ギムレットには早すぎる? 虚構の仕掛けが施された短編集『一人称単数』(村上春樹)
村上春樹の最新短編集『一人称単数』の読書会に参加しました。光文社古典新訳文庫の元編集長である駒井稔さんを迎えて開催され、参加者も春樹マニアと言えるくらいに読みこまれている方が多く、たいへん刺激的な会でした。
前の短編集『女のいない男たち』は、「ドライブ・マイ・カー」や「木野」のように三人称を用いた小説が多かったのに比べて、今作においては、「石のまくらに」は四ツ谷でアルバイトをする大学生の「僕」が主人公であり、「クリーム」や「ウィズ・ザ・ビートルズ」では神戸の高校に通う「ぼく」または「僕」が描かれ、さらに「ヤクルト・スワローズ詩集」の主人公は明確に「村上春樹」であり、千駄ヶ谷に住んでいて頻繁に神宮球場に通ったという、多くの読者が知っているエピソードが綴られている。
エッセイと小説のあいだ、虚構と現実のあいだを描くという意味において、初期の短編集『回転木馬のデッドヒート』の「はじめに」で述べられている「スケッチ」という表現を思い出した。そこで作者は、スケッチとして事実をなるべく事実のままで書きとめていくうちに、「話してもらいたがっている」ことが浮かんでくると書いている。
僕の中に小説には使いきれない "おり" のようなものがたまってくる。僕がスケッチに使っていたのは、その"おり"のようなものだったのだ。そしてその"おり"は僕の意識の底で、何かしらの形を借りて語られる機会が来るのをじっと待ちつづけていたのである。
しかし、『一人称単数』が『回転木馬のデッドヒート』と異なる点は、事実、つまり現実から生まれてくる "おり" を使いながらも、さらに一歩進んで、虚構の仕掛けを施して現実を塗りかえているところだと感じた。現実というのは生と死であるが、エッセイのように軽妙に綴られたこれらの作品をよく読むと、死の影が濃厚に漂っていることに気づく。
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」が、もっともわかりやすいだろう。主人公の「僕」が学生時代に「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」という実際には存在しないレコードをでっちあげて作品評を発表したら、その15年後、仕事で訪れたニューヨークでそのレコードを見つけるというストーリーである。そしてチャーリー・パーカーは「僕」にこう語りかける。
君は私に今一度の生命を与えてくれた。そして私にボサノヴァ音楽を演奏させてくれた。
虚構、つまり書かれた言葉が現実になることによって、34歳で死んでしまったチャーリー・パーカーが再び生を得て、新たな音楽を演奏することが可能になる。
この短編集の最初に収録されている「石のまくらに」も、一度だけ寝た女の子についての話であり、それだけなら過去の小説にも似たようなエピソードがあったが、この作品は彼女が詠んでいた短歌が、彼女自身よりも爪痕を深く刻んでいる。
彼女の名前も知らず、顔も覚えていない「僕」の手元に残っているのは、「ちほ」という筆名で綴った歌集だけだ。「僕」は彼女がもう生きていないのではないかと考える。すべてが消えてしまってもこの変色した歌集だけは残った、と。
この作品は読書会でも話題になったけれど、村上春樹の文体のなかに短歌が出てくることがそぐわないというか、不思議な印象を受ける。これらの短歌は作者が作った(といっても、もちろん作中の彼女の短歌として作ったのだが)のかと思うとさらに謎が深まるが、『猫を棄てる』で書かれていたように、父親が俳人だったということも関係しているのかもしれない。(読書会でも、父親の名前は「千秋」だという指摘があった)
「ウィズ・ザ・ビートルズ」も高校生の時のガールフレンドと、彼女の家に遊びに行ったときに遭遇した一風変わった兄についての物語であり、ここでは芥川龍之介の『歯車』が鍵になっている。「僕」は兄のリクエストに応えて、やむなく『歯車』の「飛行機」を朗読する。『歯車』は芥川が自殺する直前に書かれた文章である。
〈僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?〉――『歯車』より
『歯車』はこの物語の展開を暗示している。また、『女のいない男たち』を再読して気づいたが、この「ウィズ・ザ・ビートルズ」は「女のいない男たち」とも通底しているようだ。どちらも映画『避暑地の出来事』から生まれたヒット曲『夏の日の恋』が不器用な恋を彩り、のちに「僕」は失われたものに思いを馳せる。
駒井さんはこの小説について(さらにこの本全体も)、人間の不可解さや心の闇を見事に描いていると評価されていた。たしかに、「ウィズ・ザ・ビートルズ」「女のいない男たち」どちらも、作品で切り取られた心の闇と、晴れわたった空のように健全な『夏の日の恋』との対照が心に残る。
「クリーム」では、知り合いの女の子に騙されて(さだかではないが)、神戸の山に迷いこんだ高校生の「ぼく」は、キリスト教の宣教車が「人はみな死にます」と告げているのを耳にする。
ぼくはそのキリスト教の宣教車が目の前の道路に姿を見せ、死後の裁きについて更に詳しく語ってくれるのを待ち受けた。なんでもいい、力強くきっぱりした口調で語られる言葉を
けれども宣教車は消え去り、見捨てられたような気持ちになった「ぼく」の前へ老人があらわれる。老人は唐突に「中心がいくつもあり、しかも外周を持たない円」の話をはじめる。この円について、私は「ぼく」同様になんのことやらと思っていたのだけど、読書会で聞いたところ、仏教学者であった鈴木大拙の思想らしい。
ここでまた、寺の息子として生まれて仏教系の学校で勉強を修め、のちに京大文学部へ進んだ作者の父親の姿と結びつけるのはあまりに安易かもしれないが、どうしても頭に浮かぶ。
どうしてこの作品がいつもの「僕」ではなく、「ぼく」なのかということも気になっていたが、この「ぼく」は作者だけではなく、神戸の名門私立校で教師をしていた父親に教えられた生徒たちも重ね合わされているように思えてくる。「へなへなと怠けてたらあかんぞ。今が大事なときなんや。脳味噌と心が固められ、つくられていく時期やからな」と生徒に日々教えていたのかもしれない。
そして一見、気楽なエッセイの延長のような「ヤクルト・スワローズ詩集」では、唐突に父親の葬儀のあとのエピソードが語られる。そこから「素敵な思い出」として、父親と甲子園球場に日米親善試合を見に行ったときに、サイン・ボールが膝の上に落ちてきた話が続く。
それは少年時代の僕の身に起こった、おそらくは最も輝かしい出来事のひとつだったと思う。最も祝福された出来事と言っていいかもしれない。僕が野球場という場を愛するようになったのも、そのせいもあるのだろうか?
『猫を棄てる』では父親について語ると銘打ちながらも、結局肝心なところは語られていないように思えて、少し物足りなかったけれど、小説という形式をとったこの本では、思いのほか雄弁に語っている。フィクションという虚構を通じてしか語ることのできないものがあるのかもしれない。
こうやって見ていくと、この本の前半に収録されているエッセイのような作品群にも、さまざまな仕掛けが仕組まれていることがわかる。それによって、現実の生と死が塗りかえられて新たな生が立ちのぼり、しまいこまれていた感情が浮かびあがってくる。
後半の「謝肉祭」「品川猿の告白」は前半の作品群よりも物語色が強まり、ある種の寓話のようだ。「品川猿の告白」はタイトルからもわかるとおり、『東京奇譚集』所収の「品川猿」の語り直しヴァージョンであり、名前を盗む猿が再び登場する。
ここでは愛する人の名前を盗むことが「究極の恋愛」であり、同時に「究極の孤独」だと語られる。「石のまくらに」でも、短歌を詠む女の子は「僕」と性交しているあいだ、愛する男の名前を叫ぼうとする。名前とはいったいなんなのか? ということについても考えさせられるが、その一方で、〈I ♥ NY〉とプリントアウトされた長袖シャツを着た猿が、群馬の鄙びた温泉宿で働いているという単純なおもしろさも楽しい。
『謝肉祭』はインパクトの強い一文からはじまる。
彼女は、これまで僕が知り合った中でもっとも醜い女性だった。
はじめのうち「僕」は、頭もよく趣味も洗練されている彼女に対して、「もう少しましな容貌であれば」魅力的だったであろうにと考えるが、その考えが薄っぺらい皮相的なものであったことを思い知らされる。
彼女はその特異な容貌を意識的に行使し、ダイナミックな存在感で「僕」や周囲の人々を圧倒する。彼女が辿る人生の数奇さと陳腐さは、まさに先にも書いた「人間の不可解さ」を具現化したもののように思える。
それにしても、その彼女のことを醜い女性呼ばわりしたり、「石のまくらに」の彼女を「美人と呼ぶには確かにいくらか無理が」あると書いたり、「ウィズ・ザ・ビートルズ」では、「僕」はもてたことは一度もないが、興味を持って近づいてくる女性はいつもどこかにいたと言ってのけたり、いい気なものだ……という批判に応えるために書いたのだろうかとすら思えるのが、最後に収められた書き下ろし「一人称単数」だ。
ここでは、「私」が珍しくポール・スミスのスーツを着てバーに行き、ウォッカ・ギムレットを飲んでいると、美人ではないが若いときは人目を惹いたであろう女性に突然話しかけられる。これまでに会った記憶はない。ギムレットなんか飲んでと絡んでくる女性に対して、(よせばいいのに)「ギムレットじゃなくて、ウォッカ・ギムレット」と訂正する。
「なんだっていいけど、そういうのが素敵だと思っているわけ? 都会的で、スマートだとか思っているわけ?」
見知らぬ女からまったく身に覚えのない謗りを受けるという不条理さから、夏目漱石の「夢十夜」や内田百閒の短編を思い出した。
また一方で、ギムレットというと忘れてはならないのが、『ロング・グッドバイ』である。「僕」ではなく「私」という一人称であり、謎の女にわけのわからない因縁をつけられているというのに、「大義の見えない争いは好むところではない」なんて悠然と語り、好奇心から話を聞いてしまうあたりもフィリップ・マーロウめいている。
「ギムレットには早すぎる」とテリー・レノックスはマーロウに語るが、まだギムレットを飲む頃合いではないと、作者も語っているのかもしれない。
短編集の最後に、村上春樹ブランドに異議を申し立てるようなこんな作品を持ってきたことが興味深い。『猫を棄てる』のときも書いたけれど、70歳を過ぎてもなおも守りに入らず、新たな領域を開拓しようとしているように感じられる短編集だった。