快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

あなたの選ばなかった人生は? マット・ヘイグ『Midnight Library』

マット・ヘイグの『Midnight Library』を読みました。
発売されてから一年近く経っているのに、いまもなお、The New York Times誌のベストセラーに入り続ける人気作です。 

主人公Noraが死のうと決心するところから、物語がはじまる。

Noraは兄のJoeとバンドを組み、デビューの契約までこぎつけた。けれど結局、Noraはバンドを続けられず、デビューの話も消えた挙句、Joeにも絶交された。バンドをやめた理由は、パニック障害に襲われたうえに恋人のDanが音楽活動をよく思っていなかったからだが、Danとの結婚話も解消してしまった。

以前、親友のIzzyに一緒にオーストラリアに移住しようと誘われたが、Danとの結婚を考えていたNoraが断るとIzzyはひとりで移住し、連絡も途切れがちになった。

ダメ押しのように、飼い猫のVoltが車にひかれて死んだ。ピアノを教える仕事をしていたが、そこもクビになった。何もかもが行き詰まってしまった。

どうしてこんな人生になったのか? 

子どもの頃の自分は、熱心な父親の指導のもとで、オリンピック出場を目指す水泳選手だった。自然科学にも興味を抱き、National Geographicを愛読して、科学者になるという夢も持っていた。音楽にも才能を発揮し、学校のみんなからCOOLと憧れていたJoeとバンドを組んで、自分で曲を作って歌った。大学では哲学を専攻し、H・D・ソローに傾倒して哲学者になることも考えた。
ありとあらゆる可能性に満ちていたはずだった。

なのに、なぜこんなことに? 

仕事もない。お金もない。友達もいない。恋人もいない。飼い猫も死んだ。(電気グルーヴの「N.O.」みたいですが)

Joeに電話をかけてヴォイスメールを残し、紙切れにメッセージを書きつけ……そしてNoraが目が覚めると、そこは図書館だった。

目の前には、かつて通っていた学校の司書をしていたMrs Elmがいる。Mrs Elmが言うには、ここは生と死のはざまにある図書館らしい。
この図書館に置かれている本には、Noraが選ばなかったいくつもの人生が書かれていると、Mrs Elmが語る。好きな本を選んで手に取ると、選ばなかった人生を生きることができる、と。
Noraはこれまでの人生における数限りない後悔をふり返り、選ばなかった人生を生きてみようとするのだが……

というのがあらすじで、ここからNoraは、水泳を続けていた人生、Danと結婚した人生、科学者になった人生、バンドで成功をおさめた人生、Izzyとともにオーストラリアに移住した人生、飼い猫Voltを外へ出さずに家に閉じこめた人生……を生きてみるのだが、案の定、どれも思っていたようにはうまくいかない、というお約束の展開となる。

選ばなかった人生を生きてみるというのは、ありふれた設定とも言える。
だがそれでも、この小説がこれだけ多くの読者をひきつけるのは、ひとつひとつの人生がディテールまで書きこまれていて単純におもしろいという理由もあるが、なにより、主人公Noraの追いこまれた心情やとめどない後悔が切実でやるせなく、読者の胸に響くからではないだろうか。

とはいえ、Noraはオリンピック選手を目指せるほどの運動能力を持ち、音楽の才能もあり、小学校や中学校においては完全に勝ち組、学校のスターと言っても過言ではない存在である。冷静に考えると、とくに取柄のない大半の一般人にとっては、共感できる要素なんてない。
なのに、なぜNoraの気持ちがこんなに理解できるのか?

これほどの能力に恵まれているというのに、Noraの自己肯定心は著しく低く、水泳でもバンドでも注目を浴びることに耐え切れなくなり、パニック発作を起こしてしまう。

Noraは選ばなかった人生を生きているうちに、両親が結婚生活や人生の不全感を解消するために、自分に多大な期待をかけていたのだと気づく。だから競技を続けることが苦しくなったのだ。
音楽活動にしても同じだ。バンドで成功するという夢を抱いていたのはJoeの方だった。Danとの結婚生活はDanの夢であり、Izzyとのオーストラリア移住はIzzyの夢であった。

これまでの人生において、Noraは誰かの夢を叶えるために力を尽くし、でも自分の夢ではないので最後には破綻して罪悪感を覚え、自己肯定心が落ちこみ、そして自分を肯定してもらうためにまた誰かの夢を叶えようとする、というのを何度もくり返してきたのだ。

自分が自分でいようとしたら誰かを失望させる、誰かの期待に応えようとしたら自分でないものにならなければいけない――
これがNoraの心に刻まれたトラウマであり、多くの読者にとっても思い当たる心の動きであったため、これだけのヒット作になったのではないだろうか。

いくつもの選ばなかった人生を生きたNoraは、選ばなかったのには選ばなかった理由があり、もしくは、どう選んでも最終的には同じ結果になっていたことを心の底から納得する。
そうしてついに、Noraは完璧な人生を手に入れる。愛する夫に愛する子ども、やりがいのある仕事。しかし、その人生も長くは続かないと悟ったとき、Noraのとった行動は…………

マット・ヘイグは『#生きていく理由 うつ抜けの道を、見つけよう』で、自らが体験した不安神経症うつ病について記している。 

 自らもうつで悩んだことがあるから、死にたいと思う人の気持ちがこれだけリアルに描ける――
というのは安直すぎるが、それでもやはり、『#生きていく理由』と『Midnight Library』はつながっているように感じた。

『#生きていく理由』では、「生きているということ」という章で 

生きていくことは苛酷だ。人生は美しくすばらしいものにもなりうるが、同時につらいものでもある。 

と書き、「不滅の偉大なる詩人にして広場恐怖症だったエミリー・ディキンスン」の言葉を紹介している。

 二度と同じことは起こらないということが、人生をとても甘美なものにする

 二度と同じことは起こらない――つまり、人生のあらゆる選択は一度きりである。だからこそ後悔の連続でもあり、『Midnight Library』でいう〝Regret of Books〟ができあがってしまう。けれど、それこそが人生の甘美さなのかもしれない。 

英米での人気にくらべると、日本ではマット・ヘイグはブレイクしているとは言いがたい。コアな純文学やミステリーの読者でなくても楽しめる、この手の作品の知名度があがれば、もっと海外文学の読者も増えるのではないかと思うのだけれど……
おそらくこの『Midnight Library』も翻訳されるだろうから、その際には私も応援して(ものすごい微力ながら)、日本でも盛りあがったらいいなと思います。