快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

憎しみにうち勝つために 『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ あなたがくれた憎しみ』(アンジー・トーマス著 服部理佳訳)

カリルの体は、見世物みたいに通りにさらされていた。パトカーと救急車が、続々とカーネーション通りに到着する。路肩には人だかりができていた。みんな、のびあがるようにして、こっちをうかがっている。

  『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ あなたがくれた憎しみ』は、アメリカの青春ドラマでよく見かける光景 からはじまる。

 仲間たちとの華やかなパーティー。音楽が大音量でかかり、アルコール片手に踊り、友達同士でおめあての相手やライバルについての噂をこそこそ語る。そんなありふれた場面がいきなりの銃声で一変する。

 黒人街(ゲットー)の地元ガーデン・ハイツのパーティーにしぶしぶやってきた主人公スターは、そんな発砲騒ぎのなか、幼なじみのカリルに連れ出されて無事に脱出する。カリルの車に乗って一息つくが、初恋の相手でもあるカリルがどうやらドラッグを売っているらしいと気づき、胸に不安がよぎる。

 そのとき、悲劇がおきる。警官に車を止められる。
 スターは12歳になったとき、父親から大事な教えを聞かされていた。警官に呼びとめられたときは、とにかく言われた通りにしろ、と。手は見えるところに出しておけ。カリルもその教えを聞いたことがあるのだろうか? 

 警官はカリルの身体を調べるが、何も出てこない。何も問題はない。ところが、スターの身を案じたカリルは、やってはいけないことをしてしまった。警官が背を向けているあいだに動いたのだ。警官が銃を撃つ。スターの目の前でカリルは血を流して死ぬ。


  唯一の目撃者であるスターは、警察から事情聴取を受ける。カリルは無抵抗だったのに警官が発砲した事実を伝えようとするが、警察はカリルがドラッグを売っていたことに固執する。案の定、ドラッグの売人であった不審な黒人男性を警官が射殺したと報道される。このままでは撃った警官が罪に問われることなく終わってしまう。
 ガーデン・ハイツでは抗議活動がおきる。事件を目撃したトラウマと注目されることの恐怖から名乗り出ることができなかったスターも、もう黙ってはいられないと立ちあがる……

 非常にリアルな小説だった。つい最近も、ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドが殺され、警官の処分をめぐる抗議活動が、Black Lives Matterというスローガンとともに全米に波及した。まるでこの小説が予言していたかのようにも思えるが、実のところは、以前から何度も何度もこんなことがくり返されてきたのだろう。

 しかし、この小説が持つリアルさは、単に現実で頻繁におきている事件をテーマにしているからではなく、スターをはじめとする登場人物が持つ複雑な背景や心情が、ありがちな型にはめられることなく、複雑なままていねいに描かれているからだと感じた。

 スターは異母兄のセブンとともに、両親(とくに母親)の意向で、裕福な白人が多く通うウィリアムソン高校に通っている。地元ガーデン・ハイツを愛していながらも、ここから脱出しないといけないという両親の複雑な思いを、セブンとスターも理解している。
 だから、冒頭の舞台である地元ガーデン・ハイツのパーティーでは、居心地の悪い思いを味わっている。その一方で、ウィリアムソンではのびのびとふるまうことができない。どちらにも所属できない。常に自分を抑えて過ごしている。 

ウィリアムソンのスターはスラングを使わない。ラッパーが使っても、白人の友達が使っても、絶対に使わない。ラッパーが口にすれば格好いいけど、ふつうの黒人が使ったら、ゲットー育ちに見えるだけだ。ウィリアムソンのスターは、腹が立つことがあっても、ぐっと我慢する。怒りっぽい黒人の少女だと思われたりしないように。

  スターはこうやってガーデン・ハイツにいる自分と、ウィリアムソンにいる自分を使い分けて、学校生活をやり過ごしていた。しかし、カリルの事件が起きてからは、それが変わっていく。
 カリルの事件に対する抗議活動を口実にして、学校で暴れて授業をボイコットしようとするクラスメートに違和感を覚える。差別的な冗談を口にする白人の友達ヘイリーに我慢できなくなる。自分を抑えつけていた枠が外れていくのがわかる。白人のボーイフレンドであるクリスとも、このままつきあい続けることができるのだろうか……?

 セブンの場合はもっと複雑だ。
 スターの父親とギャングのボスの愛人アイーシャとの子であるセブンは、スターのように白人社会とガーデン・ハイツのあいだで引き裂かれているだけではなく、ガーデン・ハイツのなかでも、スターの家と実母が生きるギャングの世界のあいだで引き裂かれている。
 スター一家とともにガーデン・ハイツから脱出したいと願いつつも、実母や妹たちを見捨てることができないセブンの葛藤は、読んでいるこちらも胸が苦しくなる。

  スターやセブンだけではない。
 元ギャングであるスターの父親、一度はドロップアウトしかけたものの、スターをお腹に宿したまま大学に通い、看護師となったスターの母親、そして父親のように面倒をみてくれる、母親の兄であるカルロスおじさん……といった登場人物たちは、だれもがみな自分たちが生きてきた社会と、その外側の社会とのあいだで引き裂かれている。

 スターの両親はガーデン・ハイツから去るべきかどうか悩み、警官であるカルロスおじさんは、カリルを射殺したことを正当化しようとする警察組織に所属していることに苦しむ。それぞれ異なる立場から、この事件を通じて、あらためて外側の社会に向きあい、一歩ずつ前へ進んでいくさまに希望を読み取ることができる。

  といっても、現実においても、小説においても、差別や貧困をめぐる問題がそう簡単に解決するとは思えない。この小説では、ゲットーでドラッグや暴力がもたらす悲劇も赤裸々に描かれている。それでも希望が感じられるのは、人間は過ちを犯すものであるが、そこから立ち直ることもできるという信条が貫かれているからだろう。

 印象に残った場面のひとつに、何度も過ちを犯した父親をどうして許したのか、スターが母親に尋ねるくだりがある。
 「正直、わたしだったら絶対別れてるな。悪いけど」と。(私もそう思った) 
 そこで母親は、人は過ちを犯すものであり、犯した過ちより、その人に対する愛のほうが大きいかどうかで、決めるしかないと語る。

 この小説のタイトルは、2パックの言葉 "The Hate U Give Little Infants, Fuck Everybody" から取られている。憎しみをぶつけられ続けた子どもが社会に牙をむく、という意味だ。
 憎しみにうち勝つのは愛だ、なんていうと甘いのかもしれないし、クサ過ぎる気もする。それにもちろん、憎しみをぶつけてくる相手を愛することなんてできない。けれども、なにより怖いのは、憎しみをぶつけられることによって、自分のなかの愛が失われることではないだろうか。
 この小説の登場人物たちのように、まわりの人間に対する愛があれば、厳しい状況であっても希望を失わず生きているのかもしれない、と感じた。なかなか難しいけれど。

女に世界を変えることはできるのか? 『あの本は読まれているか』(ラーラ・プレスコット著 吉澤康子訳)

『ドクトル・ジバコ』をご存じでしょうか?

   アメリカを筆頭とする資本主義国陣営と、ソ連が率いる共産主義国陣営とのあいだに冷戦がくり広げられていた1950年代、ソ連の作家ボリス・パステルナークによって書かれた恋愛小説であり、ソ連では発禁扱いとされた。しかし、海外で出版されて大きな支持を集め、1958年にボリスはノーベル文学賞を受賞した。

 そしてこの『あの本は読まれているか』は、『ドクトル・ジバコ』が出版に至るまでの複雑な経緯を、歴史上の事実をふまえてフィクションとして見事に作りあげた小説である。 

あの本は読まれているか

あの本は読まれているか

 

  物語は西側と東側から描かれる。西側は、『ドクトル・ジバコ』出版をもくろんだCIAが舞台となっている。といっても、ジェームズ・ボンドのような男のスパイが颯爽と活躍するわけではない。主人公となるのは、CIAで勤務していたタイピストたちだ。 

わたしたちはラドクリフ、ヴァッサー、スミスといった一流大学を出てCIAに就職しており、だれもが一族で最初の大卒の娘だった。中国語を話せる者も、飛行機を操縦できる者もいたし、ジョン・ウェインよりも巧みにコルト1873を扱える者もいた。けれど、面接のときに聞かれたのは、「きみ、タイプはできる?」だけだった。

  とあるように、せっかく大学を卒業して就職しても、CIAで与えられる仕事は男たちの会話をひたすらタイプするだけ。1950年代の話だから……と思う一方で、2020年になっても実はそんなに大きく変わっていない気もする。もう70年も経っているのに。
 たまにバックグラウンドや素質を買われ、スパイらしい仕事に回される者もいるが、単なる運び屋だったり、女という武器を利用して相手側から情報を入手させられたりと、結局は男の「駒」に過ぎない。

 イリーナとサリーもそうだった。
 イリーナの両親は、まだイリーナが母親のおなかにいるときにソ連から脱出を試みた。だが、船に乗る直前に父親が捕まってしまう。母親は身重の身体で、ひとりアメリカへ渡る。そしてイリーナが8歳のとき、父親はソ連の収容所で心臓発作を起こして亡くなったと知らされる。
 大学を卒業してから仕事を探していたイリーナは、知り合いからCIAでタイピストを募集していると聞いて応募する。タイプの腕に自信はなかったが、無事採用される。ところが、イリーナを待ち受けていたのはタイプライターではなく、サリーによるスパイの手ほどきだった。

 華やかな容姿に恵まれたサリーは、第二次世界大戦中、諜報機関の一員として活躍していた。どんな立場の女にも見事になりきり、疑われることなく相手の男の懐に入ることを得意としていた。
 しかし、戦争が終わり、諜報隊員たちはそれぞれの生活へ戻っていった。ひとつの場所に居つくのは性に合わない。けれども、これ以上男たちを渡り歩くのも、堅気の仕事につくのも気が進まない。なんといってももう30半ばなのだから。そこへ昔の仲間から電話があり、迷うことなく仕事を請けた。

 こうしてイリーナとサリーは、CIAによる『ドクトル・ジバコ』出版作戦に関わるようになる。しかし、サリーにはだれにも言えない秘密があった……

 東側では、『ドクトル・ジバコ』の作者ボリスと、公私にわたってボリスを支えた愛人オリガ・イヴァンスカヤが描かれる。ボリスはもちろん、オリガも実在の人物であり、東側の物語はおおむね史実に基づいているようだ。
 第一章のタイトルが「ミューズ」となっているように、オリガはまさにボリスのミューズであり、実際に『ドクトル・ジバコ』のヒロインであるラーラのモデルになっているらしい。

 けれどもオリガの人生は、芸術家のミューズという言葉から想像されるような優雅なものではまったくない。
 第一章「ミューズ」は、黒い背広姿の男たちが家にやってくる場面からはじまる。泣きわめく子どもたちの声を聞きながら、オリガは男たちに連行される。オリガは矯正収容所に送られ、「反体制的見解を持つ作家パステルナークの作品を褒めそやしてきた」という罪で、懲役5年の刑を言い渡され、シベリアで過酷な労働に従事させられる。 

わたしはセミョーノフが聞きたがっていることを話さなかった。小説はロシア革命に批判的で、ボリスは社会主義リアリズムを拒絶しており、国家の影響を受けずに心のまま生きて愛した登場人物を支持していると、教えはしなかった。

  前回紹介した『チャイルド44』と同様に、この時代のソ連では、スターリン体制を支持しない者は、「反体制」と見做されて収容所に送られる。
 ソヴィエト連邦は完璧に正しく幸せな社会であり、貧困や犯罪といった資本主義国に特有の悪は存在しない。それなのに、ボリスはロシア革命に翻弄される人々の姿を書いた。到底許すことができない。しかし、世界的にも高名な作家であるボリスには、そう簡単に手出しできないので、ボリスへ圧力をかけるためにオリガを捕まえたのだ。

 だが、ソ連にとって最大の事件が起きる。スターリンが死んだのだ。5年の刑期が3年に縮小され、解放されたオリガは愛するボリスのもとへ向かう。
 ボリスは自分のことを待っていてくれるのだろうか? 収容所に送られる前から、ボリスは何度も別れ話を口にしていた。妻ジナイダとオリガのあいだで板挟みになっていることに苦しんでいたのだ。そもそもボリスはオリガが捕まっているあいだ、いったい何を考えていたのか……?

 ここから『ドクトル・ジバコ』がまず海外で出版され、そしてCIAの手引きによってソ連にこっそり逆輸入されていく展開が、イリーナやサリーといったタイピストたち、そしてオリガの視点から語られていく。

 こういった女たちは、それまでの物語では男の添え物のように扱われていた存在だ。
 スパイ小説に出てくる脇役の女たち。タイピストであろうが、諜報活動の紅一点であろうが、男を助けようが、あるいは男の邪魔をしたり裏切ったりしようが、世界を動かす主役はあくまで男であった。ミューズにインスピレーションを与えられて創作し、世界に感動と驚きを伝えるのも男であった。

 けれどもこの小説では、女たちが自ら考え、主体的に行動し、陰謀が渦巻く世界をたくましく生き抜いていくさまが描かれている。

 この小説の大きなテーマのひとつは、「一冊の小説で世界を変えることができるか?」であるが、もうひとつのテーマは「女に世界を変えることができるか?」だと感じた。

  さて、先日この小説についてオンライン読書会が行われました。こちらのサイトで見ることができます(無料で)。 

www.youtube.com

 この読書会でも、やはり「女たちの物語」というところに焦点がおかれ、西側の章の語り手となる「わたしたち」とはだれか? など、いくつもの興味深い問題について語られました。
 登場人物一覧と照合してみても「わたしたち」を特定することはできず、この物語の主人公は、イリーナでもサリーでもオリガでもなく、女たちのすべて、あるいはその連帯なのだということが印象に残りました。

 そのほか、ボリスはダメ男か? という疑問や(案の定、ダメ男説を主張する人が優勢でした)、世界を変えるのに文学は有効なのか? などなど さまざまな観点からこの小説を読み解いています。
 また、邦題が決まるまでの経緯(原題は“The Secrets We Kept”で、内容に即したいい題なのですが、そのまま訳すと、ありがちなタイトルになってしまいかねないのも事実ですね)や、本を届けるためにはテーマを絞る、などといった担当編集者の方のお話も勉強になりました。読み終えた方はぜひともご覧ください。

 

連続殺人事件を通じてソヴィエト連邦の「不都合な真実」を描く 『チャイルド44』(トム・ロブ・スミス著 田口俊樹訳)

この社会に犯罪は存在しないという基盤を。

 国家保安省捜査官の義務として――義務と言えば、人民すべての義務だが――レオはレーニンの著作を学習し、社会の不行跡である犯罪は貧困と欠乏がなくなれば消滅することを知っていた。

  遅ればせながら、『チャイルド44』を読みました。
 2008年に新人作家トム・ロブ・スミスのデビュー作として出版され、その年のCWA賞最優秀スパイ・冒険・スリラー賞を受賞し、日本でもすぐに翻訳出版され、『このミステリーがすごい! 2009年版』海外編の第1位となった人気作です。また2015年には、リドリー・スコット監督によって映画化もされました。 

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

 

  1933年、当時ソヴィエト連邦支配下にあったウクライナは大飢饉に襲われていた(ちなみに、小説では多く語られていないが、ウィキペディアにこの大飢饉(ホロドモール)についての項目がある)。どの家の食糧も底をつき、家畜や木の根や草などもことごとく食べ尽くし、人々は瀕死の状態に陥っていた。

 そんなとき、パーヴェル少年は森で猫を見かける。生きている猫がまだ存在していたとはすぐには信じられず、幻ではないかと自分の目を疑う。10歳にして一家の命運を背負ったパーヴェルは、猫を捕まえようと幼い弟アンドレイを連れて森へ入る。これで母さんも弟も生き長らえることができるのだ。ところが、不慮の事態が起きる……

 物語の舞台は1953年のモスクワに移る。先の戦争の華々しい英雄として、前途有望な国家保安省捜査官となったレオは、幼い息子を亡くした部下フョードルの家へ向かっていた。フョードルを慰めるためではない。

 なんということか、フョードルは息子が殺されたと考えているらしいのだ。
 殺人は資本主義の病だ。よって祖国ソヴィエトには、そんな犯罪など存在しない。それなのに、よりにもよって国家保安省に勤める者がそんな疑いを抱いているなんて、到底あってはならないことだ。そこで、悲しみのあまりに度を失いつつあるフョードルを正しい道に戻すため、レオが動いたのだった。

 案の定、フョードルとフョードルの母親は、口の中に泥をつめこまれ、裸で発見された息子が列車に轢かれて死んだはずがないと主張する。しかし、息子を連れていた怪しい男を見たと語った女が、国家保安省が出てきたことによって証言を翻したので、レオはフョードル一家の言い分を封じ込めることに成功する。国家の秩序が保たれたことに安堵した。

 ところが、フョードル一家に手をわずらわされているあいだに、監視していたスパイ容疑の男に逃亡されてしまう。部下たちを率いて捜索に出るが、副官ワシーリーがレオの言うことに従わず、捜索隊の足並みが揃わない。ワシーリーはレオの地位を奪おうとしていたが、あてが外れたため暴走し、残虐な行為におよぶ。捜索隊の前でレオに叱責され、ワシーリーは復讐を誓う。

 そうしてまたレオのもとに、新たに調査すべきスパイ容疑者の情報が届く。その容疑者とは――レオの最愛の妻ライーサであった。
 ワシーリーの陰謀だろうか? レオはそう疑いつつ、ライーサを心の底から信じることができない自分に気づく。

 スパイ容疑をかけられたライーサとレオはモスクワを離れ、辺鄙な村へ追いやられる。そこでレオは、口に泥をつめこまれてむごたらしく死んだ少女の話を聞く。以前、自分が葬り去ったフョードルの息子の事件を思い出す。もしかしたら、自分はとんでもない過ちを犯したのだろうか……?

 この物語で描かれる「祖国」ことソヴィエト連邦の姿は、まるでディストピア小説の世界のようだ。

 殺人や貧困といった資本主義の病は存在しない。存在を認めることは、前進している社会を大きく逆戻りさせてしまうことになる。よって、連続殺人が起きていても、そのことを一切認めようとせずに葬り去る。もしくは、知的障碍者や同性愛者といった、ソヴィエト社会の一員ではない者、「共産主義や政治の埒外にいる人間」のせいにする。

 一方で、「政治犯」は存在する。いや、実際に存在するかどうかは問題ではない。「政治犯」と見做されてしまえば、存在することになるのだ。

 「政治犯」とは、資本主義国と通じたスパイや、破壊活動を行う革命家だけを指しているわけではない。「ソヴィエトの権力を覆そうとしたり、打ち倒そうとしたり、弱めようとした者」すべてがあてはまり、体制に疑問を抱いただけでも、「政治犯」とレッテルを貼られかねない。自らの保身や出世のため、平気で他人を陥れる者もいる。噂と密告がはびこる、恐怖に支配された社会。

恐怖というものは必要悪だ。恐怖が革命を守っている側面を見落としてはならない。 

  先にディストピア小説のようと書いたけれど、言うまでもなく、ソヴィエト連邦は実際に存在した国である。
 この事件も、ソヴィエト連邦で実際に起きた連続殺人事件をモチーフにしている。 1978年から90年に渡り、アンドレイ・チカチーロという男が52人もの若い男女を凌辱し、殺害した事件である。ソヴィエト連邦では殺人は存在しないという信念があったため、これほどまでの長期間にわたり、殺人者が捕まることなく野放しにされていたのだ。

 さらに、物語の冒頭で描かれたウクライナの大飢饉についても、当時のソヴィエト連邦は、五か年計画の成功を喧伝していたため、飢饉の存在を認めようとせず、他国からの援助を受け入れようともしなかった。結果として、死者の数は数百万人から一千万人以上とも言われ、現在ではジェネサイド(大量虐殺)として考えられている。

 連続殺人事件の舞台を1950年代に変え、ウクライナの大飢饉と結びつけたことによって、国家がかりでついた嘘と、その犠牲になった登場人物たちの運命がいっそう劇的なものになり、真実に目覚めたレオと、命の危険を冒してレオに協力する人々の姿が強く印象に残る。また、この物語の舞台となった1953年は、スターリンの死によってソヴィエト連邦の終わりがはじまった象徴的な年でもある。 

きみたちのことを一番愛しているのは誰ですか。正解――スターリン

きみたちは誰を一番愛していますか。正解――同上(誤答は記録される)。

  なにより、この小説で一番考えさせられるのは、レオの覚醒である。
 優秀な官僚として、国家の欺瞞に薄々気づきながらも、深く考えようとせず目をつぶり、国家に忠誠を誓っていたレオが策略にはめられ、すべてを失ったことによって、ひた隠しにされていた真実の存在に目を向けるようになる。

 国家に対する姿勢と同様に、最愛の妻ライーサとも心の底から通じ合えていないこと、相手の忠誠を完全には信じられないことに薄々気づきながらも、正面から対峙することなく目を背けていた。しかし、ライーサにスパイ容疑がかけられたことをきっかけに、ライーサの本心、その真の姿に遅まきながらも気づきはじめる。

 レオはソヴィエト連邦という大帝国のエリートであるが、この点については、現在の日本に生きるふつうのサラリーマンにも共感できる要素があるかもしれない。
 自分の仕事や会社に疑問を抱きつつも深く考えないようにしたり、妻や家族との意思疎通に困難が生じていても、正面から対峙することなく目を背けたりする人は少なくないのではないだろうか? 

 不都合な真実、というのは、あらゆるところで使われがちな言葉であるけれど、そういうものから目を背け続けていると、国家レベルにおいても、個人レベルにおいても、破綻が必ず訪れるということを感じ入った小説だった。 

娘のような母と母のような娘の切れない絆 『タトゥーママ』(ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳)

「いいの。だって、マリゴールドがわたしのお母さんなんだもん。」
喜ばせようと思ってこういったのに、マリゴールドはまた泣きだした。
「あたしったら、なんてバカな母親なのかしら。どうしようもないね。」
「この世でいちばんのお母さんだよ。おねがいだからもう泣かないで。目がまっ赤になっちゃう。」

  ジャクリーン・ウィルソンによるヤングアダルト小説、『タトゥーママ』(小竹由美子訳)を読みました。

books.rakuten.co.jp

  主人公のドル(ドルフィン)は、母親のマリゴールドと姉のスターと暮らす10歳の女の子。
 マリゴールドはきれいでスタイルもよく、絵の才能があり、自分がデザインしたカラフルなタトゥーを全身に入れている。ドルはそんなマリゴールドを、「世界じゅうで、いちばん魅力的」なママだと思っている。

 けれども、マリゴールドは時々おかしくなる。昔の恋人であり、スターの父親でもあるミッキーを忘れられないのだ。仕事もせず、ふさぎこんで泣いてばかりいたかと思うと、急にハイテンションになる。お酒を飲みに行って、一晩中娘たちをほったらかしたりもする。
 ママに似た美人でしっかり者のスターは、これまでずっとマリゴールドとドルの面倒をみてきたけれど、八年生(中学生)になり、マリゴールドにすっかり愛想をつかしてしまう。

 そんなある日、ロックバンドのエメラルドシティーが再結成コンサートを開く。ミッキーが大好きだったバンドだ。そこに行けばミッキーを見つけられるはずだと、マリゴールドはいそいそと出かける。なんと思惑通りに再会し、娘のスターの存在をはじめて知ったミッキーは感激する。

 これでミッキーと一緒に暮らすことができると信じるマリゴールドだが、ミッキーはスターだけを引き取ろうとする。またもミッキーに捨てられたマリゴールドは、ますますおかしくなり、残されたドルは必死にマリゴールドを支えようとするが……

 胸が苦しくなる物語だった。
 いびつな愛し方しかできないマリゴールドに胸が痛くなった。
 十年以上も昔、ほんの2、3週間付き合っただけのミッキーを運命の人と思いこみ、いつまでも慕い続ける。それからどんな男と付き合っても、ミッキーのかわりにはならない。

 娘たちへの愛情もコントロールできない。「あたしって駄目な母親」と言って泣きだしたかと思うと、ぶかっこうなクッキーや生焼けのケーキを食べ切れないほど大量に作る。転校をくり返してきたせいで、ドルに友達がいないと知ると、学校に押しかけて、ドルの友達になってくれるようクラスメートに頼む。愛情過多で、そしてだれよりも愛情に飢えている。

 そんなマリゴールドを受けとめ、支えようとする健気なドルの姿がなにより切なかった。マリゴールドの関心が完全にミッキーとスターに向いていても、マリゴールドを見捨てたりはしない。スターもそんなマリゴールドにあきれ、いったんは父親のミッキーのもとに行くけれど、やはりマリゴールドとドルを見捨てることはできない。 

「あんな人、大っきらい。」スターは小声でいった。まるではきだすように。
「そんなことないでしょ。」わたしはあわてていった。
「ううん、きらいだよ。」
「大好きなんでしょ。」
「あの人はどうしようもない役立たずの母親よ。」とスター。
「そんなことない。わたしたちのこと、愛してるんだよ。……

  ジャクリーン・ウィルソンはイギリスで人気の児童文学作家だが、どの作品においても、大人の愚かさや、子どもを取り囲む現実の厳しさを容赦なく突きつける。
 「どんな親でも無条件に子どもを愛するもの」という建前を描いたりはしない。
 『ダストビン・ベイビー』のエイプリルは、生まれてすぐにゴミ箱に捨てられる(だから「ダストビン・ベイビー」)。 

  『シークレッツ』のトレジャーは、義理の父親に革のベルトで殴られ、実の母親も義理の父親の味方をする。トレジャーの親友となるインディアの母親は有名なファッション・デザイナーであるが、太っている娘をみっともなく思い、関心を持とうとしない。 

シークレッツ

シークレッツ

 

  だからこそ、マリゴールドの純粋な愛情がいっそう胸を打つ。でも、母親として上手に愛することができない。一方、娘たちは、「マリゴールドファンクラブのナンバーワン」とスターに言われるドルはもちろん、マリゴールドに批判的なスターも、やっぱり母親のことが「大好き」で離れることができない。
 主語を大きくするのは乱暴な言い方かもしれないけれど、女性ならだれでも、何があっても切ることのできない母と娘の絆に強く感じるものがあるのではないだろうか。

 互いに愛情を持っているのに、それゆえにがんじがらめになり、身動きがとれなくなることは、どの親子間にも起こりうる。家庭というのは閉ざされた空間なので、外部の人間が介入しないと窒息する場合もある。

 この物語においても、そういう外部からの救いの手がうまく用意されている。子どもは外部の人間と接し、自分の家以外の場所を知ることで成長する。
 マリゴールドとスターにしか心を開くことができなかったドルも、新しい友達や信頼できる大人と出会い、自分の世界を広げていく。

 マリゴールドは成長することができるのだろうか? 「まとも」な母親になることができるのだろうか? 
 それはわからない。でも物語の最後、冒頭と変わらず「あたしって駄目な母親」と泣き崩れるマリゴールドが、かつての自分がなりたくなかった母親像と自分もまったく同じなのではないかと気づく瞬間、何かが少し成長したのかもしれない。

 「まとも」な母親にはなれないかもしれない。でもそれでいい。ドルもスターも「まとも」じゃないママを愛しているから。

 ところで、大人の都合に翻弄される健気な子ども――子どもみたいな大人と大人みたいな子ども――を描いた物語として、まずは『じゃりン子チエ』が頭に浮かぶ。
 ストーリーは紹介するまでもないだろうけど、小学生のチエちゃんが大人より賢く、そして小鉄やアントニオといった猫が人間より賢い、というのがこのマンガのおもしろさだ。

  あと、岡崎京子の『ハッピィ・ハウス』も思い出した。13歳にしてヘビースモーカーのるみこは、パパとお兄ちゃんが出ていった家にさっそく男をひっぱりこむママを追い出して、たったひとりで、いや、ぬいぐるみのうさことふたりで、「本当の家」での生活をはじめる。  

ハッピィ・ハウス (週刊女性コミックス)

ハッピィ・ハウス (週刊女性コミックス)

 

  そして、昔の恋を忘れられない母親を描いた物語として、江國香織の『神様のボート』も胸に残る一冊である。 

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

  • 作者:江國 香織
  • 発売日: 2002/06/28
  • メディア: 文庫
 

  現実と妄執のあわいをさまよう母親とともに各地を転々とする娘。成長する娘は、否応なしに現実に目を向けるようになる。現実を生きていない母親に違和感を抱きはじめる。

 現実と向きあって生きていくのが大人のあるべき姿なのだろう。けれども、そんなふうに生きることのできない大人もいる。そんな大人であっても、子どもにとっては切っても切れない親であり――親子関係とは難しいなとあらためて感じる。

べつの言葉によって自らを変容させていく試み 『べつの言葉で』(ジュンパ・ラヒリ著 中嶋浩郎 訳)

人は誰かに恋をすると、永遠に生きたいと思う。自分の味わう感動や歓喜が長続きすることを切望する。イタリア語で読んでいるとき、わたしには同じような思いがわき起こる。わたしは死にたくない。死ぬことは言葉の発見の終わりを意味するわけだから。

  『停電の夜に』『その名にちなんで』など、日本でも高い人気を誇るインド系アメリカ人作家ジュンパ・ラヒリは、イタリア語を愛するあまりに「イタリア語と結びつくために」、40歳を過ぎてアメリカから家族とともにイタリアに移住する。イタリア語の本だけを読むというのはアメリカにいたときからすでにはじめていたが、移住してからはイタリア語だけで生活し、ついには作品すらもイタリア語で書きはじめる。 

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 

  冒頭の引用では、イタリア語との関係を恋になぞらえているが、たしかにラヒリのイタリア語へののめりこみぶりは、恋愛に耽溺するのによく似ているように感じられる。この『べつの言葉で』の前半部分では、そのあまりの傾倒ぶりに当惑すら覚えてしまうが、読み進めていくうちに、ラヒリがイタリア語を求めた理由があきらかになっていく。

 インド人の両親を持つラヒリが最初に身につけた言葉は、両親が話していたベンガル語であった。しかし本を読みはじめ、学校にも通うようになると、ラヒリの中でベンガル語は後退し、かわりに英語と一体化していった。英語はアメリカで生きていくうえで欠かせない言葉でもあった。

 けれども、両親は娘が英語を使うことを快く思っていなかった。一方、娘は友達の前でベンガル語を話すのが恥ずかしかった。アメリカの店では、訛りのある英語を話す両親を無視して、自分に問いかけてくる店員に腹が立った。そしてまた、間違った英語を話す両親にもいらいらした。 

わたしのこの二つの言語は仲が悪かった。相容れない敵同士でどちらも相手のことががまんできないようだった。その二つが共有しているものはわたし以外に何もないと思ったから、わたし自身も名辞矛盾なのだと感じていた。 

イタリア語を勉強するのは、わたしの人生における英語とベンガル語の長い対立から逃れることだと思う。母も継母も拒否すること。自立した道だ。

  こうして、ジュンパ・ラヒリは第三の言語としてイタリア語を学びはじめ、ついにはイタリア語で生きていくことを選択した。しかし、イタリアに行ったからといって、アメリカで感じた呪縛から完全に逃れることができたわけではない。

 イタリアの店に行くと、店員はラヒリに「どこからおいでですか?」と尋ねる。しかし、自分よりずっとイタリア語が下手な夫には何も聞かない。顔かたちと名前(アルベルト)のせいで、「ご主人はイタリア人でしょう」と決めつけられる。さらには、「イタリア語はご主人から習ったのか」とまで言われる。そんなときは打ちのめされた気持ちになる。
(話は逸れるが、「主人」という言葉をめぐる問題があるけれど、こういう台詞を吐く人が使う言葉は「夫」ではなく、絶対に「ご主人」なのだろうなとつくづく思う)

 アメリカのボストンに居た頃、町ですれちがった男に「くそったれ、英語が話せねえのか」と怒鳴られたことや、あるいは、両親の故郷であるインドのコルカタでは、アメリカ育ちだからベンガル語なんてわかるわけないと決めつけられ、英語で話しかけられた思い出が蘇る。どこへ行っても自分の言葉を話すと驚かれる。どこへ行っても所属できない気持ち。

 生まれ育った国で「外国人」とみなされる親を持つ子どもは、どこにも所属できない気持ち、余所者であるかのような一種の疎外感を抱えてしまうのかもしれない。

 ブレイディみかこの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』というタイトルは、息子のちょっとした落書きがもとになっていて、タイトルからもその心情がうまくあらわれている。 

 イギリス人である夫と日本人である作者を親に持つ息子は、イギリスの労働者階級の町にある中学校ではたったひとりの東洋系として人目をひき、日本に来ると「ガイジン」としてじろじろ見られる。ときには「日本語話せないのか」とおっさんにからまれたりもする。息子はこうつぶやく。 

「日本に行けば『ガイジン』って言われるし、こっちでは『チンク』とか言われるから、僕はどっちにも属さない。だから、僕のほうでもどこかに属している気持ちになれない」

  『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の最終章で、息子はギターを手にしてロックを鳴らすことで、「ブルー」を変えていこうとする。
   『べつの言葉で』のラヒリはイタリアで暮らし、いまだ確固とした隔たりを感じる不完全なイタリア語で作品を書くことによって、自らを変化させて自由になろうと試みる。 

別の人間になりたいと願う翻訳家の女がいた。はっきりした理由があってのことではない。ずっとそうだったのだ。

 というのが、ラヒリがイタリア語で書いた最初の掌編小説「取り違え」の冒頭である。べつの言葉によって別の人間になりたいと願う女。オウィディウスの『変身物語』を愛するラヒリの強い思いが投影されている。 

 「ずっとそうだったのだ」と書いているように、この願いはイタリア語に傾倒するようになってから芽生えたわけではない。

 英語で書かれたラヒリの作品を翻訳してきた小川高義による『翻訳の秘密』を読むと、初期作品から一貫してラヒリは「わからないこと」に身を浸し、それを「解釈」することで自らを「変容」させてきたことに気づかされる。 

翻訳の秘密―翻訳小説を「書く」ために

翻訳の秘密―翻訳小説を「書く」ために

  • 作者:小川 高義
  • 発売日: 2009/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  ラヒリのデビュー短編集『停電の夜に』の原題は、 短編のタイトル ”Interpreter of Maladies” が採用されており、interpretは単なる「通訳」という意味ではなく、異なるものやわからないものを解釈しようとする試みだ、と小川さんは考察している。

 さらに、ラヒリがネット上で発表したエッセイの結びの言葉 ”I translate, therefore I am” に焦点をあて、translationは「翻訳」というより「変容」のニュアンスが強く、ときには「場所の移動」を含むことさえあると指摘し、「わからないものを解釈しようとして、みずからの変化も生じる」ことが、まさに「ラヒリのテーマそのもの」としている。2007年の文章だが、まさに現在のラヒリを予言した読解だと思った。深く読むことによって、作者が進んでいく方向も見えてくるようになるのだろう。

 先の掌編小説「取り違え」は、翻訳家の女が黒いセーターを取り違えられる物語である。彼女は自分のセーターを取り戻すことができたのか? 別の人間になることができたのだろうか? 

 

人間を「物」として扱う社会とは――『地下鉄道』(コルソン・ホワイトヘッド著 谷崎由衣訳)、『フライデー・ブラック』(ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー著, 押野素子訳)

砦までの道のりでコーラの祖母は何度か売られ、宝貝やガラスのビーズと引き替えに奴隷商の手から手へと渡った。ウィダで彼女の値段が幾らだったか知ることは難しい。というのもまとめ買いだったから。八十八の人間が、ラム酒と火薬を入れた木箱六十個と交換された。

 『地下鉄道』は、主人公コーラの祖母アジャリーが誘拐されて売られ、船につめこまれてアメリカへ送られる場面からはじまる。何度も何度も売られ、商人の手から手へと渡る。そうしてジョージアのランドル農園に行きつく。

 三人の夫とのあいだに五人の子どもを産むが、ひとりは錆びた鋤で足を切って死に、ひとりは奴隷頭に殺された。それでも、子どもを売りとばされないだけマシだった。成長した娘はメイベルといい、のちにコーラを産んだ。 

地下鉄道

地下鉄道

 

  コーラは母親メイベルを恨んでいた。メイベルはコーラを置いて脱走したのだ。
 農園の主人ランドルは警報を発令し、白人の民警団や逃亡奴隷を捕まえることで生計を立てる自由黒人が森を捜索した。奴隷狩りの名手リッジウェイは二年にわたり徹底的に追うが、それでも見つけることができず、老ランドルの死の床で詫びた。

 10歳か11歳で――正確な歳は誰も知らない――みなしごになったコーラは、祖母から受け継がれた畑を守るために斧を手にして戦った。そうして、頭がおかしくなった女たちの小屋に押しこめられた。農園では、それなりに穏健に奴隷を扱っていたランドルに続いて、長男のジェイムズも死に、冷酷な次男のテランスが主人となった。

 そんな折、コーラは奴隷仲間のシーザーから一緒に逃げようと誘われる。なんでも、「地下鉄道」という北へ通じる鉄道が地中を走っているらしい。白人の力添えのもと、その「地下鉄道」に乗る手はずを整えたとシーザーが語る。だが逃亡して捕まえられたら命はない。迷うコーラだが、憎きメイベルに思いを馳せ、自分も脱出することを決意する……

 差別問題について語るのは難しい。差別はいけない、けっして許されることではないとは、この時代、だれでも口にする。
 しかし、どうして差別というものが生じるのか、どうして差別がなくならないのか、という問題と真剣に向き合おうとするならば、社会構造や差別する側の心情を複眼的に解析しないといけない。

 この『地下鉄道』では、逃亡奴隷となったコーラやシーザーと、どこまでも追いかけるリッジウェイ一行との活劇という側面にくわえて、ジョージアの農園での奴隷の暮らし、農園主であるジェイムズとテランスそれぞれが抱える「病」、表面的にはジョージアよりはるかに進歩的に見えるサウス・カロライナの真の姿、ノース・カロライナで逃亡奴隷をかくまうマーティンとエセル夫妻などの白人の命運がていねいに描き出されている。

 それによって、いくつもの視点から小説を読み解くことが可能となり、「鉄道」に乗るだけあってスピーディーに展開するストーリーを味わうだけではなく、人間を「物」として扱う社会のあり方や、差別する側が抱える問題について、自分が体験したかのように理解できる。 

アメリカでは、人間は物だという警句がまかり通る。大洋を渡る旅に耐えられない老人に掛けるコストは削減するべきだ。強い個体群から出た若い牡鹿に、顧客はよい金を払う。子どもを捻り出す奴隷娘は造幣局のようなもので、金を生み出す金である。 

  人間を「物」として扱うこと、「商品」と見做すことが奴隷制の本質なのだろう。冒頭に引用したように、アジャリーが売買される場面からこの小説がはじまるということも、それを象徴している。
 さらに、アジャリーを買った者は、「じつにしばしば破産した」。最初の主人は、ホイットニーの綿繰り機をめぐる詐欺にひっかかり、アジャリーは治安判事によって処分を命じられる財産のひとつとなった。

 ちなみに、Wikipediaのホイットニーの項によると、ホイットニーの発明した綿繰り機は「産業革命の鍵」となり、「(ホイットニーが意図していたか否かとは無関係に)アメリカの奴隷制度の経済的基盤を築いた」とされている。

 また、この小説でもっともおそろしく、そしてある意味もっともおもしろく感じてしまうのは、逃亡奴隷を追いかけることに執念を燃やすリッジウェイ一行のくだりではないだろうか。

 リッジウェイは、鍛冶屋の職人として地道に働く父親に反発し、農民や商人、金持ちにも自らの理想像を見つけることができず、逃亡奴隷を追いかける獰猛な警邏団に生きる目的を見出す。そうして、銃や畑の工具を作る父親も、逃亡奴隷を追いかける自分も、「どっちもイーライ・ホイットニーに仕えてるんだ」と語る。

 白人が先住民から力でもって新世界を奪ったこと、土地や奴隷という自らの財産を確保すること、これこそがアメリカにおいて、なにより正しいことであり、真の偉大なる精神(グレート・スピリット)だという信念を抱く。このリッジウェイの思考回路や上昇志向は、現代人に無縁だと言えるだろうか? いや、もっとも現代人に近い心性があるように思われる。 

 しかしリッジウェイ自身は、土地や奴隷を所有することにまったく興味を持っていない。同類だと感じた黒人少年ホーマーを買い受け、自由黒人として読み書きを教える。黒人少年ホーマーはシルクハットに誂えのスーツという正装をまとい、何があってもリッジウェイに付き従う。皮肉ともいえるこの倒錯した奇妙な関係が、小説に深みを与えている。

 人間を「物」として扱う社会は、現代を舞台にした短編集『フライデー・ブラック』にも克明に描かれている。 

フライデー・ブラック

フライデー・ブラック

 

 「ジマー・ランド」では、主人公の「俺」はゲームの登場人物となり、白人を脅かして最後には銃で撃たれる怪しい黒人を演じている。「俺」を罵倒し、殺してやりたいと願うプレイヤーたちの相手をするのだ。あくまでアトラクションとして。
『地下鉄道』のサウス・カロライナの“驚異の自然博物館”において、コーラがアフリカから連れてこられた奴隷役を演じさせられる場面と重なる。 

男は俺に拳銃を向けた。俺が生きるか死ぬかは、俺のことなど何も知らない男の胸一つで決まる。そしてその男は、俺に生きる価値などないと思っていた。

「待ってくれ」と俺は言ったが、男は俺を撃った、偽の弾丸が俺の胸で破裂した。

  タイトル作の「フライデー・ブラック」では、ショッピングモールの店員である「俺」は、ブラック・フライデーに殺到する客の相手をする。三日間で百万ドルの売上をあげないといけない。その大半が「俺」の腕にかかっている。

 店に押し寄せる客は、「火事や銃声から逃げる人」のようだ。そう、まさに戦場だ。比喩ではなく、「俺」は最初のブラック・フライデーで腕を噛みちぎられ、客たちは殴り合い、いったん人の波がひくと死体がごろごろと転がっている。それでも、モールの経営陣は、「顧客サービスと人間どうしの結びつきを大切にする当モールの姿勢に、変わりはありません」と語る。

 客はブラック・フライデーで人気のブランドの服や大型テレビを買うことに、「俺」は売り上げをあげることに、血道を上げる。買い物をすることが、儲けることが、命よりも大事なのだ。

 いや、現代社会では、買い物ができないこと、儲けることができないことは、死んでいるのと同じと見做される。買い物をすることや、儲けることによって、生きる価値が与えられ、「何者」かになったような気持ちになれる。逃亡奴隷を捕まえることに生きる目的を見出したリッジウェイと似ているのかもしれない。
 けれども、続く短編では、「俺」をはじめとする店員たちの消耗ぶり、やるせない日々が描かれている。 

小売業界では、ルーシーになっちゃだめ。殺伐とした状況を、少しでも良くする方法を見つけなくちゃ。ルーシーは先月、昼休み中に四階から飛び降りた女の子。タコ・タウンのレジ係だった。

  これらの短編からは、「売買」というものが持つグロテスクさが強く伝わってくる。売る側も買う側も無傷ではいられない。何かが大きく損なわれる。差別する者も同じだ。何かが大きく損なわれる。

 藤井光さんの解説によると、『フライデー・ブラック』の作者であるアジェイ=ブレニヤーは、『地下鉄道』のコルソン・ホワイトヘッドの推薦を受けたらしいが、共通する問題意識を考えると深く納得する。

 そしてなにより、この二作のすぐれた点は、重いテーマを扱っているにもかかわらず非常に読みやすく、エンターテインメントとしてもじゅうぶんに楽しめるというところだと思う。
 それぞれの訳者あとがきにも書かれているように、『地下鉄道』は『マッドマックス』などのアクション映画を見ているようなスリルも味わえ、『フライデー・ブラック』の方は、テーマパークやヴィデオ・ゲームを楽しむように読むこともできる。重そう、難解そう、という理由で躊躇している人がいれば、思い切って手に取ってみてほしい。

やっぱり優しくなければ生きている資格がない――レイモンド・チャンドラー『高い窓』(村上春樹訳)

彼女は二本の腕をデスクの上で折りたたみ、顔をその中に埋めてしくしくと泣いていた。それから首をひねって、涙で濡れた目でこちらを見た。私はドアを閉めて彼女のそばに行き、その細い肩に腕をまわした。……

娘は飛び上がるように身を起こし、私の腕から逃れた。「私に触らないで」と彼女は息を詰まらせながら言った。

  レイモンド・チャンドラー『高い窓』(村上春樹訳)を読みました。 

高い窓 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

高い窓 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

  今作でのフィリップ・マーロウは、資産家の未亡人ミセス・マードックから依頼を受ける。夫の形見であるプラッシャー・ダブルーンという貴重な金貨が盗まれたらしい。
 といっても、犯人探しを依頼されたわけではない。犯人はすでにわかっていると未亡人は話す。一年ほど前に「馬鹿げた結婚」をした息子レスリーの嫁、リンダ・コンクエストにちがいないと確信している。一週間ほど前に家を出ていったリンダを探し出し、金貨を取り戻すようマーロウに命じる。

 マードック邸を出たマーロウは、見知らぬ金髪の男に尾行されているのに気づく。素人同然の尾行に呆れたマーロウが近づくと、金髪の男はアンソニーと名乗り、同じく探偵業を営んでいると自己紹介し、マーロウに名刺を渡す。
 それから、マーロウは金貨について何か知っていると思われる古銭商モーニングスターのもとを訪ね、モーニングスターが金髪の男と連絡を取っていることを知る。先程の名刺に書かれていた住所に向かうと、金髪の男の死体があった……

 と、単なる家庭内のいざこざと思われた金貨探しが殺人事件へと発展するこの『高い窓』、訳者あとがきでも書かれているように、フィリップ・マーロウシリーズの中では一番と言っていいくらい、筋立てがシンプルで整合性がとれている。それゆえに、このシリーズの特徴が一番わかりやすい作品かもしれない。

 

※ここからは物語の内容に少し関係するので、これから読む方はご注意ください。

 

 フィリップ・マーロウ、もしくはチャンドラーの作品が持つ魅力とはどういうものか?
 と、シリーズを読んでいるあいだずっと考えていたが、その魅力はやはり、次から次へと出てくるへんてこりんな登場人物をリアルに切り取る描写の妙、そして、どんな人物でも受けとめてみせるマーロウの包容力だと思う。
 ちらっとしか出てこない脇役、なんなら完全な端役であっても、チャンドラーの小説においては、もしかして事件にかかわる重要人物なのか? と疑ってしまうくらい強く印象に残る。 

ベルフォント・ビルディングでは、明かりのついている窓は数えるほどしかなかった。この前と同じくたびれた老人がエレベーターの中で、畳んだ粗布の上に腰を下ろし、虚ろな目でただまっすぐ前を眺めていた。そのまま歴史に吸いこまれようとしているように見えた。……

「ヌーヨークではとんでもなく速いエレベーターがあるそうな。三十階くらいひゅっと行っちまうらしい。高速エレベーター。ヌーヨークにあるそうな」

「ニューヨークなんてどうでもいい」と私は言った。「私はここが好きなんだ」

  この『高い窓』で、忘れがたい脇役のひとりは、モーニングスターのオフィスが入ったベルフォント・ビルディングのエレベーター係の老人だ。

 「南北戦争の頃からずっと」畳んだ粗布の上に座っているかのようなたたずまいで、「まるで自分の背中にエレベーターを背負って運んでいるみたいに」荒い息をついて、エレベーターを操作する。
 すっかり耄碌しているのかと思いきや、三度目にマーロウがやって来たとき、最初のときと二度目のときにマーロウが着ていた服と降りた階をぴたりと言い当てる。「あんたのことを見くびっていたようだな」とマーロウを感服させ、事件の解決の「鍵」を提供する。

 また、もっとも読者の胸に刻まれる人物は、ミセス・マードックの秘書マール・デイヴィスではないだろうか。

 村上春樹は『リトル・シスター』の訳者あとがきで、チャンドラー作品の女性登場人物について、「どこかみんな『書き割り』みたいな雰囲気がある」と、ハリウッドの映画の女優が演じる古典的なキャラクターのようだと述べている。 

  たしかに、ファム・ファタール的な役割の女性登場人物については、「書き割り」感がある、つまり、ベタな人物造形だと言えなくもないが、それ以外の女性たち、『リトル・シスター』の訳者解説で賛辞を送っているオーファメイ・クエスト、この『高い窓』のマール・デイヴィスなど、一見どこにでもいそうで、でもどこか常軌を逸している人物像が実にうまく描かれていて感心する。『さよなら、愛しい人』に出てくるアン・リオーダンも可愛らしい。ただ、さわやかで健全過ぎて、マーロウにはそぐわなかったのかもしれないけれど。

 冒頭の引用のように、はじめてマードック邸を訪れたマーロウは、痩せて神経質そうで、あまり幸福そうには見えないマールを奇妙に思う。事件が進展するにつれて、マールはミセス・マードックに完全に支配され、心身ともに消耗していることがあきらかになる。
 物語の終盤、長年の理不尽な仕打ちによって疲れ果て、倒れたマールが、「私は起こったことを残らずあなたにお話ししたいの」と話すと、マーロウは言う。 

「言わなくていい。もう知っているから。マーロウはすべてを心得ている。まっとうな人生を送る術を別にすればね。そいつだけはどうしてもうまくできない。とにかく今はゆっくりと眠ることだ。そして明日になれば、君をウイチタまで送り届ける。そして君のご両親に会う。旅費はミセス・マードック持ちでね」 

 なんとかっこいい台詞だろうか。「すべてを心得ている」とは! まっとうな……云々のところも、通常ならば、何ぬかしてんねんってつっこんでしまいそうになるが、訳あり一家の事件に巻きこまれながらも、こうやって薄幸な少女に救いの手を差し伸べるマーロウが口にすると、納得してしまう。

 マーロウの決め台詞はおなじみ、“If I was’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.” いわゆる「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」だが、やはりマーロウの優しさがこのシリーズを貫く背骨であり、ハードボイルドを特別なもの――something special――にした魔法なのではないだろうか。

 しかし、どうしてこんな主人公をチャンドラーが生み出せたのか考えると、なんだか不思議な気もする。チャンドラーが18歳年上の妻を大事にしていたのは有名な話だが、その一方で、不倫騒動を起こし、勤めていた会社を解雇させられている(解雇の原因は不倫だけではなく、アルコールの問題などもあったようだが)。

 もちろん、作者が聖人君子でないのは当たり前だろうが、この『高い窓』の訳者あとがきによると、チャンドラーは「ものを書くことで金を儲けたためしがない」と知人に「愚痴っぽい手紙」を書いたりと、あまり“いさぎよい”人間ではなかったように思われる(そもそも、“いさぎよい”人間は文章を書いたりしない気もする)。

 けれども、ひとえにその卓越した文章力で、騎士精神あふれる主人公から、エキセントリックなまでに純粋な少女、低俗なチンピラたちまで、いきいきと命を吹きこみ読者を魅了する。ものすごくいまさらではあるけれど、小説というのはおもしろいものだなとあらためて思う。 

その家が視界から消えていくのを見ながら、私は不思議な気持ちを抱くことになった。どう言えばいいのだろう。詩をひとつ書き上げ、とても出来の良い詩だったのだが、それをなくしてしまい、思い出そうとしてもまるで思い出せないときのような気持ちだった。

  マールとの別れのシーンは、読んでいて少し切なく、でも後味のよい心地になる。大事にしていたものが自分のもとから旅立っていき、もう二度と会うことがないんだろうな、と思うような気持ち。
 あるいは、子どもの頃や学生時代に読んだ記憶があり、内容の詳細までは思い出せないけれど、とにかく夢中になって読んだということだけは覚えている小説を振り返るような……(いや、内容の詳細をすっかり忘れるのは私だけかもしれないが)