快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ノーベル文学賞記念に? 秋の夜長の世界文学ブックガイド 『8歳から80歳までの世界文学入門』沼野充義編著

 さて、カズオ・イシグロノーベル文学賞受賞、たいへん盛りあがりましたね。
 日本でこんなに人気のある(数少ない)海外の作家が受賞するとは、たしかにめでたい。

 しかし実は、少し前に『忘れられた巨人』を読んだけれど、正直なところ、いまいち話に入りこむことができず、「やっぱり『日の名残り』が一番好きかな……」という感想を抱いてしまった。。 

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

 

 アーサー王伝説や老夫婦というモチーフに隔たりを感じたのだろうか。いや、おじいさんがおばあさんを「お姫様」と呼ぶところで、「なぬ?」と思ってしまったからだろうか。(原文は"princess"なのかな)

 といっても、理解できないとこともあったけれど、おもしろくなかったわけではなく、龍の吐息とか川を渡る場面などすごく印象に残っているので、もうすぐ文庫で出るようだし、また読み直さないと。


 けれど、もしこれからカズオ・イシグロの作品を読みはじめるという方には、ぜひとも『日の名残り』を読んでほしい。最後の場面、とくに劇的な事件がおきるわけではないのに、何度読んでも泣いてしまう。

 取り返しのつかない過去――こう言うと、過去とは取り返しのつかないものに決まっているのだから、なんだか奇妙な感じもするけれど、その寂寥感が胸にせまる小説です。 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

  しかし、この受賞をめぐって、

「まるで日本人が獲ったかのように官邸が便乗してコメントを出しているけれど、カズオ・イシグロは英語ネイティヴの作家なんだから、日本人扱いするのはち・が・う・だ・ろ~」

という意見や、あるいは

「いや、ルーツである日本からの影響は本人も認めているのだから、あえて日本と切り離す必要はないだろう」

などの意見を目にしましたが、文学の世界ではすでに、「日本文学」「外国文学」とくっきり線を引いて考えるより、「世界文学」という考え方が一般的なよう。


 先日読んだ、沼野充義編著の『8歳から80歳までの世界文学入門』は、沼野さんと作家や批評家、翻訳家たちとの対談集の第四弾であり、このシリーズを通して「世界文学の海に漕ぎ出そうとする読者のための道案内となろうと目指して」いるとのこと。 

8歳から80歳までの世界文学入門

8歳から80歳までの世界文学入門

 

  いま角田光代が訳した『源氏物語』が話題になっているけれど、冒頭の池澤夏樹との対談で、ちょうどこの「日本文学全集」(池澤夏樹編集)が取りあげられている。

 ここでの対談によると、この「日本文学全集」は翻案とかアダプテーションではなく、あくまで「翻訳」らしい。ぶっ飛んでいると大絶賛されている、町田康の『宇治拾遺物語』も、やはり翻訳なのだ。
 となると、『源氏物語』もほんとうに大作にちがいない。以前、角田光代が翻訳した(いや、これは翻案に近いのだろうか)『曽根崎心中』を読んだら、話の筋もくっきりわかっておもしろかったので、『源氏物語』も読んでみたい。 

  

曾根崎心中

曾根崎心中

 

  あと、岸本佐知子との対談は、たまたま東京に用事があったため、生で聞くことができた(この本の対談は公開収録なのです)。
 文字になったのをあらためて読んでみると、どの話ももちろん興味深いけれど、そうそう、この日の話で一番おどろいたのは、岸本さんがワープロで翻訳しているということだった…と思い出した。

 あと、この対談のときは、もうすぐ『コドモノセカイ』というアンソロジーが出るという話だったけれど、前にも紹介しましたが、この『コドモノセカイ』、ほんとうにおもしろいのでおすすめです。 

コドモノセカイ

コドモノセカイ

 

 あと、この本に収められた対談では、青山南の絵本翻訳の話もよかった。
 青山さんというと、この対談でも話題になっている『オン・ザ・ロード』の新訳をはじめ、アメリカのサブカルチャーに詳しいイメージが強かったけれど、こんなに絵本翻訳を手掛けてられるとは知らなかった。 

オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)

オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)

 

  ご本人の談によると、文字が少ないのがいいなあと思って、絵本翻訳をはじめたとのことだけど(冗談かもしれんけど)、文字が少ないからこそ難しいと思うし、しかもナンセンス絵本だなんて難儀の極みのような気がする。 

これは本

これは本

 

  とくに沼野さんも紹介していた、『これは本』。本だからメールは送れない……本だから、本だから…(ヒロシです、みたいですが)読んでみたくなりました。

 でも、こうやって上にあげた本を見ると、ほんと世界文学という名にふさわしいブックガイドができあがりました。

 

 

大人になるってむずかしい② 優しくて誠実な小説だと感じた『火花』(又吉直樹著)

そういえば綾部はどうしているんだろう……?? 

火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)

 

  前回書いた「なりたいボーイ」の映画のときに、ちょうど最近読んだ(いまさらですが)『火花』の映画の予告編を見た。
 菅田将暉と桐谷健太、どちらも大阪出身のせいか関西弁に違和感もなく(関西人にとっては関西弁が下手だと、どんなにいい映画でも興ざめしてしまうので…)、小説のイメージに合っていたので期待できそう。

 前号のTVブロスの「なりたいボーイ」特集で、大根仁監督が原作者の渋谷直角に、「前作の『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』も面白かったけど、この作品は自分のパンツを脱いでいる感がしたのでよかった」
という趣旨の発言をしていたけれど、この『火花』も、芸人である作者が、自分のパンツを脱いで書いた感があるので、文学として高く評価されたのだろう。


 作者はもともと読書家としても有名なので、あえて芸人を主人公にしなくても、サラリーマンとか市井の人を観察して、よくできたコントのような短編を書いたり、あるいはもっと抽象的でシュールな作品を書くこともできたのではないかと思うけれど(念のため、そういう作品が悪いと言っているのではありません)、そうではなく、自分の立場から一番正直に書ける題材を選んだところに、誠実さを感じた。

 そしてその誠実さが、そのまま主人公「僕」と、「僕」が崇拝する「神谷さん」につながっているように思えた。

 『火花』の筋については、ご存じの方が多いでしょうが、念のため説明すると、一応漫才師ではあるけれど、めったにテレビにも出れず営業の仕事をこなしている「僕」が、他事務所の先輩漫才師「神谷さん」と地方の花火大会の営業で出会い、信条や佇まいすべてに惚れこみ、ともに漫才道を歩む――というストーリー。

「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動は統べて漫才のためにあんねん。だからお前の行動のすべては既に漫才の一部やねん」 

 正直、小説からは「神谷さん」の芸がそれだけすごいのかはよくわからなかったけれど、とにかく純真で漫才のことしか考えていない「神谷さん」の魅力はよく伝わってきた。
 破天荒なキャラだけど、ひと昔前の芸人像のように自分勝手な乱暴者ではなく、あくまで心優しいところが、いまの時代を映しているように思えた。

でも僕達は世間を完全に無視することは出来ないんです。世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それはほとんど面白くないことと同義なんです。 

  これは主人公「僕」のセリフだけれど、ここから読み取れる優しさと、いまの時代をきちんと読み取る賢さ、そして最初に書いた誠実さがこの小説の要であり、そしてこれらの要素は、小説だけではなく、お笑いやすべての芸に通じることのように感じられた。


 また、「神谷さん」が、漫才は自分たちだけで成立するものではない、コンテストで優勝する芸人だけがお笑いシーンを作っているのではない、落とされる芸人も必要な存在なのだと語るところも、やはりすべての芸能に共通しているのではないだろうか。
 小説でいうと、ドストエフスキー夏目漱石だけあればいい、というわけではないですからね。


 そして、ネタバレになりますが最後は――


 「僕」は一瞬テレビのチャンスをつかんだものの、それも束の間に終わり、結局漫才を辞めて就職する。一方「神谷さん」はそんなチャンスとすら無縁で、行方をくらませたかと思うと、とんでもない姿で戻ってくる。

 夢を叶えるという観点で考えると、どちらも惨めなラストだけれど、最後まで作者の視点に愛があって優しいため、切なさとともにユーモアを感じる。
 前回の「なりたいボーイ」と同様に、憧れていたものになるのはほんと難しい。いや、憧れるということ自体「別物」である証明なので、憧れているものにはなれるわけがないのだろう。


 芸人本というと、ずっと昔に小林信彦の『天才伝説 横山やすし』を読んだけれど、 

天才伝説 横山やすし (文春文庫)

天才伝説 横山やすし (文春文庫)

 

 もうその頃とは時代が変わったなと思う一方(いまならやっさんみたいな芸人、テレビで使えないでしょう)、芸のことしか考えられない人間は最終的に破滅するという結末は、時代が変わっても同じだなとしみじみした。

 ちなみに、この『天才伝説 横山やすし』で一番印象に残っているのは、実際のエピソードだったかどうか忘れたけれど、交差点で横断歩道にはみだして止まっている車のボンネットの上をやっさんが歩く場面だった。いまでも、横断歩道の上で止まっている車に遭遇するたびに、ボンネットの上を歩いてやりたくなる。


 あと、芸人本では、オードリー若林の『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』もすごく共感できたし、オアシズのふたりが書いた(まだ大久保さんがブレイクする前に)『不細工な友情』も読みごたえがあった。
 いまの芸人って、自分や周囲を客観視する能力が欠かせないから、本を書いてもおもしろいのかな。
 いや、春日のように、客観視を超越した芸人もいるか……『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』の春日の項は、ほんと感心したのでおすすめです。 

 

不細工な友情 (幻冬舎文庫)
 

 

 

 

 

大人になるってむずかしい① 映画『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』(大根仁監督)

 前にもここで書いた『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』の映画を見に行きました。

tamioboy-kuruwasegirl.jp


 まあ、話は原作とほとんど同じなのだけど……というか、原作と同じというより、そのまんま題名通りの話。

なので、ネタバレ?になるのかもしれないけれど、要は


妻夫木くん演じる主人公、若手編集者コーロキは、奥田民生みたいに泰然としながらも(本人がほんとうに泰然としているのかは知らんけど)仕事はびしっと決める大人になりたい!! と思いつつ、水原希子ちゃん演じる魅力的な女子に翻弄されまくりで、結局奥田民生みたいな大人にはなれませんでした、という話。


 いろいろあって最後には、若いときに憧れた、地に足のついた「自然体」の大人にはなれず、どこから金をもらっているのかわからない(東京オリンピックのアドバイザーとかもやってるって言ってたっけ)うさんくさいライターとなって、業界で名も知られるようになり、それなりの成功をおさめたコーロキ。けれど、ふと奥田民生の曲を聞くと、がむしゃらに足掻いていた若いときの自分の姿を思い出す……


 いま思い出すと、どたばた恋愛劇より、このラストシーンが胸にしみる。


 もちろん、映画の大部分を占める、どたばた恋愛劇にじゅうぶんな見ごたえがあったので、このラストが引きたっているのだとは思いますが。なんといってもキャストが全員いい演技をしていた。


 妻夫木くん、そもそも民生に憧れんでええやん、とはだれしもが感じたことでしょうが、映画を観ると、ちょっと情けない「なりたいボーイ」を、違和感なく演じてみせたところがさすがだった。『モテキ』の森山未来は、自意識過剰の男子をめちゃめちゃ上手に演じていたけれど、ここでの妻夫木くんも、女子に翻弄されて無様に泣いちゃう役をこれほど自然に演じてみせるのは、実は同じくらい技量が必要なのではないでしょうか。『(500)日のサマー』のジョセフ・ゴードン=レヴィットを思い出した。 

 新井浩文は、自分でもしょっちゅうツイッターで犯罪者や殺人者の役ばかりとつぶやいているけれど(たまにCMで普通のサラリーマンを演じたら大炎上したり……)、こんなコミカルな役もこなすとは演技の幅が広い。例の電話のシーンは映画館全体で笑いがおきました。


 松尾スズキリリー・フランキーは予想通りの安定した演技なんだけど、リリーさんのはじけっぷりがとくに笑えた。リリーさんが演じたライターは、原作ではもっと若い設定なのだけど、おそらくリリーさんが大根作品のレギュラーゆえに割りふられたのでしょう。ところが、それが期せずして、成長のないまま歳をとったサブカルライターの痛々しい末路、みたいな効果を生んでいた。

 江口のりこ安藤サクラもよかった。どちらがどっちかよくわからないって人も、これを見たら区別がつくようになるはず(?) 妻夫木くんと安藤サクラが猫を探すくだりが、この映画で一番好きなシーンだった。


 水原希子は……原作からは、もっと男ウケしそうな可愛らしい女優をイメージしていたのでイメージちがうなとは思っていた。。吉高由里子(これは私の好みですが)とか、なんなら若いときの優香とか。実際映画を観ても、水原希子がぶりっ子(死語ですな)演技するのは少々微妙だった。まあでも、優香とかがあの演技をしたなら、めっちゃイライラしたかもしれんと思うと、彼女で正解だったのかな。(そういえば、妻夫木くんと優香ってつきあってたような。となると共演NGか)

 大根監督のインタビューによると、キャメロン・ディアスをイメージしていたそうだけど、たしかに、『メリーに首ったけ』の頃のキャメロンは、だれもが認める世界一の狂わせガールだった。私もどれだけ憧れたか。前髪を立てるシーンとか、自分ならとんでもないけれど、それすらも素敵!と思ったものでした。 

メリーに首ったけ [DVD]

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  で、最終的に、狂わせガールというのは、男の幻想にあわせるガール、男の望むものを見せてあげられるガールという種明かしもされる。

 そこで、ちょうどたまたま、フェミニズム運動の歴史について調べていたので、検索で出てきた

1127夜『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ|松岡正剛の千夜千冊

を読んでいたら、「フェミニストの古典中の古典」であるイギリスのウルストンクラフトが、自著の『女性の権利の擁護』でルソーの『エミール』を批判した部分が紹介されていた。

ルソーが男子のエミールには教育を施しながら、将来の妻になるソフィには男の歓心を買うだけの躾をしたにすぎなかったことを突いて、女性にはもっと多くの権利があるのではないかと切りこんだ。

なんとなくこの映画と結びついた。「男の歓心を買うだけの躾をした」女にしっぺ返しのように翻弄されて男は散々な目にあう。

 でも結局はそれも男子としての成長譚、なんなら武勇伝のひとつに消化されるのかな~と。そう考えると、やはりなんだかビターな結末ですね。
 いや、『モテキ』の麻生久美子を思い出すと、ろくでもない異性にひっかかって成長するというのは、男女共通のモチーフなのかもしれないけれど……

 

またまた犬と猫 『レイン 雨を抱きしめて』(アン・マーティン 西本かおる訳)『キラーキャットのホラーな一週間』(アン・ファイン 灰島かり訳)

夜、寝るときには、レインはわたしの毛布にもぐりこんでくる。夜中に目がさめると、レインがわたしにのしかかっていて、レインの顔がわたしの首の上にある。
レインの息はドッグフードみたいなにおいがする。

 犬猫シリーズにまた新たな一冊が加わった。 

レイン: 雨を抱きしめて (Sunnyside Books)

レイン: 雨を抱きしめて (Sunnyside Books)

 

 この『レイン 雨を抱きしめて』は、11歳の主人公「わたし」のもとに、レインという犬がやってくることからはじまる。

 いや、はじまると言っても、物語はそんなにスムーズにはじまらない。「わたし」ことローズは高機能自閉症児であり、特定のものに異常に興味が集中してしまうのだ。
 とくに同音異義語素数に尋常じゃないこだわりを持ち、ルールを守らない人を見るとパニックをおこしてしまう。
 小学校の先生からは「特殊な学校」に行くことを薦められ、スクールバスでもヘッドライトやウィンカーをちゃんと灯さない車を見ると叫び声をあげるので、もう乗せてもらえなくなった。

 なので、「わたし」はパパの弟であるウェルドンおじさんに送り迎えをしてもらっている。パパは工場で働いているから、時間の都合がつけられないのだ。ママは「わたし」が幼いときにどこかに行ってしまった。

 そして、ある雨の夜、パパが犬を連れて帰ってきた。「パパが雨の中で見つけたし、レインって2つも同音異義語がある特別な言葉だから」レインと名付ける。

そう、以前にここでも紹介した『夜中に犬に起こった奇妙な事件』とかなり共通する要素がある。 

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

 

 ”夜中犬”もアスペルガーの15歳の「ぼく」が主人公で、やはり素数に執着を持っていた。パパとふたり暮らしというところも共通している。
 そして、犬が災難に遭うというところも同じだ。といっても、安心してください(古い!)。串刺しにして殺される”夜中犬”とちがい、レインはハリケーンの日にパパが外に出したせいで、迷子になってしまうのだ。

 犬の災難の程度に比例してか、この『レイン』は、”夜中犬”ほどつらいひりひりする話ではなく、このすてきな表紙の絵からイメージできるように、あたたかさがじんわりと心に残る話だった。けれど、この『レイン』も甘い物語ではなく、最後には「わたし」は現実と向きあってつらい選択をして、少し大人に近づく。そして、最後につらい選択をするのは「わたし」だけではない。


 それにしても、”夜中犬”にしても『レイン』にしても、当事者である主人公たちが学校生活になじめず、つらい思いをしているのはわかるけれど、親たちのしんどさもよく伝わってきてほんとうに切ない。
 
 子ども以上に親が成長を強いられ、そしてときには挫折してしまう。親だって完璧じゃない。だって、この「わたし」のパパなんて33歳だ。親代わりをするウェルドンおじさんは31歳。嵐のメンバーくらいの歳だ(たぶん)。
 でも、この本のウェルドンおじさんのように、必ずしも親でなくとも、先生でも、まったくの他人でも、そして犬でも、子どもを愛して成長を助けることができるのだと思った。


 あと、最近もう一冊読んだのは、『キラーキャットのホラーな一週間』。 

キラーキャットのホラーな一週間 (児童図書館・文学の部屋)

キラーキャットのホラーな一週間 (児童図書館・文学の部屋)

  • 作者: アンファイン,スティーブコックス,Anne Fine,Steve Cox,灰島かり
  • 出版社/メーカー: 評論社
  • 発売日: 1999/12
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   以前『チューリップ・タッチ』を紹介した、イギリスの人気児童文学作家アン・ファインによる絵本。
 けれど、シビアなおそろしさがあった『チューリップ・タッチ』とはちがい、これは楽しく可愛らしい絵本だった。さすが芸風が幅広い。猫のいたずらに悩まされる様子が他人事とは思えない。いや、でもこの猫がめちゃ利口なんで、右往左往させられる人間の家族がほほえましかった。

↓動物病院で暴れて手に負えない。うちの子にも心当たりが…

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純愛ノワールとクリスマス・ストーリーの融合 『その雪と血を』(ジョー・ネスポ著 鈴木恵訳)

問題はおれがすぐに女に惚れてしまい、商売を商売として見られなくなるということだ。

去年の翻訳ミステリー大賞および読者賞を受賞した『その雪と血を』。 

その雪と血を (ハヤカワ・ミステリ)

その雪と血を (ハヤカワ・ミステリ)

 

 なんといっても、ハヤカワのポケミスなのに一段組でしかもめっちゃ薄い! 
…と、気軽に読みはじめたところ、短いながらも物語がぎゅっと凝縮されていて、じゅうぶんな読みごたえだった。

 1977年12月のオスロを舞台とし、殺し屋であるオーラヴが主人公かつ語り手である。

 殺し屋なので、当然雪と血、もとい血も涙もないはず、と思いきや、このオーラヴはやたら人情家で、しかも冒頭の引用にあるように女に弱い。(こう書くと寅さんみたいですが)
 ちなみに、どう人情家なのかというと、強盗に入った郵便局にいた老人が精神に異常をきたしたと新聞で知ると、わざわざこっそり見舞いに行ったりする。

 そして、人情家と女に弱いというこの二点が合体したらどうなるかというと、元ボーイフレンドの借金を身体で返せと言われた、聾唖で片足の不自由なマリアという女を、自腹をきって助けてしまう。しかもそのあとも、問題なくやっているかを確かめるため、マリアが働くスーパーマーケットにせっせと通ったり、はてはあとをつけて、変質者のように(いや、完全に変質者か)電車で後ろにはりついたりする始末。


 そんな慈善家なのか殺し屋なのかわからないオーラヴだが、ある日ボスであるホフマンから、ホフマン自身の若く美しい妻を始末するよう命令される……


そして、ここから少しネタバレになりますが――


 「すぐに女に惚れてしま」うオーラヴが、このあとどうなるかは推して知るべしという感じで、案の定、妻のコリナに恋をして逃避行へと走るのだが、この小説はただの「許されないふたりの逃避行の物語」ではない。

 オーラヴは幼いころから『レ・ミゼラブル』を愛読しているが、難読症を自認しており、常に物語を自分で書き換えている。つまり、オーラヴの語りによるこの小説も、登場人物のほんとうの姿や、どこまでが実際にあったことなのかが、なかなかわからない。(いわゆる「信頼できない語り手」というのでしょうか)


 そして、オーラヴがコリナを愛していると思えば思うほど、心のなかの両親がクローズアップされてゆく。
 最期まで許せなかった、忌まわしい父親の存在が頭から離れなくなっていく。ボスの妻でありマゾヒスティックな性癖を持つコリナを自分の母親に重ねあわしていたのかもしれない。ところが――

だが、おふくろが自分をあんなふうにあつかった男を愛せるのだと知って、おれは愛についてひとつだけ学んだ。
いや。
そうでもない。
何ひとつ学びはしなかった。 

  そう、「何ひとつ学びはしなかった」オーラヴは、「おふくろ」のこともコリナのことも、そしてマリアのことも、勝手に物語をつくりあげていただけで、何ひとつわかっていなかったのかもしれない。

 それにしても、ひとはどうしてまちがった相手を愛していると思い、ほんとうに愛している相手を愛したくないと思ってしまうのだろう。

それでもやはり、男は彼女を愛さずにはいられない。男にとって彼女は、自分になければよかったと思うものすべてなのだ。 

 マリアがクリスマス・イヴを迎えるところで、この物語は終わる。マリアの頭の中で流れていたクリスマス・キャロルがもう聞こえなくなる。


 しかし、西洋の人々にとって、やはりクリスマスはただのイベントではなく、愛というものですべてが赦されるような、神聖な時間なんでしょうね。

 川出正樹さんが解説で「パルプノワールとクリスマス・ストーリーを掛け合わせたら、いったい何が生まれるだろう?」と書かれているように、血の流れるノワールと、ディケンズの『クリスマス・キャロル』から続くクリスマス・ストーリーの伝統「愛と赦しの物語」が、見事に融合している小説だった。

子どもにとっても、おとなにとっても、”ふつう”じゃないワンダーなブックガイド『外国の本っておもしろい!』

  自由にのびのびと文章を書きたい、そう思ったことのある人は多いのではないでしょうか?
 思ったことや感じたことを、素直に綴りたい。あるいは、そんな文章を読んで、自分の心にも素直な感動をよみがえらせたい、と。


 この『外国の本っておもしろい!』を読んだとき、まさにそういう思いがわきおこってくるのを感じました。 

外国の本っておもしろい! ~子どもの作文から生まれた翻訳書ガイドブック~

外国の本っておもしろい! ~子どもの作文から生まれた翻訳書ガイドブック~

  • 作者: 読書探偵作文コンクール事務局,越前敏弥,宮坂宏美,ないとうふみこ,武富博子,田中亜希子,井上・ヒサト,越前敏弥宮坂宏美ないとうふみこ武富博子田中亜希子
  • 出版社/メーカー: サウザンブックス社
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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  この本は、「読書探偵作文コンクール」で入賞した、小学生の子どもたちの作文を集めた本であり、「読書探偵作文コンクール」が従来の読書感想文コンクールとどうちがうのかというと、
①対象となる本は翻訳書に限る
②「感想文」である必要はなく、本から発想した二次創作でもいいし、作者への手紙やストーリーの要約のみでもよい、という点です。

 なので、『赤毛のアン』の世界から短歌をよんだり、『マジック・ツリーハウス』全巻の要約をまとめたり、『ファーブル昆虫記』を読んで、「虫のきらいなお友だちへ」手紙を書いたりと、形式にとらわれない作文がおさめられています。(ちなみに私も「虫のきらいなお友だち」だが、正直、『ファーブル昆虫記』を読んでも好きになれる気はしない……)

 「読書感想文」というと、最近もメルカリで売りに出されていることが話題になっていたように、書くのが憂鬱だったという人も少なくないと思いますが、これなら「お父さんとお母さんにもっと感謝しようと思いました」みたいな感想を無理やりひねり出す必要もないですね。


 そして、この本でなんといっても一番おどろかされたのが、子どもたちの文章のレベルの高さ。
 
 小学一年生が『あおいめのこねこ』を読んで、「ほんについてかんがえたことが、三つあります」と列挙して感想を綴っていたり、小学四年生がホーキング博士の本を読んで、太陽系を「宇宙の星新聞」にまとめたり、それぞれの惑星を動物や花にたとえたり。
 小学六年生ともなれば、『トムは真夜中の庭で』と『秘密の花園』に出てくる庭を対比して考察したり、アガサ・クリスティーについて、「アガサの描く人物には”リアリティー”がある。誰しも人の心に潜む闇、言いかえれば人間らしさを小説の中の人物に置きかえて実に巧みに表現し、共感させる」と論じたりと、度肝ぬかれました。


 もちろん、この本は「読書探偵作文コンクール」にこれから応募しようという読書好きの子どもや、子どもにどんな本を読まそうか悩んでいる親が読むのにもってこいなのですが、とくに子どもと縁のないおとな(私)にとっても、『赤毛のアン』など自分もかつて読んだ本についての作文でなつかしい気分になったり、あるいは、これから読んでみたい本が見つかったりと、読書ガイドとしてもじゅうぶんに使えるものとなっています。

 作文の題材の本だけではなく、審査員の翻訳者たちによるおすすめ本を紹介するコーナーもあり、前から気になっていた『理系の子』や、絵本『リンドバーグ』がおもしろかったので、続編も読もうと思っていた『アームストロング』(それにしても、このネズミどこまで行くねん!と思うが)などが取りあげられています。 

理系の子 高校生科学オリンピックの青春 (文春文庫 S 15-1)

理系の子 高校生科学オリンピックの青春 (文春文庫 S 15-1)

 

 

アームストロング: 宙飛ぶネズミの大冒険

アームストロング: 宙飛ぶネズミの大冒険

 

  それにしても、どうして子どもたちの作文にこれほど感心させられるのか考えたところ、やはり「本が好き!」という純粋な思いがあふれているからだと感じました。

 小学五年生が『不思議の国のアリス』を読んで、アリスの世界の奇想天外さに魅了され、「”ふつう”はいらないワンダーランド」という作文を書いているけれど、本を読むことは、子どもたちにとって、そしておとなにとっても、”ふつう”の世界から解放されるワンダーランドなのだな、と。

 学校などで、子どもはいつも、”ふつう”であること、ひとと一緒であることを要求されているのではないかと思うけれど、本を読むことで、そういう同調圧力から解放されて、世の中にはまだまだ自分の知らない世界があるということを実感してもらえたらいいな。

納豆は日本にしかないって? なわきゃない 『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』(高野秀行著)

 さて、前回の『旅はワン連れ』では、片野家(高野家)の犬連れタイ旅行が描かれていましたが、”お父さん”である高野秀行さんは、納豆のルーツを探るという取材も兼ねていたようです。 

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

 

 少し前に『間違う力』も再読したら、そこでは高野さんの特徴として、「初手から間違っている」が「間違ったまま突っ走る」と書かれており、この本も同じくというか、いや「納豆のルーツを探る」という目的は何ひとつ間違っていないのだけれど、やはり突っ走り方にものすごいものがあった。 

間違う力 オンリーワンになるための10か条 (Base Camp)

間違う力 オンリーワンになるための10か条 (Base Camp)

 

 正直、私は納豆好きだけど(最近は関西人もかなり納豆を食べると思う)、そのルーツや世界各地の納豆に思いを馳せたことなどはなく、「アジアのせんべい納豆っておいしそうやな~」くらいの気持ちで、この本を読みはじめたのだが、納豆のルーツを探して、高野さんのホームグラウンドといえるタイ北部からミャンマーの紛争地域を駆けまわり、そして日本に戻って日本納豆の発祥地と言われる東北地方を取材し、そしてブータンの難民キャンプにまで納豆を求めて入り、ついには少し前まで首狩りの風習が残っていた秘境ナガ族の村や中国の苗族自治州に足を運び、また日本に戻って、幻の「雪納豆」を試作する……と、尋常じゃない探究ぶりに、いつものように圧倒された。


 先の『間違う力』で、高野さんは自分の本を「文学とか情緒に頼らず、とにかく科学的に実証的に書いていく」と綴っていたけれど、この本はとくに実証的に書かれており、取材対象もきちんと存在するため(え、当たり前じゃないかって? いやUMA(幻の珍獣)のように存在しない(と思われる)ものを追い求める本も多いのです)、ほかの本よりおもしろおかしい要素は少ないが、最後まで読み進めると「知の刺激」というようなものを感じられた。


 「納豆は辺境地の民族が食べるもの」という指摘には深く納得した。海に近い開けた平野部では食べるものがたくさんあり、あえて納豆を常食する必要はない。タイやミャンマーでもバンコクなどの都市部ではなく、北の山岳地方の民族が作って食べている。そして日本でも「蝦夷民族由来」という説があるように、東北の山間部が発祥地とされている。

 そしてもっと大きく見ると、中国を中心とする東アジア文化圏で、納豆を好んで食べるのはタイやミャンマーの山岳部、日本に韓国とやはり「辺境地」なのだ。(中国の漢民族は基本的に納豆を食べる習慣がない) 内田樹も『日本辺境論』を書いていたように、当然ながら日本は世界の中心でもなんでもなく、世界の、そしてアジアから見ても「辺境地」である。 

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 

 なんだか社会的、あるいは時事的なメッセージみたいですが、この本の一番大事なところは、高野さんが納豆を取材し始めた動機――納豆は日本にしかないものだと言いたがる人たちに向けて、そんなことはないと否定したかったということだと思う。日本人は外国人に対してすぐに「納豆は食べられますか?」と聞きたがる。(私も聞いたことあるかもしれない)

 (その答えが)「食べられません」だと、「やっぱりね」というように、どことなく優越感を漂わせた顔をする。まるで納豆が日本人に仲間入りするための踏み絵みたいだ。
 その度に「納豆は日本人の専売特許じゃないだろう……」と強い違和感がこみあげる。シャン族やカチン族の納豆を思い出すからだ。

 最近「日本すごい」「こんなものは日本しかない」みたいなコンテンツも多いようですが(よう知らんけど)、外国のことを知れば知るほど、日本(日本人)と外国(外国人)はそう隔たっていないこと、当然ながら日本も世界のひとつのパーツなのだから、ということがよくよく実感できるのではないかと思う。

 今後、日本国内や国際的な基準で「日本の納豆菌を使用していなければ『納豆』と認めない」とか、「ワラから採集した納豆菌で作っているものだけが『納豆』だ」などと決められるかもしれないが、一般の人間には関係ない話である。……
 納豆は納豆。それだけだ。

 でもほんと納豆を食べたくなる本だった。ごはんにかけるだけじゃなく、納豆オムレツに納豆チャーハンも食べたくなった。東北地方では納豆汁が広く食べられているそうだが、たしかに味噌汁に入れるだけでもおいしい。高野さんはラーメンに入れることもお勧めしている。

 簡単に作れるということもはじめて知った。日本では納豆菌=ワラという固定観念があるが、アジアのように何らかの葉からでも作れるし、そこまでしなくても、市販の納豆を混ぜることで簡単にできるようだ。チャレンジしようかな。
 あと、この本で紹介されていた朝鮮半島で食べられているチョングッチャン(納豆チゲのようなものらしい)もおいしそうだ。次こそは現地取材してほしい。いや、自分で現地に食べに行こうかな。