快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

イノセンスの行く末 『ブライヅヘッドふたたび』 イーヴリン・ウォー

 前に書いた『街角の書店』に続いて、イーヴリン・ウォーを読もうと思い、ついに代表作『ブライヅヘッドふたたび』を読みました。


 想像していたよりすごく読みやすい話でさくさく進み、読了後、まずはざっくりと下記のような感想を抱きました。(物語の結末まで書いているので注意してください)

 

ブライヅヘッドふたたび (ちくま文庫)

ブライヅヘッドふたたび (ちくま文庫)

 

  あれ? セバスチャン、結局最後まで放置プレイだったんや。

 主人公と再会するのかと思いきや、どっかの国で寅さん映画の佐藤蛾次郎みたいな暮らしをしているとは……まあ、それはそれで幸せな人生かもしれんが。。
 
 それにしても、セバスチャンの妹のコーデリア、めっちゃええ子やのに「器量がちっとも良くない」女に成長しとか、「みすぼらしい服装をし、人目を惹くことに関心をなくした女の歩き方をして」(どんな歩き方なのか非常に気になる)とか「二十六の年よりも老けて見えて、辛い生活をして来たためにどこか粗野になり」って尼になることを決心して、野戦病院や収容所で働いて帰ってきた矢先に、かなりのひどい言いようぶり……ほんとこの作者口悪いなー。それにしても、ばあや、えらい長生きやな。
 

 という、詩的な叙情とはまったく無縁なものでした。
 が、そんな私でも、この小説の冒頭、私とセバスチャンがオックスフォードで出会って仲良くなり、


羊が芝を食べに来る小さな丘に楡の木が何本か枝を伸ばしている下で、私たちは苺と一緒に白葡萄酒を飲み


 というところは、「何とも甘美なもの」をうっとり感じた。しかし、この物語では、甘美な瞬間は瞬く間に消え去り、無邪気で美しいものは無様な最期を迎える。


 出会ってまもない頃のセバスチャンは、「人を魅了しないではおかないように見えて、それは若い頃には愛の歌を高らかに歌い、冷い風が吹いて来た途端に萎れる種類の美しさ」と形容されており、物語の最後まで読んでこの描写をあらためて読むと、この言葉がまさにセバスチャンの運命を暗示していることに気づく。
 ライナスの毛布のように、いつでも熊の玩具をかかえ、車を運転するときさえも傍らに置き、「熊公が酔って吐かないように気をつけて、」と言うセバスチャン。イノセンスというものは、永遠に失われるか、捨てきれなかった場合は、往々において、所有者はみじめな末路をたどることになる。小説の中でも、そして現実世界でも。

 セバスチャンをはじめとする、この一家のイノセンスの根源は、母親が体現するカトリックの宗教である。イノセンスを捨てきれなかったセバスチャンと同じく、父親のマーチメーン候も、家を出ても離婚ができないため、世間からは不倫関係とみなされながら外国で愛人と暮らす生活を続けるが、最期は家に戻り、カトリックの司祭に見守られながら十字を切って息を引き取る。
 その一方、兄のブライディーは、若い頃から信心深く、超然とした生き方をしていたはずが、世慣れた年上の未亡人にひっかかり(今の言葉でいうと、非モテの人にありがちなパターンですね)、一気に通俗的になっていくあたりが、やはりウォーは人間をよく観察しているな、と興味深かった。


 主人公の私の家は、貴族でもカトリックでもなく、父はひとり暮らしで書斎にこもりっきりで古書を研究しているのだが、私に対して、私の従兄が借金で首が回らなくなった話をして

私は父が、ロンバード王国時代の祈禱書に紀元前二世紀の古文書が二ページ挟まっているのを発見したとき以来、そんなに嬉しそうな顔付きをしているのを見たことがなかった。

という、かなりの曲者ぶりである。
 周囲の人たちに、じわじわと嫌がらせともいえる悪ふざけを仕掛けるのが趣味らしく、英国はこういう食えないじいさんが多いのか、あるいはウォー本人がこういう人種だったのか気になる。(両方のような気がしますが)


 この物語の後半部分は、画家として成功した私と、セバスチャンのもうひとりの妹であるジュリアのそれぞれの結婚の破綻――ふたりとも通俗性を煮しめたような配偶者と結婚していた(セバスチャン的なものへの反動だったのかもしれない)――と、ふたりの恋愛が進展し、奔放な生き方でブライヅヘッド一家のはみだしものだったジュリアは、私と愛に生きることを選択するのか、それとも……というところが、メインの展開になる。

 けれども、恋愛小説というよりは、イノセンスを失うことの愛惜、失わずに生きていくことの苦しさが印象に残った本だった。カトリックという宗教については、私は感想が言えるほどなにも知らないのだけれど、また考えてみたい。