「役に立つ」英語って何? 外国語を学ぶということは――『英会話不要論』(行方昭夫)
※「はじめての海外文学」レポの途中ですが、諸事情により?こちらを先にアップします。
今年こそは英語を話せるようになりたい!
そう思っている方は少なくないのではないでしょうか。かくいう私もそのひとりです。
英語圏で暮らしたことも働いたこともなく、仕事では英語を使ってメールでやりとりしていても(特許事務所で働いているので)、ふだんは英語を話す必要に迫られることもなく、のほほんと日本語オンリーの生活を送っているのですが、
時おり訪れるアメリカやヨーロッパ、インドからのアトーニーがミーティングしようといらんことを言ってきたり、はてはクライアントに訪問するのでアテンドしろだのという事態すら発生し、
そのたびに日頃から英会話の練習をすればよかった……と痛感する日々。
もちろんその後は、ECCに行こうかな、いやオンライン英会話の方が安くて便利なのか? と検討するけれど、結局(当然ながら)お金も時間もかかることが判明し、今度考えようと延び延びにしていると、再び「また来んの?」とふりだしに戻る、の繰り返し。
そこで目についたのが、勇ましいタイトルのこの本。しかも、翻訳書や英文読解の本を多数出されている行方先生が書かれているのだからまちがいない。
しかし、一見過激なタイトルだが、その趣旨は、昨今英語教育業界で吹き荒れている「これまでの日本の英語教育は文法や訳読ばかりで、ちっとも英語を話せるようにならない、役に立たない無駄な勉強だ」という意見に対する、至極まっとうな反論。
言うまでもなく、英語なんて話せなくともよい、外国人と話す必要なんてないじゃないか、こっちは仕事が忙しいのにミーティングなんて提案するな(あれ?)というものではない。
英語と日本語はまったく構造がちがうのだから、文法の勉強は不可欠であることや、英語の四技能(読む、書く、聞く、話す)は密接に絡み合っているので、遠回りのようでもじっくり勉強をした方がいいということが、「役に立つ」英語を教えろ!と主張するひとたちにも納得してもらえるよう、懇切丁寧に説明されている。
最近もてはやされている小学校からの英語教育についても、「帰国子女は不幸な結果に終わることが予想外に多い」と例をいくつか挙げ、いくら子どもの頃から外国語教育をしても、真の「バイリンガル」になることはきわめて困難だとして、早期教育はマイナスの結果に終わるのではないかと語られている。
帰国子女が往々にして日本でなじめず、いじめにあったり(時には拒食症などに陥ったり)するという話では、言語の問題以外にも、日本の学校の同調圧力の根強さを思い知らされて胸が痛み、帰国子女は英語ペラペラでいいなーとつい浅はかに思ってしまう自分を省みた。
また、(読む、書く)の勉強をしっかりしていれば、話す能力も自然と身につくはずという点については、そうかな~~いくら(読む、書く)をしても、ちっとも話せるようにならないけれど、と正直ちらっと疑ったが、
あとの「『読み書きはできるが話せない聞けない』は本当か?」という章で、そんなことを言う者の大半は、実際には読む力も本格的ではないと書かれており、そのとおりです…!と再び自省した。
そして、この本の後半では英語教育から離れ、「異文化交流の壁」として誤訳の問題などを取り扱っていて、一段と興味をひかれた。
誤訳というと、自らもおかしがちな英語を日本語にする際の誤訳をまっさきに思い浮かべるが、ここではまちがって英訳された日本語の名作の例が最初にいくつか挙げられている。
たしかに主語を省略しがちな日本語は、日本語話者でないひとたちが完璧に理解するのは難しいだろうとつくづく感じた。
さらに、これは誤訳かどうかと作者が問うているのが、原文も英訳もともに名文とされているこの作品だ。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
もちろん書かれている光景は同じだが、原文と英訳の視点のちがい(原文は島村の内面から描かれているが、英訳は俯瞰した視点になっている)から誤訳という意見もあるらしい。
作者は、「英語と日本語のように差異が大きい言語同士の場合、複数の解釈があるのは当然」として、「誤訳だと決め付ける必要はないし、肯定的に受け入れるのがよい」との考えとのこと。
翻訳書も(たまに)原書も読む者として私も、英語と日本語は隔たりが大きいので、一字一句対応していないとか、そんなことでいちいち誤訳だと騒ぐのはいかがなものかと思うことが多い。
とはいえ、やはり誤訳が大きな問題になることもある。その例として挙げられているのが、サミュエル・バトラーの『万人の道』事件。
そもそも、サミュエル・バトラーって誰?? と思われる方も多いだろうが、19世紀のイギリスの小説家で、代表作『エレホン』は、昨今流行りのユートピア⇔ディストピア小説の先取りともいえる作品であり、デイヴィッド・ロッジの『小説の技巧』でも取りあげられているところから、イギリスでは古典作品とみなされているようだ。
- 作者: デイヴィッドロッジ,DaVid Lodge,柴田元幸,斎藤兆史
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『エレホン』については、また後日紹介できればと思うけれど、そのバトラーの半自伝的小説『万人の道』の翻訳が出た際に、行方さんの先生である朱牟田夏雄さんが、『英語青年』で多くの誤訳を指摘したところ、岩波書店が販売停止にしたらしい。
……稲川淳二の怪談なみに怖いですね。(いや、朱牟田先生はたまたま指摘しただけで、当時はそのレベルの翻訳書も珍しくなかったと、行方さんは補足されてますが)
こういった誤訳の問題も含めて、外国語である英語を使って異文化交流を行うのは困難な面もあるが、
というのが作者の結論だ。「それには、英語母語話者が、自分らは母語だけ知っていれば事足りるという従来の態度を改めるべき」だと。
そこで思い出したのが、最近の“こんまり”を巡る騒動。
アメリカで大ブレイク中の片付けの女王“こんまり”が、英語を話さないことを嘆くひとがいるらしい。
この渡辺由佳里さんのコラムを読むと、多くのアメリカ人が、外国人同士で話している場合ですらも「ここはアメリカなのだから英語で話すべき」と思っていることにおどろかされる。
日本人のなかでも、日本にやって来た外国人に対して不寛容なひとがいるのは事実だが、外国人同士の会話であっても日本語で話せ!とまでは思わないのではないだろうか。
そういったアメリカ人たちは、もともと偏見を抱いているというより、外国語を身につけなければいけないと必死になった経験がないから、ごく自然にそんな物言いをするのではないかと思う。(ちなみに、冒頭の諸事情とは、このコラムが無料で読める期間が限られているからです)
となると、やはり行方さんが書かれているとおり、「外国語を学ぶ経験が必要」なのだろう。
「役に立つ」英語かどうかという問題ではなく、外国語を学び、外国文学や異文化と触れあうことによって、自分の中にある偏見や縛りから解放され、より自由な自分になれるのだと、あらためて強く感じた。