快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

完璧な書き出しではじまる完璧な心理サスペンス『ロウフィールド家の惨劇』(ルース・レンデル著 小尾 芙佐訳)

ユーニス・バーチマンがカヴァデイル一家を殺したのは、読み書きができなかったためである。

  英国女性ミステリーの女王と呼ばれたルース・レンデルが1977年に発表した、『ロウフィールド家の惨劇』の冒頭である。

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 この小説の謎は、〈だれが殺人を犯したのか〉ということではなく、〈どのように殺人に至ったのか〉ということだ。この文に続いて、ユーニス・バーチマンにはそれ以上の動機もなく、正気を失っていたわけでもないと語られる。
 ただ文盲であるがゆえに、一家を惨殺した。いったいどういう経緯なのか? 

  なぜ文盲だったかというと、特別な理由があるわけではない。
 小学校に入ってまもないうちに第二次世界大戦が勃発し、田舎に疎開したりロンドンに戻ったりと転々として学校にろくに通えず、読み書きができないまま大きくなってしまったのだ。そんなユーニスを放置していたことからもわかるように、両親は物事を深く考える性分ではなく、娘が家事を手伝い、自分たちの面倒をみてくれたらそれでよしとしていた。

 ユーニスは大好きなチョコレートを食べて、掃除や縫いものをして日々を過ごすことに満足していた。しかし、時折暗い衝動に突き動かされ、たまたま知った周囲の人々の秘密をネタにして金をせびるのだった。ゆすりや恐喝という言葉も知らない彼女にとって、それは「独創的」な遊びだった。そして両親が相次いで死に、ユーニスは四十を過ぎてから働くようになった。

 

 ユーニスは常軌を逸しているわけではなく、先にも書いたように、いたって正気である。だからこそ、文字が読めないことを最大の恥と考え、だれにも悟られまいとあの手この手で危機を乗り越える。具体的には、仕事探しの際には手紙の代筆を頼み、仕事中に何かを読む必要が生じたら極端に目が悪いふりをする。
 しかし、どれだけ手を尽くしても、文字というものから逃げることはできない。文字のある空間は――つまり、ほぼすべての世界であるが――ユーニスに恐怖を与える。 

彼女は印刷された文字が恐ろしかった。彼女にとっては特別の脅威だった。それに近づかぬこと、避けること、それを彼女に見せようとする人間から遠ざかること。それを忌避する習慣が深くしみこんでいた。

  だが皮肉なことに、ユーニスが働くことになったカヴァデイル家は良識ある知識人の家庭の典型であり、いたるところに文字があふれていた。
 しかも、あふれていたのは文字だけではない。善意もあり余っていた。 

カヴァデイル家の人たちはお節介やきだった。彼らは最高の善意、すなわち他人を幸せにしてあげようという善意にもとづいてお節介をやいた。

  妻のジャクリーンは見栄っぱりでスノビッシュであるが、夫のジョージは礼儀正しく親切な紳士であった。
 大学に通う娘のミリンダは、家族のだれよりも善意にあふれ、自由奔放で素直な心の持ち主だった。カヴァデイル家がカラーテレビを購入するので、古い白黒テレビはお手伝いに使わせるという計画を耳にすると、「なんてケチ!」「すっごく非民主的でファシスト的」と、怒りをあらわにするほどだった。
 血がつながらない弟のジャイルズは、ミリンダに憧れつつも内向的な性格のためどうすることもできず、壁に貼ったサミュエル・バトラーなどの格言を見つめて日々を過ごしていた。

 カヴァデイル家のあちこちに置かれていた書物も、ジャイルズの部屋に貼られた“紙きれ”も、ユーニスにとっては恐ろしかった。こんな高い教養とあふれる善意を持つカヴァデイル家の面々に、読み書きができないことを知られてしまった日には…… 

 そもそも、どうして読み書きができないことが恥なのか? そんなの恥かしいことでもなんでもないじゃないか。できないものはできないと正直に告白して、いまからでも勉強すればいい。

 そう思う人もいるかもしれない。きっとミリンダのように愛されてすくすく育ち、ひけめやコンプレックスを心の底から感じたことがないのだろう。純粋な善意と純粋な悪意、より恐ろしいのはどちらだろうか?

 傍から見ると、世の中や他人にほとんど興味がないのに、恥の概念だけはふんだんに持ちあわしているユーニスが奇異に思えるかもしれないが、だれにも肯定されないまま狭い世界で生きていると、自分の凝り固まった価値観から外れているものは恥となる。

 恥というのは、他人の秘密をネタにして恐喝することを楽しんできたユーニスにとって、禁断の甘い果実でもあった。
 ところが、このカヴァデイル家の面々と出会い、開放的な心と善意をあわせ持つミリンダによって恥の概念をひっくり返され、ユーニスの世界は崩壊する。

 しかしそれだけなら、ユーニスがカヴァデイル家を去るだけで終わったかもしれない。常軌を逸した事件が起きる背景には、常軌を逸した要素があった。ユーニスの親友となったジョーン・スミスだ。

 ジョーンは裕福な家に生まれ、愛され、慈しまれて育ってきたにもかかわらず、これという理由もなく出奔して身を持ち崩し、放蕩生活のはてに信仰に目覚める。田舎の雑貨店店主の奥さんにおさまるが、何にも興味を持たないユーニスと対照的に、ありとあらゆることに尋常ならざる好奇心を燃やし、カヴァデイル家の新しい家政婦となったユーニスに接近する。
 育ちも性格もまったく異なるふたりだが、互いの暗い衝動がひきつけ合ったのか、急速に親交を深めていく。ジョーンの理由なき狂気が悲劇の推進力となる。

 それにしても、これだけインパクトのある書き出しならば、芸人用語でいう「出オチ」になってしまい、以降の展開は尻すぼみになってしまうのではないかと思うが、この小説は結末がわかっているにもかかわらず、読者の興味を最後まで持続させることに成功している。
 やはり、それが前回で取りあげたミネット・ウォルターズや、ジャネット・ウィンターソンなどの人気作家がリスペクトを表明するルース・レンデルの力量なのだろう。 


 小説の書き出しは、「これからいったい何が起きるんだろう?」と読者の興味をかきたてるものでなければならない。後知恵かもしれないが、すぐれた小説は書き出しからすぐれているように思う。手もとにある本をいくつか見てみると――

 日本で一番有名な書き出し「吾輩は猫である。名前はまだ無い」は、無名の猫が語り手であることを宣言している。世界で一番有名なのはカフカの「変身」かもしれないが、これも書き出しで虫になったことを宣言している。

 舞台設定を示す書き出しも多い。「こいさん、頼むわ」は、関西の良家が舞台となっていることがわかる(念のため、『細雪』の冒頭です)。では、この書き出しは? 

悦子はその日、阪急百貨店で半毛の靴下を二足買った。

  こちらは三島由紀夫の『愛の渇き』である。そもそも、どうして三島が豊中市の岡町を舞台にしたのか謎だったが、Wikipediaによると叔母の嫁ぎ先だったらしい。(しかし谷崎と異なり、関西弁はほとんど目につかない)
 悦子という女の「幸福の欲求」について書かれていて(新潮文庫吉田健一の解説によると)、ミステリーではないが、ルース・レンデルのような心理サスペンスが好きな人には楽しめる小説だと思う。 

愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)

 

  買いものパターンには、こんなものもある。 

父さんが熊を買ったその夏、ぼくたちはまだ誰も生まれていなかった――種さえも宿されていなかった。

  熊と家族の物語というと、そう、ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』だ。やはり冒頭には物語の要となるものを持ってくることが多いように思える。 

 ある夏の夜、庭に面した窓をすべて開け放った大きな部屋で、彼らは屎尿溜めについて話していた。

  屎尿溜め……いま読んでいるヴァージニア・ウルフ『幕間』の冒頭である。1939年を舞台にした小説で、この「屎尿溜め」は、「戦時体制のもと、生活インフラが後回しにされていることの象徴」と、訳者解説で説明されている。

幕間 (平凡社ライブラリー)

幕間 (平凡社ライブラリー)

 

  嗅覚や五感に訴えるパターンというと、こういうものもある。 

匂いって何だろう? 

私は近ごろ人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった。

  なんだか可愛らしい書き出しだ。ファンタジーのような……と思いきや、坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」である。ある意味、ファンタジーかもしれないが。これも戦争が背景になっているので、戦時というのは五感が研ぎ澄まされるのかもしれない。 

白痴 青鬼の褌を洗う女 (講談社文芸文庫)

白痴 青鬼の褌を洗う女 (講談社文芸文庫)

 

  さて、現代作家によるもっともインパクトのある書き出しといえば、やはりこれではないだろうか。 

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

  デビュー作の書き出しでこんなものを持ってくるとは、さすがというか……「出オチ」にもハッタリにもならずに現在に至っているのは、あらためて言うまでもありません。 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

  自分もインパクトのある書き出しを思いついた! 書き出しだけだけど、という方には、デイリーポータルのサイト「書き出し小説大賞」をオススメします。よくこれだけ思いつくものだと、つくづく感心する。

dailyportalz.jp

 

 『ロウフィールド館の惨劇』に戻ると、この物語は「完璧な絶望」にかぎりなく近く、あたたかい愛情に包まれていた〈ロウフィールド館〉は、「破壊、絶望、狂気……」を象徴する〈荒涼館〉(小説内でもディケンズが引用されている)となる。
 最後にユーニスを待ち受けていた罰とは? ぜひ読んでたしかめてください。

 

※さて、私が世話人を務めている大阪翻訳ミステリー読書会(オンライン第2回)を、11月8日(日)15時~に開催します。課題書は『フランケンシュタイン』(どの訳書でも可)です。
 ご興味がある方は、osakamystery@gmail.com にご連絡ください。
   あるいは、私のツイッター経由でもなんでも結構です。怪物はいかに生み出されたのか……? 楽しく語り合いましょう!

 

 

ミネット・ウォルターズ『カメレオンの影』(成川裕子訳)オンライン読書会報告&心理サスペンスのブックガイド

 さて、9月26日(土)に第1回オンライン読書会を開催しました。課題書は、今年の4月に出版された、ミネット・ウォルターズの新作『カメレオンの影』です。 

   ミネット・ウォルターズについては前回も少し紹介したように、1992年に『氷の家』でデビューし、第2作目の『女彫刻師』では、母親と妹を殺して切り刻んだ殺人犯と疑われるオリーヴを描いて話題を呼び、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)のエドガー賞長篇賞などを受賞した。以降の作品もCWAゴールド・ダガー賞に輝くなどの高い評価を得て、〈現代英国ミステリの女王〉と呼ばれている。

 2007年にイギリスで出版された『カメレオンの影』は、2006年9月29日付の新聞記事からはじまる。
 元国防省所属の文官だった男が南ロンドンの自宅で殺されているのが発見された。二週間前にタクシー運転手の男が殺された事件との関連がほのめかされている。これらの殺害事件について、警察はゲイ・コミュニティーの協力を取りつけているとも記されている。

 その八週間後、チャ―ルズ・アクランドが昏睡から目覚めるところから、物語が展開する。26歳のアクランドは中尉としてイラク戦争に出兵し、爆弾によって顔の左半分を破壊されたのだ。イラクで過ごした八週間の記憶も失われてしまった。

 軍ではみんなから信頼されていたというアクランドだが、意識を取り戻してからは医者や両親にも心を開かず、ときに粗暴なふるまいすらもみせる。
 イラクで心の傷を負ったのだろうと精神科医ロバート・ウィリスがカウンセリングを試みるが、アクランドは感情のコントロールができず、とくに女性に対して激しい嫌悪を示す。ときには看護師の言葉に逆上し、また母親の腕をねじりあげることもあった。

 その原因を探ろうとするウィリス医師のもとへ、アクランドの元婚約者のジェンからメールが届く。そのメールには、アクランドがイラクへ発つ前にジェンに対してあることを行い、そのせいで婚約を破棄したと書かれていた。そうしてある日、ジェンが病院に姿をみせるが、アクランドはジェンを絞め殺そうとする……

 心の傷を抱えたアクランドのストーリーと連続殺人事件の捜査が交互に語られ、ゲイ・コミュニティーに属していた男たちを次々に殺した犯人はアクランドなのか? というのが物語の主軸となる。

  タイトル「カメレオンの影」は、ジェンのメールから取られている。 

チャーリーはカメレオンです。彼は相手によって見せる姿を変えます。連隊の仲間には、男の中の男。わたしに対しては、色男。両親には、口を閉ざし、そこにはいないかのようにふるまう。

  「カメレオン」というのは、この小説の、というよりミネット・ウォルターズの作品すべてのキーワードのひとつと言える。
 ウォルターズ作品では、頻繁に登場人物が「見せる姿」を変えていく。暴力の被害者と思われていた人間が、加害者であったことが判明する。度々被害者と加害者がくるりと入れ替わる。

 『氷の家』のフィービは、暴力の被害者であったのか、それとも殺人の加害者であったのか? 『女彫刻家』のオリーヴは、ほんとうに母親と妹を殺害したのか? それともだれかに陥れられたのか?

 初期の作品では、家庭内での暴力や軋轢によって損なわれる人々に焦点を当てていたが、中期以降の作品では、群集心理や差別意識が大衆の暴力性を煽るさまを描くようになり、さらに前作の『悪魔の羽根』では、人間の加虐性がむき出しになる戦争という要素が加わった。今作『カメレオンの影』でも、イラク戦争の被害者であるアクランドが、殺人の容疑者(加害者)なのかという嫌疑をかけられる。

 損なわれた人間による被害と加害の連鎖をどうやって止めることができるのか? 

 この小説で鍵を握るのは、ドクター・ジョンソンである。アクランドが怒りを爆発させ、レイシズムと言えるほどの暴挙に出たときに居合わせたのが縁となり、アクランドの保護者のような役割を担う。

 ジャクソンはパートナーのデイジーと暮らしていて、アクランドの言葉を借りると「日に25回男性ホルモンを射っているように見える筋骨隆々の大女」である。女性に拒否反応を示すアクランドもジャクソンと行動をともにするようになってから、人を信頼するという気持ちを取り戻していく。 

ジャクソンは内心では彼に同情していた。親としてのロールモデルのうち、優しい方に敬意を抱けないとしたら、彼のようになるのもわかる気がする。もしかしたら、彼の母親との問題は、彼女の強さへの混乱した賞賛の念からきているのではないかと思った。

  ジャクソンはアクランドについての理解を深めていく。支配的な母親との関係で植えつけられてしまった強い女性への「混乱した賞賛の念」から、ジェンにも魅かれるようになり、そして悲劇につながったのだろうか……?

 さて、読書会はネタバレありきで話しているので詳細に書けないが、アクランドをはじめとする登場人物の繊細な心理描写に感心したという声が多かった。
 また、登場場面が多くない人物についても、暮らしぶりや家族との関係といった背景を漏らさず描いているので、しっかりと性格が把握できたという意見もあった。

 その一方で、ミステリーとしては証拠の出し方に疑問もあがった。さすがにちょっとわかりにく過ぎるのではないか、と。たしかに、ミステリーなのだからミスリードを意図しているのだろうが、どこまでがミスリードで、どこまでがアンフェアなのかというと難しい。ウォルターズ作品は犯人当てというより、そこに至るまでの登場人物の心理の揺らぎが読みどころなのだろうとは思うけれども。 
 

 また、参加者のみなさまが挙げていただいた「ウォルターズ作品を好きな人にオススメしたい作品」(もしくはその逆)がたいへん充実していたので、あわせて紹介したいと思います。
※ちなみに、以下の紹介文は、みなさまのお言葉を参考にしながら、私が(勝手に)書いたものです。

◎シーラッハ『コリーニ事件』(酒寄 進一訳)(映画もあわせてオススメ) 

  『犯罪』『罪悪』といった短編小説でドイツミステリーの新境地を開いたシーラッハによる長編小説。シーラッハの短編を読むと、短いながらもその奥行きに感銘を受け、いったい何が正義なのか? と考えさせられるが、長編では人間や社会のさらに深い面に切りこんでいる。推薦の言によると、今年公開された映画もかなり見ごたえがあるらしく、ぜひ見てみたいと思った。

◎キャロル・オコンネル『マロリーの神託』(石川順子訳) 

  完璧な美貌と頭脳を兼ね備え、けれども人間らしい心を失った、まるでAIのような美女マロリーが犯罪の捜査にあたる人気シリーズの第1作目。強烈なマロリーのキャラクターに心魅かれる。

 ◎ベリンダ・バウアー『ブラックランズ』(杉本葉子訳) 

ブラックランズ (小学館文庫)

ブラックランズ (小学館文庫)

 

  英国南西部で起きた猟奇的な児童殺人事件を描いた心理ミステリー。猟奇的な児童殺人事件を扱う作品はさほどめずらしくないが、遺族のひとりである12歳の少年が事件解決に乗り出すというところが斬新。

 

桐野夏生『柔らかな頬』 

柔らかな頬 上 (文春文庫)

柔らかな頬 上 (文春文庫)

 

  やはりウォルターズ作品を想起させる日本の作家と言えば、桐野さんが筆頭ではないでしょうか。幼い娘が行方不明になり、母親である主人公は嘆き悲しむが、実はだれにも言えない秘密を抱えていた……直木賞を受賞したミステリー。
 いまさら言うまでもないけれど、工場でパートする主婦たちが夫をバラバラに解体する『OUT』、東電OL殺人事件をモチーフにした『グロテスク』も傑作。

 

エドワード・ケアリー『おちび』 (古屋美登里訳)

おちび

おちび

 

  〈アイアマンガー3部作〉のエドワード・ケアリーが、革命の嵐が吹き荒れる18世紀のパリを舞台に、蝋人形館でもおなじみのマダム・タッソーの数奇な人生を描いた小説。ヴェルサイユ宮殿マリー・アントワネットも登場する、読みどころ満載の物語。

 ◎モー・ヘイダー『喪失』(北野寿美枝訳) 

  ただのカージャックだと思われていた事件が、後部座席に乗っていた少女が目的だったと判明する。子どもたちを次々に襲う姿なき小児性愛者と警察との戦いを描いた英国ミステリー。シリーズ作ですが、この作品から読んでも大丈夫。

 

サラ・ウォーターズ『荊の城』(中村有希訳) 

荊の城 上 (創元推理文庫)

荊の城 上 (創元推理文庫)

 

  2017年に日本でも大ヒットした、韓国映画『お嬢さん』の原作としてもおなじみの作品。映画は日本統治下の韓国を描いていたが、原作の舞台はヴィクトリア朝のロンドン。下層社会で暮らすスウは詐欺師の指示に従い、名門一族の令嬢の侍女として屋敷に潜りこむことに成功し、世間知らずの令嬢をだまそうとするが……原作と映画の相違点を比べてみるのもおもしろい。

 また、私が思いついたオススメ本も、参考に挙げておきます。

 

角田光代『八日目の蝉』 

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

 

  角田さんはミステリー作家ではないが、きめ細かい描写で人間の心の多面性を描くことがほんとうにうまい。家族の問題、とくに支配的な母親を扱った作品が多い点も、ウォルターズと共通するものがある。なかでも、不倫相手の子どもを奪った実話をベースとした『八日目の蝉』は心理サスペンス要素が強く、また壊れた家庭で育った子どもという存在を見据えているのも興味深い。

 

マーガレット・ミラー『まるで天使のような』(黒原敏行訳) 

まるで天使のような (創元推理文庫)

まるで天使のような (創元推理文庫)

 

  作風としては〈英国ミステリの女王〉のひとりであってもおかしくないが、アメリカを代表する女性ミステリー作家。数々の心理サスペンスを手がけたなかでも、この『まるで天使のような』は探偵役の男を配するという伝統的なミステリーの手法で、新興宗教や家族間の問題を描いた意欲作。夫のロス・マクドナルドの『さむけ』や『ウィチャリー家の女』も、探偵リュウ・アーチャーが家族の軋轢に踏みこんでいる。 

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

 

  
 最後に『氷の家』の解説で、ミネット・ウォルターズが「生涯の三冊」として挙げている小説を紹介します。

ハーパー・リーアラバマ物語』(菊池重三郎訳) 

アラバマ物語

アラバマ物語

 

  正直なところ、古典として名高いけれど、読んだことがある人にはめったに出会わないイメージもあるが……いや、白人女性を強姦したという嫌疑をかけられる黒人男性の事件を描いたこの小説は、いまこそ読むべき意義があるのだろう。英米ではいまも読み継がれている国民的物語なので、小説の潮流を理解するうえでも必読かもしれない。

 

カーソン・マッカラーズ『心は孤独な旅人』(村上春樹訳) 

心は孤独な狩人

心は孤独な狩人

 

  1930年代の貧しいアメリカ南部を舞台に、人々の心に潜む孤独や絶望を見据えた作品。ちょうど村上春樹による新作が出たばかりなので入手も容易。これでもう読まないわけにはいかない。

 

グレアム・グリーン『権力と栄光』(齋藤数衛訳)

権力と栄光

権力と栄光

 

  カトリック作家として、人間の業と信仰の関係をとことんまで考え抜いた作者の代表作。ウォルターズは、グレアム・グリーンを一番好きな作家かもしれないと語っている。

  さて、今回オンライン読書会を実施して、読んだ本について語りあい、オススメの本の情報を交換する愉しみは、リアルと変わらず可能であることを確認しました。

 もちろん、私も含めて参加者のみなさまも、画面越しに語りあうことにはまだあまり慣れておらず、顔を見て話せないもどかしさを感じる瞬間もありましたが、一方で、場所を押さえる必要もなく、全国どこからでも参加可能なオンライン読書会を続けようと思います。
 リアルの読書会やイベントはめっきり減ってしまったけれど、読書シーンを少しでも活性化できれば……と考えております。

 さて、次回の大阪翻訳ミステリー読書会(オンライン第2回)は、11月8日(日)15時~に開催します。課題書は『フランケンシュタイン』(どの訳書でも可)です。

 参加受付は、昭和生まれの者にとっての永遠の体育の日、10月10日(土)午前10時から行います。ご興味がある方は osakamystery@gmail.com にご連絡ください。あるいは、私のツイッター経由でも結構です。
  怪物はいかに生み出されたのか……? 楽しく語り合いましょう!

誰もが心に秘めている闇とは? ミネット・ウォルターズ『氷の家』(成川裕子訳)から『A Dreadful Murder』まで一

  9月26日(土)の読書会(課題書『カメレオンの影』成川裕子訳)の予習のため、ミネット・ウォルターズのデビュー作『氷の家』と、2013年に発表された『A Dreadful Murder』(未訳)を再読しました。 

氷の家 (創元推理文庫)

氷の家 (創元推理文庫)

 

  まず、ミネット・ウォルターズがどういう作家かというと、『氷の家』の解説で紹介されている「エドガー・アラン・ポージェイン・オースティンと協力して優れた英国ミステリを書きあげていたとしたら」という宣伝文句がわかりやすいかもしれない。

 この『氷の家』は、十年前に夫が失踪したフィービが、アンとダイアナというふたりの女友達とともに暮らす古い屋敷が舞台となっている。周囲の村人たちはフィービを夫殺しと噂し、三人の女を魔女やレズビアン呼ばわりしている。
 そんなある日、屋敷の氷室で謎の死体が発見される。死体の正体は? 行方不明になったフィービの夫なのか? ウォルシュとマクロクリンという二人の刑事が十年前の事件の真相を調べはじめる……という物語である。

 『氷の家』には古い屋敷や死体といったゴシック要素、最初は反発していたふたりが魅かれあうといったロマンス要素もあるが、なにより、村人たちの何気ない噂や悪意がさらなる悲劇を生むという構造を描いたところが印象に残る。誰もが心に秘めている闇、他人を蹴落とそうとする悪意、相手を支配したい欲望……こういったものが、ウォルターズの小説では赤裸々に描かれている。

 そこで、近年の作品『A Dreadful Murder』を読むと、その視点がまったく変わっていないことに驚かされた。 

  この『A Dreadful Murder』は、1908年にケント州のアイテム(Ightham)という村で実際に起きた Caroline Mary Luard の未解決殺人事件をもとにした中編小説である。

  Carolineの夫Charles Edward Luardは元軍人であり、州の議員や治安判事も務めた地方の名士であった。Carolineは上流階級の妻にふさわしく、熱心に慈善活動に取り組んでいた。社会保障などが手薄だったこの時代、お金持ちの慈善活動によって救貧院に送られるのを免れた人々も少なくなかったようだ。(※以下、実際にあった事件をもとにしているので、ストーリーの結末まで書いています)

 1908年8月24日の昼下がり、CharlesとCarolineは散歩に出た。Charlesはゴルフ場に行ってゴルフバッグを取って来るのが目的だった。Carolineは友人のMrs. Stewartとお茶の約束があったので、それまで少し身体を動かそうと思ったのだ。
 ふたりは家を出てしばらく一緒に歩き、教会を越えて小さな門のところで別れ、Charlesはゴルフ場へ向かう。

 そして、夕方Charlesが家に戻ると、Mrs. StewartがまだCarolineを待っている。まだ帰っていないのか? 不審に思ったCharlesが家を出て、Carolineの歩いていった方向を探すと、隣人の敷地内にある豪勢なサマーハウスのベランダでCarolineの死体を発見する。頭を銃で二発撃たれていた。

 ケント州警察の署長Henryはすぐにロンドン警視庁に応援を求め、警視のTaylorとともに捜査を開始する。殺されたCarolineは指輪と財布を奪われていた。撃たれる前に頭を強く殴られている。行きずりの強盗の仕業だろうか? あるいは強盗は単なる偽装で、Charlesに恨みを持つ者の犯行かもしれない。Charlesが治安判事だったときに、刑を宣告した者を洗い出さねばならない。

 ところが、そんな捜査とは裏腹に、Charlesが妻を殺したのだという噂が村じゅうを駆け巡る。
 Carolineが撃たれたのは午後3時15分である。近所の複数の人間が銃声を聞いている。一方、午後3時20分にゴルフ場に向かって農場を歩いているCharlesの姿が目撃されている。この二地点は到底5分で移動できる距離ではない。しかもCharlesは70歳近いのだ。
 さらに、Charlesの所有しているすべての銃は、Carolineを撃った弾とは合わない。新たに銃を手に入れた形跡もない。そもそも、どうして隣人の敷地内で妻を殺すのか? 以上のことから、Charlesを犯人とする根拠はまったく見当たらなかった。

 それなのに、噂はいっこうに収まる気配はない。それどころか、Charlesが週に2日ゴルフに行っていたのは、愛人に会うためだったという噂すら広まる。誰もその愛人を見たことも聞いたこともないというのに。警察署長HenryがCharlesの親しい友人なので、証拠をもみ消しているにちがいないとまで言われる。ついに、Charlesのもとに匿名の手紙が届きはじめる。 

WE ALL KNOW YOU SHOT YOUR WIFE.

YOUR FRIEND THE CHIEF CONSTABLE CAN’T PROTECT YOU FOREVER.

YOU DON’T DESERVE TO YOUR LIVE. DO EVERYONE A FAVOUR.

KILL YOURSELF.

  警視Taylorは、Charlesに大量に送られ続けるヘイト・レターを見て愕然とする。長年ロンドン警視庁で働いてきたが、隣人たちがこれほどまでの悪意をむき出しにする事件に遭遇したことはなかった。Carolineの「友人」とされていた者たちも、Mrs. Stewartを筆頭に手のひらを返した。Carolineの知人のなかで唯一信用できそうな Sarah の証言をもとに下層階級の若者たちに目をつけるが、村から逃げられてしまう。

   捜査が行き詰まり、頭を抱えるTaylorのもとに悪い知らせが舞いこむ。
   Charlesが自殺したのだ。HenryがCharlesの遺書を読みあげる。もう生きていく気力がないと書かれていた。この遺書を公表しないと、Charlesが妻を殺した罪悪感のせいで自殺したと思われるのではとTaylorが言うと、公表したって同じことだとHenryが答える。真犯人が見つからないかぎり、Charlesが犯人だと言われ続けるにちがいない、と。
 そうして結局、真犯人が見つかることはなかった。

 この物語を読むと、読者も警視Taylor同様に村人の悪意に愕然とさせられる。上流階級であったCharlesとCarolineに対して周囲の人間が抱いていた敵意が、殺人事件をきっかけに堰を切ったように放出される。当人が自ら命を絶つまで噂や中傷が止むことなく、ヘイト・レターが次々と押し寄せる。なんだか現在のネットの状況と重なるようにも思える。

 犯人はいまだ判明せず、WikipediaではJohn Dickmanという別件の殺人事件で捕まった男が関与している可能性があると記されているが、この物語では、同じ村に住む貧しい下層階級の若者の仕業ではないかと示唆している。

 かねてからCharlesは非情で冷酷な人間であり、Carolineは可哀そうな犠牲者であったと村人たちは語りあうが、慈善活動に精を出していたCarolineもCharles同様に村人たちから憎まれていたのだろうと作者は推測する。なぜなら、よろこんで施しを受ける者などいないからだ。誰も好きこのんで頭を下げたりはしない。

 Charlesは遺書で “The dreadful murder of my wife has robbed me of all my happiness.” と綴り、ここからこの物語のタイトルが取られているが、“a dreadful murder”(恐ろしい殺人)の対象になったのは、CarolineよりむしろCharlesだと言えるのはまちがいない。

  それにしても、デビュー作からえんえんと人間の複雑な心理や心の闇に向き合い続けて疲れないのだろうか? と思いつつ、2015年に掲載された作者のインタビューを読んだところ、

It’s so much more interesting to write a repellent character than a sweet, saintly one. I’d get bored of a totally nice character after three pages.

(聖人のように心やさしい人間より、嫌なやつを描く方がずっとおもしろい。登場人物がどこから見ても「いい人」だと、3ページでうんざりする) 

 とあって、さすがだな……!と心から感服しました。www.theguardian.com

 さて、今回の読書会の課題書『カメレオンの影』では、そんな人間の心の闇や悪意がどのように描かれているのか? 一緒に読み解いていきたい方は、ぜひとも読書会にご参加ください。ZOOMを使ってのオンラインでの開催なので、全国(もしくは外国でも)どこからでもご参加可能です。 

カメレオンの影 (創元推理文庫)

カメレオンの影 (創元推理文庫)

 

 

パンデミックの真相を探るリアルなディストピア小説 The Waiting Rooms (Eve Smith)

 Amazonで評価が高かったので気になった、小説“The Waiting Rooms”を読みました。作者Eve Smithのデビュー作であり、まだ翻訳は出ていません。まずは、どういう物語か説明すると―― 

The Waiting Rooms

The Waiting Rooms

  • 作者:Smith, Eve
  • 発売日: 2020/10/01
  • メディア: ペーパーバック
 

  この小説はKate, Lily, Maryの三人の女性の視点から交互に語られていく。
  まずはイギリスを舞台にしたKateの章からはじまる。Kateは人々を死へ誘う仕事をしている。というと衝撃的だが、殺し屋などではなく、看護師として合法的に働いている。それにはこんな背景がある。

 20年前、抗生物質が効かなくなる “Crisis(危機)”が発生し、悪性の結核パンデミックによって、世界中で多くの人命が失われた。Crisis以降、人類にとって感染症が最大の脅威となった。新型の抗生物質は貴重なものとなり、全員に投与できないため「命を選別する」必要が生じた。

 70歳以上の人間は、病気になっても治療されることなく、“The Waiting Rooms” でひたすら死を待たなければならない。末期の痛みを緩和するものも与えられない。よって、70歳以上の大半は、病気になると "directive" に署名して安楽死を選ぶようになった。つまり、Kateは安楽死をサポートする仕事をしているのだ。

  一方、同じくイギリスに住むLilyは、ケアホームで介護士のAnneに手厚く面倒を診てもらう日々を送っているが、まもなく70歳になることに怯えていた。

 70歳になると、ちょっとの擦り傷でもそこから感染したらもうおしまいだ。自分が若かった頃は、女王から100歳を祝うメッセージを送られた老人もそれなりに存在していたことが嘘みたいだ。いまは80代すらめったに見ない。Crisisの時に定められた、悪名高い Medication Law――70歳以上の人間には薬を与えない――に対する抗議活動が盛りあがっているようだが……

 そう、恐ろしいほど現在の状況とオーバーラップしている。パンデミックが起きたあとの世界。人々は感染をおそれ、常にマスクを着用している。ケアホームに面会に行くと、徹底的な消毒や検温がある。
 この小説は今年の春に出版されているが、現在のパンデミックのさなかに書きはじめたわけではないだろう。偶然なのか、それとも準備中だったものを急いで出版したのだろうか。

 もうひとりの主人公Maryの章は、Crisisの27年前(おそらく1990年くらいか)からはじまる。オクスフォードの博士課程で研究に勤しむ気鋭の植物学者Maryは、南アフリカでフィールドワークをしていた。そこでPietという男に出会う。

 PietはMaryの華々しい経歴を聞いてもさほど感心するようすもなく、自らの話を熱心に語りはじめる。Pietは南アフリカの植物から薬を作るプロジェクトを立ち上げていた。南アフリカでは、antibiotic resistance(抗生物質に対する耐性)が広がり、それによって悪性の結核がひそかに蔓延しつつあるらしい。その特効薬を作るために、Maryの力が必要だと協力を求める。

 Kateの章に戻ると、Kateの母親Penが75歳で亡くなる。まだまだ元気だったのに、肺炎になってからはあっという間だった。Kateは以前からPenが生みの親ではないことを聞かされていた。かねてからのPenの後押しもあり、これを機に実の母親に会いに行こうと決心する。夫のMarkとティーンエイジャーの娘Sachaにも計画を打ち明け、実の母親を探しはじめる。

 そこからKateの実の母親探しを主軸として進み、Kate, Lily, Maryの人生の糸が結びついていく。その糸は20年前のCrisisにつながっていく。あの時、いったい何が起きたのか? パンデミックはどうやって発生したのか? 

 パンデミックの描写がまさに現代と重なって物語に引きこまれるが、安楽死の問題についても考えさせられる。先日、ALSの患者の女性が安楽死を依頼し、実行した医師たちが捕まったのも記憶に新しい。

 この小説は安楽死の是非を深く考察しているわけではないが、Kateが死へ誘った老人の家族の苦しみや、Medication Lawへの抗議活動から暴徒と化した人々の姿が印象に残る。もちろん、もともとは人々の命を救おうとして看護師になったKateも、平気で処置しているわけではない。こうなってしまった世界で、死を選択せざるを得ない人々がなるだけ苦しまず、人としての尊厳を失わずに済むように、できるかぎりのことをやっているだけなのだ。

 現在の日本でも、安楽死がすぐに合法化されることはないだろうが、老人や働けない人に医療費をかけるのは税金の無駄遣いだという説を耳にすることが多くなってきたように思う。そう考えると、この小説がいっそうリアルに感じられる。

 また、先にも述べたように、Kateの実の母親探しが20年前のCrisisの真相につながっていくストーリーが主軸、つまり縦の糸となっているが、横の糸として親と子の物語が織りこまれている。

 Kateと実の母親だけではなく、Kateが大人になっていく娘Sachaを見守る姿もていねいに描かれている。さらに、Crisis以前の南アフリカ謎の肺炎への特効薬を探して奮闘するPietは、自分と母親を捨てて家を出ていった父親に複雑な思いを抱いている。Pietの父親が、アパルトヘイト廃止に尽力した南アフリカ元大統領デクラークの熱心な支援者であったことも、Crisisの際に判明する。そして終盤では、とある親子の因縁が物語を大きく展開させる。

 けっして明るい物語ではないけれど、互いを思い遣るKateとSachaのキャラクターと、場面は少ないながらも、鮮烈に描かれる南アフリカの自然の美しさのため、読後感は意外に爽やかだった。

 それにしても、いったいこのパンデミックがいつまで続くのか? まったく見当のつかない現在、読書くらいはコロナのことを忘れたい!という気持ちもわかりますが、逆にこんなディストピア小説を読んでみるのも一興ではないでしょうか。

ギムレットには早すぎる? 虚構の仕掛けが施された短編集『一人称単数』(村上春樹)

 村上春樹の最新短編集『一人称単数』の読書会に参加しました。光文社古典新訳文庫の元編集長である駒井稔さんを迎えて開催され、参加者も春樹マニアと言えるくらいに読みこまれている方が多く、たいへん刺激的な会でした。 

一人称単数 (文春e-book)

一人称単数 (文春e-book)

 

   前の短編集『女のいない男たち』は、「ドライブ・マイ・カー」や「木野」のように三人称を用いた小説が多かったのに比べて、今作においては、「石のまくらに」は四ツ谷でアルバイトをする大学生の「僕」が主人公であり、「クリーム」や「ウィズ・ザ・ビートルズ」では神戸の高校に通う「ぼく」または「僕」が描かれ、さらに「ヤクルト・スワローズ詩集」の主人公は明確に「村上春樹」であり、千駄ヶ谷に住んでいて頻繁に神宮球場に通ったという、多くの読者が知っているエピソードが綴られている。

 エッセイと小説のあいだ、虚構と現実のあいだを描くという意味において、初期の短編集『回転木馬のデッドヒート』の「はじめに」で述べられている「スケッチ」という表現を思い出した。そこで作者は、スケッチとして事実をなるべく事実のままで書きとめていくうちに、「話してもらいたがっている」ことが浮かんでくると書いている。

 僕の中に小説には使いきれない "おり" のようなものがたまってくる。僕がスケッチに使っていたのは、その"おり"のようなものだったのだ。そしてその"おり"は僕の意識の底で、何かしらの形を借りて語られる機会が来るのをじっと待ちつづけていたのである。

  しかし、『一人称単数』が『回転木馬のデッドヒート』と異なる点は、事実、つまり現実から生まれてくる "おり" を使いながらも、さらに一歩進んで、虚構の仕掛けを施して現実を塗りかえているところだと感じた。現実というのは生と死であるが、エッセイのように軽妙に綴られたこれらの作品をよく読むと、死の影が濃厚に漂っていることに気づく。 

  「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」が、もっともわかりやすいだろう。主人公の「僕」が学生時代に「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」という実際には存在しないレコードをでっちあげて作品評を発表したら、その15年後、仕事で訪れたニューヨークでそのレコードを見つけるというストーリーである。そしてチャーリー・パーカーは「僕」にこう語りかける。 

君は私に今一度の生命を与えてくれた。そして私にボサノヴァ音楽を演奏させてくれた。

  虚構、つまり書かれた言葉が現実になることによって、34歳で死んでしまったチャーリー・パーカーが再び生を得て、新たな音楽を演奏することが可能になる。

 この短編集の最初に収録されている「石のまくらに」も、一度だけ寝た女の子についての話であり、それだけなら過去の小説にも似たようなエピソードがあったが、この作品は彼女が詠んでいた短歌が、彼女自身よりも爪痕を深く刻んでいる。

  彼女の名前も知らず、顔も覚えていない「僕」の手元に残っているのは、「ちほ」という筆名で綴った歌集だけだ。「僕」は彼女がもう生きていないのではないかと考える。すべてが消えてしまってもこの変色した歌集だけは残った、と。

 この作品は読書会でも話題になったけれど、村上春樹の文体のなかに短歌が出てくることがそぐわないというか、不思議な印象を受ける。これらの短歌は作者が作った(といっても、もちろん作中の彼女の短歌として作ったのだが)のかと思うとさらに謎が深まるが、『猫を棄てる』で書かれていたように、父親が俳人だったということも関係しているのかもしれない。(読書会でも、父親の名前は「千秋」だという指摘があった)

  「ウィズ・ザ・ビートルズ」も高校生の時のガールフレンドと、彼女の家に遊びに行ったときに遭遇した一風変わった兄についての物語であり、ここでは芥川龍之介の『歯車』が鍵になっている。「僕」は兄のリクエストに応えて、やむなく『歯車』の「飛行機」を朗読する。『歯車』は芥川が自殺する直前に書かれた文章である。 

〈僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?〉――『歯車』より

  『歯車』はこの物語の展開を暗示している。また、『女のいない男たち』を再読して気づいたが、この「ウィズ・ザ・ビートルズ」は「女のいない男たち」とも通底しているようだ。どちらも映画『避暑地の出来事』から生まれたヒット曲『夏の日の恋』が不器用な恋を彩り、のちに「僕」は失われたものに思いを馳せる。

 駒井さんはこの小説について(さらにこの本全体も)、人間の不可解さや心の闇を見事に描いていると評価されていた。たしかに、「ウィズ・ザ・ビートルズ」「女のいない男たち」どちらも、作品で切り取られた心の闇と、晴れわたった空のように健全な『夏の日の恋』との対照が心に残る。

 「クリーム」では、知り合いの女の子に騙されて(さだかではないが)、神戸の山に迷いこんだ高校生の「ぼく」は、キリスト教の宣教車が「人はみな死にます」と告げているのを耳にする。 

ぼくはそのキリスト教の宣教車が目の前の道路に姿を見せ、死後の裁きについて更に詳しく語ってくれるのを待ち受けた。なんでもいい、力強くきっぱりした口調で語られる言葉を

  けれども宣教車は消え去り、見捨てられたような気持ちになった「ぼく」の前へ老人があらわれる。老人は唐突に「中心がいくつもあり、しかも外周を持たない円」の話をはじめる。この円について、私は「ぼく」同様になんのことやらと思っていたのだけど、読書会で聞いたところ、仏教学者であった鈴木大拙の思想らしい。

 ここでまた、寺の息子として生まれて仏教系の学校で勉強を修め、のちに京大文学部へ進んだ作者の父親の姿と結びつけるのはあまりに安易かもしれないが、どうしても頭に浮かぶ。

 どうしてこの作品がいつもの「僕」ではなく、「ぼく」なのかということも気になっていたが、この「ぼく」は作者だけではなく、神戸の名門私立校で教師をしていた父親に教えられた生徒たちも重ね合わされているように思えてくる。「へなへなと怠けてたらあかんぞ。今が大事なときなんや。脳味噌と心が固められ、つくられていく時期やからな」と生徒に日々教えていたのかもしれない。

 そして一見、気楽なエッセイの延長のような「ヤクルト・スワローズ詩集」では、唐突に父親の葬儀のあとのエピソードが語られる。そこから「素敵な思い出」として、父親と甲子園球場に日米親善試合を見に行ったときに、サイン・ボールが膝の上に落ちてきた話が続く。 

それは少年時代の僕の身に起こった、おそらくは最も輝かしい出来事のひとつだったと思う。最も祝福された出来事と言っていいかもしれない。僕が野球場という場を愛するようになったのも、そのせいもあるのだろうか?

  『猫を棄てる』では父親について語ると銘打ちながらも、結局肝心なところは語られていないように思えて、少し物足りなかったけれど、小説という形式をとったこの本では、思いのほか雄弁に語っている。フィクションという虚構を通じてしか語ることのできないものがあるのかもしれない。

 こうやって見ていくと、この本の前半に収録されているエッセイのような作品群にも、さまざまな仕掛けが仕組まれていることがわかる。それによって、現実の生と死が塗りかえられて新たな生が立ちのぼり、しまいこまれていた感情が浮かびあがってくる。

 後半の「謝肉祭」「品川猿の告白」は前半の作品群よりも物語色が強まり、ある種の寓話のようだ。「品川猿の告白」はタイトルからもわかるとおり、『東京奇譚集』所収の「品川猿」の語り直しヴァージョンであり、名前を盗む猿が再び登場する。

 ここでは愛する人の名前を盗むことが「究極の恋愛」であり、同時に「究極の孤独」だと語られる。「石のまくらに」でも、短歌を詠む女の子は「僕」と性交しているあいだ、愛する男の名前を叫ぼうとする。名前とはいったいなんなのか? ということについても考えさせられるが、その一方で、〈I ♥ NY〉とプリントアウトされた長袖シャツを着た猿が、群馬の鄙びた温泉宿で働いているという単純なおもしろさも楽しい。

 

 『謝肉祭』はインパクトの強い一文からはじまる。  

彼女は、これまで僕が知り合った中でもっとも醜い女性だった。

  はじめのうち「僕」は、頭もよく趣味も洗練されている彼女に対して、「もう少しましな容貌であれば」魅力的だったであろうにと考えるが、その考えが薄っぺらい皮相的なものであったことを思い知らされる。
 彼女はその特異な容貌を意識的に行使し、ダイナミックな存在感で「僕」や周囲の人々を圧倒する。彼女が辿る人生の数奇さと陳腐さは、まさに先にも書いた「人間の不可解さ」を具現化したもののように思える。

 それにしても、その彼女のことを醜い女性呼ばわりしたり、「石のまくらに」の彼女を「美人と呼ぶには確かにいくらか無理が」あると書いたり、「ウィズ・ザ・ビートルズ」では、「僕」はもてたことは一度もないが、興味を持って近づいてくる女性はいつもどこかにいたと言ってのけたり、いい気なものだ……という批判に応えるために書いたのだろうかとすら思えるのが、最後に収められた書き下ろし「一人称単数」だ。

 ここでは、「私」が珍しくポール・スミスのスーツを着てバーに行き、ウォッカギムレットを飲んでいると、美人ではないが若いときは人目を惹いたであろう女性に突然話しかけられる。これまでに会った記憶はない。ギムレットなんか飲んでと絡んでくる女性に対して、(よせばいいのに)「ギムレットじゃなくて、ウォッカギムレット」と訂正する。

「なんだっていいけど、そういうのが素敵だと思っているわけ? 都会的で、スマートだとか思っているわけ?」

  見知らぬ女からまったく身に覚えのない謗りを受けるという不条理さから、夏目漱石の「夢十夜」や内田百閒の短編を思い出した。

 また一方で、ギムレットというと忘れてはならないのが、『ロング・グッドバイ』である。「僕」ではなく「私」という一人称であり、謎の女にわけのわからない因縁をつけられているというのに、「大義の見えない争いは好むところではない」なんて悠然と語り、好奇心から話を聞いてしまうあたりもフィリップ・マーロウめいている。
 「ギムレットには早すぎる」とテリー・レノックスはマーロウに語るが、まだギムレットを飲む頃合いではないと、作者も語っているのかもしれない。

 短編集の最後に、村上春樹ブランドに異議を申し立てるようなこんな作品を持ってきたことが興味深い。『猫を棄てる』のときも書いたけれど、70歳を過ぎてもなおも守りに入らず、新たな領域を開拓しようとしているように感じられる短編集だった。

 

壊れた世界を救うのはだれか? 『壊れた世界の者たちよ』(ドン・ウィンズロウ著 田口俊樹訳)

 『壊れた世界の者たちよ』の読書会に参加しました。はじめてのオンライン読書会のうえに、訳者の田口俊樹さんや担当編集の方もご参加されたので、なんだか緊張しました。

  作者ドン・ウィンズロウは、ニューヨークの少年探偵ニール・ケアリーを主人公とした『ストリート・キッズ』でデビューし、繊細で心優しいニールやニールを父親のように見守るグレアムといったキャラクターが、当時のハードボイルド小説に新しい風を吹きこみ、ウィットに富んだ軽妙な語りで一躍人気作家となった。

 しかし、のちに発表した『犬の力』以降の作品では、人気の基盤となっていた軽妙さや愛すべきキャラクターたちをいったん脇に置き、西海岸を舞台に「血で血を洗う」という言葉がふさわしい麻薬抗争を骨太に描いて、さらなる人気と評価を確立した。

 そしてこの『壊れた世界の者たちよ』は、ウィンズロウがその歩みのすべてを詰めこんで総括し、新しい道へ一歩踏み出した中編集だと言える。

 表題作であり最初に収録されている「壊れた世界の者たちよ」では、警察の麻薬取締班に所属するジミー・マクナブと麻薬犯罪組織との容赦のない抗争が描かれている。
 悪の底が抜けた世界、まさに「壊れた世界」で生きる人間の戦いである。
 あきらかに『犬の力』以降の筆致であり、やられたら絶対にやり返す、地の果てまでも追いかける、たとえ地獄に堕ちようとも――という凄惨な描写によって、読んでいる側にも問いが突きつけられる。
 この壊れた世界に正義はあるのか? いったい何が正義なのか? と。 

人は自らが壊された場所で強くなる。

その世界にいかに生を受けようと、人は壊れてその世界を出ていくのだ。

  けれども、そのあとに続く「犯罪心得一の一」「サンディエゴ動物園」「サンセット」「パラダイス」は、もともとのウィンズロウの世界が――主人公と仲間たちによる気の利いた会話の応酬、美しい音楽、打ち寄せる波と波乗りたち、心ときめく出会いと切ない別れ、そこでは犯罪者すらもまぬけで憎めない――くり広げられている。

 このなかで私が好きな「サンディエゴ動物園」は、どういうわけだか拳銃を手に入れたチンパンジーを巡査クリス・シェイが捕えようとする場面からはじまる。
 クリスが拳銃の出処を突きとめようとすると、世にもまぬけな悪党たちに次々に遭遇し、そして動物園に勤務するキャロリンとのロマンスも生まれる……と、愉快なウィンズロウ節全開の作品であり、憎めない悪党たちを描いたら天下一品のエルモア・レナードに捧げられている。

 この「サンディエゴ動物園」を読んだとき、訳者の田口さんが以前エッセイで紹介されていた、スティーヴン・キングがレナードを評した言葉を思い出した。

 キングはレナードの文章を「雪のひとひら」に例え、「ひらひらと舞ってどこに着地するかわからない。そこが魅力だ」と評しているとのことで、そこで田口さんはレナードのストーリー展開についても「どこに着地するかわからない」ところが魅力であり、「よくある話なのに、さきが読めない」というのがエンタメ小説において重要な点ではないかと分析されていた。この「よくある話なのに、さきが読めない」という美点は、ウィンズロウの本作にもまさにあてはまるのではないだろうか。

(と、読書会でも感想として申し上げたところ、レナードはほんとうに先を決めずに書いていたらしいと教えていただきました。ウィンズロウもそんなに細かい点まで詰めていないのか、ところどころで矛盾が見つかり、いろいろ調整されたそうです)

  そのほか、スティーヴ・マックイーンに捧げられた「犯罪心得一の一」では、この中編集の主役のひとりルー・ルーベスニック(ホンダシビックを愛する寝取られ刑事)と、頭の切れる悪党デーヴィスとの心理戦に目が離せない。
 さらに、65歳になったニール・ケアリーが登場する「サンセット」はレイモンド・チャンドラーに捧げられていて、伝説のサーファー“テリー・マダックス”を 『夜明けのパトロール』のブーンが追いかける。

 ハワイのカウアイ島を舞台にした『パラダイス』は、『野蛮なやつら』の「友好的三角関係」であるベンとチョンとOを筆頭として、おなじみのキャラクターが続々登場する。楽園での優雅な休暇を描いているのかと思いきや、案の定、麻薬抗争が勃発して……という展開で、楽園を追放された者たちが新たな楽園を作りあげる物語である。

 と、従来のファンにとっては懐かしく、今回はじめて読んだ人はきっと過去作も読みたくなるにちがいない名品揃いなのだが、読書会の感想では、65歳のニール・ケアリーには微妙な感慨を抱いた方も多かったようだった。

 たしかに私も、ニールのキャラや口調が若いときと変わっていないのに少し違和感があった、とはいえ、いきなり年寄りくさくなっていたら、もっと違和感を抱いたのはまちがいないので、キャラクターに歳を取らせるのは難しいものだなとあらためて感じた。(しかし、『ただの眠りを』の72歳のフィリップ・マーロウには、私はそんなに違和感を持たなかったのだが……読書会が再開されたら、みなさんの意見も伺いたい) 

  そして最後の「ラスト・ライド」は、また趣きががらりと変わり、いまアメリカで刻々と起きている社会問題をシリアスに切り取った作品である。

 テキサスで生まれ育った主人公キャルは国境警備隊員として、「くそメキシコ人」が入ってこないよう有刺鉄線の張られたフェンスを日々パトロールしている。しかも、連れられて不法入国した子どもたちを、親から引き離して檻に入れている。

 好きでやっているわけではない。父から受け継いだ牧場からはじゅうぶんな食い扶持が得られず、カウボーイの仕事も減る一方だからだ。ニューヨークタイムズやCNNといったリベラル系のメディアからは、自分たちが極悪人のように報道されているのも知っている。実際、先の選挙では「あいつ」に投票した。あの女に投票するわけにはいかなかったからだ。 

おれは弱者に心を痛めるリベラルな左派じゃない。ああ選挙じゃ今の大統領に投票したよ。それでも、国が今やってるようなことに投票したわけじゃない。それだけは言っておく。

  そんなキャルが檻の中にいるひとりの少女を助けようとする。自分でもなぜなのか、どうしてその子だったのかはわからない。そんなことをしたら職は言うまでもなく、これからの未来も、何もかも失ってしまう。ひとりを助けても意味がないと同僚女性のトワイラに言われる。それでも、キャルは少女を檻から連れ出し、愛馬ライリーとともに母親のもとへ返そうとする。 

たいていの人間は大きな犠牲を払わずにすむなら、正しいことをするものだ。だけど、大きな犠牲が必要なときに正しいことができる者はきわめて少ない。 

  キャルは少女を救えるのか? というのが物語の主眼だが、キャルが救おうとしているのは少女だけではなく、この「壊れた世界」であり、つまりはアメリカそのものだと感じた。また自分自身への救いでもあり、閉ざされた心とイラクで負った傷を抱えるトワイラにとっても救いになるにちがいない。救うことができれば。この物語の顛末と落とし前を、読む側はどう受けとめたらいいのか考えさせられた。

 「壊れた世界」を描いているという点で、冒頭の「壊れた世界の者たちよ」とつながる作品であり、中編集の最初と最後にこの二作を置いた構成の巧みさに、読書会でも感心の声があがった。そして「壊れた世界」をどう乗り越えていくのか、次の作品への指針として最後に置かれているように感じられた。

 現在ドン・ウィンズロウは大統領選挙に向け、SNSなどで反トランプキャンペーンを熱心に展開している。その一方で、先の選挙でトランプに票を入れざるを得なかった市井の人々の気持ちを、見事に汲み取っている。そういう人たちこそが「正しいこと」を行う存在として描いている。

 訳者の田口さんは、きれいごとばかり言って何ひとつ自らの手を汚そうとしない、西海岸や東海岸のリベラルなインテリ(当然、民主党を支持する面々)に向けた痛烈な批判だとこの作品を語っていた。
 そういえば、同じく田口さんが訳されているボストン・テランも、『その犬の歩むところ』や『ひとり旅立つ少年よ』で、アメリカを総括して描こうとしている印象を受けたけれど、アメリカの作家にとっては、〈アメリカ〉そのものが永遠のテーマなのかもしれない。 

その犬の歩むところ (文春文庫)

その犬の歩むところ (文春文庫)

 

  読書会では、参加者全員がこの本でもっとも好きな作品を挙げていった。(短・中編集で読書会をすると、これで盛りあがれるのがいいところですね)
 私は「ラスト・ライド」に票を投じたものの、一番楽しい「サンディエゴ動物園」に人気が集中するのではないかと思っていたが、意外にもどの作品も満遍なく人気があった。シリアスなものでもコミカルなものでも、質の高い作品に仕上げる作者の技量の高さのあらわれだろう。

  さて、前代未聞のコロナ禍に直面し、こうやって読書会もオンラインに移行しつつある今日この頃、私たち大阪読書会も前へ進まないといけません。たとえ世界が壊れてしまっても読書のよろこびだけは壊さぬように、オンライン読書会の準備を進めようと思いますので、再始動の暁には、みなさまぜひともご参加ください。

 

憎しみにうち勝つために 『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ あなたがくれた憎しみ』(アンジー・トーマス著 服部理佳訳)

カリルの体は、見世物みたいに通りにさらされていた。パトカーと救急車が、続々とカーネーション通りに到着する。路肩には人だかりができていた。みんな、のびあがるようにして、こっちをうかがっている。

  『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ あなたがくれた憎しみ』は、アメリカの青春ドラマでよく見かける光景 からはじまる。

 仲間たちとの華やかなパーティー。音楽が大音量でかかり、アルコール片手に踊り、友達同士でおめあての相手やライバルについての噂をこそこそ語る。そんなありふれた場面がいきなりの銃声で一変する。

 黒人街(ゲットー)の地元ガーデン・ハイツのパーティーにしぶしぶやってきた主人公スターは、そんな発砲騒ぎのなか、幼なじみのカリルに連れ出されて無事に脱出する。カリルの車に乗って一息つくが、初恋の相手でもあるカリルがどうやらドラッグを売っているらしいと気づき、胸に不安がよぎる。

 そのとき、悲劇がおきる。警官に車を止められる。
 スターは12歳になったとき、父親から大事な教えを聞かされていた。警官に呼びとめられたときは、とにかく言われた通りにしろ、と。手は見えるところに出しておけ。カリルもその教えを聞いたことがあるのだろうか? 

 警官はカリルの身体を調べるが、何も出てこない。何も問題はない。ところが、スターの身を案じたカリルは、やってはいけないことをしてしまった。警官が背を向けているあいだに動いたのだ。警官が銃を撃つ。スターの目の前でカリルは血を流して死ぬ。


  唯一の目撃者であるスターは、警察から事情聴取を受ける。カリルは無抵抗だったのに警官が発砲した事実を伝えようとするが、警察はカリルがドラッグを売っていたことに固執する。案の定、ドラッグの売人であった不審な黒人男性を警官が射殺したと報道される。このままでは撃った警官が罪に問われることなく終わってしまう。
 ガーデン・ハイツでは抗議活動がおきる。事件を目撃したトラウマと注目されることの恐怖から名乗り出ることができなかったスターも、もう黙ってはいられないと立ちあがる……

 非常にリアルな小説だった。つい最近も、ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドが殺され、警官の処分をめぐる抗議活動が、Black Lives Matterというスローガンとともに全米に波及した。まるでこの小説が予言していたかのようにも思えるが、実のところは、以前から何度も何度もこんなことがくり返されてきたのだろう。

 しかし、この小説が持つリアルさは、単に現実で頻繁におきている事件をテーマにしているからではなく、スターをはじめとする登場人物が持つ複雑な背景や心情が、ありがちな型にはめられることなく、複雑なままていねいに描かれているからだと感じた。

 スターは異母兄のセブンとともに、両親(とくに母親)の意向で、裕福な白人が多く通うウィリアムソン高校に通っている。地元ガーデン・ハイツを愛していながらも、ここから脱出しないといけないという両親の複雑な思いを、セブンとスターも理解している。
 だから、冒頭の舞台である地元ガーデン・ハイツのパーティーでは、居心地の悪い思いを味わっている。その一方で、ウィリアムソンではのびのびとふるまうことができない。どちらにも所属できない。常に自分を抑えて過ごしている。 

ウィリアムソンのスターはスラングを使わない。ラッパーが使っても、白人の友達が使っても、絶対に使わない。ラッパーが口にすれば格好いいけど、ふつうの黒人が使ったら、ゲットー育ちに見えるだけだ。ウィリアムソンのスターは、腹が立つことがあっても、ぐっと我慢する。怒りっぽい黒人の少女だと思われたりしないように。

  スターはこうやってガーデン・ハイツにいる自分と、ウィリアムソンにいる自分を使い分けて、学校生活をやり過ごしていた。しかし、カリルの事件が起きてからは、それが変わっていく。
 カリルの事件に対する抗議活動を口実にして、学校で暴れて授業をボイコットしようとするクラスメートに違和感を覚える。差別的な冗談を口にする白人の友達ヘイリーに我慢できなくなる。自分を抑えつけていた枠が外れていくのがわかる。白人のボーイフレンドであるクリスとも、このままつきあい続けることができるのだろうか……?

 セブンの場合はもっと複雑だ。
 スターの父親とギャングのボスの愛人アイーシャとの子であるセブンは、スターのように白人社会とガーデン・ハイツのあいだで引き裂かれているだけではなく、ガーデン・ハイツのなかでも、スターの家と実母が生きるギャングの世界のあいだで引き裂かれている。
 スター一家とともにガーデン・ハイツから脱出したいと願いつつも、実母や妹たちを見捨てることができないセブンの葛藤は、読んでいるこちらも胸が苦しくなる。

  スターやセブンだけではない。
 元ギャングであるスターの父親、一度はドロップアウトしかけたものの、スターをお腹に宿したまま大学に通い、看護師となったスターの母親、そして父親のように面倒をみてくれる、母親の兄であるカルロスおじさん……といった登場人物たちは、だれもがみな自分たちが生きてきた社会と、その外側の社会とのあいだで引き裂かれている。

 スターの両親はガーデン・ハイツから去るべきかどうか悩み、警官であるカルロスおじさんは、カリルを射殺したことを正当化しようとする警察組織に所属していることに苦しむ。それぞれ異なる立場から、この事件を通じて、あらためて外側の社会に向きあい、一歩ずつ前へ進んでいくさまに希望を読み取ることができる。

  といっても、現実においても、小説においても、差別や貧困をめぐる問題がそう簡単に解決するとは思えない。この小説では、ゲットーでドラッグや暴力がもたらす悲劇も赤裸々に描かれている。それでも希望が感じられるのは、人間は過ちを犯すものであるが、そこから立ち直ることもできるという信条が貫かれているからだろう。

 印象に残った場面のひとつに、何度も過ちを犯した父親をどうして許したのか、スターが母親に尋ねるくだりがある。
 「正直、わたしだったら絶対別れてるな。悪いけど」と。(私もそう思った) 
 そこで母親は、人は過ちを犯すものであり、犯した過ちより、その人に対する愛のほうが大きいかどうかで、決めるしかないと語る。

 この小説のタイトルは、2パックの言葉 "The Hate U Give Little Infants, Fuck Everybody" から取られている。憎しみをぶつけられ続けた子どもが社会に牙をむく、という意味だ。
 憎しみにうち勝つのは愛だ、なんていうと甘いのかもしれないし、クサ過ぎる気もする。それにもちろん、憎しみをぶつけてくる相手を愛することなんてできない。けれども、なにより怖いのは、憎しみをぶつけられることによって、自分のなかの愛が失われることではないだろうか。
 この小説の登場人物たちのように、まわりの人間に対する愛があれば、厳しい状況であっても希望を失わず生きているのかもしれない、と感じた。なかなか難しいけれど。