快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

それがフィリップ・マーロウという人間だ 『さよなら、愛しい人』(レイモンド・チャンドラー 著 村上春樹 訳)

It wasn’t any of my business.  So I pushed them open and looked in. 

私には何の関わり合いもないことだ。なのに私はその扉を押し開け、中をのぞき込んだ。そういう性分なのだ。

  レイモンド・チャンドラーによるフィリップ・マーロウシリーズの二作目、『さよなら、愛しい人』を再読した。 

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

  以前『ロング・グッドバイ』からの流れでこの作品も読んだものの、そのときは、なんか似たような展開やな……そもそも、いったいなぜにマーロウは、テリーやマロイみたいな、どこからどう見てもやっかいな連中にわざわざ関わるのか? と疑問を感じたり、うさんくさい人物が入れかわり立ちかわり登場する筋を追うのに精一杯で、正直なところ、あまりピンとこなかった。

 しかし、今回再読してみて、マーロウの魅力、そして村上春樹が心酔するチャンドラーの文章の妙を、多少なりとも理解できるようになった気がする。
 ”ハードボイルドとはなんぞや” という、かねてからの謎に自分なりの答えを出せる日が近づいたかもしれない。

 『さよなら、愛しい人』は、マロイという男が酒場で暴れているところに、偶然マーロウが出くわすところからはじまる。

 マロイは、「ボタンのかわりに白いゴルフボール」がついたグレーのジャケットをはおり(いったいどんなジャケットなのか???)、茶色のシャツと黄色のネクタイを身につけ、ジャケットからはやはり黄色のハンカチをのぞかせ、帽子には羽が二本挟まれ……と、ド派手な格好をした大男であった。

 普通の人なら絶対に関わり合いになりたくない。誰だって見て見ぬふりをする。けれども、マーロウはちがう。冒頭の引用にあるように、扉を押し開けて、中をのぞき込む。 


「そういう性分なのだ」――というのは、原文では書かれていない。(私が見た版では)しかし、これによって、マーロウの性分が読者の胸に刻みこまれ、そのあとの展開にも違和感を抱くことなく、物語の中にひきこまれていく。といっても、そんな効果を計算したわけではなく、まるでチャンドラーが乗り移ったかのように翻訳したのだろう。 


    この物語の筋は、刑務所帰りの大男マロイがかつての恋人ヴェルマを探して酒場を荒し、勢いあまって殺人を犯す。マーロウがマロイの足取りを探ろうとするやいなや、リンゼイ・マリオットという男から依頼が入る。友人が所有していた翡翠のネックレスが盗まれてしまい、金を払って取り戻したいので、その護衛をしてほしいとのこと。

 しかし、その盗難の顛末も、どうして唐突にマーロウに依頼することにしたのかも、どうもはっきりしない。マーロウは怪しいものを感じつつも、マリオットとともに受け渡し場所に向かったが、そこで事件が起きる…… 

There was nothing about Lindsay Marriott, unless it was on the society page.

リンゼイ・マリオットについての記事は見当たらなかった。記事が載るとしてもたぶん社交欄だろう。

  というものだが、この小説を楽しむうえで、筋はそれほど重要ではない。ヴェルマはいったいどこに消えたのか? というのが物語を貫く最大の謎であるが、これも読み進めているうちに察しがつく。(私ですらついたので)

 それよりも、次々にあらわれる一筋縄ではいかない登場人物たち、そういった相手とたくみに呼吸をあわせて思い通りに動かす(ときにはしこたま殴られたりもするが)、まるで合気道の老師のような、タフでしなやかなマーロウの身のこなし、そして、諧謔に満ちた文体による語りの迸り、これらの三位一体ぶりが唯一無二のチャンドラーの魅力なのだろう。   

I'm stupid.  It sank in after a while.

私はたしかに愚かしい。それが理解できるまでに時間がかかったが。

  村上春樹もチャンドラーを訳すのは楽しいと何度も語っているが、たしかにノリノリで訳したであろうことが、あちこちからうかがえる。
 ちなみに、『リトル・シスター』では、「青葱野郎が」という独特の罵りが出てくるので、原文では何と言っているのか見てみたら、”screw you” という、わりと普通の罵倒語だった。(普通じゃない罵倒語ってどんなんかわからんけど)こういう遊び心も楽しいですね。 

“I like smooth shiny girls, hardboiled and loaded with sin.”

“They take you to the cleaners,” Randall said indifferently.

“Sure.  Where else have I ever been? What do you call this session?”

「私はもっと練れた、派手な女が好きだ。卵でいえば固茹で、たっぷりと罪が詰まったタイプが」

「そういう女には尻の毛までむしられるぜ」とランドールはどうでも良さそうに言った。

「承知の上さ。だからいつまでもからっけつなんじゃないか。おいおい、あんたはいったい何を言いにきたんだ?」

  あと、思わず苦笑してしまったのが、次の場面。
 ヴェルマを探すマーロウが、例の酒場をかつて経営していた男の未亡人に会いに行くのだが、その未亡人は酒びたりの薄汚い老女となっていた。ヴェルマの行方を聞き出すため、酒を差し出すマーロウだが…… 

A lovely old woman. I liked being with her. I liked getting her drunk for my own sordid purposes.  I was a swell guy. I enjoyed being me. You find almost anything under your hand in my business, but I was beginning to be a little sick at my stomach.

まったく可愛らしいばあさんだ。彼女と話しているとつくづく心が和む。私はけちな目的のためにその女を酔っぱらわせた。大した男じゃないか。誇りで胸がいっぱいになる。私のような商売をしていると、ほとんどどんなことだって平気でやってのけるようになる。しかしその私をしても、さすがにいくらか胸くそが悪くなってきた。

  耄碌したアル中の老婆をさらに酔わせることに、居たたまれないものを感じるマーロウ。
「私のような商売」をしているマーロウの前には、世間の暗闇に堕ちていった者たちがひっきりなしにやって来る。荒くれ者の大男やアル中の老婆のみならず、ジゴロに詐欺師、麻薬ディーラーに悪徳警官、賭博の元締め、そして行方をくらました女……。


 そういった連中と渡りあいつつも、マーロウは自らの中にある正義感を失うことはない。欲や金に目が眩んだり、魂を売り渡したりはしない。恐怖を覚えることがあっても、絶対にひよったりはしない。

 ギャングの元締めと話をつけるために、たったひとりで賭博船に乗りこむとき、男気あふれるレッドに手助けが必要かと聞かれ、「濡れた犬のようにぶるっと身震い」をしてこう答える。 

But either I do it alone or I don’t do it.

しかし結局のところ、自分一人でやるか、あるいはまったくやらないか、そのどちらかしかないんだ。

 ”ハードボイルドとはなんぞや” という謎は、まだ自分の中で完全に解けていないが、きっとこういうことなんだろうと思う。 

This was the time to leave, to go far away.  So I pushed the door open and stepped quietly in.

こんなところは一刻も早く立ち去り、できるだけ遠くに離れるべきなのだ。ところが私はドアを開けて、静かに中に入った。それが私という人間だ。