スパイ今昔物語 21世紀のスパイの実態?? 『放たれた虎』(ミック・ヘロン 著 田村義進 訳)
前回紹介した『殺人者の記憶法』、日本翻訳大賞にもノミネートされたようで、よかったよかった。
さて、スパイというと、いったいなにが頭に浮かぶでしょうか?
やはり007? あるいは、キム・フィルビー? もしくは、ゾルゲ?(古いか) いやいや、マタ・ハリ??(もっと古い)
なんにせよ、正体を偽って敵国に侵入し、機密情報を自国に流して、要人暗殺を謀る……といったイメージのはず。
がしかし、ミック・ヘロンの〈泥沼の家〉シリーズに出てくるスパイは、そんな従来のスパイとは一味も二味もちがう。『窓際のスパイ』『死んだライオン』に続く、この第三弾『放たれた虎』でも同様だ。
主人公リヴァーは、伝統ある英国情報部保安局、通称MI5の局員でありながらも、任務をはたすべく地下鉄の駅へと向かいながら、こんなことを思う。
ジェイムズ・ボンドなら、歩道橋から走っているバスの上に飛びおりるか、オートバイを奪いとるためにライダーにドロップキックを食わせるだろう。ジェイソン・ボーンなら、車のルーフ伝いに通りを進むか、パルクールの技を駆使して、壁やゴミ容器を跳び越えていくにちがいない。
しかし、地下鉄の駅へ向かう任務があるだけでも、まだスパイらしいとも言える。
なにしろリヴァーはMI5の局員といっても、ふだんは薄暗い〈泥沼の家〉で、ひたすら「魂を一度に一ピクセルずつかき消していく」ような書類仕事(パスポートの履歴をチェックするとか)に従事し、ときにはゴミ漁りをさせられることすらあるのだ。
というのも、この〈泥沼の家〉とは、保安局の落ちこぼれたちが送りこまれる部署であり、企業でいうと "リストラ部屋" であるからだ。
メンバーは、"伝説のスパイ"を祖父に持ちながらも、昇級試験のときにキングス・クロス駅を大混乱に陥らせてしまったため(実は策略にはめられていたのだが)、〈泥沼の家〉送りになったリヴァーを筆頭に、元アル中のキャサリン、尾行に失敗して大量の銃器を街中に流出させたルイーザ。
さらに、元ではなく現ギャンブル依存症であるマーカス、同じく現ドラッグ中毒のシャーリー、ただ単に嫌われ者であるがゆえに〈泥沼の家〉に送られた、コンピューターおたくのホーである。
〈泥沼の家〉の長であるジャクソン・ラムは、冷戦時代にはまさに敵国に忍びこんだりしていたようだが、いまはところ構わず放屁をする(そのせいか、この小説を『放たれた屁』とカン違いした人が多いようだ)下品でむさ苦しい中年男だ。
しかし、〈泥沼の家〉であるがゆえに華々しいスパイ行為とは無縁、というわけではない。
保安局の中枢部リージェンツ・パークでも、目下最大の議題となっているのは、予算削減、効率化、人事、あふれかえる書類の管理である。世のほとんどの職場と同じだ。
ちなみに、書類は機密ランクによって、スコット・レベル、ヴァージル・レベルと《サンダーバード》の登場人物にちなんだ名前で区分されている。
21世紀のスパイは、007やサンダーバードの幻影のなかで生きているのかもしれない。
つまり、冷戦時代は遠くなりにけり……ということで、「敵」は敵国にいるとはかぎらない。見えないところ――組織の内部――に潜んでいることが多いのが、このシリーズの特徴である。
前置きが長くなったが、この『放たれた虎』は、〈泥沼の家〉のメンバーであるキャサリンが誘拐されるところからはじまる。
リヴァーのもとに犯人の一味から連絡があり、キャサリンを返してほしければ、リージェンツ・パークに潜入して、機密書類を奪うよう指示される。犯人の目的は?
キャサリンを救おうとするリヴァーの前に、さまざまな難敵が立ちはだかる。難敵といっても、敵国のスパイではない。
保安局の長であり、大英勲章 "Dame" の称号を持つイングリッド・ターニー。その「犬」であるニック・ダフィー。イングリッド・ターニーの地位を虎視眈々と狙っている、保安局ナンバー2のダイアナ・タヴァナー。そして、保安局を掌握して手柄をたて、首相の地位にまで手をのばそうと目論んでいる、内務大臣ピーター・ジャド。
このシリーズは、ミッション・インポッシブル系のものを期待する人には物足りないかもしれないが、クセが強すぎる登場人物たちを、イギリス流の辛辣なユーモアでシニカルに描いているところが最大の魅力である。
〈泥沼の家〉のメンバーたちの描き方も容赦ないが、保安局の悪役たちの食わせものぷりには感心してしまうほどだ。
イングリッド・ターニーとダイアナ・タヴァナーの闘争は、女の敵は女とか、女同士の戦いなんていうベタな言葉では、表現しきれない恐ろしさである。イングリッド・ターニーの部下の操縦法は、企業に勤める人でも参考にできるかもしれない。
また、ピーター・ジャドのどす黒いポピュリズム政治家ぶり――
親の莫大な遺産を受け継いだ自己陶酔的なサイコパスであり、権力欲のかたまりであり、決して恨みを忘れない男
某国の大統領を意識して書いたのかもしれないが、大阪に住んでいる私はごく身近な政治も想起してしまい、思わず膝を打った。
〈泥沼の家〉を守って、といっても結果的にだが、こういった連中と渡りあう、ジャクソン・ラムのくさやのような魅力にいったんとりつかれてしまうと、これまでの前二作も一気に読んでしまうにちがいない。
ちなみに、今後のこのシリーズは、『The List』というスピンオフのような中編を挟んで、四作目の『SPOOK STREET』まで出ているよう。
Spook Street: Jackson Lamb Thriller 4 (English Edition)
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『SPOOK STREET』はCWAのゴールド・ダガー賞にノミネートされ、スチール・ダガー賞に輝いたりと、かなり高く評価されているよう。なんでも、"伝説のスパイ"であるリヴァーの祖父が認知症に陥る……?(アマゾンの紹介文より)こちらも楽しみにしておきます。
お父さんは心配性?? 『殺人者の記憶法』(原作 キム・ヨンハ 著 吉川 凪 翻訳/映画 ウォン・シニョン監督)
俺が最後に人を殺したのはもう二十五年前、いや二十六年前だったか、とにかくその頃だ。それまで俺を突き動かしていた力は、世間の人たちが考えているような殺人衝動や変態性欲などではない。もの足りなさだ。もっと完璧な快感があるはずだという希望。
いや、この『殺人者の記憶法』、半端ないおもしろさだった。原作もじゅうぶん破壊力があるが、映画の方も、原作からの期待に負けない、いや上回るほどの見ごたえのある作品だった。
主人公の「俺」は過去にいくつもの殺人を犯した。しかし、とある事故をきっかけに、殺人に魅力を感じることができなくなり、足を洗う。
それからは獣医の仕事に専念し、趣味としてカルチャースクールで詩を習い、娘のウニ――実はかつで自分が殺した相手の子供――と平穏な日々を送っていた。
ところが、70歳になった「俺」は、なにもかもすぐに忘れるようになり、アルツハイマーだと診断される。ついさっきのことを忘れたり、気がついたら知らない場所にいるのが日常茶飯事になった。なるべくウニに迷惑をかけないよう、どんなことでもノートに記録する。
オイディプスは無知から忘却に、忘却から破滅に進んだ。俺はその正反対だ。破滅から忘却に、忘却から無知に、純粋な無知の状態に移行するだろう。
最近、近所で若い女を狙った連続殺人事件が発生している。ウニのことが心配でたまらない。そんなある日、「俺」は車で接触事故を起こし、相手の若い男が運転する車のトランクから死体のようなものを目撃する。元殺人者特有のカンで、この男が連続殺人犯にちがいないと確信する。
それからしばらくして、ウニが恋人を家に連れてくる。初対面のはずだが、どこかで会ったような気もする。でも記憶があてにならないのは、自分でもよくわかっている。
ノートをひっくり返して、驚いた。あいつだった。こんなことが、あり得るのか。狐につままれたような気分だ。あいつは平気な顔で俺の家に入ってきた。それも、ウニの婚約者として。それなのに、俺はあいつが誰なのか、まったくわからなかった。あいつは俺が芝居をしていると思っただろうか。それとも、ほんとうに自分をまったく忘れてしまったと思っただろうか。
とまあこの調子で、主人公の元殺人者は、現殺人者から愛する娘を守るべく奮闘する、いや、しようとするのだが、いかんせんボケているので、肝心なときに、はて、自分は何をしに来たのやら? 目の前のこの男はだれだっけ?? がくり返されるのである。吉本新喜劇なら盛大にコケているところだ。
というと、完全にコメディのようだが、実際映画の方は笑える場面も多かった。とくに、デート中の娘と恋人を探しに、主人公がものすごい形相で映画館を探し回るのだが、案の定途中ですっかり忘れて、ポップコーンを食べて笑いながら映画を観てしまったりするところは、『お父さんは心配性』の父親パピィを思い出した。
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けれども、腐っても殺人者。頭が正常に戻ると、ひたすら身体を鍛え、武器らしきものも取りだして、娘の恋人の殺害計画を練る、ってこれが「正常」に戻っているのかはともかく、ここもかなりパピィ要素が強い。
あと、カルチャーセンターの場面も笑える。原作では、主人公が詩を愛好するという設定によって、小説の詩的効果が高まっているが、映画では笑いどころとなっていた。カルチャーセンターで主人公につきまとうあの女、よう殺さんもんやなと思っていたら……
しかし、さすが韓国映画。笑いもありつつ、殺人や暴力の描写は容赦ない。主人公が人を殺しはじめるきっかけとなった重要な場面は、映画でもきちんと描かれており、枕からあふれるそばがらに戦慄した。ちなみに、原作を読んだとき、その最初の殺人の顛末と「信頼できない語り手」問題から、以前に紹介した『その雪と血を』を思い出した。
ここまでの基本設定は原作も映画も同じだが、快感を求めて殺人をくり返した原作とちがい、映画では、主人公が殺すのは「正当な」理由のある相手であり、ある意味「正義の殺人」を犯したことになっていた。いや、殺人を正当化することはできないが、しかし、高い指輪を飲みこんだ飼い犬を殴り殺した飼い主なんかは、たしかに ”おまえはもう死んでいいやつ”(by みうらじゅん)と心底思った。
なので、映画の主人公は「善人」に感じられ(殺人者だが)、観客も感情移入し、娘を守るための現殺人者との戦いに思わず見入ってしまう。そしてその結末は――
ここで映画は原作と離れる。原作のオチは一種の叙述トリックなので、映画で再現すると肩すかしのようになるかもしれないので、映画ではこの展開がスリリングで正解だったと思う。しかし、『お嬢さん』もそうでしたが、韓国映画は、ただでさえ一筋縄ではいかない原作を、さらに一捻りする傾向がありますね。
それにしても、元殺人者を演じたソル・ギョングの迫力がすごかった。原作では70歳だが、映画では「最後の殺人を犯したのが17年前」となっていたので、60代の設定のようだ。
実際のソル・ギョングは50前らしいが、年老いたアルツハイマーの殺人者になりきっていた。がしかし、年寄りのくせにめっちゃ強い。最後の格闘シーンなど、もう事切れるのかと思いきや、不死身のようにすぐさま復活するので、そこもパピィ要素だった。
ソル・ギョングのみならず、一目会ったその日から殺人者と決めつけられるキム・ナムギルの冷徹な演技もよかった。また、アン署長を演じたオ・ダルス、ええ顔してるな~(でもダンディ坂野風だが)と思っていたら、韓国では妖精と呼ばれるほどの人気俳優らしい。(やはりダンディ坂野風だが)
とまあ、見所がもりだくさんの映画なので、興味のある方は、ぜひ見に行くことをオススメします。
災厄の男たちから逃れる女の連帯 『音もなく少女は』(ボストン・テラン 著 田口俊樹 訳)
わたしは殺人の隠蔽工作の手助けをしました。嘘の上塗りをする手助けもしました。自分の人生、宗教、職業が否定していることをしました。しかし、そのためにこそより幸福になれました。
先日紹介した、ボストン・テランの『その犬の歩むところ』がおもしろかったので、続いて『音もなく少女は』も読みました。
- 作者: ボストンテラン,Boston Teran,田口俊樹
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まず引用のように、だれかの告白によって物語がはじまる。
それから1950年代のニューヨークのブロンクスに舞台が移り、クラリッサが登場する。しかし、登場するやいなや、「人生の乱気流が彼女を貫いていた」「失意の波間を漂いながら、病気で聾者の娘メアリーと夫ロメインを世話する女」と、尋常ならぬ不幸の気配が漂う。
その夫、ロメインが帰ってきて、銀のゴブレットやウサギの足といった「戦利品」をクラリッサに渡す。あとで描かれるが、ロメインは墓地の管理をしており、「戦利品」とは死者とともに棺に入れられた品々のことで、ロメインは棺を漁って、金目のものを盗んでいるのである。しかし、この”棺暴き業”は、この先ロメインが堕ちていく闇にくらべると、まだ健全な仕事なのであった。
その夜、酒を飲んだロメインがクラリッサに襲いかかる。「病気でもなくて、ちゃんと聞こえるやつが欲しい」と。「どうか妊娠していませんように」というクラリッサの祈りもむなしく、ふたり目の子が授かる。
女の子はイヴと名付けられるが、クラリッサの祈りのみならず、ロメインの願いも神に届かなかったようで、やはり聾者であることが判明する。「全部おまえのせいだ」とロメインはクラリッサを罵る。
クラリッサはわが身に起きることはすべて自分の過ちと信じ込む女だった。教育もちゃんと受けていない単純な女だった。だから、誤った認識のまま、聾者の子供が生まれたのは自分のせいだと信じていた。夫の虐待を受けるに任せすぎたせいだと。
えっ? どんだけ暗い話なんだって??
実はこれはまだほんの序盤で、クラリッサとイヴの人生は、教会で偶然フランという女に出会ったことで大きく変わる。
手話に通じ、自ら生計をたてて暮らしているフランに、イヴをどう育ててよいか途方にくれていたクラリッサは助けを求める。戦争中のドイツで想像を絶する凄惨な体験をしたフランは、ロメインの虐待におびえるクラリッサとイヴを見捨てることができず、三人は深く結びつき、北上次郎さんの解説に書かれているとおり「運命共同体」となる――
少し前、というか、いままさに、ツイッターで「『女性専用の街』が欲しい」というツイートが炎上していたが、まさにこの小説のテーマは「災厄でしかない男――しかも父親――から逃れるために、どうやって女たちは力をあわせて戦うべきか」ということである。
イヴとロメインのみならず、第二部で登場する、イヴが姉のように面倒をみるミミと、ミミの父親ボビー・ロペスにもあてはまる。
ロメインやボビー・ロペスのような悪党は、荒廃しきったかつてのニューヨークに限定される話ではなく、現代でもよく似た事態は世界のあちらこちらで起きているようにも思える。
まだDVなどの虐待への意識が低い国や地域はもちろん、いまの日本でも似たような感慨を抱いている人がいるから、上記のようなツイートが発生するのではないだろうか。
作者は、ロメインやボビー・ロペスを人間とは思えない鬼畜のようには描いていない。ロメインやボビー・ロペスより、もっと直接的に娘を殴ったり殺したり、犯したりする親だって世の中には少なくない。
ただ、ロメインやボビー・ロペスは、妻も娘も自分の「所有物」だと思っていて、そこから離れようとするイヴとミミを脅かす。
そしてもちろん、すべての男がそんなふうではない。イヴの恋人チャーリーや、チャーリーとミミの養父ナポレオンなど、イヴやミミを助けようとする男たちもいる。
その出自と身の上のせいだろう、チャーリーは自分でも恥ずかしくなるほど強く人とのつながりを求める人間だった。人に愛されることも。その思いは皮膚からにじみ出てきそうなほど彼の内側に溜まっていた。
一方、彼はイヴの庇護者になりたかった。一緒にいて彼女が身の安全を感じられる相手にもなりたかった。
だが、結局こういう善意の男たちは役立たずなのであった。いや、役立たずというと言葉が悪すぎるが、イヴの庇護者にはなり得なかった。
この小説では、闇から手をのばす男に勝てるのは、「人とのつながりを求める」男ではない。女を救うのは男の愛ではない。クラリッサとフラン、そしてイヴとの絆から生まれた、女たちの強い連帯なのだった。
物語の最後、写真家となったイヴはカメラの前に全裸で立つ。
この作品に取りかかるまえに、イヴは何冊もの本を漁って、ピカソの『ゲルニカ』から、アジアの傾いた壁に描かれた壁画まで見ていた、そして、古代には、ギリシアの神からインドの神まで、神々がしばしば女の聖なる三位一体として表現されていることを学んでいた。創造者としても保護者としても破壊者としても表現されていることを。
物語の前半でフランは神の存在を否定していたが、最後は、イヴがクラリッサとフランと自らを神になぞらえた表現をするところで終わる。
正直、平凡な小説なら、なんと大仰なとちょっと鼻白んでしまうかもしれないが、この小説は最後まで濃密なストーリーが展開されるので、納得して読み終えることができる。
けれど、男性はこの小説を読んで、どんな感想を抱くのだろう??
解説の北上さんは「もうお前たちなどいらない、というイヴの覚悟の前に、男性たる私はただうなだれるのである」とのこと。先のツイートもそうですが、こういう小説をどう受け止めるかが、リトマス試験紙になりそうですね。
わたしはわたし、ぼくはぼく(BOOKMARK 10号より) 『夜愁』(サラ・ウォーターズ 著 中村有希 訳)
映画というと、2017年最大に度肝を抜かれたのは『お嬢さん』だった。ヴィクトリア朝を舞台にしたサラ・ウォーターズの原作『荊の城』を、日本占領下の韓国の話に作りかえただけでもじゅうぶんインパクトがあるのに、まさに文字通り「一糸まとわぬ」女子たちの熱演がまた……
というわけで、サラ・ウォーターズが『荊の城』の次に発表した『夜愁』を読みました。
物語は1947年のロンドンではじまる。
そう、これがわたしという人間の成れの果て。部屋の時計も腕時計も止まったまま、大家の玄関をおとなう病んだ人々の流れで時をはかる。それがわたし。ケイはみずからに、そう囁きかける。
第二次世界大戦が終わり、ようやく平和が訪れたというのに、「成れの果て」という言葉が出てくるように、この小説の登場人物たちはみな沈鬱な影を背負っている。
病院の二階の薄暗い借家で空虚な日々を送るケイ。
その病院に、ダンカンという若い男がマンディ氏という老人を連れて通っている。父子のように見えるダンカンとマンディ氏だが、ダンカンには家族は別にいる。どうして家族と離れて、マンディ氏という老人と一緒に暮らしているのか?
ダンカンの姉であるヴィヴにはレジーという恋人があるが、堂々と会うことのできない関係を長年続けている。ヴィヴの職場の仲間であるヘレンにはジュリアという恋人があるが、ふたりの間には溝ができつつあった……
と、どの登場人物も過去の人間関係にとらわれ、まるで亡霊のように日々を送り、戦争が終わり、時代が変わったというのに、未来に向けて歩き出すことができない。いったい過去にはなにがあったのか?
そこで物語は1944年にさかのぼる。ドイツからの空襲にひっきりなしにおそわれ、死がずっと身近だった頃へ。戦争の恐怖にさいなまれながら、必死で生きて必死で他人を求め、必死で恋をしたあの時代へ――
この小説は、だれかが殺されたりといったミステリー的な要素はなく、時代をさかのぼって語ることで、人間関係の謎が解き明かされるという構造になっている。
なので、最後まで読み終わると、また最初に戻って、現在(1947年)の状況を確認してしまう。
すると、現在(1947年)の平和な時代を描いた冒頭で、閉塞感がもっとも強く感じられ、常に死の恐怖と隣り合わせだった頃(1944年)、生命力が一番燃えあがっていることに気づく。物語の最後、戦争が激しくなりはじめた時代に(1941年)、愛が生まれる美しい瞬間を描くことで、現在(1947年)の状況と対比して、愛や美しさのはかなさが際立つという仕組みになっている。
また、『荊の城』では、精神病院の描写などがキレキレだったサラ・ウォーターズのたくみな筆致は、この作品でもじゅうぶんに発揮されていて、空襲から逃れるシーンも臨場感に満ちているが、戦争以上に恐怖の場面、血も背筋も凍るシーンもちゃんと用意されているので、その意味でも期待を裏切らない(?)読みごたえがある。
といっても、決して暗く重苦しいばかりの小説ではなく、登場人物たち、とくに女たちは『荊の城』の主人公ふたりと同じように、強くてたくましく、なにがあっても最後は前を向いて生きる。この救いのない現在の状況から脱けだそうと、行動を起こそうと決意する。
そして、サラ・ウォーターズの小説のテーマとも言える、女同士の愛もさらに堂々と正面から描かれている。
ヴィクトリア朝同様、この時代も女と女の愛は禁断であったようだが、そんなこと知ったことか!とばかりに、死の危険すらもそっちのけで恋愛に身を焦がす女たちの姿には圧倒される。また、恋愛にかぎらない同性同士の心の交流、いわゆるシスターフッドとブラザーフッドにも癒される。
相手が異性であれ同性であれ、愛することそのものが尊い――と字面で見ると、なんだか陳腐な物言いだけど、こうやって物語で読むと深く納得させられる。
そういえば、今号のBOOKMARK(10号)は「わたしはわたし、ぼくはぼく」というテーマで、いわゆるLGBT小説を特集している。私が読んだなかでは『キャロル』に、そして名作『"少女神" 第9号』!
- 作者: フランチェスカ・リアブロック,Francesca Lia Block,金原瑞人
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『"少女神" 第9号』はLGBT小説として意識したことがなかったが、言われてみると、『ウィニーとカビ―』なんてまさにそうだ。
「あたしがカビ―のお父さんになれたらいいのに」
「ぼくがウィニーのお父さんになって、ウィニーがぼくのおやじになればいい」
と言いあい、「おそろいのゆったりした黒のタキシードを着て」プロムに行く、ウィニーとカビ―。「抱き合って、小さな子供のように相手の腕の中で」眠るふたり。
あと、映画『アデル、ブルーは熱い色』は見たので、原作のバンド・デシネ(フランスのマンガですね)『ブルーは熱い色』も読んでみたい。
ブルーは熱い色 Le bleu est une couleur chaude
- 作者: ジュリー・マロ,関澄かおる
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出会いの場面はそのままらしいけど、はじまりも結末もちがうとは知らなかった。
『ぼくには数字が風景に見える』は「共感覚」を描いているとのことで、前から読んでみたいと思っていたけれど、LGBT小説にあてはまるとは知らなかった。
そして、『トランペット』は、トランぺッターであった父親が亡くなり、すると父親は実は女であったことが判明する……という物語で、
たしか実際にも似たような話があったと思うが、どういう顛末になるのか気になるって、毎号のことですが、紹介されている本ぜんぶ読んでみたくなりました。
陣治役が阿部サダヲってどうだろう?? 『彼女がその名を知らない鳥たち』(沼田まほかる 原作/白石和彌 監督)
年末に原作を読み、どうしても ↑ の疑問がわいてきたので、年明けも公開しているところを探したら、塚口サンサン劇場で期間限定上映をしていたので行ってきました。
塚口サンサン劇場に行くのははじめてでしたが、ミニシアターといっても、十三の第七藝術劇場や九条のシネ・ヌーヴォみたいなアートっぽさは少なく、いかにも「ダイエーに併設されました」といった昔ながらの映画館でした。
でも、劇場の中はとてもきれいで(トイレも!)手作り感にあふれ、なんといってもレディースデイが1000円(1100円ではなく)という超良心価格。
映画は小説にかなり忠実で、ストーリーを紹介すると
十和子(蒼井優)はまだ33歳だが、八年前に恋人の黒崎(竹野内豊)と別れたあとは外出もほとんどせず、半ばひきこもりのクレーマー女として無気力な日々を送っている。15歳年上の薄汚い中年男の陣治(阿部サダヲ)と暮らしているが、十和子に執着し、ストーカーめいた行動までとる陣治を軽蔑している。
しかし、若い男(松坂桃李)と出会ったのをきっかけに、封印していた黒崎との日々が蘇りだす。そんな矢先、黒崎が五年前から失踪していると知り、陣治が関与しているのでないかと疑いはじめる……
原作ではこの陣治が薄汚いどころか、容赦なくただただ不潔な男に描かれていて、生理的嫌悪感までもよおすほどだった。なので、阿部サダヲではちょっと可愛すぎるというか、ポップすぎるんじゃないか?? と思えて仕方がなかった。
かわりに、だれがいいかと考えると……若いときの柄本明とかかな、、、生理的嫌悪感という点では、若いときの武田鉄矢もいいような気がするが、説教臭さとか「ぼくは死にましぇ~ん!」要素が入りこんできたら困る。(注:言うまでもないですが、すべて個人の感想です)
で、映画の制作側もそのままのサダヲではきれいすぎると危惧したのか、かなり汚く扮装しているのだけど、観た感想としては、原作とは別とわりきって、そんな汚さなくてもよかったのではないかと思った。顔を塗ったりまでしているので、いま話題の浜ちゃんの黒塗りみたいに、なんかコントのように見える瞬間もあったので。
まあつまり、そんな小細工など不要と思えるくらい、阿部サダヲも蒼井優もいい演技をしていた。
大阪が舞台なので、ふたりともずっと関西弁なのだけど、そんな映画を観ると関西人は往々にして関西弁ポリスになってしまうが、蒼井優の関西弁がほんと上手でおどろいた。大阪に住んでたんだっけ? と、つい調べてしまったところ、福岡出身で両親は関西人らしい。サダヲは少し無理してるかな? と頑張ってる感もあったけれど、それでも関東の人間とは思えないほど上手かった。
また、見直したというか、いや、見下したこともないけど、予想を上回る演技を見せたのが松坂桃李だった。
ネタバレかもしれんけど、ほんとしょーーーもない男を見事に演じていた。松坂桃李のみならず、蒼井優はうざい女、阿部サダヲはきもいおっさん、そして竹野内豊は「最低」(という言葉では全然足りないが)男を見事に演じていた。
思い出したら、白石和彌監督の映画『凶悪』では、こいつらほんまもんの鬼畜じゃないの?? と思ってしまうくらい、リリー・フランキーとピエール瀧が凶悪な役をほがらかに演じていた。監督の見事な手腕なんでしょうか。
原作は徐々に徐々に真相があかるみになり、最後のどんでん返しで「なるほどそうか!」と膝を打つ、マーガレット・ミラーの小説のようなミステリーで、映画もストーリーは同じなのだけど、時間軸の構成を変えているため、純愛がより強く印象に残る。
どうして陣治はそこまで十和子を愛したのか?
どうして十和子はそこまで黒崎を愛したのか?
どうして十和子は自分を苦しめる男にばかりひきつけられるのか?
恋愛におけるこの類の疑問は、心理学で説明することは可能なんだろう。
自分を肯定できていないから、自分を傷つけるような相手を選んでしまうとか、相手を助けることに自分も依存している「共依存」の関係だとか……
でもそんな一般論でなにが解決できるわけでもない。十和子や陣治が救われるわけではない。どうしてこの人でないといけなかったのかなんて、ほんとうのところだれにも説明できない。
このラストも、救いや解決になるのかはわからない。これで十和子が立ち直ったり、成長できるのかというと疑問を感じる。また同じようなことをくり返すのでは、という気もする。
それでもやはり、「これからはしっかり正気保って生きていくんや」という陣治の言葉だけは忘れてはならないのだろう。
毒親に苦しむ子どもたちへ 『Everything I Never Told You』 Celeste Ng(セレスト・イン)
少し前、"Fire and Furyをはやく読まないと" といった書きこみをツイッターでいくつか見つけ、「いま人気の小説かな?」と思ってしまったりと、洋書情報からあっという間に乗り遅れてしまうのですが、今年こそは洋書もたくさん紹介したいものです。
(しかも去年は、調べもので"Sapiens"という本の訳書を図書館で借りようとしたら、予約が200件以上あり、なんでこんなに人気なんだろう?? と首をひねっていたら、少し経って、本屋で「2017年最大のノンフィクション話題作」と『サピエンス全史』が並んでいるのを見て、はじめてベストセラーだと知っておどろいたこともあった……)
で、最新作『LITTLE FIRES EVERYWHERE』もベストセラーになっている、Celeste Ng(セレスト・イン)の『Everything I Never Told You』を年末年始に読みました。
Lydia is dead. But they don't know this yet. 1977, May 3, six thirty in the morning,
と、1977年のアメリカのオハイオ州の小さな町を舞台に、16歳のLydiaが湖から死体で発見されるところからはじまる。
父親のJames、母親のMarylin、そして兄のNathanが、Lydiaの死の真相を究明しようとする物語だ。といっても、ミステリーというより、家族ドラマの色が濃い。思春期の娘が行方不明になるということ自体はとくに珍しいことではないと警察は言うが、Jamesが中国系であるため、この一家は町で唯一のアジア系住人として、どこにいても人目をひいていたのだ。
となると、Lydiaは人種差別で苦しんでいたのかと想像できるが、実はそれだけではない。Lydiaが一番苦しんでいたのは、母親のMarylinから「自分のようになるな」というプレッシャーを常に与えられていたことだった。
白人の娘として育ったMarylinは、医者になることを夢見ていたが、だれからも理解してもらえなかった。
Marylinの母親は、夫(Marylinの父親)に捨てられても、「女は良妻賢母であるべし」という信念は捨てなかった。女は家庭に入るべきという母の望みとは裏腹に、Marylinはひたすら学業に邁進するが、理系を専攻すると、「女の子がどうして?」と周囲からも怪訝に思われる。
有名大学に進み、そこで教授をしていたJamesと出会い、愛しあうようになる。そして在学中に妊娠し、結局学業を断念して家庭に入る。母親の望みどおり家庭に入ったものの、当時は州によっては異人種間の結婚がまだ禁止されていた。
Marylinの結婚式で、母親は "It's not right" をくり返し言う。母親と会ったのはそれが最後だった。
しかし、Marylinは医者になる夢を捨てることはできなかった。Nathan、Lydiaを産んだあと、母親が遺した料理本を手にしたMarylinは、自分の人生が閉ざされる絶望を感じる。自分の人生を取り戻すため、家を飛び出し、もう一度学校に入ろうとする。
が、ここで三人目の妊娠が発覚し、結局学業を諦めて家庭に戻り、Hannahを産む。そして自分の夢を、自分に一番よく似た娘のLydiaに叶えてもらおうと、ひたすらLydiaの教育にうちこむようになる……
まあ、それがおそろしいのである。宿題やテストの成績をいちいちチェックするのはは当たり前で、クリスマスなどにプレゼントするものも、『図解 人体の解剖』とか『Famous Women of Science』といった本ばかり。プレゼントというより攻撃だ。
しかし、LydiaはMarylinが家出したときの不安を強く覚えているので、また見捨てられるのではないかと逆らうことができない……
で、父親のJamesの方はどうだったのかというと、こっちはこっちでまた恐ろしい。
Jamesは貧しい中国系移民の子どもとして育ち、幼いころから周囲に溶けこむことができなかった。そしてJamesも、白人に近い見た目のLydiaを一番可愛がり、やはり自分が果たせなかったこと――学校に溶けこんで人気者になること――を託すようになる。
(ちなみに、幼いころから自分によく似た不器用さ、周囲とのなじめなさを発揮していたNathanにはやたら冷たくあたる)
ほんと地獄やな、とつくづく感じた。母親からは勉強して医者になるよう言われ、父親からは「リア充」になるようにと圧をかけられるなんて。
Lydiaがいくら白人に近くても、アジア系であるため見た目だけでも周囲から浮いている。そのうえ勉強のプレッシャーもあるので、学校に友達なんていない。
けれど、Jamesが目を光らせているので、友達と電話するふりすらしないといけない。どこにもつながっていない電話をただ持つのだ。
これだけでも、死にたくなるのはわかるような気がするが、Lydiaが死に至るまでの経緯は、ここからまたひとひねりがあって、なかなか盛りだくさんの小説だった。
ネタバレになるかもしれないけれど、最後は「家族の再生」という前向きな物語になるのだが……正直な感想としては、この両親あれだけ散々Lydiaを苦しめといて、立ち直りめっちゃはやいな!と思った。
いや、私が親ではないから思うのかもしれないが、ほとんどの親は自分のことしか考えていないのだから、そんなに親の言うことを真面目に聞かなくていいと、世間の子どもたちに言ってあげたい。
Lydiaの感じる「見捨てられ不安」については、最近読んだ『自分を好きになろう』でも、作者が不仲な両親のもとに育って、大人になってからも「見捨てられ不安」に悩まされたことが書かれていた。
自分を好きになろう うつな私をごきげんに変えた7つのスイッチ
- 作者: 岡映里,瀧波ユカリ
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2017/06/15
- メディア: 単行本
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今まで自分を助けれてくれた、自分の性格や資質は、不仲な親が与えてくれたことに気がつきました。授けられたものを未来の幸せにつながることのために使うか、過去のできごとを悔やむ材料に使うか、決めるのは自分です。自分で決めていいなんて、人生はなんて自由なんだろう。
Lydiaも生きのびることができたら、この境地に達することができたのかもしれないのに。
ちなみに、この小説の重要なアイテムとなる「料理本」について、作者のCeleste Ngが下記でエッセイを綴っている。
What Did My Mother the Chemist See in Betty Crocker? - The New York Times
作者の母親は料理本を持っていたものの、中国から移り住んだ研究者であったため常に忙しく、料理本に書かれている良妻賢母の教えについて違和感がなかったのか、作者が尋ねても
“But I just thought: I’m not a housewife. I’ve never been a housewife. So. . . . "
と、あっさりスルーするタイプの女性だったらしく、立派な研究者として大成功したとのことです。
まあとにかく、親であろうとなかろうと、だれでも自分の人生を生きなければいけないなとつくづく感じ、子どもに自分の夢を託したりするのは法律で禁止した方がいいとすら思いました。
2018年 こりゃ読まなあかんやろブックリスト
すっかり年もあけました。こちらの門松は、大阪のフェスティバルタワーのものです。ここから歩いて初詣へ……
堂島のジュンク堂本店の裏にある、堂島薬師堂へ。あらためて見ると、ほんと奇抜なお堂だ。
というわけで、年末年始休暇も終了。ちなみに、家の近所のブックオフに行ったら、外国人作家のコーナーにジェーン・スーが入っていた。
年頭なので、2018年に読みたい本、いや、読みたいというか、こりゃ読まなあかんやろ、という本をリストアップしてみました。
まず、翻訳ミステリーシンジケートのサイトで、第九回翻訳ミステリー大賞候補作が発表されました。
『嘘の木』『その犬の歩むところ』『ハティの最期の舞台』『東の果て、夜へ』(このタイトルを見るたびに、『夜の果て、東へ』とつい思ってしまい、頭のなかで入れ替えるという作業をくり返してしまう)『フロスト始末』というラインナップ。
これまで「1冊も読んでいない……」という年もあったけれど、今年は前に紹介したように、"その犬"と"ハティ"は読了済。どちらも選ばれたことに異存のないおもしろさでした。が、どちらも「謎解き」の要素は薄いけれど、、、けどよく考えたら、去年大賞をとった『その雪と血を』も「謎解き」ではない。
で、前から気になっていた『嘘の木』(フランシス・ハーディング 著 児玉 敦子 翻訳)が選ばれていたので、はよこれ読まなあかん!と思いました。
まだ科学が宗教や迷信と対立していた19世紀を舞台に、リケジョ(←死語 まだ使ってる人いそうだが)が、牧師であり博物学者でもあった父の死の謎を解き明かすという、もともとヤングアダルト向けに書かれた謎解きファンタジーらしい。
ヤングアダルトといっても、このあらすじだけでも、科学と宗教、あるいはジェンダーについていくらでも考察できそうなので、もう実際に読んでみるしかない。
そして、最終候補作には選ばれていないが、外せないのが陳浩基の『13・67』(天野健太郎 翻訳)。
香港ミステリー、いや中国語圏ミステリーの傑作という評判だけでもじゅうぶん気になるのに、私の尊敬している高野秀行さんが正月早々から
陳浩基『13・67』(文藝春秋)、残りの中篇2本を読み終える。どちらも超絶面白かった。というか、この本は私がこれまでの人生で読んだミステリの中でもベスト3に入るんじゃないか。
本書は2018年に私が読んだミステリ第1位になるだろう。まさか元日にベストを読んでしまうとは。
とまで絶賛しているので、こりゃなにがあっても読まなあかん!!と、私のなかでアラームが鳴りました。
ミステリー以外では、渡辺由佳里さんの洋書ファンクラブでの「2017年 これを読まずして年は越せないで賞」の候補作一覧を見ていたところ、
まず『Eleanor Oliphant Is Completely Fine』に心ひかれた。早々に翻訳も出ている――『エレノア・オリファントは今日も元気です』(ゲイル ハニーマン 著 西山 志緒 翻訳)。
エレノア・オリファントは今日も元気です (ハーパーコリンズ・フィクション)
- 作者: ゲイルハニーマン,西山志緒
- 出版社/メーカー: ハーパーコリンズ・ ジャパン
- 発売日: 2017/12/16
- メディア: 単行本
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翻訳本の可愛らしい表紙からは、ドジでお茶目な(これこそまさに死語だが)若い女性の主人公が、恋や仕事に悩んだりする話かと思ってしまうが、そんなチャーミングな小説ではまったくないらしい。
アマゾンの紹介文には「独身30歳、友達なし、恋人なし。話し相手は毒母と観葉植物――」と書いてあり、これでもまだ、女性向けの小説によくあるパターンかな?と思えなくもないが、渡辺由佳里さんの評で「読者が最初に出会うEleanorは、嫌な女でしかない。他人に手厳しく、同情のかけらもない。職場で嫌われているのも当然だと思う」と、はっきり「嫌な女」と書かれているので、読まなあかんスイッチが入った。
あと、Celeste Ng(翻訳ミステリー大賞シンジケートのページでは、「セレスト・イン」と表記されてますね)の『Little Fires Everywhere』も選ばれていて、考えたら、作者の前作『Everything I Never Told You』を以前にkindleで購入したことを思い出し、年末年始にまずは『Everything I Never Told You』を読んでみた。
Little Fires Everywhere: The New York Times Top Ten Bestseller (English Edition)
- 作者: Celeste Ng
- 出版社/メーカー: Little, Brown Book Group
- 発売日: 2017/09/12
- メディア: Kindle版
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Everything I Never Told You (English Edition)
- 作者: Celeste Ng
- 出版社/メーカー: Blackfriars
- 発売日: 2014/08/14
- メディア: Kindle版
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『Everything I Never Told You』については、またあらためて感想を書こうかと思うけれど、まあとにかく、親が自分の夢を子どもに押し付けるのは禁止!ダメ!ゼッタイ!!と、覚せい剤禁止を訴えるくらいの勢いで伝えたくなる小説だった。
で、今作の『Little Fires Everywhere』も同様に、家族の問題と人種差別を扱い、渡辺由佳里さんの評によると、「アメリカのリベラルが持つある種のナイーブさというか、見当違いな独善性」(「見当ちがいな独善性」って、アメリカに限らず、あるある!って思いますね)を描いているらしく、やっぱ読まなあかんと心に刻みました。
あとは、私のなかで「2017年 こんな御仁だったのか大賞」を受賞した、パク・ミンギュの『ピンポン』に『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』も読まなあかんし、(『ピンポン』は「はじめての海外文学」の推薦本リスト vol.3でも、岸本佐知子さんなど多くの人から選ばれていた)
三美スーパースターズ 最後のファンクラブ (韓国文学のオクリモノ)
- 作者: パクミンギュ,斎藤真理子
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 2017/11/13
- メディア: 単行本
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そのうえ、柴田元幸さんが訳した『ハックルベリーフィンの冒けん』といった古典ものまで挙げていったらキリがない…
……というか、なんといっても、2017年必読のはずだった『騎士団長殺し』をいまだ読んでいないのだ。まずは『騎士団長殺し』から読んでみるべきだろうか?