互いをじわじわと殺し合い、それでも離れられない家族――ドメニコ・スタルノーネ『靴ひも』(関口英子訳)
もしも忘れているのなら、思い出させてあげましょう。私はあなたの妻です。わかっています。かつてのあなたはそのことに喜びを見出していたはずなのに、いまになってとつぜん煩わしくなったのですね。
という不穏な言葉で、ドメニコ・スタルノーネ『靴ひも』(関口英子訳)ははじまる。
読み進めていくと、妻である「私」が、家を出た夫に向けて書いた手紙だとわかる。妻である自分と子どもを捨てて、夫は若い女のもとへ走ったのだ。
妻からの手紙は何通も続き、子どもの養育をめぐる争い、夫を奪った若い女との対面、裁判所への調停の申し立てなどが綴られ、まさに絵に描いたような泥沼状態に陥っていることがうかがえる。
そしてついには精神状態が不安定になった妻の自殺未遂へ至り、
ずいぶん前から、あなたは私のことをじわじわと殺してきた。妻という役割においてではなく、もっとも充実し、あるがままでいられるはずの年代にあった一人の人間として。
と、夫婦の関係が総括される。そうして「第一の書」が終わる。
「第二の書」では、七十代の老夫婦の夫が語り手として登場する。
五十年以上連れ添った老夫婦の日常は一見平穏だが、どこかしら軋みが感じられる。
若い女に五ユーロ騙し取られる夫。それを聞いて苛立つ妻。そんな妻を見て、「金にうるさい」と内心思う夫。いがみ合っている息子と娘。さらに若い男から百ユーロ盗まれる夫。すれちがう記憶。
ある日、老夫婦がヴァカンスから戻ると、家がひどく荒らされていた。
しかし、家のどこもかしこも引っくり返されているにもかかわらず、紙幣は盗まれていない。ただの泥棒ではないようだ。
いったい誰が? 何の目的で? わけのわからない犯罪に老夫婦が怯えていると、妻が溺愛している猫が姿を消したことに気づく。
そもそも、この夫婦の正体は? 「第一の書」の夫婦とはどういう関係にあるのか?
古い写真や思い出の品が散乱する部屋で、夫は昔を回想する。
妻子を捨てて家を出た過去を、とくに後悔するでもなく淡々と語る口調に驚かされる。「第二の書」の冒頭で語られていた、若い男女に次々に騙されるお人好しの夫という人物像からかけ離れているのではないか? と。「第一の書」で、妻からありったけの憎しみをぶつけられていた冷酷な夫と同一人物であるとは思えない。
しかしまぎれもなく同一人物であり、人格が変わってしまったわけでもない。ひとつの物体であっても、ちがう角度から光をあてるとちがう形状の影ができる。
あのとき自分がなにを考えていたのか、私にはよくわからない。たぶんなにも考えていなかったのだろう。妻のことはむろん嫌いではなかったし、妻に対して恨みを募らせていたわけでもない。私は妻を愛しいと思っていた。
けれども、若い女を愛し、彼女と暮らすために家を出る。
自らの裏切りのせいで、妻が壊れていくのもわかっていた。子どもと離れるのはつらかった。でも愛人と別れるのはもっとつらかった。どうすることもできなかった。
そんな過去を平然と語る夫の残酷さ、身勝手ぶりに読者は戦慄を覚える。
が、なにより恐ろしいのは、その残酷さ、身勝手ぶりを心のどこかで受けいれてしまうこと、この夫だけではなく、自分も含めた人間とはそういうものだと納得させられることではないだろうか。
夫婦とは、家族とは、互いをじわじわと殺し合うものではないだろうか、と。
では、そんな家庭で育った子どもはどうなるのか?
そこで思い出されるのが、『八日目の蝉』である。
映画化もされたこの小説は、夫の不倫相手が子どもを奪って逃走した事件を描いているが、ほんとうの恐ろしさは、不倫の愛憎劇や逃走劇ではなく、事件が解決したあと、平穏を取り戻したかのように見える家庭の日常生活にあった。
奪われた子どもであった娘が荒廃した家の実情を語る。
事件のあとで、父と母は、自分たちはすべての意味合いにおいて等しく被害者であると、ことあるごとに確認しあっていた。けれど母は、感情のコントロールがきかなくなると、あなたのせいだと言わんばかりの嫌みを言ったし、父は父で、無関心と諦観でそれをやり過ごそうとしていた。
世間体のためか、子どもの養育のためか、父と母は別れを選択しなかったが、ふたりとも家庭にはとことんまで無関心になり、ごはんも用意されず、埃のたまった家で子どもたちは成長する。
『八日目の蝉』の作者である角田光代はこの小説にコメントを寄せている。
拒絶と許容、愛情と無関心、自由への渇望と束縛への希求。それらはまったく矛盾なく、ひとつの家のなかに、ひとりの人間の内に、おさまっている。
「第三の書」では新たな人物が語り手となり、この小説の謎――家を荒らしたのは誰か? 猫はどこへ消えたのか?――がすべて解き明かされる。
「第一の書」で激しく夫を糾弾する妻、「第二の書」で自らの犯した過ちを淡々と語る夫、この二者による語りは読めば読むほど心が寒々しくなり、登場人物との距離を感じた読者も、「第三の書」の語り手の率直な告白には心をつかまれるだろう。
あの人の本当の過ちは、最後の最後まで私たちを拒みつづけられなかったこと。伴侶を深く傷つけ、死にたいと思うまでに追い詰め、一生消えない傷を負わせておいて、後戻りなんてすべきじゃない。犯した罪の責任をとことん負うべきだった。
「第三の書」によって、この小説に救いが生まれる。
家族を結びつける靴ひもと、それを破壊する青いキューブが同時に存在し得ること、人生においてはどちらも欠かせないものであることが腑に落ちる。
もちろん、すべてを受けいれて生きていくのは簡単なことではない。けれども、猫を連れていけば、前に進めるような気がする。
この『靴ひも』は、「はじめての海外文学」のYouTube配信企画、「こわい! 海外の本 パート2」で、翻訳家の木下眞穂さんが紹介されています。ぜひこちらもご覧ください。