快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

立派な実験動物として生きるために 『韓国フェミニズム作品集 ヒョンナムオッパへ』(チョ・ナムジュほか著 斎藤真理子訳)

 『韓国フェミニズム作品集 ヒョンナムオッパへ』を読みました。
 タイトルからもわかるように、「フェミニズム」をテーマに韓国の女性作家七人が書き下ろした短編集……というコピーから思い浮かぶ枠をはるかに超えて、リアリズム小説からノワールやSFまで多彩な物語が収められている。 

  表題作の「ヒョンナムオッパへ」は、ベストセラーとなった『82年生まれ、キム・ジヨン』のチョ・ナムジュによる作品である。
 「オッパ」とは韓国語で「兄」という意味を持ち、恋人など親しい年上の男性への呼びかけに使用される言葉とのことで、「ダーリン」みたいなニュアンスなのかもしれない。

 「キム・ジヨン」と同様に、ここで描かれるヒョンナムオッパの姿に女性読者はあるある!と眩暈がするくらいの既視感を覚えるにちがいない。
 自分がヒョンナムオッパみたいな男と絶対につきあうことはなく、関わることすら避けて生きてきたとしても、かならずと言っていいほど、この手の男は友達の彼氏や夫の中にひとりは存在する。

 女同士で遊びや旅行に行く計画を立てているときに、「彼氏を置いて遊びに行くと機嫌が悪くなる」とか、「夜出かけるときには、ごはんを用意しておかないといけない」とか耳にして、(お留守番もできへんの? 夫は小学生なん? いや、小学生でもコンビニでおにぎりくらい買えるで)と苛立った経験がある女性は少なくないのではないだろうか。そういうタイプの女性は、物語内のジウンのように、オッパに毛嫌いされるのだろうが。

 しかもこのオッパは日常生活のみならず、将来の進路まで平気で指図するので驚かされるが、オッパがうざければうざいほど、目覚めた主人公が手に入れた解放感が際立ち、最後の「ケジャシガ」(本文では日本語ですが)という罵倒語が痛快に響く。

 しかしその一方で、こんなことも思う。
 どうして主人公はこのヒョンナムオッパのような男に魅かれてしまったのか? どうして私たちはときにつまらない男を好きになってしまうのか? 好きになった相手をすぐに断ち切ることができるのか? 自分より強く見える男に守ってもらいたいという気持ちを完全に捨て去ることができるのか? 
 この狭間でぐるぐるする「フェミニズム小説」は成立するのだろうか? 

 次の「あなたの平和」(チェ・ウニュン)と、「更年」(キム・イソル)も同様に、日常生活に潜む抑圧を描いている。

 「あなたの平和」は、息子の結婚相手ソニョンを迎える母親ジョンスンの姿を、娘ユジンの視点から描いた作品である。
 苦労して育ち、母を喜ばせるために安定した家に嫁いだジョンスンの長年の葛藤が、息子の結婚によって顕在化される。結婚相手のソニョンは早くに両親を失い、家だけが遺されたため、息子がソニョンの家に入ることになる。

 つまり、息子夫婦はジョンスンとまったく正反対の生き方を選んだのだ。嫁ぎ先で義理の母と夫にひたすら尽くして生きてきたジョンスンは、どうしてもそのことが受け入れられない。そんなジョンスンに娘ユジンはこんな言葉を投げかける。 

「おばあちゃんがお母さんにやったことを、ソニョンさんにやろうとしないでよ……誰にもそんなふうに、ほかの人を苦しめる資格はないんだから」 

「両親もいない子を受け入れてやったのに」……

「そんなふうだと、お母さんのそばには誰もいなくなるよ。そんな醜い考え方する人、顔も見たくないし、話もしたくない、帰るわよ」

  ユジンが幼いころ、ジョンスンが倒れて救急車で運ばれても、ユジンの祖母や父親は気にも留めなかった。家にとって、嫁のジョンスンは取るに足らない存在だったのだ。やせ細った身体でキムチを漬けるジョンスンを、ユジンは子どもながらに少しでも助けようとした。
 そんなユジンが上記の台詞をジョンスンに言わなければならなかったとき、どれほどつらかったかを想像すると、こちらまで胸が引き裂かれそうになる。

 「更年」も息子を持つ母親が主人公であり、同様に息子の行いによって、自分の人生はいったいなんだったのか? と、これまでの選択を振り返る物語である。
 この小説では、世界を放浪する妹ジナが主人公とまったく反対の生き方を選択する存在として登場し、ジナと連絡をとった娘がアイドルの話題で盛りあがる場面で風穴があき、爽快な空気が流れる。 

結婚しなければ寂しいだろうと、なぜあんなにうっかり信じ込んでしまったのか。多数が選ばない別の生き方もあるということをなぜ、認められなかったのか。結局、私もジナも同じだ。それぞれ、自分が考えて選択した人生なのだし、その選択の責任を負って生きているだけだ

  というのは、この物語内ではなく作家ノートで書かれている文章だが(推敲時に本文から消したとのこと)、この小説全体を貫く思想だと感じられた。

 「すべてを元の位置へ」(チェ・ジョンファ)からの短編は、先の三篇とは異なり、いわゆる「フェミニズム小説」というより、新しい角度から切り取ったジャンル小説としての趣きが強い。

 「すべてを元の位置へ」の主人公は、L市に建ち並ぶ廃墟や廃屋に入って内部の映像を撮影する仕事をはじめる。題から連想される、Radioheadの“Everything In Its Right Place”に似つかわしいシチュエーションだ。(といっても、韓国語の原題はわからないけれど)
 解説によると、ソウルの大規模都市再開発による立ち退きが背景となっているらしく、追い出された人が残したスカートを拾った「私」はどうしたのか、そして「私」の身に何が起きたのか……と、ある種の寓話として描かれている。

 「異邦人」(ソン・ボミ)は、警察の捜査局から追い出されて身を隠していた「彼女」のもとを、後輩の「彼」が足繁く通って捜査復帰を懇願するところからはじまる。人工の雨が降る近未来を舞台とした、ノワール風のハードボイルドだ。

 ヴァーチャル自殺が流行る世の中で、「死人は傷ついた心より重い」とフィリップ・マーロウの台詞を口にしていた「彼女」だが、物語が進むにつれて、はたして死人と傷ついた心のどちらが重いのか? と問いかける。男と女という軸、現実とヴァーチャルという軸を入れ替えた試みが興味深い作品だった。

 「ハルピュイアと祭りの夜」(ク・ビョンモ)では、とある島で開かれた女装コンテストに、友人ハンの代わりに出場したピョがとんでもないことに巻きこまれる。
 女装コンテストで賞金五千万ウォン? そんなことあるのか? ピョが訝りつつも、ハンが提示した謝礼三百万ウォンにつられて引き受けるくだりはユーモラスだが、島に着いてからは血も凍るような陰惨な事態がくり広げられていく。

 女性が男性を罰するという勧善懲悪を描いた作品とも言えるが、三百万ウォンで身代わりとなったピョの不条理な運命を考えると、現実の事件においても痛い目に遭うのは末端の小悪党で、巨悪は他人を身代わりに送りこみ、永遠に罰せられることがないという皮肉もこめられているのかもしれない。

 最後の「火星の子」(キム・ソンジュン)は、宇宙船で打ちあげられた「私」が語り手となる。

 宇宙船の中で眠りから覚めた「私」は、右腕と左腕、さらに二本の足を動かしているところから人間らしい形状をしていると思われるが、人間ではない。無数の実験動物のデータを集めて作ったクローンだ。
 そんな「私」を待ち受けていたのは、一匹のシベリアンハスキーだった。私の名前はライカだよ、と英語で自己紹介をする。

 そう、あのスプートニク二号に乗せられたライカ犬だった。宇宙の藻屑となったあと、星から星へと永遠にさまよい歩く存在となったのだ。ペットのノミに宇宙飛行士の名前をつけ、デヴィッド・ボウイの「スペイス・オデッセイ」を口ずさみ、ときにはダンテの煉獄を引用したりと恐ろしく博識で、無知な人間に容赦のないライカ
 軽々しくふれられることを嫌いながらも、「私」に抱きしめられるとすぐに「私」が妊娠していることに気づく。記憶を消された「私」は、実験によって妊娠させられたこともすっかり忘れていたのに。 

イカは妊娠した私を、自分の娘にでもなったみたいに世話してくれる。火星の空のような、本音のわからない犬だったけど、あれ以来ライカが私に注いでくれたまごころを思うと、誰かが私のために送り込んでくれた存在ではないかとも思えた。

  ライカと探査ロボットたちに見守られ、「私」は夢を見る。
 夢の中では、枯れはてた赤い惑星であるはずの火星に白い波が打ち寄せ、生まれたばかりの子どもが魚のように泳ぐ。目を覚まして夢だと気づく。そこにある火星はやはり水のない乾いた惑星だけど、ライカとロボットは臨月の「私」を見守っている……

 解説にもあるとおり、「ほのかな希望」が漂う作品であり、また一方で、実験動物となって宇宙の果てまで行かないと、安らぎの空間は得られないのだろうか? なんて考えさせられたが、この短編集で一番心に残った。

 ライカは「実験動物になるための二つの必須条件」として、「賢くて健康なこと、主人がいないこと」を挙げている。
 このふたつの条件は、自立して生きていくための必須条件ではないだろうか? 
 新しい生き方を模索することは、つまり「実験動物」として生きることなのかもしれない。なんとかこの条件をクリアして、立派な実験動物として生きていきたいものだと年頭から心に誓った。