のコルソン・ホワイトヘッドの推薦を受けたらしいが、共通する問題意識を考えると深く納得する。

 そしてなにより、この二作のすぐれた点は、重いテーマを扱っているにもかかわらず非常に読みやすく、エンターテインメントとしてもじゅうぶんに楽しめるというところだと思う。
 それぞれの訳者あとがきにも書かれているように、『地下鉄道』は『マッドマックス』などのアクション映画を見ているようなスリルも味わえ、『フライデー・ブラック』の方は、テーマパークやヴィデオ・ゲームを楽しむように読むこともできる。重そう、難解そう、という理由で躊躇している人がいれば、思い切って手に取ってみてほしい。