快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

”歴史の証人”となるためのブックガイド① ジョージ・ソーンダーズ『Lincoln in the Bardo』、『歴史の証人 ホテル・リッツ 生と死、そして裏切り』( ティラー・J・マッツェオ 著, 羽田 詩津子 訳)

 先日のノーベル文学賞に続き、ブッカー賞も発表になりましたね。日本でもすでに何冊か訳されている、ジョージ・ソーンダーズの『Lincoln in the Bardo』が受賞したとのこと。 

Lincoln in the Bardo: A Novel

Lincoln in the Bardo: A Novel

 

 

短くて恐ろしいフィルの時代

短くて恐ろしいフィルの時代

 

  人気作『短くて恐ろしいフィルの時代』を訳された、岸本佐知子さんのツイートによると

最愛の息子を幼くして失ったリンカーンが夜ごと墓地に舞い戻って息子の亡骸を抱きしめて泣いた、という史実に基づいて幻視された、墓地での一夜を描く物語です。

なにしろ舞台が墓場なので、数十人にのぼる登場人物はほぼすべて死者。メインキャラその1は新婚初夜直前に死んだので全裸で勃起しっぱなしの姿、その2は全身に目や鼻が無数についていて、その3は永遠に驚愕の表情が張り付いて取れない。

この一夜の出来事がリンカーン南北戦争、そして奴隷解放にも大きくかかわっていく、という感動的な流れになっていく。これが初長編ですが、ブッカー賞受賞もうなずける堂々たる風格の作品です。いやほんとにおめでとうございます。

とのことで、正直、どんな話なのやらいまいち想像がつかないけれど、めちゃくちゃおもしろそうではある。

 実はいま、歴史に関する本をいくつか読んでいて、リンカーンに関するノンフィクション『リンカーン』も目を通していたのだけど、 

リンカーン(上) - 大統領選 (中公文庫)

リンカーン(上) - 大統領選 (中公文庫)

 

 そこでも「ぼうやが逝ってしまった 1862年冬」という章で、このリンカーンの生涯の大事件が語られている。

 なんでも、リンカーンの奥さんメアリーは、高い教育を受けた才気煥発な女性であり、大統領になるような男と結婚したいという野心と自己主張が強かったため、すっかり嫌われ者になり(なんだか最近も聞いたことがあるような話だが)、現代に至るまで悪妻と言われ続けているけれど、
この本によると、息子ウィリーの死に打ちのめされたメアリーは、「罪悪感と深い悲哀感に苛まれ」「自身の傲慢な自尊心を罰するために、ウィリーの命を奪っていったのではないか」と思うようになり、降霊術などにはまっていく。

 そして、リンカーンが暗殺され、さらに息子テッドを亡くしたあとは、いっそう精神が不安定になり、精神病院に収容されたりと孤独な晩年をおくったらしい。

 ちなみに、この英文記事によると、ソーンダーズはチベット仏教の信者らしく、仏教徒として、死、そして再生(生まれかわり)のはざまを描いているとのこと。

www.nytimes.com

私も一応仏教徒だけど、理解できるのだろうか、、、以下が本人のコメントです。

“For me, the book was about that terrible conundrum: We seem to be born to love, but everything we love comes to an end,” (conundrum は謎とか問答という意味ですね)

リンカーン・イン・バルド』は上岡伸雄さんの訳で来年に刊行予定で、その前作『十二月の十日』は岸本さんの訳で出るそうです。楽しみだ。

 あと、『歴史の証人 ホテル・リッツ 生と死、そして裏切り』も読みました。 

歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)

歴史の証人 ホテル・リッツ (生と死、そして裏切り)

 

  これはパリの高級ホテルであるホテル・リッツに焦点をあて、19世紀末から20世紀半ばまで、ホテル・リッツに出入りする人々の群像劇として歴史の変遷を見事に描いたノンフィクション。

 ドレフュス事件でゆれる世紀末のパリで、文名を高める野心に燃えるマルセル・プルースト。そして、もっとも多くのページが割かれているのは、やはりナチス占領から連合軍による解放までであり、ホテル・リッツで秘密裡に行われていたレジスタンス活動、「パリは燃えているか」に逆らい、パリを燃やさないようにしたコルティッツ司令官、解放の瞬間を一番に見届けようとホテル・リッツに乗りこみ、乱痴気騒ぎをくりひろげるヘミングウェイロバート・キャパ

 ドイツ人将校の愛人となったことから、ナチスに協力した罪を問われ、「この年で愛人を持つチャンスを与えられたら、相手のパスポートなんて見るものですか」とやり返したココ・シャネル。「王冠をかけた恋」として有名な、エドワード6世とウォリス・シンプソン夫婦もホテルの常連として重要な登場人物なのだけど、「愛する女性のために王位を捨てた」みたいな素敵イメージがあったが、ナチスに協力的であったり、エドワード6世もプレイボーイだったらしいけど、ウォリスも結婚してからも不倫しまくりだったりと、なんだかゲス夫婦のように感じてしまった。


 最後、パリはナチスから解放され、戦争が終結し平和が訪れるが、キャパは地雷で命を失い、アルコールに溺れたヘミングウェイは自らの頭に銃を向け、ホテル・リッツにも悲劇がおきる……

 訳者あとがきにある、まさに「時代とホテルが渾然一体となって造りだした濃密なドラマ」を目撃しているように感じられる一冊だった。

『MONKEY vol.13 食の一ダース 考える糧』発売記念 柴田元幸トーク&朗読会@枚方蔦屋書店

 10月15日、『MONKEY vol13 食の一ダース 考える糧』発売記念として、枚方の蔦屋書店で行われた、柴田元幸さんのトーク&朗読会に参加しました。 

MONKEY vol.13 食の一ダース 考える糧

MONKEY vol.13 食の一ダース 考える糧

 

 いや、実は枚方は私の地元なのだけど(いまは別のところに住んでいますが)、正直ひらぱー以外な~んにもないのによく来てくれるもんだ…と思いつつ、一瞬実家に寄ってから行って参りました。

 まずは、今号のMONKEYの冒頭に掲載されている、リオノーラ・キャリントンの「恋する男」を朗読されました。

ある晩、狭い道を歩いている最中、あたしはメロンを一個盗んだ。

とはじまる掌編で、あとの質疑応答で、「どうして”あたし”、つまり女性の語り手になったのか?」という質問が出ました。
 答えとしては、この短い物語では語り手が女という根拠はないが、この短編集全体で女が主人公の話が多いこと、そして作者が女性であることから女の語り手を採用したとのこと。なるほど。


 そのあとは、今号のMONKEYについてのトークとなり、柴田さん曰く「食」をテーマにしたものの、ふつうにおいしそうな物語は二編しか集まらなかったと。
 たしかに、ブライアン・エヴンソンの短編なんて、

彼女が目ざめると、生肉の雨が野原に降ったあとだった。

なんてはじまる始末。タイトルも「どんな死体でも」と、さすがぶっとんでいる。

 けれど、それぞれの物語についている料理の写真がほんとうに綺麗でおいしそうで、いや、実際においしかったらしい。(柴田さんは食べていないそうだけど)
 料理の写真をつけるのは、編集会議でスタッフから出たアイデアだったらしく、どんなものになるのやらと思っていたら、期待をはるかに上回るものになったとおっしゃってました。ほんと立ち読みしてでも見てほしい。作られているのは、竹花いち子さんです。

 そして、今度こそはおいしそうな話をと、チャールズ・シミックのエッセイ「食べものと幸福について」("On Food and Happiness")を朗読。前の晩の8時から11時までに訳したという、訳したてほやほや。
 チャールズ・シミックは、昔『世界は終わらない』を読んだことがあり、おもしろかった記憶がある、、、が、例のごとく内容ははっきり覚えていない。 

世界は終わらない

世界は終わらない

 

  おいしい食べものとはとんと縁がないアメリカ人とちがって(アメリカ文学専門の自分が言うのだからまちがいない、と柴田さん)、チャールズ・シミックは、セルビア系移民だけあって、食べものへのこだわりが半端じゃないと。

 そのとおり、おいしそうな食べものが次から次へと出てくるエッセイで、聞いていてすっかりおなかが空いてしまった。
 セルビアのいんげん豆の煮もの、アドリア海で食べるイカにオリーヴ、ムラサキ貝のリゾット……なかでも、肉のつまったブレクってなんだろう?? と思って、あとで検索したところ、薄い生地と具を重ねて焼いたトルコ発祥のパイらしい。めっちゃおいしそう~~けど、セルビア料理っていったいどこで食べられるのやら。。


 で、次号のMONKEYは「絵が大事」とのことで、挿画特集らしい。そういえば、今号のBOOKMARKも「顔が好き!」と装丁特集だったし、"インスタ映え"が求められるこのご時世だけあって?、視覚効果はやはり重要ですね。

 そのBOOKMARKでは、柴田さんが訳したポール・オースターの『内面からの報告書』『冬の日誌』が紹介されていました。 

内面からの報告書

内面からの報告書

 

  

冬の日誌

冬の日誌

 

 「かつての自分の地層に分け入るように丹念に描かれたメモワール」とのことで、 小説ではないのかな? かつての『孤独の発明』みたいな感じだろうか。
『孤独の発明』は、ニューヨーク三部作とのちがいにとまどいながらも、身を削るように親との関係が書かれてあるのに、ひりひりと感動した記憶があるので、読み直さないと。。。 

孤独の発明 (新潮文庫)

孤独の発明 (新潮文庫)

 

 最後は、さっきも取りあげたブライアン・エヴンソンとジェシー・ボールが共作した、『ヘンリー・キングのさまざまな死』の朗読でした。
 タイトルどおり、ありとあらゆるやり方で、ヘンリー・キングが死に至るさまを描いたもの。よくこれだけばかばかしい死に方を思いつくなって感じの、"Uncivilized Books"と銘打ってあるように、不道徳かつ不条理な物語でした。 

The Deaths of Henry King

The Deaths of Henry King

 

 質疑応答のとき、「レベッカ・ブラウンとのイベントに行けなくてすごく残念だった」と熱く語っている人がいて、そうそう、私も行きたかった!!と激しく同意したので(心のなかで)、サインを頂くときに、その旨を伝え、次はぜひ関西でもやってほしいと言ってみました。

 すると、柴田さんは「あっという間に満席になったので、東京でも行けなかった人がほとんどだったよう」「ここ何年も本を出していないのに、根強いファンがいてうれしいね」と、おっしゃっていました。

 レベッカ・ブラウン、まさに「若かった日々」に読んでいたのです。ジェンダーをテーマにした作品にももちろん魅了されたけど、いまは母親の看病の日々を淡々と綴った『家庭の医学』をまた読み直したい気分……実家に帰ったからそう思うのか。 

若かった日々

若かった日々

 

 

家庭の医学 (朝日文庫)

家庭の医学 (朝日文庫)

 

  それにしても、読み直したい本に新しく読みたい本と、どんどんと増える一方。本を読む時間を捻出する方法を、柴田さんに聞くべきだったような気がする(あきれられるかな)。

ノーベル文学賞記念に? 秋の夜長の世界文学ブックガイド 『8歳から80歳までの世界文学入門』沼野充義編著

 さて、カズオ・イシグロノーベル文学賞受賞、たいへん盛りあがりましたね。
 日本でこんなに人気のある(数少ない)海外の作家が受賞するとは、たしかにめでたい。

 しかし実は、少し前に『忘れられた巨人』を読んだけれど、正直なところ、いまいち話に入りこむことができず、「やっぱり『日の名残り』が一番好きかな……」という感想を抱いてしまった。。 

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

 

 アーサー王伝説や老夫婦というモチーフに隔たりを感じたのだろうか。いや、おじいさんがおばあさんを「お姫様」と呼ぶところで、「なぬ?」と思ってしまったからだろうか。(原文は"princess"なのかな)

 といっても、理解できないとこともあったけれど、おもしろくなかったわけではなく、龍の吐息とか川を渡る場面などすごく印象に残っているので、もうすぐ文庫で出るようだし、また読み直さないと。


 けれど、もしこれからカズオ・イシグロの作品を読みはじめるという方には、ぜひとも『日の名残り』を読んでほしい。最後の場面、とくに劇的な事件がおきるわけではないのに、何度読んでも泣いてしまう。

 取り返しのつかない過去――こう言うと、過去とは取り返しのつかないものに決まっているのだから、なんだか奇妙な感じもするけれど、その寂寥感が胸にせまる小説です。 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

  しかし、この受賞をめぐって、

「まるで日本人が獲ったかのように官邸が便乗してコメントを出しているけれど、カズオ・イシグロは英語ネイティヴの作家なんだから、日本人扱いするのはち・が・う・だ・ろ~」

という意見や、あるいは

「いや、ルーツである日本からの影響は本人も認めているのだから、あえて日本と切り離す必要はないだろう」

などの意見を目にしましたが、文学の世界ではすでに、「日本文学」「外国文学」とくっきり線を引いて考えるより、「世界文学」という考え方が一般的なよう。


 先日読んだ、沼野充義編著の『8歳から80歳までの世界文学入門』は、沼野さんと作家や批評家、翻訳家たちとの対談集の第四弾であり、このシリーズを通して「世界文学の海に漕ぎ出そうとする読者のための道案内となろうと目指して」いるとのこと。 

8歳から80歳までの世界文学入門

8歳から80歳までの世界文学入門

 

  いま角田光代が訳した『源氏物語』が話題になっているけれど、冒頭の池澤夏樹との対談で、ちょうどこの「日本文学全集」(池澤夏樹編集)が取りあげられている。

 ここでの対談によると、この「日本文学全集」は翻案とかアダプテーションではなく、あくまで「翻訳」らしい。ぶっ飛んでいると大絶賛されている、町田康の『宇治拾遺物語』も、やはり翻訳なのだ。
 となると、『源氏物語』もほんとうに大作にちがいない。以前、角田光代が翻訳した(いや、これは翻案に近いのだろうか)『曽根崎心中』を読んだら、話の筋もくっきりわかっておもしろかったので、『源氏物語』も読んでみたい。 

  

曾根崎心中

曾根崎心中

 

  あと、岸本佐知子との対談は、たまたま東京に用事があったため、生で聞くことができた(この本の対談は公開収録なのです)。
 文字になったのをあらためて読んでみると、どの話ももちろん興味深いけれど、そうそう、この日の話で一番おどろいたのは、岸本さんがワープロで翻訳しているということだった…と思い出した。

 あと、この対談のときは、もうすぐ『コドモノセカイ』というアンソロジーが出るという話だったけれど、前にも紹介しましたが、この『コドモノセカイ』、ほんとうにおもしろいのでおすすめです。 

コドモノセカイ

コドモノセカイ

 

 あと、この本に収められた対談では、青山南の絵本翻訳の話もよかった。
 青山さんというと、この対談でも話題になっている『オン・ザ・ロード』の新訳をはじめ、アメリカのサブカルチャーに詳しいイメージが強かったけれど、こんなに絵本翻訳を手掛けてられるとは知らなかった。 

オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)

オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)

 

  ご本人の談によると、文字が少ないのがいいなあと思って、絵本翻訳をはじめたとのことだけど(冗談かもしれんけど)、文字が少ないからこそ難しいと思うし、しかもナンセンス絵本だなんて難儀の極みのような気がする。 

これは本

これは本

 

  とくに沼野さんも紹介していた、『これは本』。本だからメールは送れない……本だから、本だから…(ヒロシです、みたいですが)読んでみたくなりました。

 でも、こうやって上にあげた本を見ると、ほんと世界文学という名にふさわしいブックガイドができあがりました。

 

 

大人になるってむずかしい② 優しくて誠実な小説だと感じた『火花』(又吉直樹著)

そういえば綾部はどうしているんだろう……?? 

火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)

 

  前回書いた「なりたいボーイ」の映画のときに、ちょうど最近読んだ(いまさらですが)『火花』の映画の予告編を見た。
 菅田将暉と桐谷健太、どちらも大阪出身のせいか関西弁に違和感もなく(関西人にとっては関西弁が下手だと、どんなにいい映画でも興ざめしてしまうので…)、小説のイメージに合っていたので期待できそう。

 前号のTVブロスの「なりたいボーイ」特集で、大根仁監督が原作者の渋谷直角に、「前作の『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』も面白かったけど、この作品は自分のパンツを脱いでいる感がしたのでよかった」
という趣旨の発言をしていたけれど、この『火花』も、芸人である作者が、自分のパンツを脱いで書いた感があるので、文学として高く評価されたのだろう。


 作者はもともと読書家としても有名なので、あえて芸人を主人公にしなくても、サラリーマンとか市井の人を観察して、よくできたコントのような短編を書いたり、あるいはもっと抽象的でシュールな作品を書くこともできたのではないかと思うけれど(念のため、そういう作品が悪いと言っているのではありません)、そうではなく、自分の立場から一番正直に書ける題材を選んだところに、誠実さを感じた。

 そしてその誠実さが、そのまま主人公「僕」と、「僕」が崇拝する「神谷さん」につながっているように思えた。

 『火花』の筋については、ご存じの方が多いでしょうが、念のため説明すると、一応漫才師ではあるけれど、めったにテレビにも出れず営業の仕事をこなしている「僕」が、他事務所の先輩漫才師「神谷さん」と地方の花火大会の営業で出会い、信条や佇まいすべてに惚れこみ、ともに漫才道を歩む――というストーリー。

「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動は統べて漫才のためにあんねん。だからお前の行動のすべては既に漫才の一部やねん」 

 正直、小説からは「神谷さん」の芸がそれだけすごいのかはよくわからなかったけれど、とにかく純真で漫才のことしか考えていない「神谷さん」の魅力はよく伝わってきた。
 破天荒なキャラだけど、ひと昔前の芸人像のように自分勝手な乱暴者ではなく、あくまで心優しいところが、いまの時代を映しているように思えた。

でも僕達は世間を完全に無視することは出来ないんです。世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それはほとんど面白くないことと同義なんです。 

  これは主人公「僕」のセリフだけれど、ここから読み取れる優しさと、いまの時代をきちんと読み取る賢さ、そして最初に書いた誠実さがこの小説の要であり、そしてこれらの要素は、小説だけではなく、お笑いやすべての芸に通じることのように感じられた。


 また、「神谷さん」が、漫才は自分たちだけで成立するものではない、コンテストで優勝する芸人だけがお笑いシーンを作っているのではない、落とされる芸人も必要な存在なのだと語るところも、やはりすべての芸能に共通しているのではないだろうか。
 小説でいうと、ドストエフスキー夏目漱石だけあればいい、というわけではないですからね。


 そして、ネタバレになりますが最後は――


 「僕」は一瞬テレビのチャンスをつかんだものの、それも束の間に終わり、結局漫才を辞めて就職する。一方「神谷さん」はそんなチャンスとすら無縁で、行方をくらませたかと思うと、とんでもない姿で戻ってくる。

 夢を叶えるという観点で考えると、どちらも惨めなラストだけれど、最後まで作者の視点に愛があって優しいため、切なさとともにユーモアを感じる。
 前回の「なりたいボーイ」と同様に、憧れていたものになるのはほんと難しい。いや、憧れるということ自体「別物」である証明なので、憧れているものにはなれるわけがないのだろう。


 芸人本というと、ずっと昔に小林信彦の『天才伝説 横山やすし』を読んだけれど、 

天才伝説 横山やすし (文春文庫)

天才伝説 横山やすし (文春文庫)

 

 もうその頃とは時代が変わったなと思う一方(いまならやっさんみたいな芸人、テレビで使えないでしょう)、芸のことしか考えられない人間は最終的に破滅するという結末は、時代が変わっても同じだなとしみじみした。

 ちなみに、この『天才伝説 横山やすし』で一番印象に残っているのは、実際のエピソードだったかどうか忘れたけれど、交差点で横断歩道にはみだして止まっている車のボンネットの上をやっさんが歩く場面だった。いまでも、横断歩道の上で止まっている車に遭遇するたびに、ボンネットの上を歩いてやりたくなる。


 あと、芸人本では、オードリー若林の『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』もすごく共感できたし、オアシズのふたりが書いた(まだ大久保さんがブレイクする前に)『不細工な友情』も読みごたえがあった。
 いまの芸人って、自分や周囲を客観視する能力が欠かせないから、本を書いてもおもしろいのかな。
 いや、春日のように、客観視を超越した芸人もいるか……『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』の春日の項は、ほんと感心したのでおすすめです。 

 

不細工な友情 (幻冬舎文庫)
 

 

 

 

 

大人になるってむずかしい① 映画『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』(大根仁監督)

 前にもここで書いた『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』の映画を見に行きました。

tamioboy-kuruwasegirl.jp


 まあ、話は原作とほとんど同じなのだけど……というか、原作と同じというより、そのまんま題名通りの話。

なので、ネタバレ?になるのかもしれないけれど、要は


妻夫木くん演じる主人公、若手編集者コーロキは、奥田民生みたいに泰然としながらも(本人がほんとうに泰然としているのかは知らんけど)仕事はびしっと決める大人になりたい!! と思いつつ、水原希子ちゃん演じる魅力的な女子に翻弄されまくりで、結局奥田民生みたいな大人にはなれませんでした、という話。


 いろいろあって最後には、若いときに憧れた、地に足のついた「自然体」の大人にはなれず、どこから金をもらっているのかわからない(東京オリンピックのアドバイザーとかもやってるって言ってたっけ)うさんくさいライターとなって、業界で名も知られるようになり、それなりの成功をおさめたコーロキ。けれど、ふと奥田民生の曲を聞くと、がむしゃらに足掻いていた若いときの自分の姿を思い出す……


 いま思い出すと、どたばた恋愛劇より、このラストシーンが胸にしみる。


 もちろん、映画の大部分を占める、どたばた恋愛劇にじゅうぶんな見ごたえがあったので、このラストが引きたっているのだとは思いますが。なんといってもキャストが全員いい演技をしていた。


 妻夫木くん、そもそも民生に憧れんでええやん、とはだれしもが感じたことでしょうが、映画を観ると、ちょっと情けない「なりたいボーイ」を、違和感なく演じてみせたところがさすがだった。『モテキ』の森山未来は、自意識過剰の男子をめちゃめちゃ上手に演じていたけれど、ここでの妻夫木くんも、女子に翻弄されて無様に泣いちゃう役をこれほど自然に演じてみせるのは、実は同じくらい技量が必要なのではないでしょうか。『(500)日のサマー』のジョセフ・ゴードン=レヴィットを思い出した。 

 新井浩文は、自分でもしょっちゅうツイッターで犯罪者や殺人者の役ばかりとつぶやいているけれど(たまにCMで普通のサラリーマンを演じたら大炎上したり……)、こんなコミカルな役もこなすとは演技の幅が広い。例の電話のシーンは映画館全体で笑いがおきました。


 松尾スズキリリー・フランキーは予想通りの安定した演技なんだけど、リリーさんのはじけっぷりがとくに笑えた。リリーさんが演じたライターは、原作ではもっと若い設定なのだけど、おそらくリリーさんが大根作品のレギュラーゆえに割りふられたのでしょう。ところが、それが期せずして、成長のないまま歳をとったサブカルライターの痛々しい末路、みたいな効果を生んでいた。

 江口のりこ安藤サクラもよかった。どちらがどっちかよくわからないって人も、これを見たら区別がつくようになるはず(?) 妻夫木くんと安藤サクラが猫を探すくだりが、この映画で一番好きなシーンだった。


 水原希子は……原作からは、もっと男ウケしそうな可愛らしい女優をイメージしていたのでイメージちがうなとは思っていた。。吉高由里子(これは私の好みですが)とか、なんなら若いときの優香とか。実際映画を観ても、水原希子がぶりっ子(死語ですな)演技するのは少々微妙だった。まあでも、優香とかがあの演技をしたなら、めっちゃイライラしたかもしれんと思うと、彼女で正解だったのかな。(そういえば、妻夫木くんと優香ってつきあってたような。となると共演NGか)

 大根監督のインタビューによると、キャメロン・ディアスをイメージしていたそうだけど、たしかに、『メリーに首ったけ』の頃のキャメロンは、だれもが認める世界一の狂わせガールだった。私もどれだけ憧れたか。前髪を立てるシーンとか、自分ならとんでもないけれど、それすらも素敵!と思ったものでした。 

メリーに首ったけ [DVD]

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  で、最終的に、狂わせガールというのは、男の幻想にあわせるガール、男の望むものを見せてあげられるガールという種明かしもされる。

 そこで、ちょうどたまたま、フェミニズム運動の歴史について調べていたので、検索で出てきた

1127夜『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ|松岡正剛の千夜千冊

を読んでいたら、「フェミニストの古典中の古典」であるイギリスのウルストンクラフトが、自著の『女性の権利の擁護』でルソーの『エミール』を批判した部分が紹介されていた。

ルソーが男子のエミールには教育を施しながら、将来の妻になるソフィには男の歓心を買うだけの躾をしたにすぎなかったことを突いて、女性にはもっと多くの権利があるのではないかと切りこんだ。

なんとなくこの映画と結びついた。「男の歓心を買うだけの躾をした」女にしっぺ返しのように翻弄されて男は散々な目にあう。

 でも結局はそれも男子としての成長譚、なんなら武勇伝のひとつに消化されるのかな~と。そう考えると、やはりなんだかビターな結末ですね。
 いや、『モテキ』の麻生久美子を思い出すと、ろくでもない異性にひっかかって成長するというのは、男女共通のモチーフなのかもしれないけれど……

 

またまた犬と猫 『レイン 雨を抱きしめて』(アン・マーティン 西本かおる訳)『キラーキャットのホラーな一週間』(アン・ファイン 灰島かり訳)

夜、寝るときには、レインはわたしの毛布にもぐりこんでくる。夜中に目がさめると、レインがわたしにのしかかっていて、レインの顔がわたしの首の上にある。
レインの息はドッグフードみたいなにおいがする。

 犬猫シリーズにまた新たな一冊が加わった。 

レイン: 雨を抱きしめて (Sunnyside Books)

レイン: 雨を抱きしめて (Sunnyside Books)

 

 この『レイン 雨を抱きしめて』は、11歳の主人公「わたし」のもとに、レインという犬がやってくることからはじまる。

 いや、はじまると言っても、物語はそんなにスムーズにはじまらない。「わたし」ことローズは高機能自閉症児であり、特定のものに異常に興味が集中してしまうのだ。
 とくに同音異義語素数に尋常じゃないこだわりを持ち、ルールを守らない人を見るとパニックをおこしてしまう。
 小学校の先生からは「特殊な学校」に行くことを薦められ、スクールバスでもヘッドライトやウィンカーをちゃんと灯さない車を見ると叫び声をあげるので、もう乗せてもらえなくなった。

 なので、「わたし」はパパの弟であるウェルドンおじさんに送り迎えをしてもらっている。パパは工場で働いているから、時間の都合がつけられないのだ。ママは「わたし」が幼いときにどこかに行ってしまった。

 そして、ある雨の夜、パパが犬を連れて帰ってきた。「パパが雨の中で見つけたし、レインって2つも同音異義語がある特別な言葉だから」レインと名付ける。

そう、以前にここでも紹介した『夜中に犬に起こった奇妙な事件』とかなり共通する要素がある。 

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

 

 ”夜中犬”もアスペルガーの15歳の「ぼく」が主人公で、やはり素数に執着を持っていた。パパとふたり暮らしというところも共通している。
 そして、犬が災難に遭うというところも同じだ。といっても、安心してください(古い!)。串刺しにして殺される”夜中犬”とちがい、レインはハリケーンの日にパパが外に出したせいで、迷子になってしまうのだ。

 犬の災難の程度に比例してか、この『レイン』は、”夜中犬”ほどつらいひりひりする話ではなく、このすてきな表紙の絵からイメージできるように、あたたかさがじんわりと心に残る話だった。けれど、この『レイン』も甘い物語ではなく、最後には「わたし」は現実と向きあってつらい選択をして、少し大人に近づく。そして、最後につらい選択をするのは「わたし」だけではない。


 それにしても、”夜中犬”にしても『レイン』にしても、当事者である主人公たちが学校生活になじめず、つらい思いをしているのはわかるけれど、親たちのしんどさもよく伝わってきてほんとうに切ない。
 
 子ども以上に親が成長を強いられ、そしてときには挫折してしまう。親だって完璧じゃない。だって、この「わたし」のパパなんて33歳だ。親代わりをするウェルドンおじさんは31歳。嵐のメンバーくらいの歳だ(たぶん)。
 でも、この本のウェルドンおじさんのように、必ずしも親でなくとも、先生でも、まったくの他人でも、そして犬でも、子どもを愛して成長を助けることができるのだと思った。


 あと、最近もう一冊読んだのは、『キラーキャットのホラーな一週間』。 

キラーキャットのホラーな一週間 (児童図書館・文学の部屋)

キラーキャットのホラーな一週間 (児童図書館・文学の部屋)

  • 作者: アンファイン,スティーブコックス,Anne Fine,Steve Cox,灰島かり
  • 出版社/メーカー: 評論社
  • 発売日: 1999/12
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   以前『チューリップ・タッチ』を紹介した、イギリスの人気児童文学作家アン・ファインによる絵本。
 けれど、シビアなおそろしさがあった『チューリップ・タッチ』とはちがい、これは楽しく可愛らしい絵本だった。さすが芸風が幅広い。猫のいたずらに悩まされる様子が他人事とは思えない。いや、でもこの猫がめちゃ利口なんで、右往左往させられる人間の家族がほほえましかった。

↓動物病院で暴れて手に負えない。うちの子にも心当たりが…

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純愛ノワールとクリスマス・ストーリーの融合 『その雪と血を』(ジョー・ネスポ著 鈴木恵訳)

問題はおれがすぐに女に惚れてしまい、商売を商売として見られなくなるということだ。

去年の翻訳ミステリー大賞および読者賞を受賞した『その雪と血を』。 

その雪と血を (ハヤカワ・ミステリ)

その雪と血を (ハヤカワ・ミステリ)

 

 なんといっても、ハヤカワのポケミスなのに一段組でしかもめっちゃ薄い! 
…と、気軽に読みはじめたところ、短いながらも物語がぎゅっと凝縮されていて、じゅうぶんな読みごたえだった。

 1977年12月のオスロを舞台とし、殺し屋であるオーラヴが主人公かつ語り手である。

 殺し屋なので、当然雪と血、もとい血も涙もないはず、と思いきや、このオーラヴはやたら人情家で、しかも冒頭の引用にあるように女に弱い。(こう書くと寅さんみたいですが)
 ちなみに、どう人情家なのかというと、強盗に入った郵便局にいた老人が精神に異常をきたしたと新聞で知ると、わざわざこっそり見舞いに行ったりする。

 そして、人情家と女に弱いというこの二点が合体したらどうなるかというと、元ボーイフレンドの借金を身体で返せと言われた、聾唖で片足の不自由なマリアという女を、自腹をきって助けてしまう。しかもそのあとも、問題なくやっているかを確かめるため、マリアが働くスーパーマーケットにせっせと通ったり、はてはあとをつけて、変質者のように(いや、完全に変質者か)電車で後ろにはりついたりする始末。


 そんな慈善家なのか殺し屋なのかわからないオーラヴだが、ある日ボスであるホフマンから、ホフマン自身の若く美しい妻を始末するよう命令される……


そして、ここから少しネタバレになりますが――


 「すぐに女に惚れてしま」うオーラヴが、このあとどうなるかは推して知るべしという感じで、案の定、妻のコリナに恋をして逃避行へと走るのだが、この小説はただの「許されないふたりの逃避行の物語」ではない。

 オーラヴは幼いころから『レ・ミゼラブル』を愛読しているが、難読症を自認しており、常に物語を自分で書き換えている。つまり、オーラヴの語りによるこの小説も、登場人物のほんとうの姿や、どこまでが実際にあったことなのかが、なかなかわからない。(いわゆる「信頼できない語り手」というのでしょうか)


 そして、オーラヴがコリナを愛していると思えば思うほど、心のなかの両親がクローズアップされてゆく。
 最期まで許せなかった、忌まわしい父親の存在が頭から離れなくなっていく。ボスの妻でありマゾヒスティックな性癖を持つコリナを自分の母親に重ねあわしていたのかもしれない。ところが――

だが、おふくろが自分をあんなふうにあつかった男を愛せるのだと知って、おれは愛についてひとつだけ学んだ。
いや。
そうでもない。
何ひとつ学びはしなかった。 

  そう、「何ひとつ学びはしなかった」オーラヴは、「おふくろ」のこともコリナのことも、そしてマリアのことも、勝手に物語をつくりあげていただけで、何ひとつわかっていなかったのかもしれない。

 それにしても、ひとはどうしてまちがった相手を愛していると思い、ほんとうに愛している相手を愛したくないと思ってしまうのだろう。

それでもやはり、男は彼女を愛さずにはいられない。男にとって彼女は、自分になければよかったと思うものすべてなのだ。 

 マリアがクリスマス・イヴを迎えるところで、この物語は終わる。マリアの頭の中で流れていたクリスマス・キャロルがもう聞こえなくなる。


 しかし、西洋の人々にとって、やはりクリスマスはただのイベントではなく、愛というものですべてが赦されるような、神聖な時間なんでしょうね。

 川出正樹さんが解説で「パルプノワールとクリスマス・ストーリーを掛け合わせたら、いったい何が生まれるだろう?」と書かれているように、血の流れるノワールと、ディケンズの『クリスマス・キャロル』から続くクリスマス・ストーリーの伝統「愛と赦しの物語」が、見事に融合している小説だった。