快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

たとえ「正しくない人」であっても糾弾せず、排除しない――『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ)

さて、今回の800字書評講座の課題は、ベストセラーとなって世間を席巻した、ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』だった。

これもまた、書くのが難しかった。
いや、どの課題書も簡単だったことはないけれど、こういう文句のつけようのない「いい本」、書かれている内容が「正しい本」こそ、書きづらいものだとつくづく感じた。

私の書評は以下のとおりです。

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(題)どうしてこんなに「いい子」なのだろう?                                  

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を再読して、あらためて思うのは、この息子はなんと「いい子」なのだろう、ということだ。だがその一方で、なぜダニエルと仲良くなったのだろう? という疑問もわいた。


ハンガリー移民の両親を持つダニエルは、「黒髪と薄茶色の瞳のすらりとした美少年」で、子役経験もあり、中学校で『アラジン』を上演する際も主役の座を射止める。そんなダニエルは、自らも移民でありながら、黒人の生徒を「モンキー」と呼ぶ「コテコテのレイシズム原理主義者」でもある。ぼくが「いい子」ならば、ダニエルはまちがいなく「悪い子」だ。それなのに、息子は「ダニエルと僕は、最大のエネミーになるか、親友になるかのどちらかだと思う」と言う。


東洋人である作者とアイルランド系英国人である配偶者の間に生まれた息子は、英国では東洋人として差別を受け、日本に来たときにはじろじろと見られたり、ひどいときには酔っぱらいのおっさんに「Youは何しに日本へ?」などと絡まれたりもする。タイトルにもなった「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という言葉に、息子の心情が凝縮されている。


ならば、レイシストであるダニエルは「エネミー」にほかならない。しかし、差別発言をくり返すダニエルが、ほかの生徒たちから「正しくない人認定」をされ、バッシングされても、息子はダニエルの友人であり続ける。


たとえ「正しくない人」であっても糾弾せず、排除しない――この視線こそが、ブレイディみかこが、ほかの社会派ライターと一線を画している理由ではないだろうか。
この本と同時期に書かれた『ワイルドサイドをほっつき歩け』では、EU離脱に票を投じ、時代遅れの排外主義者と蔑まれがちな「労働者階級のおっさん」についても、それぞれの事情や内面に目を向けて、「おっさんだって生きている」と綴っている。

この本において、エンパシーとは「自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人が何を考えているのだろうと想像する力」と定義されている。自分から見て「正しくない人」であっても、その人の靴を履いてみようとする力。その人が困っていたら、助けようとする気持ち。

『アラジン』でジーニーを演じる息子は、「自分とはまったく違う人物になることを心から楽しんでいる」。「いい子」たる所以は、「正しさ」ではなく、エンパシーの能力なのだと理解した。

ここまで------------------------------------------------------------------------------


ブレイディみかこさんの書いたものをほとんど読んでいるけれど、正直なところ、この本については、
書評のタイトルのように「この息子、どうしてこんなに〝いい子〟なのだろう?」という点がどうしてもひっかかってしまい、感想をまとめづらかったのだけれど、
〝悪い子〟のダニエルに焦点をあてることで、「正しさ」よりも「エンパシー」に主眼をおく論理を立てることができた。(おおげさな言い方ですが)


やはりこの本の肝は、「他人の靴を履く」エンパシーについての深い考察(そして、それを中学生の息子が成し遂げているということ)であり、ほかの受講者の書評もエンパシーに触れているものが大半だった。

なかには、日本では「みんなちがって、みんないい」と教えるが、日本社会にはその先がない、という指摘をしている人がいて、なるほど!と思った。というか、現実の日本社会では「みんなちがって、みんないい」すらも、まだまだ認められていない気もするが。

あとひとつ、ほかの受講生からの指摘で興味深く感じたのが、作者がダニエルを「ハンサム」と評したことや(私の書評でも「美少年」と書いていますが)、
さらに近所の少女が行方不明になったくだりで、「年上のボーイフレンドと遊んでるとかならいいけど」と作者が言い、イギリス人の夫に「それが犯罪じゃねえか」と注意される場面を取りあげ、
日本人は未成年の児童に対しても容姿を評価する傾向があり、それが未成年の児童を性的な対象として見ることに寛容であることと地続きなのではないか、という意見だった(もちろん、作者が未成年の児童を性的な対象として見ているわけではないが)。

たしかに、日本人はすぐにルックスのことをあれこれ言う。
いや、欧米人も気にしていないわけではないだろうが、日本人ほど、他人のことを堂々と太ったとか痩せたとか言わないのではないだろうか。
うちの母親もテレビに出ている芸能人を見て、「太ったな」「歳とってぶさいくになった」など、しょっちゅう吐き捨てていた。

考えたら、ルッキズムというのも、ある一定の美の基準(痩せているとか、目が大きいとか)を全員に適用することなので、「みんなちがって、みんないい」が実践できていないことのあらわれかもしれない。

それにしても、「他人の靴を履く」エンパシーは難しい。

ちがう立場の相手の気持ちを想像する、なんて言葉でいうと、さほど難しいことのように感じないけれど、具体的な例を挙げて、絶対に理解できそうのない相手の気持ちを想像しようとすると……たとえば、いま総裁選に立候補している某女性候補の気持ちとか……ちらっと考えただけで、無理だ!と即座にギブアップしてしまう。
エンパシーの難易度の高さを思い知らされる。まだまだ修行が足りない。

ちょうど出たばかりのブレイディみかこさんの新刊『他者の靴を履く――アナーキック・エンパシーのすすめ』が、本書の続編と言えるものであり、まさにエンパシーをテーマにしているようなので、読んでみないと。
そう、エンパシーとはアナーキックなものなのだろう。